097・蓮食い人

「大変ですぞぉ……大変ですぞぉ……公方様の逐電が立羽様のお耳に入れば、お小言一つでは済まないのです……なんとしても穏便に帰っていただかなければ……」


 自分にしか聞こえない声量でこう呟きながら、峰子は木造の廊下の上を足早に進んだ。そして、とある部屋の前で足を止める。


 呼吸を落ち着けるように大きく深呼吸し、次いで正座する峰子。数秒の間を空けてから、真剣な表情で口を開く。


「大熊峰子なのです。立羽様、入ってもよろしいですか?」


「ええ、いいわよ。入りなさい」


 入室の許可を貰った後、峰子は座ったまま「失礼します」と丁寧に襖を開け、非の打ち所のない、お手本のような礼儀作法で客間へと入室。次いで、客間の座布団の上で正座する、一人の美女へと体ごと向き直った。


 美月立羽。


 美月家の長女、つまりは現将軍・美月揚羽の姉にあたる人物である。


 歳は十代後半。髪は光すら吸い込みそうな漆黒であり、腰にまで届くストレートロング。常人より大きな黒目を宿した双眸と、その少し上で切り揃えられた前髪、そして、頭上に存在する大きなうさ耳が印象的な女性である。


 豊かでも貧相でもない均整の取れた体を、黒を基調とした彼岸花柄の和服で包んでおり、座布団の上で正座し、ピンと背筋を伸ばすその姿は、思わずぞっとするほどに美しい。


 どことなく不吉な印象を醸し出す彼女は、客間の入口で硬い表情をしている峰子へと視線を向け、微笑を浮かべながら口を動かした。


「久しぶりね、峰子。わたくしが禁中に居を移して以来かしら? 息災だった?」


「もちろんなのですぞ。公方様の傅役たる小生が、怪我や病気で寝込んでいる暇などないのです。立羽様もお変わりないようで」


「ええ、こちらは何不自由なく」


「それは何よりなのです。して、此度の突然の訪問、いったい公方様にどのようなご用事で?」


「あら? この美月城はわたくしの生家でもあるのよ? 理由がなければ帰ってきてはいけないの? 母と、可愛い妹たちの顔を見に来たでは駄目なのかしら?」


「そ、そのようなことはないのです! 小生はただ、先触れの一つでも出してくだされば、立羽様に相応しい上等な茶菓子の一つでも――と!」


 わたわたと両手を動かし、無駄に長い袖を振り回す峰子。そんな峰子を見つめながら、立羽はクスクスと笑う。


「ごめんなさいね、少し意地悪な返しだったわ。それに、茶菓子なら不要よ。こうして持参してきたから」


 峰子から視線を外し、自身の小脇に置かれた高級感溢れる木箱へと両手を伸ばす立羽。次いで、丁寧にその木箱の蓋を開ける。


 木箱の中には、和紙によく似た厚紙で封のされた、陶器製の小瓶が整然と並べられていた。立羽はその小瓶の一つを持ち上げ、客間の中央に鎮座する座卓の上へと運ぶ。


「蓮の実の甘露煮よ。今日はこれを届けに来たの」


「甘露煮……これを公方様に?」


「ええ。好きでしょ、あの子。とっても美味しい甘露煮がたくさん手に入ったから、この国のために日夜激務に励むあの子を、姉として労おうと思ってね。先触れを出さなかったことは謝るわ。驚かせてごめんなさい。でも、気を使わせるような用事でもないと思ったから」


「……なるほど」


「それで、揚羽は? いるのでしょう? せっかくだから、少し話をしたいのだけれど」


「それが、その……大変申し上げにくいのですが、現在公方様は、さる要人のお相手を務めており、しばらく手が離せないのです。私用に時間を割く余裕はないかと」


 嘘ではないが真実でもない。そんな巧みな言い回しで、揚羽の不在を隠しつつ、立羽に会えないことを伝える峰子。すると、立羽は右手を頬に当てながら首を傾げ、こう口を動かす。


「あら、そうなの。残念ね……」


「申し訳ないのです。この甘露煮は、小生が責任を持って公方様にお渡しいたしますので――」


ぐぅううぅ。


「「……」」


 喋ってないで飯よこせ。そう言いたげに峰子の言葉を遮り、再度空腹を訴える腹の虫。時と場所をわきまえない自身の食欲に、峰子は顔を真っ赤にし、その小さい体を小刻みに震わせた。


