076・欲望と快楽の国

「ん、見えてきたね」


 空路での移動を続けて数時間。空が茜色に染まり、太陽が山の影に半分ほど隠れた頃、狩夜はそう呟いた。


 狩夜の眼下には、ユグドラシル大陸三大泉の一つ、フヴェルゲルミルの泉が広がっている。


 フヴェルゲルミルの泉。ウルズの泉と同じく、泉とは名ばかりの巨大な湖であり、貯水量は三大泉の中で最も少なく、水質も最も悪いとされている。だがその一方で、ユグドラシル大陸において最も豊富な水産資源を有した場所でもある。


 多種多様な淡水魚と、水棲動植物が棲息しており、【厄災】によって故郷を追われ、この地に行き着いた月の民と闇の民、双方の命を数千年もの間繋いできた。


 その中でも特に有名なのが、神の供物と称される植物。【セイクリッド・ロータス】である。


 帝国国民の主食だというそれを――食べるのがもったいないほどに美しい水棲植物の群生地を見下ろしながら、狩夜は脳内植物図鑑からロータス、つまりは蓮についての情報を引っ張り出す。


 蓮。


 ヤマモガシ目ハス科に属する植物の総称。


 清らかさや聖性の象徴として称えられることが多く、ヒンドゥー教、仏教と密接な関係があり、インド、スリランカ、ベトナムでは国花として指定されている。


 世界各地で食用、薬用、観賞用として湿地で栽培されており、日本の食卓でもお馴染みの蓮根――地下茎だけでなく、葉、茎、種子は調理次第で食用になり、芽は茶外茶ちゃがいちゃとして、花は花茶はなちゃとして飲用される。


 要約すると、食べようと思えばどこであろうと食べることができる、神聖でありがたい植物。それが蓮という植物なのだ。


 それはセイクリッド・ロータスも同様であり、どこであろうと調理次第で美味しく食べることができるという。


 繁殖力は非常に強く、広大なフヴェルゲルミルの泉、そのおおよそ七割を覆い尽くしている。帝国国民の主食であるそれを効率よく収穫するため、フヴェルゲルミルの泉の上には、至る所に木道がかけられていた。そして、その木道が集約する場所に、その都はある。


「あれが、帝都エーリヴァーガルか」


 当面の活動拠点になるであろう、月と闇の都。その姿を、狩夜は真剣に観察する。


 魔物からの襲撃を最小限にするため、人工島の上に築かれた水上都市という点ではウルザブルンと同様だが、こちらは円形ではなく長方形。陸地と繋がる表門と、帝が住んでいる禁裏とを真っ直ぐにつなぐ大通りを中心に、大小の道が碁盤目状に走り、日本家屋によく似た家々がずらりと立ち並んでいる。


 水上平安京とでも表現すればわかりやすいだろうか。整然とした道路と、一切の無駄を省いた区画整備が、見る者の目を楽しませる。


「仙人でも住んでそう」


 蓮の花に囲まれた、幻想的な水上都市。それを見下ろしながら狩夜は言う。次いで、背中の相棒に向けてこう指示を出した。


「レイラ、降下しよう。着地よろしく」


「……(コクコク)」


 狩夜の言葉に頷くや否や、レイラは背中のプロペラと、頭上の綿毛を体内に収納する。直後、狩夜の体が重力に従って降下を始めた。


 みるみる近づいて来る地面。そして、あと数秒で激突というところでレイラが蔓を伸ばし、その蔓を地面に対して垂直に突き立てる。


 蔓を操作しつつ体内に収納し、降下速度を徐々に落としていくレイラ。最終的には、階段を下るときよりも少ない衝撃で、狩夜の両脚を地面につけてみせた。


「お見事」


 日進月歩する相棒の蔓さばきを素直に賞賛しつつ、狩夜はエーリヴァーガルに向けて歩きだす。一方のレイラは、すべての蔓を体内に収納し、デフォルト状態に戻った後、狩夜の背中から頭上へと移動を開始した。


 町中や表門の目の前に着地しては騒ぎになると思い、少し離れた場所に降り立った狩夜たち。木道を通って蓮の群生地の中を歩くというのにも心惹かれたが、今日のところは表門から入ることにした。フヴェルゲルミルの泉を右手に、岸に沿って黙々と歩く。


 ほどなくして、帝都の表門と陸地とを繋ぐ、木橋の前へと到着する。


 橋の構造は、橋脚きょうきゃく橋桁はしげたを載せてあるだけという、地球でいうところの流れ橋に近いものであった。だが、これは増水対策ではなく魔物対策だろう。有事の際、橋を崩して魔物が帝都へ侵入することを阻むため、このような造りになっているに違いない。


