閑話 遠征の後・紅葉の場合
「国ではそんなことが起こっていたでやがりますか!?」
時はヴァンの巨人の脅威が去った次の日、場所は城塞都市ケムルトにある精霊解放軍の駐屯地である。幹部用の自室で、髪の生え際あたりから丸みを帯びた短い角を二本伸ばす、若草色の髪をした女の子――鹿角紅葉は、驚きの声を上げた。
紅葉の前には竹製のケージがあり、その中には額に赤い石がめり込んでいる栗鼠――ラタトクスがいた。通信能力を持ち、様々な分野で日々活躍するその小動物は、自身に向かって目を見開く紅葉の言動に怯え、ケージの隅で縮こまり、小刻みに震えている。
『こ、声が大きいですよ、姉上……これは帝国の名誉に関わること……どうかご内密に……』
通信相手、紅葉の弟である鹿角青葉の声が、ラタトクスの額から響く。
遥か西方、フヴェルゲルミル帝国にいる弟が、恐る恐るといった声色で紡いだこの言葉を聞いた後、紅葉は沈痛な面持ちで閉口した。
禁中の侍医長、カルマブディス・ロートパゴイの謀反。そして、美月将軍家長女、美月立羽の共謀。雇った医者の裏切りによる、鹿角青葉の拉致監禁。オーガロータスの幻惑作用による現帝と、家臣団の傀儡化。現将軍、美月揚羽の切腹未遂。他にも、他にも。
国がひっくり返りかねない――否、間違いなくひっくり返っていたであろう大事件が、精霊解放遠征の最中に起こっていたことを、紅葉はつい先ほど知ったのである。
もちろん、それら大事件を解決したのが、日ノ本からきた異世界人、叉鬼狩夜であるということも。
紅葉は頭痛を堪えるかのように頭を抱えた。次いで小声で呟く。
「受けた恩が大きすぎるでやがりましょう……」
帝国の重鎮としても、鹿角家の現当主としても、弟と親友の危機を救ってもらった一個人としても、狩夜から受けた恩が大きすぎる。ただでさえエビルポテトの一件と、ヴァンの巨人との戦いで大きな恩があるというのに、更に上乗せされた形だ。
これほどの大恩に報いるためには、いったいどうしたらいいのかと、紅葉は頭を悩ませる。そんな姉に向かって、青葉はラタトクス越しにこう告げた。
『狩夜殿のおかげで、姉上が気にかけていた僕――じゃなかった、俺の体調もすっかり良くなりました。御帝も俺と同じく薬の副作用から解放され、今も精力的に政務に励んでおられます。そちらにいるアルカナ先生にも、僕が元気になったとお伝えください。カルマブディス・ロートパゴイの一件を、どこまでアルカナ先生にお伝えするかは、姉上の裁量に任せるとのことです』
「承知したでやがりますよ。よっかたでやがりますな、青葉。青葉が元気になってくれて、紅葉は本当に……本当に嬉しいでやがりますよ」
『姉上……はい! 色々とご心配をおかけしました!』
久方ぶりに聞く弟の元気な声に、満面の笑みを浮かべる紅葉。だが、それは一瞬のこと。紅葉はすぐさま鹿角家当主としての仮面をかぶり、自分の留守を任せている弟に向かって、次のように問いかける。
「それで、不可能としか思えない依頼を見事に完遂し、帝と青葉の治療までしてくれた狩夜に対し、我が鹿角家はどうやって報いたでやがりますか? 詳しく聞かせるでやがりますよ」
『――っ』
ラタトクスの額から、盛大に息を飲む音が聞こえた。顔面蒼白になった顔をありありと想像できるその息遣いの後、青葉は消え入りそうな声で、途切れ途切れに言葉を紡いでいく。
『そ、その……狩夜殿には……あなた様の望むものを必ずやご用意してみせると約束し……依頼を引き受けていただいたのですが……』
「歯切れが悪いでやがりますな……さっさと話すでやがりますよ。これほどの大恩でやがります。鹿角家の全財産を差し出し、紅葉の首を渡す約束をしていたところで、別に怒りは――」
『いえ……それがその……事が済んだ次の日に、狩夜殿が姉上たち精霊解放軍の救援に向かうべく、文字通り飛んでいってしまいまして……我ら鹿角家は、狩夜殿から受けた恩に対し、なに一つ報いることができておりません……』
「……」
『……』
「馬鹿でやがりますかお前はぁぁあぁあぁ!?」
『すみませんすみませんすみませんすみません!』
二つ名の “戦鬼” に恥じない剣幕で怒声を轟かせる紅葉に、フヴェルゲルミル帝国にいる青葉と、ケージの中にいるラタトクスは、全身の毛を逆立てながら脅えきり、生まれてきてごめんなさいとばかり平伏した。
●
「で、紅葉さん。僕に用ってなんですか?」
ヴァンの巨人撃破というビックニュースに沸き立つケムルトのメインストリート。そこから少し外れた場所にある安宿の一室で、狩夜と紅葉は向き合っていた。
