124・男子三日会わざれば刮目して見よ

「見えたぞ皆! 我らが拠点、前線基地エムルトが! この地獄の強行軍も間もなく終わる! もう少しの辛抱だ!」


 魔王ファフニールに敗れてから五日。傷ついた体に鞭を打ち、昼夜を問わず行軍を続けた精霊解放軍。人数を半分以下に減らしたその集団の先頭を走りながら、司令官であるランティスは叫んだ。


 フローグに殴られ、撤退開始直後こそガリムに担がれていたランティスであったが、テンサウザンドの開拓者だけあり、すぐに自らの足で走れるまでに回復。それと同時に冷静さを取り戻した彼は、傷の痛み、敗北の屈辱、空腹、疲労、仲間を失った悲しみ、それらすべてを己が胸の内に封じ込め、解放軍の先頭を自らの意思で走りながら、仲間たちに適切な指示と、力強い激を飛ばし続けた。


 この五日間におけるランティスの指揮は、正に神がかり的なものだったと言える。もし彼がファフニールとの戦いで命を落としていたら、一日を待たずして精霊解放軍は崩壊。散り散りになったところを、血とソウルポイントに飢えた魔物たちに各個撃破されていたに違いない。


 ときに戦い、ときに迂回し、ときに裏をかき、ときに落後者を見捨て、ついにランティスは、精霊解放軍を希望峰のほど近くにまで導いて見せた。


 綱渡り――いや、糸の上を渡るような地獄の撤退戦は、もうすぐ終わる。マナが溶けた海に飛び込みさえすれば、もう魔物は追ってはこない。


「希望峰から少し離れた海上には、我々を救助するために駆けつけた多くの船団がすでに布陣している! 彼らを信じて海へと走り、そして飛び込め! すでにエムルトを放棄している非戦闘員共々、速やかにミズガルズ大陸を脱出する!」


 走る速度を一切緩めることなく、作戦の概要を全軍に伝達するランティス。そして、最後になるかもしれない全軍への指示を、次の言葉で締めくくった。


「皆! 必ず生きてユグドラシル大陸へと戻ろう! 精霊解遠征での初めての生還者として、共に歴史に名を刻もうじゃないか!」


『おお!!』


 ランティスからの激に呼応し、声を張り上げ自らを鼓舞する精霊解放軍の面々。


 精霊の解放も、魔王討伐も失敗に終わった今、生きてユグドラシル大陸へと戻り、『誰一人生きて帰ったものはいない』という精霊解放遠征の歴史を塗り替える。それだけが、今の彼らにできる唯一のことであった。


「船団が布陣する海上まで、いったい何人が泳ぎ着けるでしょうか……」


 ランティスの隣を走るカロンが、二人にしか聞こえないほどの声量で呟いた。この言葉に、ランティスは僅かに顔を顰める。


 魔王との戦いと五日間の行軍で、精霊解放軍は誰もが疲労困憊であった。重軽傷者も多くいる。マナには傷の治療効果もあるが、ユグドラシル大陸から離れ、マナが届くギリギリの位置である希望峰周辺の海水では、ほとんど期待できないのが実情だ。


 間違いなく溺れ死ぬ者が出る。それも大量に。最悪の場合、なんらかの理由でディープラインを越えてきた水棲魔物に水中で襲われ、全滅する可能性すらあった。


「いえ、わかってはいます。エムルトを放棄し、皆で海上へと逃れる。これが今できる最善であるということは。エムルトの防衛に従事する開拓者を総動員したところで、私たちを追撃する魔物たちに抗うことはできません。なにせ――」


「相手は、【レッドライン】の向こう側に生息する魔物だからね……」


 カロンの言葉に、ランティスは呻くようにこう答えた。


 レッドライン。


 マナが含まれている大地と、一切含まれていない大地との境目を差す言葉である。


 レッドという言葉が示す通り、その境目は大地の色が違う。そして、同じミズガルズ大陸に生息する魔物でも、レッドラインの内側とレッドラインの向こう側。すなわち、マナによる弱体化が少しでもおこなわれる場所に生息する魔物と、マナによる弱体化が一切おこなわれない場所に生息する魔物とでは、その戦闘能力に大きな開きが出る。


 そう、レッドラインは、文字通り『超えてはいけない一線』という意味でもあるのだ。その向こう側は、マナが完全に枯渇した世界。すべてが魔物に支配された、真の意味での絶叫の開拓地スクリーム・フロンティアである。


 ランティスたちは、そんな場所に生息する魔物たちから現在追撃されていた。ランティス、カロンを除いた、残るすべてのテンサウザンドたちを最後尾に配置し、常に後退戦闘を強いることで、どうにかこうにか耐え忍んでいるのが実状である。


「私としても、この決定は断腸の思いだ。だが、の縄張りを通り、今いる全員でレッドラインを越えるには、魔物を利用して大軍勢を偽装する以外になかった」


「……」


「レッドラインを超える直前にされたあの横撃で、それまで殿を務めていた彼女と分断されたのが悔やまれる。彼女かフローグ殿さえいれば、まだ別の選択肢もあったのだけれど……ね」


「……ですね」


「無慈悲で無能な男だと軽蔑してくれて構わないよ。そして安心してくれ。すべての責任は、精霊解放軍の司令官たるこの私が——」


「軽蔑など、できるわけがないでしょう? そして、第三次精霊解放遠征失敗の責任は、私たち全員にあると知りなさい」


「……すまない。そして、ありがとう」


 ランティスは、万感の思いを込めてカロンに謝罪と礼を述べた。それを聞いたカロンは「はい」と小さく頷いた後で、こう言葉を続ける。


「ランティス。希望岬は既に目と鼻の先です。そして、見たところ道中にはさほど危険な魔物はいません。先頭はあなた一人で大丈夫でしょう。今すぐに、この私を最後尾に配置するべきだと愚考しますが、あなたの考えを述べなさい」


「……そうだね。カロン、君はすぐに最後尾に――いや、待て! 何かくる!」


 こう叫びながら、視線を上に向けるランティス。それに釣られる形で、カロンもまた視線を上に向けた。


 二人の視線に飛び込んできたのは、魚影。本来空には存在しないはずの、全長三十メートルを超える、超巨大な魚影であった。


「あれは――トライデントフィッシュ!?」


「なぜトライデントフィッシュがこっちに、ミズガルズ大陸の奥地に向かって滑空してくるのですか!? お前が帰るべき海は、別方向だと知りなさい!」


 即座にその魚影がなんなのか見抜いたランティスとカロンが、こう叫びながら警戒を強めた。そして、それぞれが剣と戟とを構えたところで、あることに気づく。


「——ん?」


「——え?」


 なんと、精霊解放軍に向かって滑空してくるトライデントフィッシュには、上半分がなかったのだ。鳥の翼の如く左右に広げる胸鰭を境にして、そこから上が見事に切断されている。


 そして、彼らは見た。ソウルポイントで強化された動体視力で、確かに見た。


 かつて『なんの期待もしていない』と評した一人の無欲な少年が、両手に異形の剣を持ちながら、下半分だけとなったトライデントフィッシュの上に乗っている姿を。


 次いで気づく。その少年の相貌に、灼熱のように燃え上がる欲望と、鋼のように強固な決意が宿っていることに。

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