223・嵐の前の静けさ

「嘘みたいに順調だな……ここ、本当にミズガルズ大陸かよ?」


 この世の地獄は、ユグドラシル大陸の外にある。


 物心つく前からそういい聞かされて育ち、人と魔物のものが入り混じった絶叫が絶えず上がり続けていた以前の希望峰を知るザッツが、いまだに信じられないといった様子で独り言ちた。


 水道橋の建造、その最終工程が始まってから、おおよそ四半日。


 すでに外堀と防壁は完成し、レイラの体でできた仮設水路は延長され、水は外堀へと直接流し込まれている。そのため、仮設水路から吐き出された水が無秩序に流れていた状態からは脱しており、水がはけた希望峰では、地の民の工夫と、ハンドレットの開拓者らによる水路の建造が、現在も急ピッチで進んでいた。


 この間に起こった魔物との戦闘、なんと零。作業の開始から今に至るまで、小競り合いの一つすら起こっていない。


 この結果は、ザッツだけでなく、周囲の警戒担当に割り当てられたサウザンドと、テンサウザンドの開拓者らに、自身の存在意義を疑問視させるには十分だった。


 ろくに仕事をしていないザッツは、水路の建造を休むことなく続ける地の民の工夫らを、防壁の上から申し訳なさげに見下ろしながら、次のように口を動かす。


「これ、俺らがいる意味あるか? もう全員で水路を造ったほうがいいんじゃねーの?」


「そこ。無駄口を叩いてないで、周囲の警戒に集中しろ。絶叫の開拓地スクリーム・フロンティアでは何が起こるかわからんのだからな」


「いや、それはわかってる……わかってるけどさぁ先生……」


 気の抜けた様子を隣にいるフローグに咎められたザッツは、その視線を自身と同じく周囲の警戒に従事する火の民の女性開拓者――半人半蛇のラミアへと目を向ける。


 防壁の上に立っているザッツやフローグと違い、蛇の下半身を伸ばして顔だけを防壁から出している彼女は、ザッツの視線に気がつくと「周囲に魔物はいない。全然いない」と言いたげに、首を左右に振る。


 ピット器官――赤外線感知能力を有する探知タイプから返されたこの反応に、ザッツは困惑した様子で顔を顰めた。


「これだよ。警戒しようにも、その対象がいねーんだよなぁ……なんか、ここが絶叫の開拓地スクリーム・フロンティアだって気がしなくなってきたよ、俺」


「その感覚は正しいだろう。ユグドラシル大陸と水道橋で繋がったことにより、すでに希望峰は絶叫の開拓地スクリーム・フロンティアでなくなりかけている」


 防壁と外堀の向こう側を油断なく見つめながら、フローグはなおも言葉を続けた。


「現在の希望峰は、レッドラインの内側にあったときと比べても、大気中のマナの濃さに雲泥の差がある。これは、ユグドラシル大陸の水辺と同等の水準と言っていい」


「ユグドラシル大陸の水辺と同等……なら、もうここは俺ら人類の領域で、安全地帯ってことか……」


「そうだ。しかもマナは大気中だけでなく、外堀を流れる水にも豊富に流れている。この状況下で、防壁の内側に入り込もうと考える物好きな魔物は、ユグドラシル大陸ならともかく、ミズガルズ大陸にはまずいないだろう。魔物は、強ければ強いほどマナによる弱体化を避ける傾向があるからな。同じ弱体化でも、ハンドレット級とテンサウザンド級では、その意味合いがまるで違う」


 一括りに『弱体化』と表現されることの多いマナによる魔物の弱体化だが、概ね次の三種類に分類される。


 その一・空気中に気体として存在するマナを、呼吸によって体内に取り込むことによる、運動能力の低下。


 その二・世界樹から放出された水や、ユグドラシル大陸近海に、液体として溶けているマナが、体表に付着することによる、防御力をはじめとした身体能力の低下。


 その三・マナの溶けた水や、その水で育った植物を経口摂取することによる、基礎能力向上回数の不可逆的減少と、スキルの消滅。


 以前の希望峰は、これら三種の弱体化の内、その一とその二を、限定的に満たしていたにすぎない。


 レッドラインのすぐ手前に位置する希望峰は、大気中に存在するマナが希薄で、マナの溶けた水による防御も、背面の海だけであった。そのため、防壁を飛び越えて魔物が侵入してくることがままあり、エムルトでは被害が絶えなかった。


 しかし、水道橋によってユグドラシル大陸の水が直接流れ込むようになり、状況は一変。大気中に存在するマナはユグドラシル大陸の水辺と同等の水準となり、マナの溶けた水による防御も、背面の海だけでなく、希望峰全体となった。


 そして、新たに加わった、その三。


 マナの溶けた水や、その水で育った植物を経口摂取することによる、基礎能力向上回数の不可逆的減少と、スキルの消滅。これは、フローグが言うように、ハンドレット級とテンサウザンド級とでは、その意味合いが大きく異なる。


 基礎能力を向上させるのに必要なソウルポイントの量は、ハンドレット級で『一以上、百未満』なのに対し、テンサウザンド級では『千以上、一万未満』。実に十倍から百倍の開きが出るのだ。強い魔物であればあるほど減少したときの被害が大きいのだから、それをより強く避けようとするのは自明である。


 魔物は、マナの経口摂取を可能な限り避けようとする。だが、生き物である以上、水の接種は必要不可欠。どうしても口にしなければならない場面が、往々にして現れる。


 ユグドラシル大陸に生息する魔物が特別弱い理由がこれだ。共食いをしてソウルポイントを稼ぎ、基礎能力を向上させても、マナの溶けた水を摂取するたびに減少してしまい、一部の成功者を除いて、基礎能力向上回数が一桁台のままなのである。


