083・赤目の白猫
世界樹から北北西に向かって流れるフヴェルゲルミル川は、スヴァル、フィヨルム、ユルグといった、帝国国内に点在する十一の水源を束ね、同じ名前を持つフヴェルゲルミルの泉に流れ込んだ後、終点である海に向かって流れていく。
グンスラーの村は、そんな十一の水源の一つであり、村と同じ名前を持つグンスラーの泉を中心に造られ、発展していった農村だ。なので、フヴェルゲルミル川と、そこに流れ込む支流の一つを遡れば、安全地帯である水辺を一度も離れることなく、グンスラーへと辿り着くことができる。
グンスラーに限らず、ユグドラシル大陸に存在する主要都市、及び村々は、その全てが水源を中心にして造られるので、基本的には水辺を一度も離れることなく行き来することが可能だ。
国家間を行き来する場合でもそう。三大河川を下って海に出た後、海岸沿いに歩いて行けば、やがて別の三大河川に辿り着ける。そこから川をさかのぼれば、水辺を離れることなく、別の国のどの町にだっていけるのが道理だ。
よって、陸上での行動が著しく制限される水の民であったとしても、浅瀬で伴う労力さえ度外視すれば、絶対にいけない町や村は、ユグドラシル大陸には存在しない。
そして当然、サウザンドの開拓者であり、レイラによる多種多様な移動手段を有する狩夜ならば、町から町へと移動する際、川沿いを歩くなどという迂遠なことをする必要はない。陸路であれ、空路であれ、
今回狩夜が選択した移動手段は、舟。つまりは舟路を使っての旅路となる。理由は、フヴェルゲルミル帝国で開拓者としての活動を開始するにあたり、安全地帯である水辺の地形を、あるていど把握しておきたかったからだ。
フヴェルゲルミルの泉の大半がセイクリッド・ロータスに覆われているため、エーリヴァーガルから舟に乗っても河川に出ることはできない。しかたなく表門を通ってエーリヴァーガルを後にした狩夜は、顔を真っ赤に染め――
「煩悩退散、煩悩退散、色即是空、色即是空!」
と、何かを振り払うかのようにお馴染みの四文字熟語を叫びながら、レイラを頭上にのせつつ激走し、舟の出せそうな場所を探していた。
なぜ狩夜がこのような状況に陥っているのかというと、帝都から出発する際に、表門でひと悶着あったからである。
一刻も早く帝都を離れるため、里見たちと別れた後、寄り道を一切せずに表門へと向かった狩夜。そんな狩夜が足早に表門をくぐろうとすると、昨日呼び止められたビキニアーマーの門番二人組に再度呼び止められ――
「おはようございます。ゆうべはお楽しみでしたね」
「ねぇ君、昨日は何人の女の体を開拓したの?」
と、からかわれた後、
「満月の夜を過ごした男は、たとえ開拓者であっても帝都から出るときにちょっとした手続きがあるの。理由は――わかるでしょ?」
と、言葉巧みに誘導され、門番用の詰所に連れ込まれたのである。
そしてそこには、門番の交代にきたであろう初見の闇の民二人がいて、四人がかりで狩夜のことを――
「って、何思い出してるんだ僕はぁ!? 忘れろ叉鬼狩夜! 今日表門であったことを、可及的速やかに記憶から消去しろぉ!」
狩夜、走りながら再度絶叫。
大人の階段を三段飛ばしで上る前に、なんとか無事に逃げ果せることができたが、闇の民の色香にあてられた狩夜の内側には、淫靡な熱が残ったままである。その熱を口から発散するかのごとく、狩夜は叫び続けた。
「まったくもう、まったくもう! まったくもうだよまったくもう!」
照れ隠しであるこの言葉に意味はなく、強い興奮と苛立ち、そして、僅かな未練を感じさせた。頭上のレイラが「少し落ち着きなよ~」と、窘めるように狩夜の頭をペシペシと叩くが、狩夜は取り合おうともしない。
この体に渦巻く熱をエネルギーに変え、物理的かつ合法的にぶつけられる相手はいないのか――と、狩夜は走りながら顔を動かし、フヴェルゲルミルの泉の南西部に広がる草原へと視線を向けた。次いで、血走った目で
そして、狩夜は見つけた。
ソレを見た。
「――っ!?」
見つけると同時に狩夜の足と口の動きがピタリと止まり、頭を埋め尽くしていた桃色の思考と、体の内側に渦巻いていた熱が、あますことなく消し飛んだ。
