038・第三次精霊解放遠征
「うわぁ……奇麗……」
ユグドラシル大陸で最大の貯水量と、最優の水質を誇るとされるウルズの泉を見回しながら、狩夜は感嘆の声を漏らした。
真上に存在する大空をそのまま映し出す巨大な水鏡。舟から身を乗り出して下を覗き込めば、十メートルほど先にある泉の底や、沈んでいる流木。そして、水中を優雅に泳ぐ水の民の姿がくっきりと見て取れた。凄まじい透明度である。
別名『女神の姿見』。ウルズの泉は、その二つ名に恥じない神秘的な場所であった。
「あれ? でも普通の魚が全然いませんね? というか、水の民以外の生き物が……あれ?」
寒気を覚えるほどの透明度を誇る奇麗な水。だがそれは、水の栄養のなさと、そこに生息する微生物の少なさを意味する。正直、この泉の水質は異常だ。ざっと水中を見回してみても、魚どころか水草や藻の姿すら見当たらない。ウルズの泉の中には、水の民以外の生物がほとんど存在しないのだ。
「なんで? 大自然に囲まれた、こんな大きな泉なのに……」
「ごめんなぁ僕。そない探しても魚は一匹もいてへんよ。ウルズ川水系の魚は、アタイらの御先祖様がみーんな食ってまったさかいな」
「ええ!?」
舟を押すスキュラの女の子の言葉に狩夜は声を上げて驚いた。そんな狩夜に向けて、スキュラの女の子はこう言葉を続ける。
「大昔。厄災によって水の民の故郷であるニブルヘイム諸島から追われたアタイらの御先祖様は、ここユグドラシル大陸の泉や河川に住み着いた。故郷を追われ、海すら魔物に奪われてもうたご先祖様には、もうそこしか居場所がなかったんやな」
「はい」
「当然のことやけど、生きてくには食わなあかん。せやけど、アタイら水の民はこんな体や。陸の上じゃまともに動けへん。そうなると、水ん中や水辺で手に入るモノを食うしかない。魚や甲殻類を真っ先に食い尽くし、普段は口にしない虫や水草にまで手を出して飢えをしのいだそうや」
「絶滅するまで……食べたんですか?」
「せやで。ああ、僕の言いたいことはわかる。食いすぎや言いたいんやろ? せやなぁ……絶滅はあかんなぁ……でもなぁ、アタイはしかたない思うんよ。御先祖様らかて、食い尽くしたらあかんことぐらいわかっとったはずや。せやけど、誰だって自分が可愛い、死にとうない。限界まで腹が減ったら、食ったらあかんものにも手が伸びる。アタイだってそやし、僕かてそうやろ?」
「……そうですね。僕でもそうしちゃうと思います」
スキュラの女の子の言葉に、狩夜は少し間を空けてから同意した。
「食べなければ死ぬ」「人は命を食べて生きている」マタギである祖父から耳にタコができるほど聞かされた、残酷で絶対の掟だ。この掟に今更口を挟む気など、狩夜にはない。
まあ、狩夜は現代日本人なので『絶滅』の二文字には自然と拒否反応が出てしまうが、故郷を追われ、他に食べ物がない極限状況なら仕方ないとも思う。カルネアデスの板ではないが、極限状態でなら非人道的なおこないも擁護されることが多い。
この時の水の民を擁護する者、非難する者、双方いると思うが——少なくとも叉鬼狩夜という一人の人間は、水の民を擁護する側に回った。生きるためには仕方ない。これが狩夜の結論である。
狩夜の言葉にスキュラの女の子は小さく頷き、話を先に進めた。
「ん、わかってくれてありがとうな。ほんじゃあ話を元に戻すけど、そんなこんなで水ん中の食べもんをあらかた食い尽くして、陸に上がって魔物に殺されるか、それとも飢え死ぬかの二択を迫られたご先祖様に手を差し伸べて、庇護っちゅう三つめの選択肢を与えてくれたのが、イルティナ様の話にも出てきた木の民の王様っちゅうわけやな」
「なるほど」
