205・鹿角青葉の受難
「あうう……」
フヴェルゲルミル帝国、帝都エーリヴァーガルにある鹿角家は、帝が住まう禁裏、将軍が住まう美月城に次いで大きな、日本家屋を彷彿させる質実剛健な屋敷である。
そんな鹿角家の中にある、庭に面した畳敷きの上等な一室。まだ日が高く、天気も晴れであるというのに、障子や襖だけでなく、雨戸も締め切られたその部屋の中央。そこに敷かれた布団の中で、鹿の獣人である彼は呻いた。
名を、鹿角青葉。
青葉は、大多数の者が男性ではなく女性と認識するであろうその顔を「もう嫌だ……」と言いたげに歪めながら、若草色の髪の中にある鹿耳を両手で押さえつけ、線の細い体を芋虫のように丸めている。
別に病気というわけではないし、レイラの治療によって回復した薬の副作用がぶり返したというわけでもない。お役目の回数と薬の量が減り、恩人である狩夜を目標に積極的に体を鍛えたことで、青葉は以前とは比べ物にならないほどに健康体であった。
そんな彼が自室に引きこもり、外界との接点を可能な限り断っている理由。それは――
「青葉様ー! 男の子です! 男の子が生まれましたー!」
「挙式はいつですか!? 青葉様ー!」
「私は側室の何位になるのですか!? 答えてください!」
「今日という今日は、お顔を見るまでは帰りませんよ! 出てきてください青葉様!」
青葉とのお役目で子を授かり、男子を産んだと主張する名家の娘たちが屋敷に押しかけ、塀の外を取り囲んでいるからである。
三代目勇者の血を引く者からしか男子が生まれず、その三代目勇者の血も世代を重ねたことで薄まり、月の民の男性は激減。残るは青葉と帝の二人だけとなり、月の民の命運は風前の灯火――というのはもう過去の話。この絶望の時代に、月の民はベビーブームに沸いていた。
夜に満月の如き光を放つ不可思議な花が、火に代わる夜の明かりとして帝国国内で重宝され始めたころから、どういうわけか男子が生まれるようになったのである。
三代目勇者の血をほとんど引いていない市井の女性からでも、相手の男性が異世界人の血を一切引いていない他種族の者であっても、ごく普通に男子は生まれた。もちろん、お役目として青葉や帝と褥を共にした、名家の娘からも。
イスミンスールは母体優位の世界なので、ハーフが生まれることはない。そのためフヴェルゲルミル帝国では、女性側に大きく偏っている月の民の男女比を健全な数字に戻すべく、満月と共に訪れる発情期の度、他種族の男と積極的に子作りに励み、国内は産めや増やせの大騒ぎとなっていた。
絶望の時代が訪れてもその勢いが変わることはなく、希望のなくなった世界から目をそらすように、今はもっと大切なことがあると自らを誤魔化すように、月の民は子をなし、種族としての危機は脱したと、これでもう安心だと、声高に叫んだ。
事実として、男子が生まれるようになったことは大変めでたく、喜ばしいことである。しかし、近年作られたフヴェルゲルミル帝国のとある法が、青葉を窮地に立たせていた。
その法とは――
月の民の男女が子作りをおこなう際、あらゆる責任は発生しない。男子を生むことができた女性のみが正式な奥であると認められ、その子供の存在が相手に認知される。
――というものだ。
非常時でなければ決して成立しないであろう悪法であったが、この法は確かに存在する。そしてこの法は、今のような状況を想定して作られていない。
正室は、先日将軍家の跡取りを無事出産した、現将軍・美月木ノ葉であるため、身分的にも血筋的にも揉めることはない。が、側室と愛妾の振り分けと、その順位づけは大揉めとなった。
現当主、鹿角紅葉不在を理由に返答を引き延ばし、同じ美月家臣団の者や、縁の深い者を優先して、順次奥に迎え入れる準備を進めていた鹿角家であったが、絶望の時代が訪れてから数日後、未確認であった男子を胸に抱いた、自称・青葉の嫁たちが突如として屋敷に押しかけ、毎日のようにその周囲を取り囲むようになったのである。
揉めに揉めていたところに追撃をかけるかのようなこの事態。青葉としては男として責任を取りたい気持ちもあるのだが、あまりに人数が多すぎる。体力的にも精神的にも資金的にも、青葉の許容範囲を遥かに超えていた。中には本当に当人が生んだのか、胸に抱く子供が本当に青葉との間にできた子なのか疑わしい者すらおり、奥の管理は収拾がつかなくなっている。
はじめこそ嬉しい悲鳴であったが、今はそれを通り越して、ただの悲鳴を上げている。そんな現状から少しでも遠ざかりたいと願った青葉が自室で芋虫を決め込み、今に至ったというわけだ。
「あうあう……どうして……どうしてこんなことに……」
「これも絶望の時代の余波ですわよ。長年にわたる社会問題の解決をうたい、世界情勢から目を反らしたところで、やはり皆さん思うところがあるのですわぁ」
