273・進化

「うぅ……」


「ガァ……」


 大穴に呑み込まれ、落下すること数秒。ネルとガルルはようやく底へとたどり着き、大きな音とともにした。


「え? 水?」


 円筒形の大穴の底には、まるで井戸のように水が溜まっていた。深さも相応にあり、落下の衝撃を随分とやわらげてくれたのだが、ネルが安堵したのはほんの一瞬。あることに気づき、泡を食って声を上げる。


「ガルル、すぐに水から上がりなさい! 魔物のあなたがマナの溶けた水に触れたら――」


「ガー!」


 しかし、ガルルは「大丈夫!」とばかりに大きな鳴き声を返し、ネルの言葉を遮った。その体から、魔物がマナに触れた際に立ち上る黒い煙が出てくる気配はない。


 場所的にはレッドラインの内側のはずだが、この場の水にマナは溶けていないようだ。


 ネルは安堵の息を盛大に吐いた後、顔を上に向けた。


 はるか上に、落ちてきた場所と思しき光が見える。夜空に浮かぶ月のようにも見えるその光に手を伸ばしてみるも、むなしく虚空を掴むばかりであった。


 高すぎる。とても登れない。


 次いでネルは顔を左右に振り、体を休められそうな場所を探す。すると、それはすぐに見つかった。水が溜まっている場所のすぐ横に、大きな横穴が空いている。


 ネルはガルルとともにその横穴へと入り、水から上がる。横穴は延々と先に続いていたが、それ以上奥に進むようなことはせず、その場に座り込んだ。


 地上には、パーティメンバーであるイルティナとメナドがいて、ネルとガルルがこの穴に落ちたことを知っている。下手にこの場を動かずに、助けを待つのが賢明だろう。エムルトには二人の知己である狩夜と、勇者であるレイラがいるのだ。そう遠くないうちに助けはくる――はずだ。


 それにしても、どうして地中にこのような場所があるのだろう?


「あ、そうか。“落ち目殺し” の……」


 かつて、レッドラインのすぐ近くに広がる荒野地帯を支配し、“落ち目殺し” という二つ名で恐れられた、螻蛄型の魔物がいた。


“落ち目殺し” は、レッドラインの外側から内側へと向かうもののみを狙う特異な魔物である。その方法は、レッドラインに沿う形で地中に構築された巣穴からの奇襲であった。


 ネルとガルルが落ちたのは、“落ち目殺し” が構築した巣穴、その縦穴の一つだ。


 “落ち目殺し” 亡き後、広がったレッドラインに呑み込まれ、眷属のグリロタルパスタッバーすらも放棄し、整備するものがいなくなった巣穴の上部が、重装備のネルと、ガルルの体重によって崩落したのである。


 先ほど、縦穴の底に溜まった水を、まるで井戸のようにと評したが、さもありなん。ここはまさしく “落ち目殺し” が、自身と眷属たちのために掘った井戸なのだ。


 螻蛄は本来、泥地や湿地などの、水を多く含んだやわらかい地面を好み、水分不足に非常に弱い。そんな螻蛄が、魔物とはいえレッドライン付近の荒野地帯を縄張りにしていたのは、この世界の人類にとって謎だったのだが、それが今解けた。


 あいつら、自分たち用の井戸を地中に掘っていたのである。


 今、ネルとガルルがいる横穴も、その井戸の水を飲みやすいようにと用意された場所なのだろう。


 なにはともあれ、この非常時に水を確保できたのは大きい。人間は食べるものがなくても、水さえあれば二、三週間は生きられる。


 地中での水の価値は、まさに値千金。いや、金には代えられない価値がある。これは、文字通りの命の水だ。


 当然だが、その価値を知るものが、人間だけのはずもない。地中で生きるすべてのものが、その価値を知っている。そして、その水にマナが含まれていないのならば、この後の展開は必然だ。


「――っ!?」


 ネルが突然立ち上がった。横穴の先に広がる暗闇を睨みつけながら、ガルルをかばうようにランスを構える。ガルルもまた、羽毛を逆立てながら暗闇を睨みつけた。


「っひ!」


 ほどなくしてソレは現れ、その姿を見たネルの口からは引き攣った声がもれる。


 体長一メートルほどのソレには体毛がなく、むき出しの皮膚は皺に覆われていた。退化した目は非常に小さく、豚のような鼻の下で四本の長く鋭い歯がむき出しとなっている。細長い胴体から伸びた四本の脚には五本の指があり、臀部からは円錐形の尻尾が伸びていた。


 未発見の地中棲の魔物との遭遇。しかし、この場に地球の動植物に詳しい狩夜がいたのなら、彼はこの魔物をこう呼んだことだろう。


 ハダカデバネズミ――と。


 その醜い容姿は、ネルにとって自分を殺しに来た地獄からの使いに見えたに違いない。見かけによらず機敏な動きで襲い掛かってきたハダカデバネズミ型の魔物に向かって、嫌悪感のままにランスを突き出した。


 型も構えもあったものではない不格好な突きであったが、幸運にもランスはハダカデバネズミに直撃し、その体を深々と貫いた。ハダカデバネズミは口から血反吐をぶちまけて絶命する。


 だが、安堵している暇はない。ハダカデバネズミは、十頭以上三百頭以下の大規模な群れを形成する動物である。“落ち目殺し” 亡き後、その巣穴をわがものとしていたハダカデバネズミの群れすべてが、命の水を奪われまいと、ネルとガルルに殺到しようとしていた。