まだ起きたばかりなのか、寝ぐせだらけの頭を頭上に乗せたレイラで誤魔化す狩夜の眼前で、紅葉は顔を伏せており、居心地悪げに身を捩っている。
普段と違うその姿に狩夜が首をかしげたとき、紅葉は意を決したように顔を上げ、次のように話を切り出した。
「か、狩夜! まずは、これを受け取るでやがりますよ!」
腰に括り付けた魔法の道具袋の中に手を入れ、あるものを取り出す紅葉。次いで、それを狩夜の胸元に押しつけた。
狩夜は目をパチクリさせながらそれを両手で受け取ると、こう言葉を返す。
「これって、あの主の右前足ですよね? これを切り落としたのはフローグさんで、持ち帰ったのは紅葉さんでしょう? なんで僕が?」
「今回の礼でやがります! フローグにはもう同意を取りつけてやがりますから、気にせず受け取るといいでやがりますよ! ハンドレットサウザンド級の魔物から採れる素材は希少でやがりますから、売れば相応の値段がつきやがるはずです!」
「はあ、なら遠慮なく。レイラ、これ、食べちゃっていいよ。ただ、せっかくの紅葉さんからのご厚意だから、皮や爪、骨なんかは残しておいてね? 食べていいのは肉だけだよ?」
「……(コクコク)」
狩夜が頭上に持ち上げた右前足を、レイラが「わーい♪」と言いたげな顔で受け取り、蔓と葉っぱを使って器用に皮を剥いでいく中、紅葉はここから先が本題とばかりに狩夜に詰め寄り、こう口を動かす。
「そ、それで、今度は我が弟、鹿角青葉がした救国の依頼に対する報酬を受け取って欲しいでやがります! 叉鬼狩夜殿は、我ら鹿角家に対し、なにを要求されるでやがりますか!?」
「青葉君? ああ、あのときの……そういえば言ってたっけ、僕が望むものを必ず用意するとかなんとか……色々あって忘れてたな……」
「そう、正にそれでやがります! ついさっき国元に連絡を取りやがったところ、我が帝国は狩夜に窮地を救ってもらいやがったとか! 約束通り、狩夜の望むものを報酬として用意しやがります! なにが欲しいでやがりますか!? 金銭でやがりますか!? それとも
「いい! 切らんでいい! うーん、カルマブディスの奴には僕もむかついたから、別に報酬なんて要らない――ってわけにはいかないんですよね?」
「当たり前でやがります! 我が帝国と、鹿角家の名誉のために、絶対に受け取ってもらいやがりますよ!」
「まあ、そうくるよね……真央も似たようなこと言ってたし……でもなぁ、僕が欲しいものを用意するのはたぶん無理――ん?」
途中で言葉を止め、右手を口元に運びなにやら考え込む狩夜。そんな狩夜に「どうしたでやがりますか?」と、紅葉が首を傾げた直後、考えが纏まったのか、狩夜は真剣な顔でこう提案する。
「なら、紅葉さん。《朧月の衣》をいただけますか」
今度は紅葉が目をパチクリさせる番だった。狩夜の顔をじっと見つめながら数秒間沈黙した後、気まずげに視線を逸らす。そんな紅葉の肩に両手を載せながら、狩夜は懇願するようにこう言った。
「だめですか? ご先祖様――三代目勇者が残した古代アイテムですからね。その価値は僕にもわかります。ですがお願いします! 僕には《朧月の衣》が、どうしても必要なんです!」
「いや、だめじゃない……全然だめじゃないでやがりますよ……望むものを報酬として用意すると言った手前、駄目だなんて口が裂けても言えないでやがります。むしろ、そんなものでいいのかと思ってやがるくらいで……ただ……」
「ただ? ただ、なんですか?」
「以前にも話したと思うでやがりますが……《朧月の衣》には欠点がありやがります」
使用者の姿を透明化し、その気配を完全に消すことができるという、破格の能力の持つ《朧月の衣》であるが、完全無欠というわけではない。大きな欠点が二つあるのだ。
一つ、移動制限。
《朧月の衣》の効果発動中は、一切動くことができず、少しでも動いた瞬間、効果が切れてしまう。
二つ、使用回数制限。
《朧月の衣》には明確な使用回数が定められており、それを使い果たすと灰となって消滅してしまう。
「はい、覚えています。それがどうかしましたか?」
「その……《朧月の衣》は、あと一回しか使えないでやがります……」
「……」
「や、やっぱり一回じゃだめでやがりますよね!? す、すまんでやがります、紅葉が無駄遣いしたばかりに! 狩夜がなんのために《朧月の衣》を欲しがっているかは知らないでやがりますが、やっぱり一回だけじゃ――」
「かまいません」
「ふえ?」
「その、一回が欲しかった」
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