閑話 進化の軌跡 その1

「ガァアアァアァアァァァァアァアァ!!」


 ミズガルズ大陸のとある平原に、かの者の咆哮が響き渡る。


 奇襲に気取られ、必殺のつもりで放った左前足による爪撃そうげきをかわされた後、自身に背を向けて逃げていく得物――ガゼル型の魔物、ドリルアンテロープの動きを止めるべく放った、渾身の〔咆哮ハウル〕スキルであった。


 しかし――


「――ッ!?」


 ドリルアンテロープの動きは止まらない。それどころか、咆哮に背中を押されたかのごとく急加速。かの者から少しでも離れようと、必死の様相で平原を駆け抜ける。


 未練がましくその後を追うかの者であったが、右前足の欠損による敏捷の低下は如何ともしがたく、結局振り切られた。諦めて立ち尽くすかの者の視線の先で、ドリルアンテロープの姿が消えていく。


「ガァアアァ!!」


 スキルではないただの咆哮を悔し気に上げた後、かの者は左前足を振り上げ、力任せに地面へと叩きつけた。


 かの者を中心に地面がたわみ、一瞬後大爆発。自ら発生させたつぶてを、戒めとばかりに全身で浴びながら、かの者は歯を食いしばり、目を血走らせた。


 ――憎い!


 縄張りである森林地帯、その道中での幾度目とも知れぬ狩りの失敗。この世の地獄に生を受けたにもかかわらず、獲物に苦労したことなどなかった天才は、生まれて初めてとなる無力感と、空腹感に苛まれていた。


 ――憎い!


 命を刈り取る爪も、有り余る膂力も、当たらなければ意味はない。右前足を失ったことでバランスが崩れ、戦闘時にすべての動作で遅れが生じるようになった体で振るったところで、虚しく空を切るばかりだ。


 ――憎い!


 あの敗戦以来、〔咆哮〕スキルの成功率も目に見えて低下している。敗北の憂き目にあったことで、かの者の中で何かが変わったのだ。そう、何かが。


 ――憎い! 憎い! 憎い!


 初めて味わう挫折。終わりの見えない負の連鎖。ともすれば歩みを止め、その場に蹲りたくなるほどの苦境に立たされたかの者は、怒りと憎悪のみでその身を支え続ける。


 ――こいつらは、必ず殺す! 我をこんな目に遭わせたこいつらを、必ず!


 苦境の最中に思い浮かべるのは、復讐を誓った憎き相手たち。目に焼きついているその姿を幻視するだけで、はらわたが即座に煮えくり返り、生きる力が湧いてくる。


「……?」


 ここで、かの者はあることに気がついた。


 それは、復讐を誓い、今まさに幻視している相手らの共通点。人間という生物の特異な構造。


 ――こいつらは、なんで二本足で立っている?


 次いで、かの者は己が左前足と、大穴の空いた地面を見つめた。


 獲物には当たらなかった爪も、膂力も、地面には当たった。余すことなく、十全に振るうことができた。


 つい先ほど、自分はいったい何をした? 左前足を振りかぶった際、後足だけでその身を支え、体を縦に起こしていたのではなかったか?


 ――そうか、後足二本で自重を支えれば、前足を自由に使うことができるのか!


 戦闘時、すべての動作に遅れが生じる原因は、自重を支えながら移動するという行為と、爪で攻撃するという行為を、前足一本では同時にこなせないからである。しかし、後足だけで自重を支え、移動することができれば、左前足を攻撃のみに専念させることができるはずだ。


 かの者は、早速実践だとばかりに体を起こし、後足だけで立ち上がる。


 しかし――


「――ッ」


 どうにも具合が悪い。その巨体を二本で支え続けるには、かの者の後足はあまりに細く、短すぎた。骨格も、筋肉も、かの者の意志に反して、その体制を維持することを声高に拒否している。


 そのまま二足歩行も試してみたが、やはりだめだ。移動速度があまりに遅い。遅すぎる。たとえ前足を自由に動かせても、これでは当たるわけがない。もはや攻撃以前の問題であった。


 ――これは、大々的に作り直す必要があるな。


 体を起こすのをやめたかの者は、己が咆哮と殺気によって周囲に魔物がいなくなった草原を進み、一番近くにあった木陰で横になった。次いで、体を丸め目を閉じる。


 心身の高ぶり鎮め眠りにつき、かの者の意識が向かうのは白い部屋。


 そこでかの者は、右前足を失う前に狩った獲物たちのソウルポイントを使い、己が魂と肉体を作り変えていく。


 本来は幾度も世代を重ね、少しづつ少しづつ変えていくしかない生物の基本構造を、思うままに、願うままに変えていく。


 慣れ親しんだ強化ではなく、作り変えるという行為に、いくばくかの恐怖はあった。だが、かの者は心に決めている。どんな手を使ってでも、何を引き替えにしても、憎き相手を必ず殺すと。


 ほどなくして目を覚ましたかの者は、ゆっくりと体を起こし、次いで立ち上がる。その姿形は、眠りにつく以前とは明らかに別物だった。


 全長五メートルを超える巨体は、軽量化のために半分以下の二メートルほどにまで縮小。胴体が細く短くなった一方で、二本の後足――否、二本の脚は太く長くなり、身長のおおよそ四割強を占めるまでになった。右前足は根元から断ち切られたままだが、左前足は左腕と名を変えており、胴体とほぼ同じ長さがある。


 かの者は、虎のままの頭部を動かし、これまた虎のままの、肉球のついた手のひらを見つめた。次いで、作り変えた体の調子を確かめるように、その場で軽く飛び跳ねる。


「――ッ」


 その後「よし、把握した」とばかりに表情を引き締めたかの者は、空腹を満たすべく、獲物を探すために歩き出す。


 人間と見紛うほどの、実に見事な二足歩行で。

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