059・聖域を目指して
「まずはウルズ川を遡って北上し、その源流を目指してください。源流に着くまでは、私の案内は不要でしょう」
というスクルドの言葉に従い、狩夜とレイラはウルズ川をひたすらに遡っていた。移動手段は当然舟。昨日も利用した、レイラ謹製の葉っぱの舟である。
モーターボート並みの速度でウルズ川の上をかっ飛んでいく狩夜たち。ウルズ川には水棲生物がほとんどいないので、遠慮なくスピードを出せる。狩夜たちの現在位置は、すでにティールへと続く支流を越え、異世界活動初日に夜を過ごした川原のさらに先、ユグドラシル大陸の中心部に差し掛かろうとしていた。
他の開拓者が見れば、涎垂ものの移動速度であろう。他者が馬で移動している時代に、狩夜だけが内燃機関搭載の乗り物を有しているようなものだ。そして、現代日本で日常的に利用している乗り物に比肩する速度で移動しているからこそ、わかることもある。
ユグドラシル大陸は——小さい。
正直、大陸とは名ばかりの、大きめの島である。というのが、狩夜の結論だった。
ユグドラシル大陸の大まかな地図は、開拓者ギルドやウルザブルンの城に飾られていたものを何度か見ている。その地図と、レイラの舟の移動速度、ウルザブルンからここまで移動するのに要した時間からの推測になるが——恐らく、北海道くらいの大きさではなかろうか?
これを『大陸』と称するには無理がある。正直見栄を張り過ぎだ。張り過ぎだが——この世界の人類には、その見栄が必要だった。
ユグドラシル大陸は、人類に残された唯一の居場所。その居場所を『島』と称するのは惨めに過ぎる。見栄でも嘘でも『大陸』と称することが必要だったのだ。人としての矜持を守るために。
まあ、本当の大陸の広さを知らないのなら、ここは大陸なんだと大衆に納得させることは不可能ではない。すでにイスミンスールの人類は、一度はすべて暴かれた世界の形すら忘れている。比較対象の大きさがわからないのなら、確かにユグドラシル大陸は『大陸』なのだ。人の知識の中でなら。
「まあ、僕も『大陸』の広さなんて、知識の上でしか知らないけどね……」
海外旅行など一度もしたことのない、根っからの島国人である狩夜は、一人小さく呟いた。
それから、さらに小一時間ほど舟による移動を続けた後——
「ここから先は、舟じゃ無理かな……」
源流に近づき、川幅、水量、ともに激減したウルズ川を見回しながら、狩夜は言う。次いで、スピードがだいぶ落ちた舟から身を乗り出し、川の深さを確認。
川底と舟底が、今にも接触しそうであった。やはりこれ以上は無理がある。
「うん、舟はここまでだね。レイラ、舟を岸に着けて。この先は歩きだ」
コクコク。
狩夜の提案に素直に頷いたレイラは、櫂を操作して舟を川岸へと着けてくれた。そして、狩夜が川岸に降り立つのを見届けた後、レイラは狩夜の背中に飛びつき、二枚の葉っぱをデフォルト状態へと戻す。
数時間ぶりの地面の感触を確かめながら、狩夜は凝り固まった体をほぐすように伸びをした。そんな狩夜を見つめながら、スクルドは不満げに口を開く。
「なにを休んでいるのです、オマケ! あなたは座っていただけなのですから、キビキビと歩きなさい! こうしてる間にも、世界樹とウルド姉様は傷つき、痛みに耐えているのですよ!」
「ごめんごめん。でも、これぐらいは大目に見てよ。人間の体は神様と違って色々と不便でさ、動かないでいるのも辛いんだよ。あとオマケ言うな」
決闘うんぬんのやり取りの後、スクルドは狩夜のことを『オマケ』と呼ぶようになった。スクルド曰く「女神である私に礼を尽くさない無礼者なんて、オマケで充分です!」とのことだ。
この呼び方に不満がないわけじゃないが——どうせスクルドとは、この冒険だけの短いつき合い。呼ばれても軽く流すことにしている。
まあ、姉と世界を思うスクルドの気持ちは紛れもない本物だし、病弱な妹を持つ兄として共感できる部分は多々あるので、ここは言われた通り足を動かすことにした。体のメンテもそこそこに、狩夜は源流を目指して川沿いを歩く。
水量が減っても、ここが安全地帯である川沿いであることに違いはない。魔物からの襲撃はなく、天気も良好。川のせせらぎが耳に心地よい。世界樹が枯れ、世界が滅びるなどと、そんなの何かの間違いではないのか? と、つい考えてしまうのどかさがこの場にはあった。
思わず気が緩みかけて「いけない、いけない」と頭を振る。助けを求めてきた傷だらけのウルドの姿と、メナドとの約束を思い出し、狩夜は再度気を引き締めた。
「ねぇ、スクルド。これから戦う聖獣ってさ、どんな奴? やっぱり強い?」
ただ漠然と時を過ごすから気が緩むのだ——と、狩夜はこれから戦う相手の情報収集に乗り出す。
かつては世界樹を守護する役目を担っていたという聖獣。その強さはいかほどのものだろう?