目が離せない。体が動かない。一瞬、だが確実に、叉鬼狩夜の時が停止した。
それほどまでに、ソレは――彼女は、暴力的なまでに美しかったのである。
「さあ、おいで。怖くない、怖くないよ」
比喩でもなんでもなく、文字通り雪のように白い肌。その肌に負けず劣らず白く美しい長髪は、最高級の反物の如く編み上げられており、彼女の後頭部で半球状になっている。やや釣り目がちの双眸は、一切の曇りのない真紅であり、紅玉と見紛うほどの輝きを周囲に放っていた。
上半身に纏う着物は白を基調としたもので、所々に金糸での刺繍が施されており、可憐かつ優美。下半身に纏う袴は紺を基調としたもので、丈はごく普通。足首までしっかり隠れている――のだが、腰の左右が大胆に露出しており、下着の結び目が丸見えであった。
歳は、狩夜と同じか少し上。おそらく十四か十五だろう。だが、その体は年齢的に不相応な起伏に富んでいる。体型をごまかしやすいことに定評のある和服をして、彼女の胸部が持つ爆発力を抑えることが、まったくもってできていない。
ウルズ王国の花たるイルティナや、世界樹の女神であるスクルドやウルドに勝るとも劣らない絶世の美貌。掛け値なしの美少女が、突然目の前に現れた。
そんな美少女の頭上、編み上げられた髪の隙間から、窮屈げに顔を出す猫の耳を見つめながら、狩夜は胸中で呟く。
――アルビノなのかな?
白い肌と髪、真紅の双眸から推察するに、彼女がアルビノ――先天性色素欠乏症なのはまず間違いない。
アルビノは、劣性遺伝や突然変異によって発現する。広く動物全般に見られ、白兎や白蛇が有名だ。狩夜も彼女を初めて見たときは、その白い肌と髪、真紅の瞳から、真っ先に白兎を連想したのだが、どうやら彼女は兎ではなく、猫の獣人であるらしい。
まあ、兎の獣人は月の民の中で特別であり、最も神聖視される存在だ。具体例を挙げると、現帝や、将軍家たる美月家の人間が兎の獣人である。そのため、ここイスミンスールでは、うさ耳は水戸黄門の印籠のような扱いであり、無礼討されたくなければ、目にした瞬間「ははー」と平伏するのが身のためなのだそうだ。
そんな兎の獣人が、お供も連れずにこんな場所にいるはずがない。ならば、やはり彼女は猫の獣人なのだろう。
だが、将軍家ほどではないにしても、彼女が名家の生まれなのは一目瞭然である。勇者の血を少しでも多く受け継ぐ名家の者は、男子を産むために積極的に近親交配をしているらしいので、彼女のような者が生まれることもままあるのだろう。
「ほら、大丈夫。怖くない。余の――じゃなくて、ボクの盟友になってくれないか? 君とボクとで手を取り合い、この鳥籠のような世界から飛び出そう」
白猫の美少女は、そう言いながら眼前の魔物――ラビスタに向けて、ゆっくりと手を伸ばす。どうやらテイムを試みているようだ。
あの儚げな容姿で開拓者志望なのか!? と、狩夜は驚き、固唾を飲んでことの成りゆきを見守った。そんな狩夜の視線の先で、白猫の美少女が更に一歩、ラビスタとの距離を詰める。
その、次の瞬間――
「――っ!」
ラビスタが大きく口を開き、鋭い前歯を光らせながら、殺意を持って白猫の美少女に襲いかかった。テイム失敗である。
危ない! 狩夜はそう胸中で叫びながら、右手をマタギ鉈へと伸ばした。そして、白猫の美少女を魔物から救うべく、全力で地面を蹴ろうとして――やめた。他でもない、助けようとした白猫の美少女本人に、度胆を抜かれる方法で出鼻を挫かれたからである。
「むぅ、また失敗か」
落胆こそ感じるものの、恐怖や焦燥の類は一切感じない落ち着き払った声でこう呟いた後、白猫の美少女は腰に下げていた木刀へと無造作に手を伸ばし、飛び掛かってきたラビスタ目掛け、居合切りのような動作で一閃。
木刀は、寒気を覚えるほどに美しい、三日月のような軌跡を描きながら、吸い込まれるようにラビスタの体にめり込み、無遠慮、かつ無慈悲に振り抜かれる。
これが先ほどまで優しい声色で語りかけていた相手にすることか!? と、そう思わずにはいられない一撃を、あろうことかカウンターで食らったラビスタは、当然即死。力無く地面を転がり、脳漿と内臓を地面にぶちまけるという惨たらしい死に様を晒して、その生涯に幕を下ろす。
――嘘でしょぉぉおぉぉおぉ!?
