182・待つ
「わしら猟師の仕事は、熊や鹿といった山野の獣を狩ることじゃ。叉鬼家は先祖代々からの猟師の家系。わしの爺さんも、そのまた爺さんも猟師じゃった。狩夜よ、お前まで続く叉鬼家の子孫繁栄は、山のように築かれた獣たちの屍によって支えられておる」
「わしらは、何百年と獣の命を食い物にしてきたんじゃ。だからといって、勘違いしてはいかんぞ? 人間なんぞくそ弱い。馬鹿正直に追いかけたら鹿には逃げられ、熊と戦ったら必ず負ける」
「ならどうするか? そう、頭を使うんじゃ。考える、それこそが人間の有する最強の武器。動物の思考を読む。狩りに有用な道具を作り出す。罠、毒、囮、使えるものはなんであろうと利用して、創意工夫で獲物を仕留める」
「猟師の価値は、獲物を殺傷しうる武器、技術、環境の三つを、いかに用意するかで決まると言っていい。そして、その三つが用意できさえすれば、後は待つだけじゃ」
「よく聞け狩夜。そして、決して忘れるな。わしら猟師の最も大切な仕事は、待つこと。息を殺し、獲物を確実に仕留められる瞬間が訪れるのを、心静かに待つことじゃよ」
炭焼き小屋の如き家の中、囲炉裏を挟んで向かい合う祖父が語ってくれた、猟師の心得の数々。
その締めくくりとして教えられた、待つことの大切さ。猟師の極意ともいうべき教えを今一度思い浮かべながら、狩夜は目を閉じる。
すでに《朧月の衣》は展開を終え、潜伏系アイテムとしては最上位であろうその効果を、十全に発揮していた。
聖域の内部から狩夜とレイラの姿は消え、二人の気配までもが完全に消失している。
そのころ、狩夜たちと別れたスクルドは無事聖域から脱出し、四匹の聖獣は集結を終え、聖域の東部に向かって急行していた。
「「「「……」」」」
聖域の東端。すでに誰もいないその場所へとやってきた聖獣たちは、一様に辺りを見回しながら耳をそばたて、鼻を鳴らした。その後、ドヴァリンとドゥラスロールが周囲に異常がないか探索をはじめ、ダーインとドゥネイルが結界の東端から深部へと歩き、途中でUターンして再び結界の東端に向かうという動きを三度繰り返す。
聖域東部を入念に調査した後、聖獣たちは異常なしと判断したのか、その場を後にする。だが、分散したりはしない。高い警戒を維持しつつ、一塊となって聖域の中心部を目指して歩きだした。
五感すべてを駆使し、アンテナを張り巡らせながら聖域を進む聖獣たち。その道中には、狩夜とレイラが身を隠す、陸橋のごとくアーチを描く太い根があった。
狩夜たちが隠れる場所に向かって真っ直ぐに歩み寄る聖獣たち。この行動が必然、潜伏している狩夜とレイラの存在に気づいたことに起因したものだった場合、この後に待っているのは戦闘だ。聖獣たちは集結を終えている。戦闘になれば、狩夜たちに勝機はない。確実に殺される。
そんな状況下にあって、狩夜たちの方に動きはない。当然だ。少しでも身じろぎした瞬間、《朧月の衣》の効果が切れ、狩夜たちの姿は白日の下にさらさる。そうなった場合も戦闘だ。ゆえに、聖獣が近づいてくるのはただの偶然と信じ、身を隠し続ける以外の選択肢など、狩夜たちにはない。
ほどなくして、聖獣たちは狩夜のすぐ近くへとやってきた。
正に目と鼻の先。息遣いが聞こえるほどの近さで、狩夜の前に姿を現した聖獣たち。その後、聖獣たちは——
「「「「……」」」」
なにをするでもなく狩夜の眼前を素通りし、木の根をくぐって聖域の深部へと消えていった。
これ以上ない形で、《朧月の衣》の力が証明された。聖獣四匹が揃い、警戒レベルを限界まで引き上げた状態で気づかれなかったのだから、自発的に姿を現さない限り、狩夜たちの存在が聖獣に気取られることはないだろう。
潜伏は成功。これをもって、作戦の第二段階は終了だ。ここから先は、第三段階に突入する。
待つのだ。
聖獣たちが警戒を解き、一塊になるのをやめ、聖域各地に散らばることを。
ターゲットであるドゥラスロールが、単独で、無警戒のまま、この場所を訪れることを。
未来を司る女神が選んだこの場所で、《朧月の衣》の中に身を隠しながら、ただひたすらに待ち続ける。
聖域に侵入者が出た直後であるがゆえに、聖獣たちは一塊となって行動しているが、それは長く続かない。
