058・血まみれの女神

『この日をずっと……ずっとずっと待っておりました。私に残された最後の希望。どうかお願いいたします。この世界を、イスミンスールをお救いください』


 ウルドと名乗った立体映像の女性は、そう言いながら胸の前で手を組み、レイラに――救世の使命を帯びた勇者に懇願する。それと同時に、狩夜は両の目を見開いた。


 胸の前で組まれたウルドの両手。その両手が、夥しい数の傷に覆われ、絶え間なく血を流し続けていたからである。


 いや、傷だらけなのは両手だけではない。両の腕も、両の脚も。血染めのドレスに隠れて見えないけれど、きっとその下の体にも。ウルドの全身には、数えきれないほどの傷が刻まれている。


 傷がない場所はただ一つ。首から上の顔だけだ。


 狩夜の顔が歪む。こんなの、見ているだけで痛い。見ているだけで痛いのならば、当事者であるウルドが感じている痛みは、いったいどれ程のものだろう?


 傷だらけで、血まみれで――それでもウルドは微笑んだ。レイラを歓迎するように。狩夜に心配を掛けぬように。


 そして、こう言葉を続ける。


『お見苦しい姿を見せてしまい、大変申し訳ございません。御覧の通り、私は——世界樹は危機に瀕しております。世界に残された時間はごく僅か。勇者様、どうかお力添えを」


「どうすればいいの~?」と、狩夜の頭上でレイラが首を傾げる。狩夜もそれが聞きたかった。ウルド、そしてスクルドは、レイラに何をさせたいのだろう?


 レイラが勇者だということはわかった。ウルドとスクルドが女神だということも——まあ、信じるとしよう。だが、それだけでは動きようがない。


 今この世界には、どのような危機が迫っており、なにを為せば救済となるのか。それがわからなければ、今後の指針が定まらない。


『このままでは、世界樹は枯れます』


「——っ!?」


 単刀直入。ウルドはまず結論から口にした。そして、それは世界の終焉に直結する結論だった。


 世界樹が枯れる。それはつまり、マナの完全なる枯渇を意味する。


 マナが枯渇すれば、魔物の弱体化はもうおこなわれない。そうなれば、ユグドラシル大陸の魔物は徐々に凶暴化し、いずれ人類の手に負えなくなるだろう。


 いや、それ以前に、他大陸に生息する屈強な魔物たちが、世界樹の庇護が消えたユグドラシル大陸を放置しておくだろうか?


 他大陸に生息する屈強な魔物たち。それらがユグドラシル大陸に足を踏み入れようとしないのは、マナを嫌っているからに他ならない。


 世界樹は、ユグドラシル大陸を流れる河川に大量のマナを溶かし込み、水の流れを利用して大陸全土にマナを届けている。そして、その河川の水が最終的に行き着く場所が海だ。


 ユグドラシル大陸近海にも、当然だがマナは溶けている。そのマナが、海路からの魔物の侵入を阻んでいるのだ


 空路もそう。マナは揮発性が高い。河川や泉、近海から立ち上ったマナがユグドラシル大陸をドーム状に覆い、魔物の侵入を阻んでいる。


 ユグドラシル大陸の水が、空気が、それらで育った草木が、他大陸の魔物を拒絶する。無理をして足を踏み入れても、間違いなく弱体化する。


 フローグが持ち込んだ可能性のある他大陸の魔物、ヴェノムティック・クイーン。あれも弱体化していたはずだ。弱体化してあの強さなのだ。


 世界樹が枯れれば、あんなのが大挙してユグドラシル大陸に押し寄せてくる可能性がある。


 断言しよう。滅ぶ。


 世界樹が枯れれば、イスミンスールの人類は間違いなく滅亡する。


 そして、その人類の中には、異世界人・叉鬼狩夜も含まれる。


 この瞬間、レイラの世界救済は、狩夜にとって他人事ではなくなった。


「あの、世界樹が枯れるのを防ぐには、いったい何をすればいいんですか!?」


 たまらず声を上げる狩夜。巻き込まれただけの部外者とも取れる存在からの質問であったが、ウルドは無視することなく、丁寧に対応してくれた。


『方法は二つあります。一つは、世界樹の分身である精霊を、【厄災】の呪いから解放すること』


「精霊を?」


『はい。ミズガルズ大陸の光精霊ウィスプ。アルフヘイム大陸の木精霊ドリアード。ヨトゥンヘイム大陸の月精霊ルナ――どこの誰であってもかまいません。八体の精霊の内、一体でも解放することができれば、その力で世界樹の傷を癒し、当面の危機を回避することができます』


「そ、それだったら、精霊解放軍の皆さんが、ついさっきウルザブルンを出発しましたよ! 魔物をテイムして、ソウルポイントで強くなった、本当に凄い人たちばかりです! だからきっと大丈夫です! 精霊を解放して、世界樹とウルド様を助けてくれますよ!」


