060・迷いの森
「ここが源流かな?」
ウルズ川の源流。そう思われる場所を見下ろしながら、狩夜は呟く。
狩夜の視線の先には、直径三メートルほどの泉があった。
ウルズの泉をもしのぐ透明度があり、薄っすらと自己発光する水を湛えた小さな泉。その水の中には水棲生物の姿はなく、肉眼では確認の仕様がないが、微生物すら一匹もいないように思われた。
あたりの空間には濃密なマナが溢れており、深呼吸するだけで疲れが抜け落ち、心身が洗われるかのよう。神秘的である一方で、人の身で足を踏み入れれば罰を受ける。そんな危うさも感じる場所であった。
足を滑らせないよう気をつけながら、狩夜は泉の中を覗き込む。すると、自己発光の原因。そして、ウルズ川の起点を目にすることができた。
野太い、植物の根。
泉の底にアーチを描くように突き出ている植物の根が、ウルズ川の始まりであった。金色の光を放つその根から、マナを多量に含んだ水が滾々と湧き出ている。
間違いない、世界樹の根だ。
【厄災】によって故郷を追われ、ウルズ川に寄り添うことを選んだ木の民、水の民、風の民の三種族を、数千年にわたって魔物から守り続けた、マナの源泉。
このユグドラシル大陸において、最も重要な場所の一つ。それが、今目の前にある。
「ちょっとだけ……」
好奇心に勝てず、狩夜は身を屈めて泉に手を伸ばした。そして、右手の人差し指を第二関節辺りまで沈みこませ、即座に引き抜く。次いで、その指を口の中へ。
すると——
「……」
もはや言葉すら出なかった。
こんなにも美味しい水が、まさか実在しようとは。この美味しさを十全に表現する言葉を、叉鬼狩夜は持っていない。
「随分と贅沢なことをしていますね、オマケ。その水に溶け込んだ高純度のマナは、全人類の共有財産なのですよ?」
「うん、わかってる。もうしない。こんなのがぶがぶ飲んだら罰が当たる」
やや批難を含んだスクルドの言葉に、狩夜は即座に頷いた。この水は、誰か一人が独占していいものでは決してない。
軽はずみな行動に、しばらく説教が続くかな? と思ったのだが、狩夜の予想に反して、スクルドはこう言葉を返してくる。
「……いえ、今日のところは飲んでおきなさい。女神スクルドの名のもとに、この泉の水を飲むことを許します。聖獣と戦う前に、英気を養っておきましょう」
スクルドはそう言うと、泉のすぐそばに降り立ち、泉に両手をつけて水を飲み始めた。レイラも狩夜の頭上から飛び降り、泉ではなく、そこから続く小川の脇に腰を下ろし、両足を水につける。
両足から水を取り込みながら、足湯でもしているかのように気持ち良さげに目を細めるレイラ。わざわざ小川の方に移動したのは、泉の水を汚さないよう、狩夜とスクルドに配慮してのことだろう。
「なら、僕も」
スクルドとレイラの気遣いを受け取った狩夜は、両手を泉の中に沈め、その水で喉を潤した。純度の高いマナを直接体内に取り込み、体の内側から疲れを癒す。
「それでスクルド、源流には着いたけどさ、ここから先はどうするの? 世界樹に向かって真っすぐ進めばいいのかな?」
屈めていた体を起こし、北を——世界樹があると思しき方向を見つめながら、狩夜は言う。
開けた場所であったなら、天を突くかのように巨大な世界樹の姿はユグドラシル大陸のどこであって見えるのだが、さすがに大径木が乱立する森の中ではそうはいかない。世界樹の姿はとうの昔に見えなくなっている。
狩夜の視線の先に映る光景は、延々と森一色。森、森、森だ。
ウルズ川という道標がなくなれば、山と森に慣れた狩夜であっても迷いそうである。しかも、水源から離れれば離れるほど、魔物からの襲撃は増えていくのだ。それらに対処しながら森を進めば、遠からず進むべき方向を見失うだろう。
「正直、ここから少しでも離れたら遭難しそうなんだけど。僕、コンパスとか持ってないよ?」
「そんなもの、たとえ持っていても迷いますよ」
水を飲み終えたスクルドが、狩夜の肩に飛び乗りながら言う。
「ここから先は、世界樹の第一次防衛ライン。許可なく世界樹に近づこうとするものを拒絶し、外へと誘導する迷いの森です。決められたルートで進まなければ、どのような装備を持っていても必ず迷います」
「迷いの森……結界と聖獣以外にも、そんなものが……」
「防衛ラインは、二重三重に構築するものですよ。むしろ迷いの森は、迂闊な接触が命に係わる結界と聖獣に、人間が近づかないよう用意した、緩衝材の意味合いが強いです。運と勘だけでここを突破することは、まず不可能でしょう」
どうやら、【厄災】以降聖獣の姿が一度も目撃されていないのは、迷いの森があったかららしい。
逆に言えば、迷いの森は【厄災】以降、一度たりとも人間の突破を許していない、難攻不落の迷宮ということになる。ルートを知らず足を踏み入れた者は、一人の例外もなく森の中を延々さまよい、わけもわからないまま外へと放逐されたようだ。