「……強いですよ」
狩夜の言葉を受けて、スクルドは空中を旋回。狩夜の右肩に降り立ちながらこう言った。そして、腰を下ろしつつ言葉を続ける。
「聖獣は、いわば世界樹の最終防衛ライン。弱いはずがありません。全盛期の私は別格として——そうですね、精霊の次くらいには強いですよ」
「女神と精霊の次……それってさ、世界最強クラスってことなんじゃないの?」
「だからそう言っています。もっと気を引き締めなさい、オマケ。あなたはそこそこに強い人間ですが、聖獣に比べれば塵芥も同然。聖獣の攻撃を一度でもまともに受ければ、その瞬間絶命すると心得なさい」
「今すぐ引き返したくなってきた。僕、死にたくないよ。まだ十四歳なのに……」
安全第一に行動していたはずなのに、なんでこうなった? と、狩夜は右手で顔を覆う。
「人が死を恐れるのは当然です。それを咎めはいたしません。ですが、ウルド姉様の前で勇者様と共に戦うと宣言したのです。撤回は許しませんよ?」
「その言葉を撤回する気はないよ。前にも言ったけど、逃げ場なんてどこにもないし。でも、戦略的撤退なら大ありだ。勝算は? ないなら一時撤退を進言するよ。無駄死には御免だからね」
勝てない相手に真正面から勝負を挑み、潔く玉砕する。そんなのは愚か者のすることだ。勝てる算段がないのなら、一旦引いて作戦を立てるべきだろう。
この狩夜の発言に、スクルドは得意げに微笑んだ。次いで、いつの間にか狩夜の体を踏破し、定位置である頭上を占拠していたレイラの姿を見上げる。
「当然ありますから安心なさい。確かに聖獣は強いですが、勇者様ほどではありません。世界樹の種の力は、それほどまでに強大なのです」
勇者であるレイラなら、ただの力押しでまず間違いなく勝てる相手。それが聖獣に対する女神スクルドの見立てらしい。
自信満々なスクルド。その様子を見るに、勝算は確かにあるようだ。だが、そうなると別の心配が顔を出す。
「聖獣に……その、愛着とかさ、家族の情とかないの? できれば助けてあげたい――みたいな?」
狩夜は、レイラが敵対する相手に対して、決して容赦しないことをよく知っている。聖獣が正気を失っている以上、戦いになるのは確実だ。つまり、狩夜たちの勝利は、聖獣の死を意味する。
同胞であるスクルドは、いざその時になって、レイラを止めたりはしないだろうか? ことが終わった後、後悔したりはしないだろうか?
「……なくはないです。同じ世界樹の眷属として、悠久の時を共に過ごした仲間ですから。私は世界樹の防衛担当で、役割も近いですし」
目を伏せ、悲しそうな顔をするスクルド。だが、それは一瞬のことだった。すぐさま顔を上げ、確固たる決意を口にする。
「ですが【厄災】の呪いに侵され、暴走しているとなれば話は別です! その命を絶ち、呪いから解放してあげることこそが唯一の救いであると、私は考えます!」
「そっか……うん、わかった。僕も協力するよ」
自身の肩の上に腰かけるスクルドを見つめながら、そう相槌を打つ狩夜。すると、スクルドは少し顔を赤くしながら空へと飛び立ち、こう言葉を返してくる。
「わ、私の心配よりも、矮小で脆弱な人の身である自身の心配をなさい! 私は『未来』を司る世界樹の女神、スクルド! それと同時に、歴戦の戦乙女でもあるのです! オマケの分際で私の心配をするなどと、千年早いですよ!」
スクルドはそう言うと、ぷいっと顔を背けてしまった。そして、狩夜から顔を背けながら、こう言葉を続ける。
「死んではいけませんよ、オマケ。この戦いが終わったら、あなたは私と決闘するんですからね。私に働いた無礼の数々、心の底から後悔させてあげます」
「……その『この戦いが終わったら――』って台詞、僕の世界じゃあんまり縁起の良い言葉じゃないから、極力使わないほうがいいよ。で、話を元に戻すけどさ、聖獣って鹿なんだよね?」
なんとも代表的な死亡フラグを口にしたスクルドの今後を危惧しつつ、狩夜は聖獣の情報収集を再開した。すると、スクルドは感心したように頷き、狩夜の言葉を肯定する。
「それくらいの伝承は残っていましたか。ええ、鹿ですよ。もちろん、普通の鹿ではありませんが」
「そうか……鹿か……」
互いの口から紡がれた『鹿』という単語に、腕を組んで渋い顔をする狩夜。歯切れの悪いその様子に、スクルドは小首を傾げる。
「どうしました、オマケ。鹿に特別な思い入れでも?」
「あ、うん。実家が猟師の家系でさ。だからまあ、鹿とは縁深いというか、一家言あるというか……」
父さんは猟師を継ぐのが嫌で、母さんと逃げちゃったけど——と、胸中で呟きながら、狩夜は鹿に対して思いを巡らせる。
鹿。
鹿と聞いて日本人の多くが連想するのは——やはり、奈良公園の鹿だろう。国の天然記念物。大事な大事な観光資源。鹿せんべいを持つ人間を前に「ちょうだい、ちょうだい」と首を振る姿に、老若男女が「ああん、かわいい♪」。
神の使い。
縁起の良い動物。
だからみんなで大事にしよう。そうしよう。そんなところか。
だが、ちょっと待ってほしい。なにも、そんな大多数の意見を否定しようってわけじゃないから、マタギの――猟師の孫の意見を聞いてくれ。農家の知り合いが多い、田舎者の意見を聞いてくれ。
鹿は、誰もが諸手を挙げて歓迎する相手ではないのだ。
年間おおよそ二百億。申告されていないものも含めれば、千億をも超えると言われる日本の害獣被害だが、その中で、最も多くの被害を出している動物をご存知だろうか?