 橋の検分を終え、今度は表門だ――と、視線を前に向ける狩夜。だが、次の瞬間「ぶ!?」っと、口から空気を噴き出し、みるみるその頬を紅潮させる。


 羅城門を彷彿させる赤塗の立派な門。その門を守る門番二人が、闇の民の女性であり、あろうことか水着同然の皮鎧――いわゆるビキニアーマーで武装していたからである。


 その鎧、着ている意味あるの!? と、心の中で突っ込みを入れつつ「目に毒、目に毒」と頭を振る狩夜。しかし、今更引き返すわけにもいかず、なるべく門番を見ないよう意識しながら、足を前へと動かした。


 そして、木橋を渡り切ったところで、次のように声をかけられる。


「そこな光の民、止まりなさい」


「帝都エーリヴァーガルに何用か? 中に入りたいのなら、通行証を提示なさい。今日は満月、許可のない他種族の男は――」


「これでいいですか?」


 狩夜は早くこの場から立ち去りたい一心で、門番の言葉を途中で遮り、世界樹を模したマークが焼印された木製のカード、開拓者の証であるギルドカードを提示した。


 開拓者は、村、町、砦、関所等に自由に出入りでき、その際に発生する通行料が全面的に免除される。エーリヴァーガルにも問題なく入れるはずだ。


「ふむ、開拓者か。ちなみに階級は?」


「サウザンドです」


「それは素晴らしい。ささ、どうぞ中へ」


 この言葉を聞くと同時に足を動かし、表門をそそくさと通り抜ける狩夜。ここでも極力門番を見ないよう意識して行動する。


 それゆえに、狩夜は気づくことができなかった。自身を見下ろす門番二人が、大好物を目の前にしたかのような恍惚の表情で、舌なめずりをしていたことに。


「ようこそ、月と闇の都、エーリヴァーガルへ」


「我々は君という開拓者を、強き男を心から歓迎しよう」


 歓迎の言葉に振り返ることもなく、狩夜は夕暮れゆえに人通りの少なくなった大通りを、足早に進んでいった。そんな狩夜の背中を――否、下半身を見つめながら、門番二人は再度舌なめずり。狩夜の未成熟な体を一通り視姦した後で、名残惜しげに踵を返し、視線を帝都の外へと向けるのであった。


 一方の狩夜はと言うと――


「ぶはぁ! 緊張したぁ!」


 門番二人の視線が自身の背中から外れると同時に、盛大に息を吐いていた。次いで、こう言葉を続ける。


「露出過多な女性を前にすると、どうしても緊張しちゃうんだよなぁ……こればっかりは慣れる気がしない……慣れたら慣れたで、人間としてどうなんだって気もするけど……」


 額に浮かんだ汗を服の袖で拭った後、狩夜は歩きながら首を左右に振り、今夜泊まる場所を、気に入れば長期滞在することになる宿屋を探す。


 そして、それはすぐに見つかった。名前は『猫の額』。


 看板を見るに、どうやら猫系の月の民が経営している、美味しい魚料理を売りにした宿屋のようだ。


「魚か。いいね!」


 イスミンスールにきて以降、魚が一匹も生息していないウルズ川水系周辺で活動してきた狩夜。必然、魚料理は一カ月以上口にしていない。


 懐かしき魚の味を思い浮かべるだけで、自然と足が動いた。狩夜は『猫の額』の入口に向かい、迷うことなくその引き戸を開ける。


「いらっしゃいまし~」


 中に入ると同時に、割烹着を着た三十歳前後の女将が狩夜を出迎えた。黒髪を簪でまとめた気品を感じさせる美人さんで、頭から飛び出た大きな猫耳が可愛らしい。


「あらまあ、魔物連れ。開拓者様ですね。お泊りですか? お食事ですか?」


「泊まりなんですが――あの、お部屋は?」


「空いていますとも。ぜひぜひ泊まっていってくださいまし。本日の宿泊客はお客様一人だけ、従業員総出で歓迎いたします」


「あ、そうなんですか?」


「はい。精霊解放遠征が始まって、腕利きの開拓者様が皆出払っておりますでしょう? なので宿泊客が減ってしまって」


「ああ、なるほど」


「今夜、当『猫の額』はお客様の貸し切りです。ご自分の家にいるとでも思って、おくつろぎくださいまし」


「貸し切りですか。なんだかお大尽にでもなった気分ですね」


「まあ。うふふ」


 冗談交じりに口にした狩夜の言葉に、女将が上品に微笑む。次いで、メニューを尋ねるような気軽さで、こう言葉を続けた。


「では、お大尽様。さっそく今晩の伽の順番を決めましょう」


「あ、はい。わかりま――って、今なんて言いました?」


 聞き間違いだよね? と言いたげな顔で首を傾げる狩夜。そんな狩夜を無視して、女将は「あちらをご覧ください」と、宿の奥を見るよう促してくる。


 促されるままに視線を動かすと、女将によく似た猫耳の女の子が、いつの間にか五人も立っていた。


 全員が熱に浮かされたような顔で、とろけた視線を狩夜に向けている。熱い吐息を口から漏らしながら、ソワソワと体を揺すっていた。


「私の娘たちです。先ほども言いましたが、今晩はお客様の貸し切り。従業員総出でご奉仕させていただきます」


「あ、あの……悪い冗談はやめ……」


「もちろん、従業員の中には私も含まれます。八人産んだ体ではありますが、まだまだ現役。今夜、お客様が九人目を――」


「すみません! 間違えました!」


 女将が言い終えるのを待たず、脱兎のごとく駆け出す狩夜。『猫の額』から飛び出し、大通りを禁裏方面に向かってひた走る。


 十数秒後、ここまでくれば大丈夫だろう――と、狩夜はエーリヴァーガルのほぼ中心で足を止める。次いで、荒れた息を整えながら、頭上の相棒に言い訳をするかのごとく、こう呟く。


