055・妖精

 この世の地獄はユグドラシル大陸の外にある。


 これが、イスミンスールに生きる全人類の共通認識だ。


 レベルとスキル、資源と魔法、心の拠り所すら失い、世界樹の庇護下でしか生きられなくなった人類にとって、ユグドラシル大陸の外は地獄以外の何ものでもない。


 マナによる弱体化から解放された屈強な魔物が闊歩し、食らい合い、高め合う、力という法に支配された場所。弱者は瞬く間に駆逐され、強者は永久とわに生き長らえることが許される。そんな場所。


 その有り様は、弱肉強食という言葉すら生ぬるい地獄の壺だ。まさに蠱毒。それは大陸、大海を器に見立てた、蠱毒の儀式に他ならない。


 近年、人類はソウルポイントという武器を手に入れ、スキルを取り戻し、屈強な魔物に対抗する術を手に入れた。多くのモノと引き換えに、壺の入口に拠点を築くことにも成功した。だが、ユグドラシル大陸の外が地獄であるという事実は、未だなんら変わりない。


 その証拠に、壺の入口に築かれた拠点では、人と魔物のものが入り混じった絶叫が、絶えず上がり続けているという。


 ある者は「この地に俺の国を造る!」と夢を語り、またある者は「必ずやこの手で精霊を解き放つ!」と理想を語り、ユグドラシル大陸を飛び出した。多くの開拓者が、夢と希望、野望と欲望を抱いて、覚悟と共に地獄の壺に身を投げた。


 ユグドラシル大陸では負けなしだった。そんな開拓者たちの大半が、夢を語ったその口で、断末魔の絶叫を上げることを余儀なくされた。ものの数日――いや、数時間、数分で、物言わぬ肉塊となり果てる。


 生きて帰れれば僥倖。踏み出す足の左右を間違うだけで、実にあっけなく人が死ぬ。そんな場所を——屍山血河に絶えず彩られたその場所を、地獄と言わずしてなんと言う。


 それでも、地獄の壺に身を投げる開拓者は後を絶たない。大開拓時代という風潮が、世論が、人の性が、多くの開拓者の背を押した。


 人の夢は終わらない。人の欲望に限りはない。人の歩みは止まらない。


 いつしか、地獄の壺は名を変える。人々は、口を揃えてこう呼んだ。


 絶叫の開拓地スクリーム・フロンティアと。



   ○



「色々とお世話になりました、イルティナ様」


 見送りのため、わざわざ城門にまで足を運んでくれたイルティナに対し、狩夜は深く深く頭を下げる。


 城の中庭と大通り。そのことごとくを埋め尽くしていたウルザブルンの民たちの姿はすでにない。演説が終わり、勇ましく城を後にした精霊解放軍。集まった民のほぼすべてが、ハーメルンの笛に魅入られたかの如くその後に続き、最後まで見送ることを選んだのだ。


 今頃は、滅多なことでは下ろされないという跳ね橋を渡り、ウルザブルンから次の町へと向かう遠征軍を、大歓声をもって送り出していることだろう。


 全種族が入り混じり、多種多様、色とりどりの装備に身を固めた、総勢五百人弱(テイムされた魔物を含む)の遠征軍。全員がサウザンド以上の開拓者という、歴史上類を見ない集団が行進する姿は、まさに圧巻だった。彼らならやってくれる。あの場にいた誰もがそう思ったに違いない。


 彼らは選ばれた人間だ。必ずや精霊を解放し、魔物からミズガルズ大陸を取り戻すことだろう。


「カリヤ殿、本当にいってしまうのか? 前にも言ったが、カリヤ殿は私の命の恩人、ティールの救世主だ。我が家で口にした『一生ここにいてくれてもかまわない』という言葉を反故にするつもりはないのだぞ?」


 名残惜しげな顔で言うイルティナに、狩夜は小さく首を左右に振る。次いで、こう言葉を返した。


「そう言ってくれるのは嬉しいです。でも、ずっとイルティナ様のお世話になるわけにはいきません。大金が手に入ったのなら、出ていくのが筋でしょう。それに、せっかくの異世界。色々と見て回りたいんです。遠征軍の人達を見ていたら、フヴェルゲルミル帝国や、ミーミル王国にもいってみたくなっちゃいましたし」


