198・ディープライン

「うわ、マジだ! ケルラウグ海峡にディープラインができてる!」


 タミーの口から語られた衝撃の事実。クエストをこなしてお金を稼ぐことができなかった狩夜は、まともな食事と休息を諦め、失意のまま開拓者ギルドとウルザブルンを後にし、ウルズ川のほとりにレイラが用意した、切り株型の家で一夜を明かした。


 次の日、一晩で気持ちの整理をつけ、夜明けと共に目を覚ました狩夜は、百聞は一見に如かず、実際に現場を見てみよう――と、他の開拓者にはない多くの移動手段とフットワークの軽さを生かし、ユグドラシル大陸南部のウルズ王国から、大陸東部のミーミル王国へと移動。


 ユグドラシル大陸の東端にある城塞都市、ケムルトの付近からケルラウグ海峡へと舟を出し、希望峰に向けて東進。今に至っている。


 狩夜とレイラの視線の先には、自然界ではまずありえない、明確なまでの世界の区切りが存在していた。


 緑白色の線。


 水平線とは違う、波と共に揺らめき、絶えず形を変える緑白色の線が、狩夜の視界の端を超え、左右に向かって延々と伸びている。


 大気中にマナを放出できなくなった世界樹が、現時点でマナを届けることができる限界地点。マナが含まれている海水と、一切含まれていない海水との境目。かのレッドラインと対を成す、絶叫の開拓地スクリーム・フロンティアへの入口。


 ディープライン。


 マナが存在する世界でしか生きられない微生物と、マナが存在しない世界でしか生きられない微生物。双方の死骸が海底に堆積することで発生した青潮によって形成された、目に見える死線である。


 青潮は、海底に堆積した微生物――主に植物プランクトンの死骸がバクテリアに分解されることで発生する。


 青潮が発生している場所は海中の酸素濃度が減少し、嫌気性細菌(酸素の存在する環境では生活が困難、または不可能な細菌)が増加。海の色が緑白色に見えるのは、嫌気性細菌の一種である硫酸還元菌が大量の硫化水素を発生させ、硫化水素が酸化することで生成された硫黄、又は、硫黄酸化物の微粒子が、海水を変色させているからだ。


 そんな青潮の中では、魚や貝は生きることができない。


 ディープラインの外側に生息する屈強な水棲魔物たちが、ディープラインを越えてユグドラシル大陸近海へとやってこないのは、酸素が少ない海水と、猛毒の硫化水素。そして、海水に溶けたマナに、侵攻を阻まれているからである。


「ふ~む」


 朝食であるラビスタの丸焼き(味付けは海水から採った塩のみ)を食べながら、狩夜はディープラインの外側、ディープという名の由来でもある、色合いが深くなったように見える海面を注視した。


 透明度の高い海面の先には、薄っすらとだが海底を目視できる。さほど深くはなさそうだ。


 次いで狩夜は顔を上げ、目と鼻の先にまで近づいた、希望峰へと目を向けた。


「うわぁ……アシカに占拠されてる……」


 半年ぶりに見る希望峰は、開拓者にではなくアシカ型の魔物、トーピードザロプスの群れにすっかり占拠されていた。向こうも外敵の存在に気づいているらしく、一様に顔を上げ、つぶらながら殺気を帯びた瞳を狩夜たちへと向けている。


 狩夜たちがディープラインの内側にいるため、マナによる弱体化を嫌い襲ってこないが、外側へと漕ぎ出せば、一斉に襲いかかってくるに違いない。


 自身を見つめるアシカの群れをとりあえず無視し、狩夜は真剣な顔で現在位置と希望峰との距離を目算した。


「向こう岸まで二百メートルってところかな。この水深で、この幅なら、ヨルムンガンドは入ってこれないと思うけど……」


 “世界蛇” ヨルムンガンド。


 イスミンスールの大海、そのほぼすべてを支配下に置く海の魔王にして、世界最強と目されている魔物の名前である。


 実物を見たことがあるというフローグから伝え聞くその異形から推測するに、かの “世界蛇” が、マナの溶けた海水を避けてこの浅瀬へとやってくるのは、恐らく不可能だろう。


 よって、ケムルトから船で希望峰へと向かっても、海底から襲いかかってきた “世界蛇” に、船ごと丸飲みにされるという、勇敢と無謀を履き違えた先人たちの死に目をなぞる結果にはならないはずだ。


