116・愛に飢えた女

 揚羽の手から離れた刀が高々と宙を舞うなか、実の姉妹が超至近距離を高速で擦れ違う。そして、甲高い金属音が余韻を残しながら消えるのと同時に、互いに全身の動きを止め、刀を振り抜いた姿勢のまま静止した。


 二人が不動無言で姿勢を維持すること約三秒。打ち上げられた刀が重力に従って落下し、禁園に突き刺さった次の瞬間——


「ぐ……!?」


 立羽の膝が折れた。苦痛の声を口から漏らしつつ左手を刀から離し、右脇腹へと運ぶ。


 激痛に顔を歪めながら、立羽は視線を背後に、刀こそ手放したものの、無傷のまま両の脚で大地を踏みしめる揚羽へと向けた。そんな揚羽の左手には、すれ違いの瞬間立羽の脇腹を抉り、あばらを砕いた漆塗りの鞘の姿がある。


「ふむ……どうやら余は、一つ思い違いをしていたらしい」


 揚羽は、手を離れた刀の代わりに鞘を両手で構えた後振り返り、左膝を地につけたまま立ち上がれない立羽、その少し後ろに向けて口を開く。


「思い……違い?」


「余は、戦技習得系スキルは野生に生きる理性なき獣どもに、手っ取り早く武器の使い方を覚えさせるために用意された、魔物のための武術であるとばかり思っていたのじゃが、実際に剣を交えてみて、その考えが間違いであったと気づかされた。姉上が振るう〔長剣〕スキルは、間違いなく人間が編み出した、人間のための武術である。もっとも、月読命流のような対魔物用の剣術ではなく、対人間を想定した武術であるようじゃがな」


「……」


「余には見える。姉上の背後に立ち力を貸す、一人の剣客の姿が。その者がどこの誰で、どのような理由と経緯で人類の敵たる魔物に己が武術を託したのか……ふむ、俄然興味が湧いた。ソウルポイントとは元来魔物だけのもの。そのソウルポイントで習得できる武術が、人間の武術であった。これは、いったい何を意味するのであろうな?」


「……ねぇ、揚羽? あなた……何を言っているの? あなたは今……何を見ているの?」


 全身を小刻みに震わせながら、立羽は小声で問いかける。だが、揚羽はそれに答えはしなかった。立羽の背後に立つという、彼女にだけ見える剣客とやらに向けて、惜しみのない賞賛の言葉を投げる。


「叶うなら、一人の武人としてそなたと直接言葉を交わし、剣を交えてみたかった。技術を魂に転写された人間越しですら伝わるその力量、剣に費やした時間。これほどの使い手ならば、そなたはさぞ名の知れた――」


「揚羽ぁあぁあぁ!!」


 有らん限りの怒声でもって妹の名を叫び、その言葉を遮る立羽。そして、痛みを怒りで抑え込むように立ち上がり、虚空を見つめる揚羽の視線に割り込むと、次のように言葉を続ける。


「そのどうでもいい考察を今すぐにやめなさい! 今あなたの前に立ち、剣を交えているのはこのわたくし、美月立羽よ! わたくしを見なさい! わたくしを無視することは許しません!」


 鬼気迫る様子で叫ぶ立羽に、揚羽は面喰った様子で二度ほど瞬きをした。次いで、悪戯を叱られた子供のように謝罪の言葉を口にする。


「む、確かに礼を失するおこないであったな。すまぬ、姉上。優れた武術を前にするとつい。余の悪い癖じゃな。改めるよう努力しよう。姉上は、いつも余の至らぬところを遠慮なく指摘し、叱咤してくれるな。本当に助かる」


「ま、またそうやって、あなたはわたくしのことを馬鹿に――」


「してなどおらぬよ。これは本心からの言葉である。姉上がいたからこそ、今の余があるのだ。姉上には感謝してもし足りぬよ」


 揚羽はこう言うと鞘を構え直し、正面から立羽と向き直った。直後、立羽は脇腹の痛みを堪えながら駆け出し、怪我をしているとは思えぬ速度で、上段から刀を振り下ろす。だが――