「そうか……できることなら私も共にいきたいが、立場上そうもいかんな。だが、さようならは言わんぞ。何か困ったことがあれば、いつでも私を頼ってくれ。王女だからと遠慮したら許さんからな」


 笑顔で狩夜を見つめながら言うイルティナ。そんなイルティナに狩夜も笑い返し、こう告げる。


「それじゃあ、その――イルティナ様、またです」


「ああ。またな、カリヤ殿」


 放課後、クラスメイトにするかのような気軽さで、狩夜はイルティナに手を振った。次いで踵を返し、歩を進める。


 イスミンスールにきて、最も長く共に過ごし、最も世話になった相手との別れの時だ。涙の一つも流れない、実に気軽な別れであったが、イルティナとならこれが相応しいと思った。まあ、今生の別れというわけでもない。その気になればいつでも会えるのだから、しんみりする必要もないだろう。


 さて、今後の活動方針だが——

 

「レイラ、まずは当面の拠点、ウルザブルンの宿屋を見て回ろう。衣食住の確保は基本だからね」


 やはり、衣食住の確保が最優先である。開拓者として活動する以上、拠点は絶対に必要だ。大金を手に入れたのだし、今後のために色々と買い込むのもいいだろう。


 欲しいものを指折り確認しながら、昨日開拓者ギルドで聞いていた宿屋の場所、その一つに向かおうとしたとき——


 グイグイ。


 と、レイラが狩夜の髪の毛を引っ張り、それを阻止した。まるで「そっちじゃないよ。こっちこっち~」とでも言いたげな行動である。


 もう遥か昔のことのように感じる異世界活動初日を思い浮かべながら、狩夜は視線を上に向けた。次いで尋ねる。


「あの、レイラ? 僕の話聞いてた? これから最寄りの宿屋に――」


 グイグイ。


「僕、サウザンドになったばかりだからさ、慣らしがてら町を——」


 グイグイ。


 狩夜の言葉を遮るように、何度も髪の毛を引っ張るレイラ。頭上から狩夜を見下ろすその顔は「いいから、こっちにいくの~」と言いたげである。


 基本的に狩夜の意思を尊重してくれるレイラにしては珍しく、なんとも強硬な態度であった。どうやら是が非でもいきたい場所があるらしい。


「えっと……」


 グイグイ。グイグイ。


「ああもう、わかった。わかったから、そんなに髪の毛引っ張らないでよ。こっちだね?」


 山のように借りがある上に、生殺与奪を握られている相手にこうまでされては、言うことを聞くより他にない。狩夜は渋々レイラに従い、レイラが指し示すままに歩を進めた。


 城を中心に蜘蛛の巣状に広がる八本の大通り。その中で、北東に向かって伸びるものを真っ直ぐ進む狩夜。ほどなくして終点、船着き場の先の先へと辿り着く。


 船着き場は静かなものだった。いつもはいるであろう水の民たちの姿もない。きっと全員総出で跳ね橋の下に集まり、遠征軍を見送っているのだろう。


「あの、レイラさん? もう道がないんですけど? この先は泉で、舟じゃないと——って、何をしてらっしゃるんです?」


 強硬な態度のレイラに萎縮し、思わず敬語で話しかける狩夜だったが、そんな狩夜を無視してレイラは動く。頭上から飛び降り、狩夜の背中にへばり付いたのだ。


 次の瞬間、レイラの体から無数の蔓が出現。その蔓は、幾重にも幾重にも狩夜の体に巻き付き、背中から決して離れないよう、レイラの体を固定していく。


 ものの数秒で自身の体を狩夜の体に固定したレイラは、今度は右腕から蔓を出した。そして、薄っすらと見える対岸に向けて、勢いよくその蔓を伸ばす。


 ここにきて、ようやく狩夜もレイラの意図を察し、全身を強張らせた。


「レイラ! お願い、ちょっとだけ待って! せめて心の準備を——」


 止めるのは無理と判断し、せめて執行猶予をくれと願う狩夜であったが、やはりというかその言葉も無視される。


 狩夜の体がゆっくりと地面から離れ、一瞬空中で静止した直後、レイラが蔓の収納を開始。恐怖の横バンジーが始まった。


「ぎゃああぁあぁ!?」


 凄まじい空気抵抗を全身に感じながら、有らん限りの悲鳴を上げつつ、ウルズの泉の上を高速移動する狩夜とレイラ。過度のGに晒されながらも気絶しなかったのは、ひとえにサウザンドにまで鍛えられた身体能力のおかげに他ならない。