 傷だらけのウルドを元気づけるため、希望は勇者だけじゃないことを告げる狩夜。それを聞いたウルドは、嬉しそうに笑う。


『そうですか。ならば、私の次善策は無駄ではなかったのですね』


「次善策?」


『はい。【厄災】の呪いによって、能力の大半を封印される直前。私は世界樹の種を、メッセージと共にあの世界へと転移させました。救世の勇者足りえる、心優しい誰かがそれを見つけ出し、いつの日かこの世界に戻ってきてくれることを願って」


 その世界樹の種と、メッセージとやらを受け取ったのが、マンドラゴラのレイラというわけだ。


『ですが、それは賭けです。そして、お世辞にも成功率は高くない。ですから私は、次善策として【厄災】の呪いによって弱体化した人類に、レベルに代わる力を授けようと考えたのです。精霊は人類の信仰の対象。力を手にすれば、人類は必ず精霊を解放するべく動き出すと考えました』


 その考えは正しい。事実として、人類は動いた。いや、力などなくとも、人類は動いていた。その証拠が、過去二度にわたって実施された、精霊解放遠征ではないか。


 ソウルポイントによる恩恵がない時代にも、人類は心の拠り所を求めて魔物と戦ったのだ。それほどまでに、信仰の力というものは強いのである。


『私は人類に――そして、このユグドラシル大陸に生息する魔物に、絶えず干渉し続けてきたのです。彼らが体内に摂取したマナを通して、肉体と魂を少しづつ改竄し、人類と魔物とが、互いに共感できるよう作り変えました』


「それじゃあ、近年頻発している魔物のテイム現象は……」


『私の努力が実を結んだ――ということですね。長い時間をかけた甲斐がありました』


 長い時間。文字にすればたったの四文字だが、実際には気が遠くなるほどの、永遠にも等しい時間だったに違いない。


 ウルドは、ただの人間では絶対に生きることの出来ない時間を一人生き続け、その全てを世界のために費やしたのだ。


 全身から血を流し、ずっと痛みに耐えながら。


『精霊解放遠征に参加する、すべての人のために、私はここで祈りましょう。そして、叶うのならば精霊の解放を。精霊が解放され、世界樹が力を取り戻せば……私の声が、かの者に届くやもしれません』


「かの者?」


『はい。それこそが二つ目の方法にして、世界樹が枯れる原因。かの者とは——痛ぅ!!』


「だ、大丈夫ですか!?」


 突然苦しみ出すウルド。顔を顰め、激痛に耐えるかのように歯を食い縛り、体を震わせている。立体映像も乱れており、今にも消えてしまいそうだ。


『どうやら……起きたようですね……』


「起きた?」


『かの者が……聖獣が起きました……』


「聖獣って、世界樹を守護しているっていう、あの?」


『はい、その聖獣です……今は朝食の真っ最中ですね……』


「朝食……」


 パンとスクランブルエッグ――というわけではなさそうだ。


 このままでは枯れるという世界樹。傷だらけのウルド。そして朝食という言葉。そこから導き出される結論は——


「聖獣が食べてるんですか!? 世界樹を!? ウルド様を!? 守護するべき対象を!?」


 叫ぶ狩夜。ウルドの体に次々に刻まれていく新たな傷が、狩夜の出した結論が正解であると告げている。


 あまりに痛々しくて、今の今まで正視できていなかった。あまりに数が多すぎて、ぱっと見ではわからなかった。だが、よくよく見れば、ウルドの傷がなんであるかがわかる。


 歯形だ。


 全身に刻まれた、夥しい数の傷跡。その全てが歯形であった。


 世界樹は、女神は、己が眷属に食い殺されようとしているのである。


『聖獣は【厄災】の呪いで正気を失いました……以来、ずっと世界樹を、私の体をんでいます……何度語り掛けても、私の声は届きません……まるで【厄災】に体を乗っ取られたかのようです……』


「酷い……」


『世界樹の眷属であるがゆえに、聖獣にはマナによる弱体化が作用しません。また、世界樹を守護する結界の内側に存在しているため、イスミンスールには外敵が存在しないのです……』


 つまり、天敵がいない。そして、人の手で駆除することもできない。安全地帯で暴れ回る、文字通りの厄介者だ。


 まるで白血病である。世界樹は、暴走した自らの防衛機構で危機に瀕しているのだ。そして、その病に対する特効薬は一つだけ。


 結界を越え、聖獣を打倒できる者。異世界からの来訪者である。


『勇者様、どうか……どうかお願いいたします。あなた様の手で聖獣を打ち倒し、世界樹を、イスミンスールをお救いください』


「……(コクコク)」


 レイラは間髪入れずに頷いた。いつになく真剣な表情でウルドを見つめ返している。


 了承の意を示したレイラに、ウルドは安堵の息を吐いた。そして、こう言葉を続ける。


『異世界からのお客様――たしか、叉鬼狩夜さんでしたね? あなたはどういたしますか?』


 スクルドとのやり取りを聞いていたのか、狩夜の名を呼びながら問いかけるウルド。狩夜は首を傾げながら言葉を返す。


「どう――とは?」


『初めにお伝えしておきます。私は、あなたの異世界転移には一切かかわっておりません。あなたがイスミンスールにいるのは、ひとえに勇者様のご意思です』


 この言葉に狩夜は「あ、やっぱりね」と胸中で呟いた。


 この世界にきて、すぐに抱いた考え。狩夜を異世界に引きずり込んだのはレイラである——という仮説は、どうやら間違いではなかったらしい。


 なんとなく――本当になんとなくだが、わかるのだ。レイラのことは。言っていることも、考えていることも。


 きっとこれが、魂の波長が合うということなのだろう。


『あなたは勇者ではありません。また、何か特別な力を有しているわけでもありません。ですが——勇者様があなたをこの世界へ導き、今も行動を共にしているというのなら、そこには何かしらの意思と、意味があるはずです。私はそう考えます』