 そんな峰子を見つめながら、立羽は笑顔で言う。


「あらあら。峰子は随分とお腹が減っているみたいね。こっちにいらっしゃいな。甘露煮、あなたも好きでしょう?」


「い、いえ、小生は大丈夫なのです。それに、それは立羽さまが公方様のためにとお持ちした――」


 ぐぅううぅ。


「あぅうう!?」


「ふふ、お腹は正直ね。大丈夫よ、あの子だけでなく、城の皆に食べてもらいたくて、たくさん持ってきたから。もちろん、あなたの分もあるわよ」


 こう言いながら「おいで、おいで」と手招きし、近くに来るよう促す立羽。しばらく葛藤していた様子の峰子であったが、最終的には食欲と空腹に屈したらしく、顔を赤くしたまま客間の中央へと歩を進める。


 峰子が座布団の上で正座するのを見計らい、立羽が動いた。甘露煮が入っているという小瓶を、座卓を挟んで向かい合う峰子の前へと運ぶ。


「さ、召し上がれ」


「い、いただくのです」


 小さくを頭を下げてから、小瓶の封を外す峰子。瞬間、とんでもなく甘い香りが美月城の客間を包む。


 自然と湧き出てきた大量の唾液を音を立てて飲み下しながら、峰子は小瓶の中を覗き込んだ。


 中身は――なるほど、確かに蓮の実の甘露煮である。エーリヴァーガルの国民ならば、毎年一度は口にするであろう縁起物が、小瓶の中にぎっしりと詰まっていた。


 笑顔の立羽に見守られながら、峰子はその一つを右手で摘まみ上げ、口の中へと放り込む。


 次の瞬間――


「ふぉおおぉお!」


 峰子は目を見開き、至福の声を上げた。次いで、立羽と甘露煮を交互に見つめながら口を動かす。


「た、たたた立羽様! これは、この甘露煮は――!」


「美味しかった?」


「はい、とても! 香りからして相当な品だとは予想しておりましたが、まさかこれほどとは思わなかったのです! 小生が今まで口にしてきたすべての甘露煮が、一瞬で過去のものになってしまったのですぞ!」


 一つ、二つ、三つと、甘露煮を次々に口の中に放り込みながら口を動かす峰子。礼儀作法を忘れたかのようなその振る舞いを、立羽は変わらぬ笑顔で見つめ続けた。


「気に入ってくれたようでよかったわ」


「立羽様、これほどまでに美味な甘露煮、いったいどこで手に入れたのです!? 売っている場所を、ぜひとも小生に教えてほしいのですぞ!」


「ごめんなさい。それ、売り物じゃないのよ。ある方からのもらい物でね。あなたも知っているでしょう? ほら、禁中で侍医じい長を務める――」


「ああ! カルマブディス・ロートパゴイ殿ですな! あの方がこれを!?」


「そうなの。ご自身で品種改良された、特別な蓮の実を使ってるんですって」


「それはすごいのです! 医学だけでなく、植物の品種改良にまで精通しているとは! ロートパゴイ殿は、実に多才な御仁でありますな!」


「ええ、わたくしもそう思うわ。心の底から――ね」


 立羽はここで会話を区切ると、甘露煮の瓶がいくつも入った木箱を両手で抱えて立ち上がった。次いで、客間の出入り口の一つ、峰子が入ってきた襖の方へと歩を進める。


「立羽様? どちらへ?」


「さっきも言ったでしょう? わたくしは、この甘露煮を城の皆に食べてほしいの。この素晴らしい味を、皆で共有したいのよ。ほら、美味しいものは大勢で食べた方がより美味しいでしょう? だから、今から配りにいくのよ」


「なるほど、素晴らしいお考えですな。これほどの甘露煮なら、誰もが大喜び間違いなしなのですぞ」


「ええ、きっとそう。だから――」


 立羽は、夢中になって甘露煮を食べ続ける峰子を、先ほどからまったく変わらぬ笑顔で見下ろし、確認を取るかのようにこう尋ねる。


「揚羽にも、届けにいっていいわよね?」


「もちろんなのですぞ。いってらっしゃいませ、立羽様」


 峰子は、揚羽に会いにいくと言う立羽に対し、あっさりと了承の言葉を返した。そして、クスクスと笑いながら部屋を後にする立羽の方など見ようともせず、ただただその甘露煮を――特別だという蓮の実を食べ続ける。


 己が使命を忘れて、蓮の実の味に酔いしれる峰子。その顔には、浮世のすべてを忘れたかのような、恍惚の表情が張りついていた。

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