鹿である。
その被害額は、年間八十億を超え、場所によっては農家の方が離農を余儀なくされたり、首を括りたくなるほどの被害が出ているのだ。
どうだろう? 神の使いに対するお供え物としては、いささか多すぎではなかろうか?
死後に楽ができるって? それで自殺してたら世話がない。それじゃ人間はやりきれないし、浮かばれない。
農家の敵。
日本における害獣の王。
それが鹿だ。
鹿が憎い。鹿が憎い。畑を荒らす奴らが憎い。俺らの生活を脅かす、奴らが憎くて仕方ない。
だから猟師さん、お願いだ。俺らが丹精込めて育てた野菜を食い荒らす、奴らを狩ってきておくれ。奴らが野菜を食う前に、俺らが奴らを食ってやるんだ。なあ、頼むよ。ちゃんとお礼はするからさ。
そんな農家の期待に答えるために、何より自分たちが生きていくために、叉鬼家の人間は、狩夜のご先祖様は、代々鹿を狩ってきた。
その肉を、その皮を、その角を、食らい、剥ぎ取り、加工して、それをお金に換えてきた。
狩夜にまで続く叉鬼家の子孫繁栄は、山のように積み重なった、鹿の屍あってのこと。
恨まれて当然――そう思う。
だが一方で、叉鬼家の人間は、彼らが住まう山を開発から守ってもきた。高度成長期の開発ラッシュ。狩夜の祖父がいなければ、彼らの住処はゴルフ場になっていたらしい。
お返しをしなかったわけじゃない。そして、感謝を忘れたこともない。
祖父も、狩夜も、猟師の仕事から逃げた父でさえ、彼らの肉を口にするときは、いつも両手を合わせてこう言った。
「いただきます」と。
狩る者と、狩られるもの。守る者と、守られるもの。それが、叉鬼家の人間と、鹿との関係である。
そんな鹿と、これから殺し合いをする。世界樹を守る神の使いから、世界を滅ぼす害獣の王となった相手と殺し合う。
そう考えると——やはり、感慨深いものがあった。
叉鬼家の人間が、鹿に恨まれているのか、それとも感謝されているか。中学二年生という微妙な時期にありがちな疑問。その答えがついに出るような気がした。
「ひょっとしたら僕は、生まれながらにして神に呪われた人間なのかもしれない……」
思わずそんな言葉が口から出てしまった。するとスクルドが「何言ってんだこいつ」と言いたげな顔をして、こう断言する。
「あなたには神の呪いも加護もありませんよ。どこにでもいる、ド平凡なド凡人です。だから安心なさい」
「あ、やっぱり?」
「ええ、この私が保証します。ですから、余計なことを考えていないでもっと集中なさい。オマケは元の世界に帰りたいのでしょう? 聖獣を倒し、世界樹を救いさえすれば、その願いは叶うのですから」
「え!? それ本当!?」
不意にスクルドが口にした重大発言に、目を丸くする狩夜。するとスクルドは真剣な顔で「本当です」と頷く。
「で、でも、歴代の勇者たちは、全員イスミンスールに骨を埋めたって――」
「それは、彼らがこの世界に永住することを自らの意思で選んだからです。世界の救済を終えた勇者様らに対し、ウルド姉様は例外なく『元の世界に帰りますか?』と尋ねていますよ。世界樹の防衛担当である私としては、結界を超え、自由に聖域に出入りできる勇者様たちには、どちらかといえば元の世界に帰ってほしかったので、当時のことはよく覚えています」
「……」
スクルドのこの説明を聞いた後、狩夜はしばし沈黙。そして、あるていど気持ちの整理をつけた後、震える声で言葉を紡いだ。
「帰れる……元の世界に……家族のいる家に……帰れる……」
聖獣と戦う理由が増えた。両の手を強く握り締めた後、狩夜は決意を新たにするように、大声で叫ぶ。
「よし! スクルド、レイラ、いこう! 聖獣を倒して、こんな世界とはおさらばだ!」
「私と姉様たちが、悠久の時をかけて創り上げたこのイスミンスールを、こんな世界とはなんですか!」
スクルドの怒声を聞き流しつつ、狩夜はウルズ川の源流目指し、力強く足を前に動かすのであった。
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