「それはさっき見たぞ?」


 揚羽はその神速の斬撃を余裕をもってかわし、追撃の切り上げも悠々と避けてみせた。立羽の表情が驚愕に染まる。


 これならどうだと視線で語りながら、無数の斬撃を見舞う立羽であったが、それすらも揚羽はあっさりとかわして見せた。それどころか、その斬撃の雨を掻い潜って立羽に肉薄し、攻めに転じる。


 鞘を右手だけで持ち、大きく振りかぶる揚羽。その斬撃を刀を盾にして防ごうとする立羽であったが——


「かは!?」


 その防御の隙間をすり抜けるように繰り出された、揚羽渾身の左貫手に右胸を貫かれる。


 揚羽の左貫手は、あばらとあばらの間を通り抜け、立羽の右肺を痛撃。立羽はたまらず肺の中の空気をすべて吐き出し、全身の動きを硬直させる。


 そんな立羽の左側頭部に向けて、揚羽は容赦なく右手の鞘を振るった。自由に動けない立羽は、その攻撃の直撃を受ける——


「くぅ!?」


 はずだったが、そこはサウザンドの身体能力。常人よりも遥かに速く硬直から回復した立羽は、すんでのところで揚羽の鞘をかわした。次いで、慌ててその場を飛び退き、間合いを開ける。


 冷や汗を浮かべながら揚羽を見つめ、呼吸を整えることに全力を注ぐ立羽。そんな彼女に向けて、揚羽は言う。


「ふむ、あれを避けるか。先の一撃で意識を刈り取り、戦いを終わらせるつもりであったのじゃがな」


「あ、揚羽……あなた、なぜ急に強く……」

 

「余が強くなったわけではない。ただ、姉上の動きを見切っているだけじゃ」


 間髪入れず返されたこの返答に、立羽は両目を見開いた。直後、そんなはずないとばかりに頭を振り、否定の言葉を口にする。


「で、でたらめよ! いくらあなたが天才でも、こんなに早く〔長剣〕スキルの、それもLv9の動きを見切れるはずがないわ!」


「そうでもない。余の戦技習得系スキルへの思い違いは、先ほど語った一点だけであり、それ以外は概ね予想通りであった。ソウルポイントで習得した戦技は、魂に直接転写されたもの。なれば、あらかじめ定められた型通り動作しかできぬのが道理。そして、余にはこの耳がある。兎の獣人の中でも、ずば抜けて優れたこの聴力がな」


「——っ」


「姉上や木ノ葉たちの耳は、他者の心音や呼吸音を聞き取るぐらいで精一杯であろうが、余の耳は関節の駆動音や、筋肉が伸縮する音すら聞き分ける。一度見聞きした攻撃ならば、その予備動作から次の動きを容易に先読みが可能じゃ。余が姉上の背後に見た剣客本人ならば、状況に応じて微妙な力加減や、太刀筋の変更もできようが、借り物の剣技ではそれができない。戦技習得系スキルの限界じゃな」


「この地獄耳!」


 立羽は揚羽の説明が終わると同時に駆け出し、再度刀を構えた。


 どうやら、異常聴覚による先読みを可能にする揚羽に対し、立羽は真正面から攻め続けることを選択したらしい。


 筋力でも、敏捷でも、持久力でも自身が上。まだ見せたことのない〔長剣〕スキルの剣技を連続で繰り出せば、身体能力で押し切れる。立羽はそう判断したようだ。


 揚羽が倒れるまで休むことなく刀を振り続ける。そう表情で語りながら、立羽が最初にくり出した剣技は——


「胴突きであろう?」


「っな!?」


 そう、立羽が選んだ攻撃は突き。それも、剣技の中でもっとも避け辛い技の一つとされる、胴突きであった。


 初見の剣技を繰り出される前に予見し、ほんの少し左前へと移動することで全身を刀の軌道の外へと移動させる揚羽。一方の立羽は、魂に刻まれ、未来永劫連れ添うことを余儀なくされた剣技そのままに、決して当たることのない胴突きを、虚空へと繰り出してしまう。


