140・世界最強と西国無双
「……?」
フローグ渾身の一撃。それをその身で受けた主が、己が体から離れていく右前足を漠然と見つめつつ、「なんだこれは?」と言いたげに首を傾げた。
その、一瞬後――
「ガァアアァアァアァァァァアァアァ!?」
絶叫。
ミズガルズ大陸という名の蠱毒壺の中、数多の魔物を屠り、他者の魂を食らい続け、鍛えに鍛えた肉体。その一部が欠損したという事実を、全身を駆け巡る激痛と共に理解した主の慟哭が、不毛の荒野に響き渡る。
あの主が、全身を筍に貫かれても苦痛の声一つ漏らすことのなかった、誇り高き密林の王者が、人目を憚らずに喚き散らしていた。
圧倒的強者が予期せぬ奇襲によって痛手を負い、その口から悲痛な声を上げる。そんな「これこそが
瞬間、その両脚の大腿部が倍以上に膨れ上がり、フローグが放つ剣気と殺気が、十数倍に迫る勢いで激増する。
「——ッ!?」
自身に向けられた桁外れの気迫によって、主が正気に戻ると同時に、フローグが跳んだ。
狙うは首。
この一撃で主の首を落とし、その命を断ち切らんと、フローグは剣を振り上げる。
——
主の首が放物線を描いて宙を舞う光景を幻視した狩夜が、胸中にて呟く。
しかし主は、そんな狩夜の希望的観測を、力技で打ち砕いた。
「ガァア!!」
先ほどの悲痛な慟哭とは明らかに違う、確固たる意志を感じさせる雄叫びを上げながら、主はその巨体を捻り上げ、今や立派な竹へと成長した何本もの月光の拘束具を、力任せに圧し折った。そして、迫りくる死から逃れるべく、その首を有らん限りの力で横に振るい、白刃から遠ざける。
次の瞬間、フローグの剣が主の首に埋没し、そのまま振り切られた。だが、浅い。重傷には違いないが、動脈も、気道も、脊髄も無事だ。あれでは主の命には届かない。
——あの状況で、あの斬撃を避けるのか!?
ハンドレットサウザンド級の魔物、その底力を目の当たりにし、狩夜は心底驚愕した。
状況は一変。攻撃が空振りに終わった今、フローグの方が窮地である。主は憤怒の表情で牙をむき、己が右前足を断ち切った憎き相手に襲いかかるべく、全身の筋肉を大きく隆起させながら、その身を深く沈めた。
「フローグさん! あぶな――」
「戻るでやがります! 迦具夜!」
フローグの危機を目の当たりにし、狩夜が思わず上げた声。それを掻き消すかのように、彼女が愛槍の名を呼ぶ。すると、地面に突き刺さっていた迦具夜がひとりでに抜け、宙へと浮き上がった。
迦具夜が地面から引き抜かれたことで、主を拘束していた竹たちが幻であったかのように霧散する中、迦具夜はその切っ先を使い手である彼女へと向け、弓から放たれた矢の如く、荒野の上を疾駆する。
そして、その進路上には、今まさにフローグに飛び掛かろうとしていた、主の巨体があった。
持ち前の超反応で迦具夜の接近を察知した主は、フローグへの攻撃を断念し、即座に回避行動をとろうとする。しかし――
「——ッ!?」
失敗。
十全の状態ならば――いや、どのような重傷を負おうと、四肢が揃ってさえいれば、主は回避を成功させたであろう。だが、今の主には右前足がない。そして、歴戦の強者であればあるほど、反射で戦う。戦ってしまう。
主は、失った右前足で地面を蹴ろうとし、その場で転倒。高速で飛来した迦具夜に、その横っ腹を貫かれた。
「ガ……!」
大口を開け、血反吐をぶちまける主。だが、彼女のもとへと向かう迦具夜は止まらなかった。主の体を貫通し、地面に倒れる狩夜の上を通過して、なおも直進する。
そして、ついに彼女の手元へと、迦具夜が戻った。
若草色の髪。
額から伸びる二本の角。
美月家臣団筆頭・鹿角家当主にして、精霊解放軍が一番槍。“戦鬼” 鹿角紅葉。
フローグに次ぐ実力を持つ、ハンドレットサウザンドの開拓者にして、西国無双の名をほしいままにする、月下の武士だ。
ふと、狩夜と紅葉の目があう。
