137・道

 勝負はやってみないとわからないと、人は言う。何が起こるかわからないのが真剣勝負だと、人は言う。勝負は時の運だと、人は言う。


 だが違う。剣を交えるまでもなく、勝敗はもうわかってしまった。今、ヤツと戦ったところでなにも起こりはしない。ヤツと叉鬼狩夜の勝負に、運が介入する余地などない。


 いつものように、わが身をかえりみず前進してヤツに勝てるのならば、迷わずにそうしよう。血と肉、骨や内臓と引き換えにヤツが倒せるのならば、喜んで差し出そう。覚悟はとうにできている。目的のためならなんだってする。命だって惜しくはない。


 だが、それでは勝てない。叉鬼狩夜のなにと引き換えにしても、ヤツに勝つことは不可能である。そして、負けは死だ。すべての終わりだ。目的の――妹のためになら惜しくはない命だが、ヤツにタダでくれてやる義理はない。


 どれほど考えても勝ち筋の見えない相手。現時点での能力と手札では、決して越えられない壁が、突如として目の前に現れた。


「あと少しなのに……もう見えてるのに……」


 距離にして、残り二百メートル強。今の狩夜ならば、ものの数秒で駆け抜けることが可能な距離にまで近づいたレッドラインを一瞥した後、再びヤツへと視線を戻しながら、狩夜は唇を震わせた。


 現状、狩夜の勝利条件は、レイラと共に生きてエムルトにたどり着くこと。決してヤツの打倒ではない。あれは必ずしも戦う必要のない相手だ。そして、どうやらこの場から逃げるだけならできそうである。


 ケラは、草原や田畑などの土中に巣穴を作り、地中で生活する昆虫だ。


 その巣穴は、ねぐらとなる地面に深く掘られた縦穴と、そこから縦横に走る餌を探すための横穴から構成される。


 この巣穴と、その直上にある地表が、グリロタルパスタッバーの縄張りであり、狩場なのだ。そして、グリロタルパスタッバーの狩りの仕方は、典型的な待ち伏せ型である。その習性上、縄張りに足を踏み入れさえしなければ、狩夜に襲いかかってくることはまずないと考えていい。


 その証拠に、縄張りからほど近い場所にいる狩夜が、今もこうしてヤツを見つめながら立ち尽くし、思考に耽ることができている。レッドラインを越える際、縄張りに足を踏み入れたときとはえらい違いだ。


 数と地の利がある縄張り。そこから打って出る気配が、ヤツにはない。グリロタルパスタッバーの親玉だけあって、やはり頭がいいようだ。目先の利に囚われて、自身の強みを放棄するという愚を、ヤツは決して侵さないだろう。


 縄張りに踏み込まないかぎり襲いかかってこないのならば、回り道をすればいいだけだ。進もうとした道の先に越えられない壁が現れたのならば、別の道を探せばいい。その道がエムルトに通じてさえいれば、狩夜の勝利なのだから。


 だが、狩夜には確信があった。この未開の大地は、絶叫の開拓地スクリーム・フロンティアは、それを決して許しはしない。


 別の道? そんなものがどこにある? 適正戦力に達していない狩夜が、レイラの援護なしにここまでくることができたのは、レイラとグラトニーアントによって造られた、魔物のいない空白地帯の上を進んだからに他ならない。その空白地帯から少しでも離れれば、確実に魔物の襲撃にあうだろう。その魔物が、眼前にいるヤツより弱い保証があるか? いや、それ以前に、今の狩夜が単独で撃破できる魔物が、この場所に一種類でもいたか?


 遠い。レッドラインまでの僅か二百メートルの道程が、狩夜には果てしなく遠く感じた。いくも地獄、戻るも地獄。どう転んでも地獄のくそったれな二択しか、狩夜には残されていなかった。


 それらをすべての事象を踏まえた上で、狩夜は先ほど言ったのだ。


 勝ち目がない――と。


 絶望と共に、ある言葉が頭を過ぎる。


 レッドライン。その線を一度踏み越えたが最後、真の強者しか、生きて帰ることは許されない。


「そうだった……僕は真の強者なんかじゃない……僕はただの――」


 ―—凡人だ。


 そう、レッドラインを踏み越える資格など、叉鬼狩夜にはなかったのだ。


 それを自覚した瞬間、無力感が狩夜の全身を支配する。


 視界が真っ黒に染まっていくのがわかった。とても暗い場所へと、意識が真っ逆さまに落ちていく。


 聖獣に敗北したあの日から、レイラと誓いを交わしたあの日から、絶えず走り続けた狩夜の足が、ついに止ま――




   “ドゴ!!”