自身の視界の中で繰り広げられた、信じがたい(というか信じたくない)光景に、狩夜は口をあんぐりと開け、声なき声を上げる。
あんな儚げな美少女が、触れた瞬間雪のように溶けてしまいそうな女の子が、サウザンドの開拓者である狩夜から見ても『神速かつ神業』と称するしかない速度と動作でもって木刀を振るい、ラビスタを一撃の元に惨殺するなど、いったい誰が想像できようか?
確かなのは、あの白猫の美少女は、見た目通りの
ソウルポイントと引き換えに手に入れた、〔長剣〕スキルではない。天賦の才を持つものが、その才の上に胡坐をかかず、血のにじむような努力を日々積み重ねることでのみ到達できる場所、武の極地を垣間見た。
凡人・叉鬼狩夜が持っていない、才能という輝きを、まざまざと見せつけられた。
あまりに予想外の事態に動揺し、再度硬直する狩夜。そんな狩夜の視線の先で「やっぱり水辺じゃ埒があかないな。追っ手のこともあるし、もう少し奥にいってみよう」と、白猫の美少女は呟き、次なる魔物の姿を探して、草原の向こう側に広がる森の方へと歩を進める。
ほどなくして、絶世の美貌を持つ彼女は森の木々にまぎれ、狩夜の視界からその姿を消した。
「知っていたけど再確認……この世界の女の子は、やっぱり見かけで判断しちゃだめだ……」
白猫の美少女が見えなくなると同時に体の自由を取り戻した狩夜は、口の中にたまりにたまった生唾を、音を立てて飲み下しながら言う。次いで頭を左右に振り、気を取り直して舟の出せそうな場所を探し始めた。
もう無意味に走ったり、叫んだりはしない。体の内に溜まった淫靡なる熱は、白猫の美少女が纏う神秘的な雰囲気にあますことなく浄化されており、その残滓すら感じはしない。すっかりいつも通りの狩夜である。
「それにしても、もの凄く奇麗だったな、さっきの人……でも、現将軍の美月揚羽様はあれ以上の美人なんだよね? ちょっと信じられない……かな」
狩夜は、別れ際に右京、左京から聞いた『絵にも書けない美しさ』『フヴェルゲルミル帝国では間違いなく一番』という、現将軍についての情報を思い出しながら、小声で呟く。
先ほどの白猫の美少女も、十分以上に絵にも書けない美しさだった。あれ以上の美貌となると――正直、狩夜の貧しい想像力では、その輪郭どころか影すら見えてこない。
白猫の美少女と、現将軍・美月揚羽。どちらがより美人なのかは、将軍本人を直接目視して、見比べてみないことには判断のしょうがないだろう。
もっとも――
「僕と将軍様が出会うことなんて、まずないだろうけどね」
この言葉を最後に、狩夜は口を動かすのをやめた。
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