「初見の剣技を連続で繰り出せば押し切れると考えたのであろう? うむ。その判断は正しい。月読命流秘伝の呼吸法や歩法で誤魔化したところで、身体能力では余の方が下。すべての剣技を見聞きする前に、余は切り伏せられ、敗北するであろう。もっともそれは、相手が姉上でなければの話じゃがな」


「それはどういう意味よ!?」


 胴突きが終わった直後、そこからの派生技として用意されていた横薙ぎを繰り出す立羽であったが、揚羽はこれも先読みしていたらしく、すでに刀の間合いの外に身を置いていた。


 自身の前を刀が横切ると同時に揚羽は言う。


「〔長剣〕スキルであろうが、Lv9であろうが、余には次に姉上が何をするのかが手に取るようにわかる。姉上が持つ呼吸と間を熟知しておるからな」


「——っ」


「姉上も知っていようが、我ら武士は、相対する者が持つ呼吸と間を読むことで、次の行動を予測しながら動き、戦う。個々が有する呼吸と間。これらを完全に読み切り、相手の行動のすべてを掌握することを、俗に見切ると言うわけじゃが——余は、とうの昔に姉上の呼吸と間を見切っておる。月読命流と〔長剣〕スキル。その太刀筋の違いに面食らい、修正に手間取りこそしたが、それも終わった。もう当たらぬぞ。痛めたあばらを庇うために、戦闘選択肢が激減しているならなおさらな」


「あなた、そのために刀を捨ててまで、わたくしに手傷を!」


 こう口を動かしながら刀を振り続ける立羽であったが、やはり当たらない。常人相手ならばどれもが必殺、不可避であろう剣技。そのどれもが虚しく空を切る。


 見切ったという言葉が大言壮語でないと、これ以上ない方法で証明しながら、刀が避けられる度に自信と戦意を失っていく立羽に向かって、揚羽は言う。


「わたくしを見ろ――と、姉上は余にそう言ったな? 見ていたさ。幼少の頃から、ずっとずっと。美月城の庭で一心不乱に木刀を振るう姉上の姿をな。努力する姉上の姿が、飛び散る汗が、美しかったから憧れた。自分もそうなりたいから努力した。余に努力することの大切さを教えてくれたのは、他でもない姉上である!」


 刀ではなく、鞘でもない。自らの言葉を刃に変えて、揚羽は立羽を切りつけた。立羽の表情が悲痛に歪むが、揚羽はそれにかまわず矢継ぎ早に言葉を紡ぐ。


「そう、余は見ていた! だからわかる! 姉上の剣が、そして、気持ちがな! 名家の女性ならば誰もが背負う宿命から、禁忌である帝とのまぐあいから逃げたかったのであろう!? それは責めぬ! そんな資格余にはない! 余もそうであるからな! ああそうだ、逃げ出した! 将軍としての仕事を放り出し、城を無断で抜け出した!」


「や……い……」


「余は、ソウルポイントという僅かな希望にすがったのだ! 余は男になることを求め、姉上は男に助けを求めた! 形は違えど、切羽詰まると男に走るのは同じか! はは! やはり我らは姉妹だな! いや、これは女の性か!?」


「やめ……な……い……」


「余が男になることで、帝と青葉の負担を減らしたいと余は思った! 母上を皇后にし、心無い言葉から守りたいと考えた! そして、帝位継承権を手に入れ、次代の帝となった暁には——」


「やめなさい……」


「姉として愛し、先人として尊敬する姉上に、将軍職を継いでほしいと、願っていたのだがな」


「やめなさい!」


 こう叫ぶと共に、立羽は刀を振るうのをやめた。そして、小刻みに揺れる瞳で揚羽を見つめながら、今にも消え入りそうな声で力なく言葉を紡いでいく。


「信じない……信じないわ……あなたの言葉なんて……敵の言葉なんて信じない……揚羽はわたくしを……敵であるわたくしを動揺させようと嘘を言っているだけよ……そうよ……揚羽がわたくしを見るはずない……いつもいつもわたくしの邪魔をして……馬鹿にして……わたくしを愛していた? 将軍にしたかった? そんなはず……」