彼女が生きていてくれた喜びと、彼女の救助を諦めた負い目から、どのような顔をしていいかわからない狩夜に対し、紅葉は「よく頑張った」とでも言いたげな、屈託のない笑顔を向ける。が、それは一瞬のこと。紅葉は表情を二つ名に恥じない鬼気迫るものへと変え、先ほどのフローグに勝るとも劣らない剣気と殺意を放ちながら、主に向かって突撃していった。
紅葉の気迫に反応し、主が傷の痛みを噛み殺しながら体を起こす。それと同時に、上空のフローグが動いた。
フローグは、腰に括りつけていた瓢箪を手に取り、片手だけでその栓を外す。次いで、その中身を口内へと含み、鳴き袋を大きく膨らませた。
放たれたのは、竹製の水鉄砲などでは絶対に実現できない、超高水圧の水の刃。その水刃を、フローグは紅葉の気迫に紛れ込ませる。
迫る紅葉に気を取られた主の体に、真上から放たれた水刃が直撃した。
「ガァアアァアァアァァァァアァアァ!?」
主、再びの絶叫。
どうやら、瓢箪の中身は聖水であったらしい。魂を浄化され、魔物である限り決して逃れることのできないマナによる弱体化の苦痛が、主を襲う。そんな主を上空から見下ろしながら、フローグは首を横に振り、水刃によって主の背中に鋭利な傷を刻んだ。
全身の傷口に聖水が入り込み、更なる苦痛にもがく主。そこを、紅葉が真正面から強襲する。突進の勢いそのままに、紅葉は主の胸、その内側に納まる心の臓目掛けて、迦具夜を全力で突き出した。
聖水によって防御力がガタ落ちとなった体で、紅葉渾身の一撃を受け止めれば、さしもの主でも命はない。そんな状況で、主が選択した行動は――
「ガァルァ!!」
攻撃であった。
主は、後ろ足だけで立ち上がると、残った左前足を天高く振り上げ、自身の真下にある大地目掛けて、全力で叩きつける。
轟音と共に大きく陥没する地面。それだけでは衝撃を逃がしきれなかったのか、一瞬遅れて大爆発が起こった。
爆心地にいた主と紅葉、そして上空のフローグの体が、爆風によって吹き飛ばされる。
「うわぁあ!!」
当然だが、その爆発は狩夜とレイラをも巻き込んだ。動くことのできない狩夜は、為すすべなく荒野の上を転がり続ける。
ほどなくして、爆発が収まった。
狩夜は慌てて首を動かし、レイラの姿を探す。幸いなことに、レイラは狩夜のすぐ近くの地面に転がっていた。爆発前と変わった様子は――ない。
狩夜はほっと息を吐いた後、今度はフローグと紅葉の姿を探す。そして、これもすぐに見つかった。二人は、狩夜に背中を向けつつ、己が武器を油断なく構えながら、少し離れた場所に並んで立っている。そう、狩夜を主から守るために。
「ガフ……ガフ……」
狩夜は、並び立つフローグと紅葉、その間から主の姿を視認した。先の大爆発によって形成されたと思しき巨大なクレーター。それを挟む形で、フローグ、紅葉の両名と、主は対峙している。
「……凄い」
狩夜の口から、自然と称賛の声が漏れた。
全身に深手を負い、夥しい量の血を流し、右前足を失って、それでもなお、あの主は立っていた。その双眸には、自らの右前足を断ち切ったフローグと、自身の体に風穴を開けた紅葉への、凄まじい怒りと憎しみが渦巻いている。
なんという筋力。なんという敏捷。なんという耐久。なんという精神。
これが、これこそが、ハンドレットサウザンド級の魔物なのだと、叉鬼狩夜は理解した。
「「「……」」」
フローグと紅葉、そして主が、不動無言でにらみ合いを続ける。そのまま永遠とも思える数秒が経過した後、根負けしたのか、主の方が先に視線をそらした。このままにらみ合いを続けては、主の方が先に失血死するのだから、当然といえば当然である。
主は、遠方にて転がる自身の右前足を、名残惜しげに一瞥し、次いで体を沈め、狩夜たちに向かってではなく、東に、縄張りである森林地帯に向かって地面を蹴った。
遠ざかるその背中で「お前たちは、どんな手を使ってでも必ず殺す! 必ずだ!」と、語りながら。
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