「ごふう!?」


 数百メートルの距離を数秒で移動した後、レイラが蔓の収納を一旦止めた。空気抵抗とGから解放された狩夜は、視点の定まらない両目で下を見つめる。すると、剥き出しの地面が見えた。どうやら、無事に対岸へとたどり着いたようである。


 レイラは、ゆっくりと狩夜を地面に下ろすと、すべての蔓を体内へと収納。次いで狩夜の背中をよじ登り、定位置である頭上へと戻る。


 そして——


 グイグイ。


「次はこっち~」と言いたげに、狩夜の髪の毛を引っ張って、前進を促してきた。


「きょ、今日はいつになく厳しいのね……」


 ふらつく体に鞭打って、レイラの指示する方向へと目を向ける。あの優しい相棒がここまでするのだ、きっと理由があるに違いない——と、狩夜は気を引き締めた。


 レイラが指し示す方向は、ウルズの泉の周囲に広がる密林、その奥地のようである。どう考えても魔物たちの領域だ。警戒して進むとしよう。


 狩夜は右手を腰に伸ばし、水筒と水鉄砲の水量を確認。次いでマタギ鉈を引き抜いた。一方の左手では、新装備の胸当てを触り、その存在を確かめる。


「よし、行こう」


 こう言って狩夜は歩きだす。一歩踏み出すごとに水辺からは遠ざかり、安全地帯から離れていく。


 すぐさま魔物と遭遇したが——ラビスタやビックワームばかりであった。レイラの力を借りるまでもなく、片手間で屠りつつ更に前進。


 その後、三十分ほど歩み進めた先に、それはあった。


「なんだ、あれ? 人面樹?」


 そう、そこには人面樹があった。木の幹にある三つのうろが絶妙な位置にあり、両目と口とを見事に表現している。


 ここがレイラの目的地なのだろうか? あの人面樹がいったい何だというのだろう?


「もしかして、植物型の魔物?」


 狩夜がそう言いながら首を傾げると、レイラが狩夜の頭から飛び降り、たどたどしい足取りで人面樹へと歩み寄る。そして、右腕から百合のような白い花を咲かせた。アルカナに媚薬を譲渡したときに出したものと同じ花である。


 レイラはその白い花を傾け、人面樹の口へと金色に輝く蜜を流し込んだ。


 直後、人面樹が眩いばかりに発光し、徐々に収縮を始める。そして、最終的には手のひら大のサイズにまで縮小し、とある形へと変化した。


 人型である。


 もう少し具体的に説明すると、背中に透明な羽を生やした小人であった。つまりは妖精である。


 人面樹が妖精へと変化したのか、妖精が人面樹に変化していたのかは不明だが、とにかく妖精だ。突然妖精が現れた。


 初めて目にする妖精の姿に、狩夜は目を見開いて硬直する。そんな狩夜の視線の先で、当の妖精は地面に横たわりながらすやすやと寝息を立てていた。が、突然目を開いたかと思うと、何かを探すように激しく首を左右に振り、懸命に辺りを見回す。


 そして——


「あ……」


 レイラの顔を正面に捉えたとき、妖精は首の動きを止めた。


「あ、ああ……ああ!」


 小さい両手をもっと小さい口元へと運んだ妖精は、感極まったように全身を震わせ、次いで叫ぶ。


「勇者様!」


「へ?」


 思いがけない単語に、狩夜の口から呆けた様な声が漏れる。そんな狩夜を意に介さず、妖精はレイラの手を取り、こう言葉を続けた。


「勇者様! 勇者様ですね!? よくぞきてくださいました! どうか……どうかこのイスミンスールを、世界樹をお救いください!」

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