 にもかかわらず、ほぼすべての開拓者とその関係者が、ミズガルズ大陸への上陸を諦めざるを得ない理由。それは――


「てい」


 狩夜は、まだ肉が多く残っているラビスタの丸焼きを、ディープライン外側に向かって放り投げた。


 放物線を描いて海へと落下していくラビスタの丸焼き。それが着水して海に波紋を広げた直後、無数の魚影が殺到し、躊躇なく食らいつく。


「これだもんなぁ……」


 肉だけでなく、骨まで噛み砕いてラビスタの丸焼きを貪る多種多様な魚型の魔物たちを見つめながら、狩夜は嘆息した。


 そう、警戒すべきは “世界蛇” だけではない。ディープラインの外側に生息する水棲魔物は、天候や潮の流れ次第でマナの溶けた海水に触れかねない海域に、生息する最下層たちですら、強大な戦闘能力を有しているのだ。


 体長二十センチほどの魚でも、木造船の船底に穴を空けるくらいは普通にやってのけるのだから恐ろしい。


 そんな水棲魔物たちが多数遊泳している以上、船で上陸というのは無理がある。よしんば上陸できたとしてもそこまでだ。接岸中に船底を穴だらけにされた船が転覆。帰りの足を奪われ、地獄への片道切符になることが目に見えている。


「なるほどね。各国の上層部が他大陸の開拓は不可能と判断して、ギルドへの支援を打ち切ったのも頷けるな」


 過去三度実施された精霊解放遠征。その遠征先が、すべてミズガルズ大陸であった唯一にして絶対の理由。それは、ディープラインの内側にある唯一の他大陸が、ミズガルズ大陸であったからに他ならない。


 船で別の大陸を目指したところで、ヨルムンガンドに食われて終わり。それが、幾千、幾万もの犠牲の末に出した人類の結論であり、常識だ。


 ミズガルズ大陸の西端に存在する希望峰は、魔物に故郷を奪われ、ユグドラシル大陸に泣く泣く押し込められた全人類に残された、唯一の希望だったのである。


 その希望へと続く道が、絶たれた。


 人類は、唯一の希望を失ったのだ。


 もう人類は、他大陸にいくことはできない。唯一の例外は〔水上歩行〕スキルを有するフローグのみであり、そのフローグも、かの魔王には歯が立たず、なすすべなく敗走している。


 ゆえに誰もが思った。


 もう人類は、未来永劫ユグドラシル大陸で生きていくしかないのだと。


 魔物から故郷を取り戻すことはできないのだと。


 信仰の対象である精霊の解放は不可能なのだと。


 そして、できもしないことにお金はかけられないと、各国は開拓者ギルドへの支援を打ち切った。


 開拓者ギルドがおこなっているクエストの受注、発注業務は、基本赤字である。その赤字を、優秀な開拓者育成のために、人類の版図拡大のためにと、国が税金を使って補填していたのだ。


 その補填がなくなったのだから、ギルドの資金繰りが悪化するのは当然であり、業務停止は必然である。そして、クエストという安定した収入源を失った開拓者は、職業として成り立たなくなった。


 こうして、あらゆる希望が、前提が、制度が崩壊し、全人類を熱狂させていた大開拓時代は終わりを告げる。


 そして、【厄災】から数千年、ついに絶望の時代が訪れた。


 誰もが下を向き、夢を見ることができなくなった時代。


 誰もが闇にとらわれ、生きる意味を見失った時代。


 そんな生き地獄のような時代の只中にいる、唯一の地球人・叉鬼狩夜は、目の前の現実と、ディープラインの先に広がる絶叫の開拓地スクリーム・フロンティアを見つめながら、いつもと変わらぬ様子で口を動かす。


「レイラ、君の葉っぱでできたこの舟ならさ、最下層の水棲魔物からの攻撃なんて、どうってことないよね?」


「……(コクコク)」


 相棒の「当然でしょ」と言いたげな頷きに、狩夜もまた「だよね」と言いたげに頷き返す。


 直後、狩夜は右手を胸の高さにまで上げ、トーピードザロプスの群れに占拠されている希望峰を真っ直ぐに指差した。


 次いで、異世界の常識なんて知ったことかとばかりに、こう言い放つ。


「なら、ディープラインを越えて、希望峰に向けて突撃! あのアシカどもを蹴散らして、いけるところまでいってみよう!」


「……!(コクコク!)」

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