「姉上」


 名前を呼ばれた瞬間、立羽の両肩が何かに怯えるように飛び跳ねた。そんな立羽に向かって、揚羽は言う。


「我ら美月将軍家は、この耳で相対する者の鼓動を聞き、あるときは罪人の、またあるときは取引相手の嘘を見抜き、この国を守ってきた。どうだ? 姉上の耳に届く余の鼓動は、嘘を言っているか?」


「……あ……ああ……」


 決して防ぐことのできない、真実という言葉の刃が立羽を切り裂いた。


 揚羽の言葉に嘘はない。立羽にはそれがわかってしまう。どんなに心で否定したくても、自身の耳が、揚羽の鼓動が、嘘の可能性を否定する。


 目の前にいる揚羽との確執。成し遂げたいこと。カルマブディスへの恋慕。フヴェルゲルミル帝国の未来——様々な思いが立羽の中で交錯し、せめぎ合う。


 そして——


「ああああぁあぁあぁあぁあぁ!!」


 立羽の心が決壊した。自身の感情を制御できなくなり、涙を流しながら揚羽に切りかかる。


「わたくしの前から消えなさい!! 美月揚羽ぁあぁああぁあ!!」


 自らを惑わす者を排除するべく、決死の特攻を仕掛ける立羽。そんな立羽を前にして、揚羽も動く。そう、この姉妹の戦いに幕を下ろすために。


 相手の呼吸を読み。


 間を測り。


 視線を重ね。


 重心を見極め。


 足運びをから軌道を推測する。


 そして、両の手を動かし、相手の急所が必ず通過する場所に己の武器を——


「月読命流初伝・月鏡」


 ただ置いた。


「っが!?」


 揚羽の鞘の先端と、立羽の顎が、予定調和の様に激突。


 ソウルポイントで強化された身体能力。それをただ一点に集約する形で跳ね返した揚羽。立羽の顎は即座に砕け、痛々しい鈍い音が禁園に響き渡る。


 人体急所である顎が砕かれ、脳を揺すられた立羽は、力なく地面に崩れ落ちた。が、確かに生きている。もし揚羽が先ほどの返し技を鞘でなく真剣で繰り出していたら、立羽は死んでいただろう。一命を取りとめたとしても、一生消えない傷が顔に残ったに違いない。


「つきかかみ……こんな……しょほのわさに……やられる……なんて……」


 朦朧とする意識と砕けた顎で、立羽は途切れ途切れに言葉を紡ぐ。そんな立羽に向かって、揚羽は昔を懐かしむように語りかけた。


「姉上、覚えておるか? この技は、木刀を握ったばかりの幼い余に、姉上が教えてくれた技であるぞ? そして、皆伝となった今でも多用する、余の得意技でもある」


「あ……」


「思い出したか? ならば、これも思い出してほしい。姉上はいったい、なんのためにこの国を変えたいと願い、努力していたのかを……」


 揚羽のこの嘆願に、立羽は「いや、聞きたくない」とばかりに首を振る。そして、助けを求めるように手を伸ばしながら、想い人の名を口にした。


「かるま……さま……たしゅけ……て……」


 この言葉に対する、狩夜と戦闘中のカルマブディスからの返答は——


「役立たずが!!」


 という、心無い非情なものだった。


「あ……」


 これが最後の一押しになったのか、立羽は意識を手放す。信じていた者に見捨てられた実の姉を見下ろしながら、揚羽は悲し気に口を動かした。


「股を開き、舌を伸ばすだけで手に入る女の幸せなど、所詮この程度か……今は眠れ、美月立羽。愛に飢えるあまりに狂ってしまった哀れな女よ。そなたへの罰は、すべてが終わった後に帝が決めてくれるであろうさ」


 揚羽はこう言った後で身を翻し、カルマブディスと戦う狩夜へと目を向けた。次いで言う。


「さて、こちらは片づいたが、余の愛しい旦那様の方はどうか?」

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