270・アルカナの憂鬱な一日 上

「はぁ……」


 夜天のような優しい色合いの黒髪をアップにした闇の民、アルカナ・ジャガーノートは、憂鬱げに溜息を吐いた。


 ここは、エムルトにある『闇色の蜜』のパーティホーム兼、娼館。その地下にあるアルカナの私室である。アルカナは、紫のレースショーツと白衣を羽織っただけという扇情的な姿で、白を基調とした作業デスクの前で足を組んでいた。


 作業デスクの上には、太めの注射器とピンセット。医療用のカット綿と長めの布紐。アルコールと回復薬が入ったガラス瓶。そして、アルカナが影縫いの際に使用する紫色の宝石がついた太くて長い針二十本が、横一列に並べられている。


「もう慣れっこですけれど、玉の肌に傷をつけるこの作業は、やはり気が滅入りますわねぇ……」


 アルカナは、白衣の左袖をまくり上げると、慣れた手つきで布紐を左上腕に巻きつけ、口と右手できつく締め上げた。


 次いで、左腕を真っ直ぐに伸ばしながら、左手を親指を握りこむように閉じ、用意しておいたカット綿をピンセットで摘まみ上げてアルコールに浸してから、左肘の裏を素早く二度拭きする。そして、流れるような動作で使用済みのカット綿をゴミ箱へと捨てた後、ガラス製の注射器を手に取った。


 注射針の先端を左肘の裏へと運び、肌に薄っすらと浮かび上がった太い血管へと狙いを定めたアルカナは、注射針を血管に対して斜めに、深々と突き刺していく。


 血管から少しづつ血液を抜き取ること数十秒、アルカナが注射針を引き抜いた。そして、再びピンセットを手に取り、カット綿を回復薬に浸してから、僅かに血が流れる左肘の裏をゆっくり、丁寧に拭き取る。


 回復薬の効果により注射痕が綺麗に消えたのを確認したアルカナは、左上腕の布紐をほどき、調子を確かめるように左腕を回した。その後、納得したように小さく頷き、体ごとデスクへと向き直る。そして、右手には注射器、左手には宝石のついた針を持ち、紫色の宝石へと血液を垂らした。


 すると、宝石の表面に波紋のような光が走り、水に溶けるように血液が吸収される。


 その作業を二十本の針すべてに、量が均等になるよう一滴ずつ施し、注射器の中身が空になるまで延々と繰り返す。


「う~ん、満タンにはなりませんでしたわねぇ……最近の相手は強い魔物ばかりでしたから、やはり消費が激しいですわぁ……第四次精霊解放遠征までにもう何度か採血しませんと……はぁ……貧血になりそうですわぁ……」


 そう言いながら立ち上がり、アルカナは白衣を脱ぎ捨てる。そして、ナイトドレスに着替え、アップにした髪に先ほどの針二十本を髪飾りの如く差し込んだ。


 次に化粧品を手に取り、顔にナチュラルメイクを施した後、唇に鮮やかな紅を引く。私室を出て階段を上がり、娼館のフロントへと向かった。


 そこには、泊まりだった客を見送り、一仕事を終えて緩んだ表情を浮かべる闇の民たちの姿があった。ボディコンやボンテージ、ホルターネックで背中が大きく開いたセーターなど、露出過多な衣装を身に纏いながら欠伸をしたり、昨晩同衾した相手の評価等を冗談交じりに語り合っている。


「皆さん、ごきげんよう」


 アルカナが優雅に右手を上げて声をかけると、業務時間外のフロントを満たしていた緩んだ空気が一変。闇の民たちが一斉に背筋を伸ばして頭をさげてくる。


『お疲れ様です! お姉様!』


「ふふ、別に疲れてなどいませんわよ。つい先ほど起きて、これから朝食をいただくところですわぁ」


 嘘だ。


 起きたのは随分と前だし、先の神経を削る作業で疲れてもいる。


 だが、それをおくびにも出さず、さも「わたくしは今ベストコンディションです」といった様子で、アルカナは微笑を浮かべていた。


「朝食の後は硝酸の調合ですか?」


「ええ、ええ。万が一がありますから、お客様がいる夜にはできませんもの」


「いつもご苦労様です。私たち夜型なのに……」


「これも調整の一環ですわよ。精霊解放遠征がはじまれば、否が応にも周囲に合わせざるを得ません。幹部ともなればなおさらです。わたくしのパーティメンバーはもとより、遠征に参加希望の皆さんは、そろそろ調整をはじめてくださいましね? 遠征期間中は夜昼逆転の生活ですわよ」