「なるほど。じゃあ、そのルートとやらの出発点が——」
「そう、三大河川の源流というわけです。ここから先は、私の指示通りに進みなさい。いいですね」
「了解。で、その迷いの森を抜けるには、徒歩でどれくらいかかるの?」
「そうですね。強化されたオマケの足で、魔物に対処しながらなら――半日足らずといったところでしょうか」
「半日足らず……か」
狩夜はそう呟きながら真上を見上げた。森林に差し込む木漏れ日が実に神々しい。が、今気にするべきことは別にある。
太陽の位置は——ほぼ真上。
「スクルド、提案。今日はこれ以上進まないほうがいいと思う。森の中で夜になっちゃうよ。明日、日の出と共に出発して、明るいうちに迷いの森の踏破を目指そう」
このまま進めば、安全圏ではない水辺から離れた場所で夜になる。それはいくらなんでも危険だろう。そう判断しての提案だった。
狩夜のこの言葉に、スクルドは苦虫を噛み潰したような顔をした。そして、こう反論してくる。
「オマケの提案はもっともです。平時であれば私も同意したでしょう。ですが、今は非常時で時間がありません。先を急ぐべきです」
「急がば回れ。急いてはことを仕損じるって言うよ。痛みに耐えてるウルド様には悪いと思うけど……本当に悪いと思うけど、ここから先は慎重にいくべきだ。それに、時間がないってスクルドは言うけどさ、まったくないわけじゃないんだろ?」
もし、今日明日に世界樹が枯れるというのであれば、レイラはもっと早くに――それこそ、狩夜と共にイスミンスールにやってきた直後に、休眠状態で人面樹になっていたスクルドに会いにいったはずだ。
だが、レイラはそれをしなかった。レイラがスクルドに会いにいったのは、狩夜がサウザンドになり、開拓者として一人前扱いされる力を手に入れてからである。
ならば、時間的余裕はまだあるはずだ。少なくとも、ここで強行軍をする必要がないくらいには。
「スクルド。正直に答えてほしい。世界樹が枯れるまで――世界が滅びるまでには、あとどれくらいの時間があるんだ? 僕に無理を強いると言うのなら、君にはこの質問に答える義務がある」
「それは——」
狩夜の言葉に顔を伏せるスクルド。そして、それと同時に――
「え? レイラ?」
「勇者様? いったい何を?」
休憩を切り上げたレイラが、狩夜の背中に飛びついてきた。そして、数時間前にウルズの泉を越えたときと同じように、自身の体と狩夜の体が決して離れないよう、スクルドごと蔓で固定していく。
狩夜の全身から冷たい汗が噴き出した。嫌な予感がする。
慌ててレイラを制止しようとする狩夜であったが——
「ぎぃゃぁあぁあぁ!?」
「きゃぁあぁぁあぁ!?」
遅かった。
レイラは狩夜が口を開く前に右腕から蔓を伸ばし、前方の大木に引っ掛けた。そして、直後に蔓を収納する。狩夜の体はカタパルトで射出されたかのように地面を離れ、斜め上に急発進。
狩夜とスクルドが悲鳴を上げる中、レイラは巧みに蔓を操作。大径木が立ち並ぶ迷いの森の中を、稲妻のような鋭角的な動きで駆け抜ける。
「ゆ、勇者様……次の、一際大きな木を左に……」
コクコクと、背中でレイラが頷くのを狩夜は感じ取った。レイラはスクルドに指定された木に蔓を引っ掻けると、その木を中心に円を描くように左回転。移動の勢いを殺すことなく、見事に進路を変更してみせた。
「あぶぶぶ!」
だが、狩夜の胸の中に固定されているスクルドならいざ知らず、全身で空気抵抗と遠心力を受け止める狩夜は、その見事な円運動に息も絶え絶えであった。それが終わった後も、鋭角的な高速移動で上下左右に激しく揺さぶられ、今にも吐きそうである。ほんの数センチ先で大木が後方に流れていくたびに、凄まじい恐怖が全身を駆け巡った。
狩夜は確信する。もう僕、絶叫マシンなど怖くない――と。
あれら乗り物が、どれほど緻密な計算の元に設計され、どれほど安全と健康に考慮されて日々運行されているのかを、この上なく理解した。レイラのこれに比べれば、あんなもの子供騙しである。
狩夜がサウザンドになってからというもの、レイラは移動に関して、ほんとに遠慮がなくなった。
「こ、これならすぐに迷いの森を抜けられそうです! よかったですね、オマケ!」
狩夜の胸の中で、嬉し気に叫ぶスクルド。その声にはどこか余裕があった。初めこそ驚いたものの、すでにこの移動方法に慣れたようである。空が飛べるからか、それとも【厄災】以前の経験か、もしくはその両方か。
「あばばば!」
一方の狩夜は、いまだにまったく余裕がない。スクルドの言葉に「全然よくない!」と胸中で返しながら、解読不能な声を口から漏らし続けていた。
レイラによる三次元高速移動は、しばらく続きそうである。
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