「水ん中に生き物がおらんから、ウルズ川水系の水はちっとも汚れへん。マナには浄化作用もあるさかい、水は綺麗になる一方や。せやから今のウルズ川水系は、人間以外の生き物にとってかな~り棲みづらい環境になっとる。まあ、アタイら水の民からしたら、水は奇麗なほうが快適なんやけど」
水清ければ魚棲まず――ということらしい。水道水では魚が長生きできないのと同じだ。
「まあ、魚が食いとうなったら僕の地元のミーミル川水系か、フヴェルゲルミル川水系にいきぃや。そっちの川には魚が普通におるさかいな。光の民や月の民に「役立たずの水の民は出てけ~」「俺たちの魚を食うな~」って、ご先祖様が追い出されたみたいやから」
「……ごめんなさい」
名目上ではあるが、自身を光の民ということにしている狩夜は、スキュラの女の子に対して深々と頭を下げた。すると「気にせんでええよ~」という言葉がすぐさま返ってくる。
「僕はほんに真面目な子やね。謝ることなんてな~んもあらへんよ。アタイらが生まれるずっと、ず~っと前の話や。その頃はどの民も余裕なんてなかったんやからしゃーないわ」
スキュラの女の子は「なはは」と笑う。そして、こう言葉を続けた。
「アタイら水の民は、【厄災】からこっち、割を食うことが多いんよ。今の大開拓時代かて、ユグドラシル大陸には水棲魔物がおらんさかい、開拓者になれる水の民はほんの一握りやしなぁ……」
「あれ? でも僕、最強の開拓者は水の民だって聞きましたよ?」
そう、現時点において唯一ハンドレットサウザンドの高みにまで上り詰めた、イスミンスール最強の開拓者。それが水の民であったはずである。
“流水”の二つ名を持ち、世界最強の剣士とまで称された、その水の民の名前は——
「えっと確か……フローグ・ガルディアスさん」
「そやねん! フローグはんは、割を食い続けたアタイら水の民の、希望の星やねん!」
フローグの名前にスキュラの女の子は激しく反応し、その両目を輝かせた。そして、興奮した様子で狩夜を捲くし立ててくる。
「フローグはんわ強くてカッコええ男やで! 両生類系の水の民で、顔や体格はちょ~っとあれなんやけど……なんて言うんかなぁ……そう、あれや、心のイケメンなんや! アタイはあの人めっちゃ好きやで~! うん、フローグはんになら抱かれたい! この体を喜んで差し出すわ!」
「そ、そうですか……」
「僕は運がええで! 今、ちょうどフローグはんがウルザブルンに帰ってきてるんや! 都についたら探してみ! そら、そうこうしとるうちに到着や!」
こう締めくくってスキュラの女の子は口を動かすのをやめ、それと同時に舟を押すのもやめた。木と水と風の都、ウルザブルン。その北門付近の船着き場へと到着したのである。
すぐ隣で丸太から船着き場へと飛び移るイルティナ。それを見た狩夜も慌てて後を追う。葉っぱの舟から船着き場へと飛び移り、次いで踵を返して、舟の船尾に腰かけるレイラの体を両手で持ち上げた。
狩夜の胸の中で、葉っぱの形状をデフォルトへと戻していくレイラ。それを見たスキュラの女の子が「え!? あの舟、この子の葉っぱでできてたん!?」と目を丸くするのを尻目に、狩夜は周囲を見回した。そして、船着き場に設置されたウルザブルンの簡易地図を発見する。
どうやらウルザブルンは、ウルズの泉に浮かぶ人工島の上に築かれた水上都市であるらしい。中心にそびえる白亜の城——ブレイザブリク城から蜘蛛の巣状に八本の大通りが広がっていて、それら大通りの終点には必ず船着き場があり、陸地に繫がっているものは一本もない。いや、正確には一本だけあるのだが、そこは跳ね橋になっており、平時は橋が上げられているようだ。
つまり、ここウルザブルンに足を踏み入れるためには、必ず水上を移動しなければならないのである。