「ガルルは下がっていなさい! あなたは必ず私が守ります!」


 ランスに突き刺さった死体を乱暴に引きはがし、押し寄せてくるハダカデバネズミの大群を見据えながら、ネルが震える声でそう言い放つ。しかし、ガルルはその命令に従おうとはしなかった。ネルの隣に並び立ちながら、自分も一緒に戦うとばかりに雄々しく鳴き声を上げる。


「ガァルァアァ!!」


「ガルル! いけません! あなたは私たちパーティの――」


「ガー! ガァルァー!」


「自分がパーティの支柱だとしても、自分をテイムしているのはネルだ! ネルが死んでも結果は同じだろ!?」とばかりにガルルが吠え、ネルの言葉をかき消した。


 そして、その主張は正しい。


 便宜上『悠久の森』のパーティリーダーはイルティナになっているが、ガルルをテイムしているのはネルだ。ガルルが生き残っても、ネルが死んだら意味がない。主人を失ったガルルは再び『主人待ち』となり、パーティは解散だ。


 ネルは言葉に詰まった。そして、一瞬の逡巡の後、迷いを振り払うように叫ぶ。


「……わかりました。ガルル、一緒に戦いましょう!」


「ガー!!」


 この掛け合いが終わるなり、ネルはガルルに騎乗した。ネルは左手で手綱を握りながら右手でランスを構え、ガルルはネルを背に乗せながらハダカデバネズミの群れ目掛け全力で駆け出す。


 はじまる死闘。数を頼りに攻め寄せるハダカデバネズミの群れのなかを、ネルとガルルは一つとなって、縦横無尽に駆け抜ける。


 ときに突き、ときに薙ぎ、とき踏みつけ、蹴り飛ばし、ただがむしゃらに戦い続けた。


 そして、気がついたときには、すべてのハダカデバネズミが息絶え、血まみれのネルとガルルだけが立っていた。


「ガ……ガァ……」


「ガルル!?」


 精も魂も尽き果てたとばかりに、ガルルが力なくよろけ倒れこむ。ネルはガルルから飛び降り、その傷だらけの体を慈しむように撫でながら、優しく声をかける。


「ガルル、よく頑張りました。あなたは私の誇りです。見張りは私がしますから、あなたは少し休みなさい」


「ガァ……」


 ガルルは弱弱しくそう答えたあと、目を閉じる。そして、ほどなくして寝息を立てはじめた。


 ネルはそれを見届けてから、ガルルのすぐ隣で座り込む。集中が途切れ、疲労のせいか眠気が襲ってくるが、今眠るわけにはいかない。縦穴を見上げれば、地中へと差し込む光が随分と弱くなっていた。時間の経過で陽が傾いたのだろう。このままでは、地中は完全な闇に覆われてしまう。


 ネルは、ガルルと共に落下した荷物から松明を取り出し、手早く火をつけた。そして、松明の光によって周囲が明るくなった瞬間、ようやくソレの存在に気がついた。


「な――!?」


 驚愕と共に声を上げようとした瞬間、隠密系スキルで気配を断っていたと思しきソレは、尻尾を振るいネルの体を吹き飛ばす。ネルは横の地面に叩きつけられ、激痛に苛まれながらもソレの姿を観察した。


 それは、先ほど戦った個体よりも、三倍近い巨躯と、長大な尻尾を持つハダカデバネズミであった。


 ハダカデバネズミは、哺乳類では数少ない真社会性を持つ動物であり、群れのなかでもっとも優位にある一頭の雌と、一頭または数頭の雄のみが繁殖に参加する。


 その、群れのなかでもっとも優位にある存在。すなわちボスが、今ネルの目の前にいた。


 先ほどまでのハダカデバネズミはサウザンド級だったが、このボスネズミはおそらくテンサウザンド級。今のネルと同格の魔物である。疲労困憊であり、先の奇襲で深手を負ったネルに勝ち目はない。


 絶体絶命の状況のなか、それでもネルは立ち上がった。震える体をランスで支え、夫の仇を討つまでは死ねないとばかりにボスネズミを睨みつける。


 そんなネルをあざ笑うかのように、ボスネズミは顔を歪めた。そして、ネルの体を鎧ごとかみ砕くべく、口を大きく開けながら突撃してくる。


 ネルは、最後の力を振り絞ってランスを構え、それを前へと突き出した。


 瞬間――


「え?」


 生々しい音と共にボスネズミが吹き飛び、横穴のなかを盛大に転げまわる。目の前でボスネズミの顔が悲痛に歪み、脳症をぶちまける瞬間を、ネルは確かに見た。


 死の間際に、ネルの隠された力が目覚めた? いや、違う。ネルが苦し紛れに突き出したランスは、ボスネズミに届いてはいない。


 イルティナとメナドが助けを求め、狩夜とレイラが駆けつけた? それも違う。狩夜とレイラは、今まさにエムルトを飛び出し、この場へと向かっているところである。


 ネルとボスネズミの間に割り込み、ボスネズミを文字通り一蹴した者。その名は――


「ガルル……?」


 いや、それはガルルであってガルルではなかった。確かにその面影を残しつつも、顔が違う。体つきが違う。羽毛の色が違う。そして、身体能力が違いすぎる。


 そのガルルであったなにものかは、すべての力を使い尽くしてへたり込むネルに近づくと、その体を優しく咥え上げた。そして、横穴から縦穴へと向かい、両足に力を籠める。


 そして、跳躍。


 とても登れない。ネルがそう断じた縦穴を、一度の跳躍で登り切り、それでもまだ余裕を残して、ネルとガルルであったものは、天高く舞い上がった。


 助かった。そう自覚した瞬間、ネルの全身から力が抜ける。


 九死に一生を得たネルは、そのまま意識を手放した。

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