 しかし、どうせ減少してしまうのだから――と、魔物たちが共食いをやめてしまうことは決してない。取得スキルなしで、基礎能力向上回数が零のままマナを経口摂取し続けると、やがて普通の動植物になってしまうからだ。


「まあ、それでも以前と同じように、他の魔物との生存競争に敗れ、生きるためにしかたなく弱体化を容認し、希望峰周辺に住み着く魔物がそのうち出てくるだろうがな。だが、それも今しばらく先の話。変化した環境に生物が適応するには、それなりの時間と覚悟が必要だ」


 ミズガルズ大陸にレッドラインが存在したとき、その内側は、生きる場を追われた魔物が最後に行き着く場所、弱者の吹き溜まりであった。


 マナによる弱体化がおこなわれる場所は、魔物に取って等しく地獄である。だがその一方で、弱体化を容認できる者にとっては、人間よりも遥かに恐ろしい、圧倒的強者から己の身を守ってくれる、安住の地でもあるのだ。


 弱体化は嫌だが、命には――種の存続には代えられない。


 希望峰がレッドラインに飲み込まれたことで、一度は消滅した弱者の吹き溜まりも、ほどなくして復活することだろう。そして、希望峰に近ければ近いほど弱い魔物が生息し、遠ざかれば遠ざかるほど強い魔物が生息するという、人間にとっても、魔物にとっても都合がいい生態系が、自ずと構築されていく。


「以上の理由から、最終工程の完遂は九分九厘確定したと言っていい。このままいけば、奇跡の無血開城すらあり得る。【厄災】以降初めてとなる、他大陸開拓の完全なる成功。『人が住める環境』の爆誕だ」


「凄い……兄さんが考えた水道橋は、この上ない正解だった……」


「先生が言ってることは難しくてよくわからなかったけど、あにぃがすごく凄いってことはわかった! さすがあにぃ! 妹分として鼻が高いね!」


 すぐ近くでザッツとフローグの会話を聞いていたレイリィとルーリンが感嘆の声を漏らす中、ザッツは次のようにフローグに尋ねる。


「先生、その話を聞くに、益々俺らが周囲の警戒をする必要なくね? もう希望峰は絶叫の開拓地スクリーム・フロンティアじゃなくて安全地帯なんだろ?」


「どんな好条件も、最善を尽くさなくていい理由にはならん。そして、未確定の一厘を誤り敗北した者は、過去に数限りなくいる。水道橋が完成し、希望峰内に造られた水路に水が流れるそのときまで、警戒を怠るな」


「んー……ちなみにさ、先生が考えるその一厘ってどんなの? どんなことが起こったら、俺たち人間側が圧倒的に有利なこの状況が、魔物側にひっくり返るわけ?」


「そうだな……東から西に向かって吹く暴風……それこそ、大気中のマナを余すことなく吹き飛ばすような、嵐でもこない限りは大丈夫だろう」


「嵐か……」


 フローグの言葉を受け、空を見上げるザッツ。


 天候・ど快晴。


 風向き・西から東の微風。


「うん、ないな」


 こう呟いた次の瞬間、フローグの鋭い眼光がザッツを貫く。


「おい、ザッツ。お前、俺の話を聞いていたか? 絶叫の開拓地スクリーム・フロンティアではなにが起こるかわからんと言ったばかりだぞ? 俺たちの背後には、『駆け出しハンドレット』の開拓者と、ソウルポイントで強化されていない一般人がいるんだ。それを忘れるな」

 

「りょ、了解! 聞いての通りだ三人とも! 水道橋が完成するその時まで、油断せずにいこう!」


「「おー!」」


「って、あれ? リース?」


 自身の呼びかけに応じてくれた声の数が足らず、首をかしげるザッツ。次いで、フローグと話をしているときも声を発することのなかったパーティメンバー、リースへと視線を向けた。


 一方のリースは、ザッツの視線に気づくことなく、ユグドラシル大陸から希望峰へと伸びる水道橋を、無言で見つめ続けている。


「おいリース! なにぼーっとしてんだよ! 先生に怒られるぞ!」


「え!? あ! す、すみませんですのザッツ様! わたくし、少し見とれていたですの!」


 名前を呼ばれたことで我に返ったリースは、謝罪と共に自失の理由を述べた。そんな彼女に、ザッツはこう問いかける。


「見とれて?」


「はいですの。水道橋が、とても綺麗だなーと、つい」


「ああ……まあ、気持ちはわかるよ。壮観だよなぁ」


「はいですの。連なる無数のアーチが、まるで虹のようで……」


 リースは、うっとりした様子でこう述べた後、次のように言葉を続けた。


「ユグドラシル大陸は、本来ならば不可侵の聖域。世界樹が根付き、神々が住まう神聖な場所ですの。そんな場所から虹が伸び、ミズガルズ大陸に……わたくしたち人間の世界と繋がるんですのよ? ロマンチックだとは思いませんか?」


「……」


 リースの複雑な乙女心を理解できなかったのか、ザッツは「ごめん、それはわからない」と言いたげな顔を浮かべ、困ったように右手で頬をかいた。そんなザッツの様子に、再び水道橋に見とれているリースは気づかない。


 ほどなくして、ザッツはリースから視線を外し、自身もまた水道橋を見つめた。


 そして、こう呟く。


「虹の橋……か」

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