聞く媚薬。そう表現できてしまうほどに蠱惑的な美声で青葉の疑問に答えたのは、布団のすぐ横でお手本のような美しい姿勢で正座する、ぞっとするほどの美貌を備えた女性であった。
アルカナ・ジャガーノート。
闇の民のトップ開拓者にして、薬師。そして、青葉の主治医でもある彼女は、経過観察のために鹿角家を訪れていた。
フヴェルゲルミル帝国で指折りの名家である鹿角家への訪問だからか、彼女は普段好んで着用するナイトドレスではなく、豪奢で色鮮やかな和服――絵踏衣装を身に纏っている。闇色の髪も和風に結い上げられており、そこには彼女のトレードマークであり武器でもある簪が、過剰なほどに挿さっていた。
医者とは思えぬ花魁スタイルで、青葉のすぐ横に付き添うアルカナは、次のように言葉を続ける。
「男子がごく普通に生まれるようになった今、名家の娘であっても他種族の男と結ばれることができる。なにより、時代は大開拓時代ですもの。これから増え続け、何人になるかもわからないアオバさんの側室、愛妾の一人としてカヅノ家に嫁ぐ娘を――そして、図らずも多くの嫁を娶ることとなったアオバさんのことを不憫に思い、新たな王になるやもしれぬ前途有望な開拓者へと娘を嫁がせたい。もしくは、月下の武士として、娘自体を開拓者として華々しく活躍させたい。あらゆる責任は発生しないのだから、名乗り出なければ大丈夫。生まれた男子は別の男との子供だと言い張り、自分の家の跡継ぎにしてしまえ。そう考えていた御家も多くあったのでしょう。ですが――」
「大開拓時代は……終わってしまった……」
「ええ、ええ。人類同士での戦争が起こりえず、他大陸の開拓が事実上不可能になった今、成り上がる方法は身分の高い者との婚姻以外ありませんもの。開拓者は無価値となった。ならやっぱりカヅノ家に――という流れですわね。男子さえ産めば正式な奥として認められ、子供の存在が相手に認知されるという、本来は男性側を守るための法律を逆手に取り、自身をアオバさんの側室、それもできれば上位にねじ込み、カヅノ家での待遇と、生家の家格を上げようと、皆さん必死なのです。よく言えば理に聡く、悪く言えば意地汚い。そんな方々が、今になって現れたのですわぁ」
「そんなぁ……ボク――じゃない、俺はいったいどうすれば?」
「彼女らの行為は違法ではなく合法。月の民の男性とまぐあい、男子を産んだ者として当然の権利を主張しているだけなのですから、現状どうしようもありませんわねぇ。今まで通り当主であるモミジさんの不在を理由に返答を引き延ばし、籠城を続けるしかありませんわぁ」
「あうう……これじゃ庭で修行もできない……ボク――じゃない、俺は狩夜殿みたいな益荒男にならないといけないのにぃ……」
「まあまあ、そう悲観せずに。籠城は、基本的に援軍前提でおこなう作戦。アオバさんと同じ境遇にある御帝が、現在急ピッチで法整備を進めておりますし、子供を産んで結婚するなり独占欲を発揮したコノハさん――失礼。将軍様も頑張っているみたいですから、もうしばらくの辛抱ですわよ」
「それも悩みの一つなんですよぉ! 木ノ葉様、結婚したとたんまるで人が変わったみたいになって! 最近なんだかすっごく怖いんですぅ!」
布団から頭だけ出して、正室であり、幼馴染であり、主筋でもある相手に対する不満を口にする青葉。そんな彼を見つめながら「あらあら、今のは聞かなかったことにいたしますわね」とアルカナが苦笑いを浮かべた、次の瞬間――
「青葉様! 青葉様! いらっしゃいますか! お客様がお見えです! 青葉様に今すぐお会いしたいと!」
屋敷の奉公人が、襖越しに声をかけてきた。なにやら焦っている様子である。
客という言葉を聞くや否や、青葉は再び布団の中へと頭を引っ込めた。そして、次のように言葉を返す。
「どうせその客とやらは、またぞろ現れた自称嫁なのでしょう!? ボク――じゃない、俺は今体調が優れないので、その者と会う気はありません! 名前だけ聞いて、今日のところは帰ってもらってください! それと、本当に当人が男子を産んだのか! 俺との間に関係があったのかを、猪牙忍軍を使って入念に――」
「い、いえ! 違います! 相手は男性! 行方不明となり、青葉様と御当主様がずっと探していらした叉鬼狩夜殿ですよ! 御本人です! 間違いありません! ひとまず客間にお通しして――」
「狩夜殿!?」
「カリヤさん!?」
「わひゃあ!?」
狩夜の名前が耳に届くと同時に、青葉は布団を跳ね除け立ち上がる。そして、同じく立ち上がったアルカナと共に自室を飛び出し、狩夜がいるであろう客間に向かって、勢いよく駆け出した。
驚きのあまり目を回し、ひっくり返っている奉公人をその場に残して。
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