水に周囲を囲まれた都。それは天然の要塞だ。水に溶けたマナを嫌う魔物たちは、空でも飛ばない限りウルザブルンには近づくことさえできないのである。現在のイスミンスールにおいて、最も安全な場所の一つと言えるだろう。
「ここまで大儀であった。料金の100ラビスだ、受け取ってくれ」
物珍しげに周囲を見回している狩夜の隣で、人魚の青年に二人分の料金を支払うイルティナ。人魚の青年は「はは! ありがたく頂戴します!」と深く頭を下げ、両手で百ラビス歯幣を受け取る。次いで、期待を含んだ視線でイルティナを見上げながら、こう言葉を続けた。
「あの、この丸太はどういたしましょう?」
「その丸太はそなたらに譲る。家に持ち帰るなり、木材屋で金に換えるなり好きにせよ」
この返答に人魚の青年の顔がほころんだ。再度頭を下げ、大声で礼を告げてくる。
「ありがとうございます! では、我々はこれで!」
「ほなな~僕。縁が合ったらまた会おうや~」
嬉しげに丸太を抱えながら遠ざかっていく人魚の青年と、狩夜に手を振るスキュラの女の子。狩夜はスキュラの女の子に手を振り返し「いろいろありがとうございました~」と声を上げた。狩夜の腕の中ではレイラも右手を振っている。
「では、城まで先導しよう。カリヤ殿、ついてきてくれ」
「はい」
レイラを定位置である頭上に乗せながら頷き、狩夜は前を行くイルティナの後を追った。
二人が歩く木造の船着き場には大勢の水の民がいて、イルティナのことに気がついた者が「あ、イルティナ様だ」「ほんとだ。ティールから帰ってきたんだ」と声を上げ、イルティナの名前を呼びながら手を振ってくる。
その中には当然女の子もいて、露出の多い水の民が手を振ると、胸がプルプルと揺れて目の保養―—ではなく、目に毒だ。狩夜は思わず顔を赤らめてしまう。
中には貝殻ビキニや、かなりえぐい水着を身に着けている者もいて、狩夜の視線に気がつくと、ウインクをしたり、投げキッスをしたりしてきた。もっとあからさまに「坊や、おねーさんと遊ばない?」と、直接声をかけてくる者もいる。どうやら水の民は、木の民に比べて性に奔放な者が多いらしい。
狩夜を挑発してきた水の民は全員がかなりの美人で、豊満な体つきをしていた。特に直接声をかけてきた女性が凄い。なにが凄いって、胸部に実ったたわわな果実が凄い。メロンかスイカかという大きさで、その魅惑の果実を彩るのは、布の面積を極限まで減らしたヒモ水着であった。
そういったことに免疫のない狩夜はすぐさま真っ赤になり、視線を下に向けてしまう。すると「きゃ、かわいい♡」「ああん♡ あの子食べちゃいたい♡」「夜になったらまたここに来て。おねーさんたち、ずっと待ってるから♡」という甘い声が立て続けに上がった。狩夜の顔は更に赤みを増し、今にも火が付きそうな様相である。
思わず前かがみになりながら歩く狩夜。そんな狩夜に向けて、イルティナが小声で注意を促してくる。
「カリヤ殿。彼女らは……その、男性と肌を重ねることを生業にしている者たちだ。男の開拓者を見るや、先ほどのように誰彼かまわず声をかけ、少しでも脈ありとみれば男の耳に心地よい言葉を投げてくる。だが、目当てはカリヤ殿本人ではなく、カリヤ殿の財布の中身だ。本気にしてはいけないぞ」
「で、ですよね……」
イルティナの注意に素直に頷く狩夜であったが、煩悩にまみれた思春期の脳内では、プロのお姉さんとの禁断の関係をあれこれ想像してしまっていた。
彼女らは男性と肌を重ねることを仕事と割り切るプロ。ということは、お金さえ支払えば、相手が童顔チビの童貞であろうと、彼女たちは本気で相手をしてくれるということに他ならない。
そう、お金次第で、あの美しく豊満な人魚たちは、狩夜に料理されることを従順に待つ、まな板の上の鯉に成り下がるのだ。