 突然、絶叫の開拓地スクリーム・フロンティアに鈍い音が響いた。それに一瞬遅れて、真紅の液体が大地を濡らす。


 狩夜が、余計なことを考えはじめた自身の頭を、右拳で殴りつけたのだ。


 そして、幼さが色濃く残るその顔を、鮮血という名の化粧で彩りながら、狩夜は言葉を紡ぐ。一瞬頭を過ぎった諦めの感情を、全力で否定する。


「認めない……」


 ——僕はもう、あの頃の僕には戻らない。


 突然現れる越えられない壁?


 目の前に立ち塞がる絶対に勝てない敵?


 それがどうした。よくあることだ。


 そんなものは、異世界で開拓者なんていうヤクザな商売してなくても、地球で学生だの社会人だのやってれば、ちょくちょく現れるだろうが。


 むしろ、魔物という目に見える形で表れてくれたことに感謝しろ。あれなら剣で切れるじゃないか。拳でだって殴れるじゃないか。それなら勝てる。今は無理でも、いつの日か必ず勝ってみせる。


 叉鬼狩夜は知ってるはずだ。妹の前に突然立ち塞がった、切れも殴れもしない、もっともっと大きな壁の存在を。


 そして、こうも知ってるはずだ。負けを認めたら終わってしまうということを。二度と立ち上がれなくなってしまうということを。


 だから――折れるな心! 動け足! 


 立ち止まるな! 闇の中だろうが走り続けろ! どうせそれしかできないだろうが! あれこれ能書き垂れて躊躇してんじゃねぇぞド凡人!


 弱音を吐くな! 勇気で恐怖と迷いをねじ伏せて、今一度気炎を吐いてみろ! そうすれば、叉鬼狩夜の中でなにかが変わる! 忘れるな! 言葉には力があるということを!


「まだやれる! こんなところで死ねないんだ! 僕はまだ負けてない!!」


『よく言いました。叱咤激励は不要のようですね、オマケ』


 自身を鼓舞するために狩夜が口にした言葉。それに答える形で、再度脳内に聞き覚えのある声が響く。


「スクルド」


 そう、それはスクルドの声。聖獣との戦いで、不治の呪いが付与された傷を負った狩夜を助けるために、狩夜と同化し眠りについた、世界樹の三女神の一人である。


 希望はなく、惨たらしい死が待つだけだったはずの、グリロタルパスタッバーの縄張り。そこに突撃しようとした狩夜を引き留めた彼女の声は、空耳などではなかったのだ。


「目が覚めたんだね、良かった。それと、さっきはありがとう。君が止めてくれなかったら、僕は今頃――」


『礼ならば不要です。眠りにつく前に言ったはずですよ。私たちは一心同体の運命共同体であると。私は私の身を守っただけのことです。それと、目が覚めたとは言い難いですね。私の復活には、今しばらくの休息が必要なようです……少しでも気を抜くと、意識が消えてしまいそうで……』


 余裕のない声を狩夜の脳内に響かせるスクルド。徐々に小さくなっていくその声で、彼女は次のように言葉を続けた。


『言いたいことは山ほどありますが、時間がないので手早く済ませます……オマケ……後ろを見なさい……』


 スクルドに促されるままに、狩夜はヤツから視線を外し、後ろを振り返る。すると、そこには――


「なに、これ?」


 空中に浮かぶ、不可思議な光の道が見えた。


 その光の道は、空中をたゆとう絹の如き極細の光が幾重にも折り重なることでできており、どこどこまでも続いている。その終わりは、ここからでは見えなかった。


『未来を司る女神である、私にのみ許された固有スキル……名を〔未来道フューチャーロード〕……それを、今このときのみ……あなたに貸し与えます……』


「〔未来道フューチャーロード〕?」


『それはその名の如く……未来へと続く道……可能性は示しました……後は……あなた次第……勇者様を……頼みます……』


「ちょ、スクルド!? え、それだけ!? 待って! まだ眠らないで! もうちょっと説明を――」


 この言葉に対する、スクルドからの返答はない。女神は再び眠りについたのだと理解し、狩夜はスクルドへの問いを途中で止めた。そして、自分にだけ見えるらしい光の道を見つめながら、こう言葉を続ける。


「〔未来道フューチャーロード〕……未来へと続く道……か」


 それが真実ならば、光の道を辿っていけば未来が開けるということだ。この絶体絶命の状況を打破する切っ掛けになるかもしれない。


 しかし――


「スクルド……この道、本当に未来に続いてるの?」


 狩夜が不安がるのも無理はない。なぜなら、狩夜の目に映る光の道は、なんと東南東、レッドラインとは逆方向の、ミズガルズ大陸の奥地に向かって、延々と伸びていたからである。


 狩夜は、かなたへと続く光の道と、すぐそこにあるレッドライン、そして、縄張りの上で狩夜のことを見つめるヤツと、ロバストアルマジロを貪るグリロタルパスタッバーの大群を順番に眺めた後で、意を決し駆け出した。


 ―—女神の神託を――いや、仲間の、スクルドの言葉を信じてみよう。


 向かう先は東南東。光の道の上を、狩夜は走る。

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