『はい! お姉様!』


「良いお返事、大変結構。では、失礼いたします」


 アルカナはそう言って会釈し、食堂へと向かった。嗜虐心をくすぐる胸元が大きく開いた極ミニスカートのメイド服を纏う見習いに声をかけ、朝食を運ばせる。


「お姉様、ご報告が」


 席に着き、パンとスープを王侯貴族さながらの完璧な礼儀作法で食べ進めていると、マイクロミニのタイトスカートに、網タイツとガーターベルトを合わせた、秘書然とした闇の民が、書類片手に話しかけてきた。


「なんですの?」


「契約しているところとは別の工房から、銃火器用の火薬の製造依頼です。他にも多くの開拓者から、ぜひとも銃を売って欲しいとの嘆願が」


「すべて断ってくださいまし。ご期待に応えてさしあげたいのは山々ですが、現状の生産能力では、わたくしたち『闇色の蜜』と、その傘下の銃師隊の使用分を確保するので精一杯。余剰分ができたとしても、同胞たちが優先ですわぁ」


「やはり、今以上の増産は厳しいですか?」


「ええ、ええ。やはり水酸化ナトリウムがネックですわねぇ。現状では、正直どうしようもありません」


 火薬の原料となる硝酸を、短時間で製造するのに必要なものは、アンモニア、炭酸カルシウム、水酸化ナトリウム。そして、千度弱の高温と高圧に耐えられる酸化装置と、アンモニアを酸化させて一酸化窒素を生成する際に触媒として使用するプラチナである。


 アンモニアは尿、炭酸カルシウムは貝殻から採取でき、酸化装置は地の民の職人に作らせた。最難関であったプラチナも、先のギャラルホルン探索遠征で手に入れている。残る問題は、水酸化ナトリウムの安定供給だけなのだが、これが難しい。


 水酸化ナトリウムは、塩水を電気分解することで作れる。しかし、現代のイスミンスールには発電機がないため、ラビスタンという魔物が攻撃に使う電撃で代用するしかない。だが、これがすこぶる効率が悪いのだ。


 苦労して生け捕りにしたラビスタンを使い潰して得られる量は雀の涙。とてもじゃないが、希望者すべてに提供できるだけの火薬は用意できない。


 なら先に発電機を作ればいいように思えるが、発電機を作るには磁石が必要不可欠。天然磁石というものもあるにはあるが、それでは磁力がまるで足りない。人工的に作られた、強力な永久磁石でなければだめだ。


【厄災】以前には存在したらしいが、早い話、永久磁石とは磁極の向きが一定となった鉄の棒である。数千年もの間風雨にさらされ続けた鉄の棒が、今も残っているわけがない。


 ないものは作るしかない。そして、強力な永久磁石を作る方法は、主に二つ。『鉄の塊を非常に強い磁石にくっつける』か『鉄の塊に非常に強い電気を流すか』だ。


 この時点で堂々巡りである。電気を作るために強力な永久磁石が必要で、それを作るためには、より強い磁石か、非常に強い電気が必要なのだ。ラビスタンでは、たとえ何百匹集めても必要な電力に届かない。


「この問題を解決する方法はただ一つ。魔王ファフニールを打倒し、光聖霊ウィスプを解放すること。そうすればソウルポイントで〔光魔法〕スキルが習得可能になり、伝承に残る雷系魔法が復活します。永久磁石も発電機も、水酸化ナトリウムだって作りほうだいですわぁ」


「結局そこに行き着くのですね……」


 魔王ファフニールの打倒と、光聖霊ウィスプの解放で手に入るものはそれだけではない。ミズガルズ大陸というこの世界で最も広大な大地に、ファフニールがミズガルズ大陸全土からかき集めた金銀財宝と、製法の失われた強力な魔法装備の数々。


 精霊解放遠征が成功すれば、人類はさらなるステージへと歩を進めるだろう。逆に言えば、精霊解放遠征を成功させない限り、今以上の発展は望めない。


 精霊解放遠征の成否には、イスミンスールの全人類の行く末がかかっているのだ。


 その後も、アルカナと秘書然とした闇の民は問答を続け、今後の方針を互いに確認していく。ほどなくして、秘書然とした闇の民が「では、お姉様の指示通りに」と頭を下げ、食堂を後にした。アルカナも朝食を食べ終え、席を立つ。


 その直後――


「あのー、すみませーん、アルカナさんいますかー?」


 という、まだ幼さの残る男性の声が、隣接するフロントから聞こえてきた。

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