狩夜の脳内ベットに身を沈める人魚たち。魅惑の海鮮丼から笑顔で手招きされ、狩夜は鼻息荒くベッドに近づいた。そして、誘われるままに両手を伸ばし、いよいよ禁断の果実に手が触れようとした、まさにその時——
「——って、いかんいかんいかーん! 煩悩退散、煩悩退散、色即是空、色即是空!」
狩夜は激しく頭を振り、ピンク色の思考を脳内から排除した。突然左右に揺さぶられたレイラは、慌てて狩夜の頭にしがみ付き、振り落とされまいと必死である。
どうにか平常心を取り戻した狩夜は、「よし、もう大丈夫」と小さく呟き、背筋を伸ばした。「いきなり何するんだよ! も~!」と言いたげなレイラのペシペシ抗議を頭皮で感じながら、気を引き締めてイルティナの後に続く。
ほどなくして、狩夜とイルティナは船着き場を後にし、ウルザブルンの北門を潜った。すると、白を基調とした石造りの街並みと、大勢の人混みが狩夜を出迎える。大変なにぎわいであった。開拓村のティールとは比較にならない。
純血の木の民がいた。ブランの木の民がいた。背中から羽を生やした有翼人がいた。半人半鳥のハーピーもいた。彼らが風の民。体のどこかに鳥類の特徴を有する有翼種族である。
他にも光の民がいた。闇の民、火の民、地の民、月の民の姿もあった。九割以上が木と風の民であったが、ウルザブルンはイスミンスールに生息する人類、その全種族を見事にコンプリートしていた。さすがは首都。実にグローバルな光景である。
「凄いですね、イルティナ様!」
初めて目にした多種多様な人種に興奮し、弾んだ声色でイルティナに語り掛ける狩夜。だが――
「……」
いつまで待ってもイルティナからの返答がない。何事かと思い狩夜が視線を横に向けてみると、呆けた様子でウルザブルンの人混みを眺めるイルティナの姿が目に飛び込んできた。
狩夜は首を傾げ、再度イルティナに語りかける。
「イルティナ様? どうかしたんですか?」
「あれはパーティ『火竜の牙』のシールドホルダーじゃないか……あそこにいるのは『
イルティナは狩夜からの二度目の問いかけも無視し、地元であるはずの街並みを呆けた様子で眺め続けている。やがて、イルティナの視線は何かに引き寄せられるかのように人混みのある一点へと移動し、盛大に見開かれることとなった。
イルティナの視線の先には、大勢の子供たちに囲まれながら、我先にとサインをせがまれる光の民の姿がある。
金髪をオールバックにした、長身骨太の青年だった。ハリウッド男優を彷彿させるかなりの美男子であり、筋肉という鎧を全身に纏っている。タンクトップとズボンだけというラフな格好であったが、開拓者になって僅か数日の狩夜でも、一目見てあること理解した。
強い——と。
あの青年は、狩夜が今まで目にしてきた、誰よりも強い。
「ランティス……だと? なぜ彼がウルザブルンにいる?」
「誰です、あの人?」
「ランティス・クラウザー。光の民のトップ開拓者だ。テンサウザンドの開拓者の一人でもある」
「テンサウザンドの……」
ようやく反応を示したイルティナの言葉に狩夜は驚く。イスミンスールに数十人しかいないというテンサウザンドの開拓者。その一人が彼であるらしい。
「どういうことだ? 目につく開拓者、その誰もが名の知れた者ばかりではないか……フローグ殿も帰ってきているというし……まさか……」
ここでイルティナは一度言葉を区切り、天を仰いだ。そして、震える声でこう呟く。
「第三次精霊解放遠征が始まる?」
イルティナのこの言葉は、狩夜とレイラにだけ届き、空気に溶け込むように消えていった。
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