「……」


『あなたはスクルドに「人類のためや、世界のためになんて御大層な理由じゃ戦えない」そう言いましたね? そんなあなたに、こんなことを願うのは非常に心苦しいのですが……勇者様と共に、この世界のために戦ってはいただけないでしょうか? どうか、お願いいたします』


 ウルドが、世界樹の女神が、狩夜に頭を下げた。人間以上の神様が、ごく普通の人間に「助けてください」と懇願している。


 その願いに対する、叉鬼狩夜の返答は——


「……わかりました。戦います」


 ウルドが頭を上げ、驚きの表情を浮かべた。頭上のレイラが「よく言った~!」と、頭をペシペシ叩いてくる。


 一緒に戦うと言ってくれたことがよほど嬉しかったのか、テンション高めに狩夜の頭を叩き続けるレイラ。そして、レイラのペシペシ乱舞を甘んじて受け入れる狩夜をしばし見つめてから、ウルドは再び頭を下げた。今度は懇願ではなく『すみません』という謝罪の言葉を口にして。


「なんでウルド様が謝るんです?」


『いえ、てっきり断られると思っていましたから。あなたと言う人間を見誤った。そのことに対する謝罪です』


「いやいや。全然見誤ってませんよ。断れるなら断りたいです。人類や、世界のために――なんて理由じゃ、僕は戦えません。正直今すぐ逃げ出したい。それが偽らざる本心です。でも、世界が滅びるなら逃げ場なんてないですし……何より、大切な約束がありますから」


『約束……ですか?』


「はい。ある人と約束したんです。次に僕に助けを求めた人を、絶対に助けてみせるって」


 それが、メナドと交わした約束だ。狩夜が、心に誓った約束だ。


『次に誰かがカリヤ様に助けを求めたら、その人を初めて会ったときの私だと思って、助けてあげてください』


 あの夜、メナドはそう言った。ならば、狩夜に助けを求めた瞬間、ウルドはもう女神じゃない。初めて会ったときのメナドである。


 病に侵され、汚いと、近づきたくないと思ってしまった、あの時のメナドなのだ。


 今度こそ、助けてみせる。そして、あのときの弱い自分と決別し、強く、かっこいい男になってやる。


 この願いばかりは、思うだけでは終われない。


「だから、戦います。世界のためじゃなく、僕が約束を守るために」


 そうだ、その理由なら戦える。叉鬼狩夜の戦う理由は、それくらいでちょうどいい。


『そうですか――よろしくお願いいたします。狩夜さん』


 ウルドはこう言って笑った後、視線を地面に横たわるスクルドへと向けた。次いで言う。


『スクルド。勇者様と狩夜さんを、聖域までご案内なさい。くれぐれも粗相のないように。いいですね?』


「はい! ウルド姉様!」


 ウルドに話しかけられた瞬間、今までのびていたスクルドが跳び起きた。その必死な様子を見るに、同じ世界樹の女神というくくりでも、上下関係は随分とはっきりしているようである。


『それでは、聖域にてお二人の武運を祈っております……祈ることしかできない無力な私を……どうか許してください』


 最後にこう言い残し、ウルドはその姿を消す。スクルドの発光も収まり、その場に静寂が訪れた。


「……」


「……」


 ウルドが出てくる前のやり取りのせいで、なんとも気まずい雰囲気が場を支配している。この状況を打開するため、狩夜は咳払いを一つしてから、こう話を切り出した。


「ゴホン。とりあえず、聖域とやらまで案内頼むよ、スクルド」


「……わかりました。案内については異論ありません。ですがその前に、どうしても確認しておきたいことが一つあります」


「ん、なに?」


 狩夜がこう言って続きを促すと、スクルドは鋭い目つきで狩夜を睨みつけてきた。次いで、責めるような口調でこう叫ぶ。


「私にはため口呼び捨てで、ウルド姉様には敬語様づけな理由を、三十文字以内で簡潔に述べなさい、人間!」


「風格」


 二文字で済んだ。済んでしまった。スクルドの顔が真っ赤に染まる。


「決闘を申し込みます!!」


 スクルドはそう叫んだ後、身に着けていた白い長手袋を脱ぎ、狩夜の顔面目掛けて投げつけてきた。


 こうして、なんとも姦しい仲間が増えたことに頭を痛めつつ。狩夜は聖獣を打倒し、世界を救うべく、レイラ、スクルドと共に、聖域へと向かうのであった。

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