「はぁ……はぁ……まったくもう……そういうお店なら、そういうお店らしい看板を立てといてよね……って言うか、表門のすぐそばにあんなお店があっていいの? この国のモラルはどうなっているんだ?」


 狩夜は気を取り直し、再度周囲を見回した。今夜泊まる場所を、気に入れば長期滞在することにもなる、宿屋を探す。


 ほどなくして、それは見つかった。名前は『狐の御宿』。


 看板を入念に確認したところ、どうやら狐系の月の民が経営している、美味しい豆腐料理を売りにした宿屋のようだ。


「豆腐か。いいね!」


 懐かしき豆腐の味を頭の中で思い浮かべると、それだけで自然と足が動いた。狩夜は『狐の御宿』の入口に向かい、迷うことなくその引き戸を開け――


「すみません、間違えました!」


 即座に閉めた。そして駆け出した。さっきよりも酷かった。


「だから! そういうお店なら、そういうお店らしい看板を立てといてよ!」


 扉を開けるなり目に飛び込んできた、とんでもない光景を頭の中から消去するべく、適当な壁を見繕って頭突き見舞う狩夜。そして、自身をゴミを見る様な目で見ている(ような気がする)相棒に向けて、こう叫んだ。


「見るなレイラ! そんな目で僕を見ないでくれ!」


「……!?」


「なんのこと!? って言うか、なんで狩夜はそんなことしてるの~!?」と言いたげな顔で、狩夜に頭突きをやめるよう、身振り手振りで懸命に訴えるレイラ。そんな相棒を無視し、狩夜は物言わぬ壁に対して「煩悩退散! 煩悩退散!」と頭突きを継続する。そして、ソウルポイントで強化された額がようやく割れ、少量の血が流れると同時に、その動きを止めた。


「こ、今度こそ、まともな宿屋を探さなきゃ……」


 このままでは野宿になってしまう――と、額の治療をレイラに任せ、次なる宿屋を探すべく歩きだそうとする狩夜。が、そこであることに気づき、足を止める。


 いつの間にか、太陽は完全に沈み、辺りは夜になっていた。そして、エーリヴァーガルを包む空気の質が、日没前とは明らかに異なっている。


「いったい何が……」


 狩夜がこう呟いた次の瞬間、人間の壁を二度破り、常人より遥かに強化された狩夜の聴覚が、自身に向かって徐々に近づいてくる夥しい数の足音と、その足音の主が漏らしたと思しき複数の独白を拾い上げた。


「雄の匂いがする……」


「雄の声が聞こえる……」


「こっち……こっちに人間の雄がいる……間違いない……」


「お願い……助けてぇ……この火照った体を沈めてぇ……」


 熱に浮かされたような女性の声と、熱い吐息。平時であるならば、男の本能を刺激して、原初の衝動を呼び起こすはずのそれらに対し、狩夜はなぜか戦慄し、全身を小刻みに震わせた。


 猛獣ひしめく檻の中に、自分一人閉じ込められたかのような閉塞感がする。


 ソウルポイントで強くなったはずの自身が、脆弱な小動物にでもなったかのよう無力感がする。


 狩夜は確信した。自分は、知らず知らずのうちに虎口に飛び込んだ。間違いなく狩られる側に立っている。


 そして、


 そして。


 そして――


「みぃつけたぁ♡」


 自身を、叉鬼狩夜という人間を、子孫繁栄のための道具、快楽を得るための肉人形としか見ていない、雌の欲望ただ一色に染まったその両目を見た瞬間、狩夜は生まれて初めてこう思った。


 女って怖い。


 ――フヴェルゲルミルは、欲望と快楽の国ですわ。


 丁度一カ月前に聞いた、アルカナの言葉が脳内で再生されると同時に、狩夜は地面を蹴り全力で駆け出した。そんな狩夜を、明らかに正気を失っている月の民の女性たちが、群れを成して追いかけてくる。


「どうなってるんだこの国はぁぁあぁあぁ!?」


 怒声とも悲鳴とも取れる声を上げ、狩夜は碁盤目状の道を縦横無尽に駆け抜けた。


 捕まるわけにはいかない。ここで捕まったが最後、狩夜の中の大切な何かが跡形もなく砕け散る。そんな予感が――いや、確信がある。


 真円を描く月の下。貞操と人生観。快楽と子孫繁栄。それらを賭けた本気の鬼ごっこが、帝都を舞台に始まった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る