世界樹がこの星に根づいてから十数億年。イスミンスールは四度滅亡の危機に瀕している。だが、ここ聖域が外敵に踏み荒らされることだけは、ついぞなかった。
邪悪の樹も、アースも、ヴァンも、かの【厄災】でさえも、聖域に辿り着く前に勇者に敗れ、この世界から退場している。
聖獣たちは、聖域が安全な場所だと知っている。この地の防衛機構が完璧であると信じている。
奇襲などありえない。聖域に潜伏などできるはずがない。
だから、結界に反応があってから動けば大丈夫。
心身に染みついた、その甘い考えを否定することが、聖獣にはできない。疑えったって無理な話だ。だって、十数億年も平和だったんだから。狩夜とレイラという、明確な敵の姿が脳裏にチラつく状況であっても、安全な場所で暮らす、野生を知らない動物特有の余裕と油断が、いつか必ず顔を出す。
その余裕と油断が、強者を殺す毒となるのだ。
聖獣を殺しうる武器は用意した。
聖獣を殺しうる技術は身に着けた。
後は、聖獣を殺せる環境を整え、息を殺し、獲物を確実に仕留められる瞬間が訪れるのを、心静かに待つのみである。
だが、その待つという行為が、実はなにより難しい。
動く物と書いて動物。生きるという行為は、すなわち動くということに他ならない。
生き物にとって、動かないという行為は、最も辛いことの一つである。
食事、睡眠、各種生理現象。人間であり動物である狩夜が、それらに耐え忍び、《朧月の衣》の中で不動を貫ける時間は、さほど長くない。そして、直径おおよそ五十キロ。面積にして二千平方キロメートルにもおよぶ広大な聖域で、確実に仕留められる間合いにまでドゥラスロールが近づくのを待ち続けるという無謀なおこないが、その僅かな時間ではたして終わるだろうか?
結論。終わるわけがない。
一朝一夕では絶対に無理だ。数日? 数週間? 数ヶ月? スキル〔
それほどの長期間、不眠不動を貫き通すなど、土台無理な話だ。動物である限り不可能。志半ばで限界を迎えるのが目に見えている。
ゆえに狩夜は、動物であることを諦めた。
動物で無理ならば、動物をやめればいいという、単純な理屈。
レイラと生体レベルで繋がったのは、なにも結界を越える際の人数をごまかすためだけじゃない。肉体の限界を超えて、望んだ瞬間を延々待ち続けるためだ。
作戦が第三段階に進んだ時点で、レイラは狩夜の脊髄を操作し、痛覚だけでなく、全運動能力をカットしている。もう狩夜は、自らの意志で体を動かせない状態だ。
それだけではない。心臓、肺、肝臓、腎臓、レイラの蔓と繋がる各種主要臓器は、その活動を停止。狩夜は血液の循環、血中への酸素供給、有害物質の解毒・分解、老廃物の除去、それらすべてを自身の臓器ではなく、レイラに委ねた。己が命と、その体の全てを、信頼する相棒に預けたのだ。
現在狩夜の体は、鼓動も呼吸も止まっている。にもかかわらず、定期的に注入される治療薬と、レイラ謹製の栄養剤により、並の人間よりも遥かに健康な体を維持していた。
意識のある植物人間。ある種の矛盾を孕んだこの状態に、自ら進んで身を落とし、狩夜は動物であることをやめた。それにより、肉体的限界と、《朧月の衣》の弱点が消える。
狩夜は聖域内部に、永遠に隠れ続けることが可能な自分たちだけの領域を構築した。聖獣を殺しうる環境を、見事に整えたのである。
残った問題は、狩夜の精神面。そして運。
スクルドは言った。確定した未来はないと。〔
半年という明確なタイムリミットがある中、命を他者に預けたまま、不眠不動でこの場にとどまり、決して確実ではない瞬間を、延々待ち続ける。
想像を絶するその苦行に、はたして、凡人・叉鬼狩夜の精神は耐えることができるのか?
――耐えてみせるさ。
自身の戦う理由。守るべき約束。共に戦う仲間。
それらを何度も何度も思い返し、自身の心に闘志という名の薪をくべながら、狩夜は待つ。
ただ待つ。
いくらでも待つ。
何日でも、何週間でも、何ヶ月でも、待つ。
獲物を確実に仕留められる瞬間が訪れるのを、レイラと二人、身を寄せ合いながら、ただただ待ち続ける。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます