037・木と水と風の都
「……」
イルティナとの水浴びを終えた後、狩夜は神妙な顔つきで葉っぱの舟の上で腕を組み、無言で波に揺られていた。それに同乗するレイラは、丸太に乗って並走するイルティナを置き去りにしないために船を漕ぐのをやめている。船尾の上にちょこんと腰かけながら、気持ち良さげに日光浴に興じていた。
「カリヤ殿、私もそちらの船に乗せてはくれないか? そちらの方がなにかと快適そうなのだが……」
竹の槍で丸太を巧みに操作しながら、肌が妙に艶めいているイルティナが声を上げた。その言葉に、狩夜は腕を組んだままこう答える。
「嫌です」
「そう言わずに——」
「い・や・で・す! どうせまた変なことをするつもりでしょう! 一緒の舟なんかに乗ったら、何されるかわかったもんじゃありません!」
水浴びの最中にされた過激なスキンシップを脳内で思い出しながら狩夜は叫ぶ。その顔は熟れたトマトの様に真っ赤であり、視線と声にはイルティナへの非難がこれでもかと込められていた。
「うぅ……汚された……僕、汚されちゃったよぉ……」
「その言いかたはないだろう。まるで私がカリヤ殿に酷いことをしたみたいではないか」
「しましたよ! 純情な僕の心と体をたっぷり弄んだじゃないですか! 僕はやめてって言ったのに! 許してって言ったのに!」
「はは、すまない。少々はっちゃけすぎたようだ。カリヤ殿の反応が可愛かったから、つい我を忘れてしまった」
「つい、じゃありませんよ! あれは色々とやりすぎです! ジルさんとうまくいかなかった理由がはっきりしました! どうせ長身のイケメンよりも、小さい男の子のほうが好みなんでしょう!?」
「うん」
「あっさり認めないでくださいよこのショタコン! イルティナ様が普段猫をかぶってるってことが、よ~くわかりました!」
「許してにゃん♪」
「————っ!!」
真っ赤な顔で喚き散らす狩夜に対し、笑みを絶やさず余裕しゃくしゃくといった様子で言葉を返してくるイルティナ。悪びれた様子のないその態度に、狩夜はますますヒートアップする。それこそ相手の思う壺だと気づかずに、イルティナの手の平の上で躍り続けてしまう。
「可愛く言ってもダメです! 僕は怒っているんですからね!」
「可愛い? ふふ、そうか。私は可愛いか。最近は美しいという評価ばかりだったから、なんだか新鮮だな」
「褒めてません! そろそろ真面目に――って、あれ?」
と、言葉の途中で狩夜は口の動きを止めた。イルティナの顔つきと、身に纏う雰囲気が、突然変化したことに気がついたからである。
顔つきは、弟を見つめる姉のようなものから、やや憂いを帯びた真顔へと変わり。身に纏う雰囲気は、優しげで暖かいものから、高貴で厳かな王女のものへと切り替わった。有無を言わさぬ王族の風格を前にして、狩夜は照れ隠しでしかない怒りを早々に放棄する。
―—だめだ。今のイルティナ様に、軽々しく口を利いてはいけない。
即座にそう理解した狩夜は、頭を冷やしながら周囲に意識を巡らせる。イルティナが態度を改め、猫をかぶり直した理由が何かあるはずだ。
「ん?」
ほどなくして狩夜は気がついた。下だ。川の中に何かいる。
魔物かと思いマタギ鉈へと手を伸ばす狩夜であったが、すぐに頭を振った。多量のマナが水に溶けているユグドラシル大陸に、水棲魔物は存在しない。
ならいったいなんなんだ? と、狩夜が首を傾げたとき、それはその姿を現した。
「丸太を押して
「ああ、北門付近まで頼む」
「はい、毎度ありが——って、よく見たらイルティナ様じゃないですか! 大変失礼いたしました。相手がイルティナ様じゃあ、金なんて受け取れねぇなあ」
水面から上半身を出すなりイルティナに話しかけたそれは、精悍な体つきをした人間の上半身と、シーラカンスのような魚の下半身を持つ半人半魚の生物であった。
そう、人魚である。
「水の民……」
恐縮した様子でイルティナと相対する人魚の青年を見つめながら、狩夜は小声で呟く。
水の民。体のどこかに水棲生物、もしくは両生類の特徴を有する種族で、水精霊ウンディーネを信仰している水の申し子たち。
狩夜は初めて目にする人魚の姿に目を輝かせた。作り話の中だけの存在が、今目の前にいる。心が躍って当然であった。これぞ異世界! 心からそう思える瞬間である。
この人魚の青年は、どうやら運び屋を生業としているらしい。開拓者やキコリが丸太に乗ってウルズ川を下ってきては声をかけ、先ほどのように商談を持ちかけるのだろう。
「大至急仲間を呼んで
「不要だ。料金も規定のものを払う。特別扱いなどせずともよい」
「しかし——」
「よいのだ。連れもいる。先ほども言ったように、このまま北門まで運んでくれ」
「……わかりました。おい、お連れの方の舟を都の北門までお押ししろ」
「はーい」
人魚の青年の声に反応し、水面から青い髪と青い肌を持つ女の子が顔を出した。大きい黒目が特徴で、適度に膨らんだ胸を三角ビキニで隠した中々に可愛い子である。まあ、下半身はタコであったが。
「すごい。スキュラだ」
葉っぱの舟の後ろに回り、舟を押すべく手をつく女の子を凝視しながら狩夜は呟く。すると、狩夜の視線に気が付いた女の子が、首を傾げながらこう口を動かした。
「どしたん僕? アタイのことをそない真剣に見つめて……もしかして、おねーさんに一目惚れとか? ふふん、そかそか。ええよ、開拓者が相手ならおねーさん大歓迎や。もうちょっと大きゅうなったら声かけてーな」
スキュラの女の子はそう言いながら笑う。実年齢はそんなに変わらないであろう相手に露骨に年下扱いされ、顔を引きつらせる狩夜であったが、失礼なのは女の子の体をジロジロ見た自分も同じなので、そのことについてはスルーした。とりあえず誤解だけは解いておこうと、謝罪しながら理由を話す。
「ああ、すみません。僕、水の民を見るのは今日が初めてで、つい。気に障ったのなら謝ります。ジロジロ見てごめんなさい」
狩夜がこう言いながら頭を下げると、女の子は苦笑いを浮かべた。そして、こう言葉を返してくる。
「僕は真面目な子やね、別に謝らんでもええよ。そか、水の民は初めてか。なら、今の内におねーさんのことよーく見とき。都に着いたら水の民がぎょーさんおるさかいな。キョロキョロしとるとお上りさんだと思われてカモにされんで」
「ふえ? 水の民がたくさん? これから行く水上都市は、木の民の首都なんじゃ……?」
「ああ、そういえばカリヤ殿にはまだ話していなかったな。これから向かう都は、我ら木の民だけでなく、水の民と風の民の首都でもあるのだ」
「え?」
水の民の力を借りて高速で川を下る最中、イルティナは首都と木の民、そして、水の民と風の民についての説明を開始する。
【厄災】の呪いによって、イスミンスールで生きる全人類は多大な影響を受けた。人類最大の武器である“レベル”と“スキル”の喪失。マナの減少による魔物の強化と凶暴化。そして、種族としての弱体化である。
例えば木の民。木の民は、八種の人類の中で最も長命であるとされ、一般人でも数千年、王族にいたっては寿命という概念すらなく、永遠に近い時を生きることができたそうだ。
その膨大な寿命を、【厄災】の呪いは木の民から取り上げた。今や木の民の寿命は他種族と大差なく、長くても八十年くらいしか生きられないのだという。
このように、【厄災】の呪いは種族としての一番の特徴を著しく弱体化させるのだ。そして、この弱体化で最も割を食ったと言われているのが、水の民と風の民である。
水の民は水中活動の要であるエラ呼吸を失い、陸に上がった魚になり果てた。風の民はその誇りである翼を奪われ、地を這う鳥へと失墜する。
水中と空中での活動に特化したその体は、陸上生活においては足枷でしかない。かつて海と空において敵なしと謳われた二種族は、どの種族よりも早く滅亡の危機に瀕した。
命からがらユグドラシル大陸に逃げ込むも、ユグドラシル大陸に生息する弱い魔物にすら陸上では圧倒され、もはやこれまでかと諦めかけていたそのとき、庇護という名の救いの手を差し伸べてくれたのが、イルティナの先祖でもある木の民の王であったらしい。
【厄災】直後でどの種族も余裕がなかったにもかかわらず、無償で差し出された救いの手に、当時の水の民の王と、風の民の王は強く感銘を受けたそうだ。そして、木の民の庇護下に入る代わりに王権を放棄し、民の象徴としての王という立場を受け入れる。
以後、木、水、風の民は協力してウルズ王国を作り上げ、今に至るというわけだ。
「ウルズ王国は、木、水、風の民から構成される多民族国家なのだ。だが、その国政は国の頂点である父上――木の民の王によって運営されている。木の民の庇護下にある水と風の民の王は、あくまで民の象徴でしかない」
「はあ、なるほど……」
日本の象徴天皇制みたいなものか――と、狩夜は心の中で納得した。
「それで、その三種族が協力して作り上げたっていう、ウルズ王国の首都はどんな町なんですか?」
「ふふ、それは実際に見たほうが早いだろう。百聞は一見に如かず――だ。ほら、そうこうしているうちに見えてきたぞ」
そう言ってイルティナは右手を上げ、進行方向を指差した。それに釣られて狩夜も進行方向へと視線を向ける。
どうやら話し込んでいるうちに随分と移動していたらしい。延々と続いていた森が終わり、視界が開ける寸前の所にまで狩夜たちは既にやってきていた。
一分と待たず、狩夜とレイラはスキュラの女の子の手で、泉と称するにはあまりに巨大な水鏡の上へと押し出された。直後、水上に築かれた白亜の都が狩夜の目に飛び込んでくる。そして、それと同時にイルティナがこう告げた。
「ようこそ。木と水と風の都【ウルザブルン】へ」
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