017・壁の向こう側

「っし!」


 狩夜は、すぐ右隣を並走する猪型の魔物、ボアの首目掛け、右手のマタギ鉈を下から上へと切り上げた。


 一筋の銀光となったマタギ鉈は、ボアの首に埋没した後、切り上げた時の勢いそのままに振り切られる。


 狩夜はそこで走るのをやめ、ボアの動きを目で追った。ボアはその後もしばらく走り続けたが、ほどなくしてよろめき、転倒。首から大量出血しながら数秒間もがき、やがて事切れた。


「レイラ、回収よろしく」


 狩夜がこう口にすると、頭上で狩りを見守っていたレイラが動く。右手を突き出して蔓を出現させると、ボアの体を軽々と持ち上げ、口の中に丸ごと放り込こんだ。


 レイラの口の中にボアが消えたことを確認した狩夜は、速足でその場を離れた。ボアの血の匂いにつられてこの場にやってくるであろうベヒーボアとの遭遇を避けるためである。レイラの力を借りればどうとでもなるだろうが、それは今日の狩りの趣旨に反する。長居は無用だ。


 川から離れすぎるなというイルティナからの忠告。それを頭の片隅に常に置きつつ森の中を移動する狩夜。そして、足を動かしながらこう思う。


 すごい——と。


 人間の壁を破る。


 一と零では大違い。


 この言葉に嘘はなかった。ソウルポイントによって『筋力UP』『敏捷UP』『体力UP』『精神UP』の四項目すべてが強化された狩夜の身体能力は、一般人のそれを遥かに上回っている。


 時速五十キロで走ることが可能だという猪。そんな猪と森の中で並走できてしまっただけでも驚きなのに、疲れはほとんど感じていない。筋力にしてもそう。走りながらの切り上げという、かなり無理のある動きであったにもかかわらず、ボアの首をあっさりと切り裂いてしまった。どれもこれもが、昨日までの狩夜では逆立ちしても不可能だったはずの動きである。


 いや、昨日の時点で『体力』と『筋力』は一回ずつ強化されていたのだから、厳密にいえば可能ではあったはずだ。だが、脳がリミッターをかけていた。これ以上の動きをしては体が壊れてしまうという、人間が本能でかけているリミッターだ。それが、すべての項目を一回ずつ強化したことで外れたのだろう。そして、それこそが人間の壁を破るということなのだ。


 壁の向こう側は凄いの一言。もう弱い魔物、ラビスタやビッグワーム、ボアには脅威を感じない。デイリークエスト関連のこの三種以外にも、カタツムリ型のデンデンや、トカゲ型のフォレストリザードなども仕留めているが——やはり脅威とは感じなかった。レイラの力を借りなくても余裕で倒せる。


 開拓者になりたてで、まだハンドレットである狩夜でも楽勝。ならば、他の大多数の開拓者も同じことができるのが道理である。やはり、ユグドラシル大陸の魔物はかなり弱いようだ。


 この森の中に生息し、人間の壁を破った開拓者の脅威足りえる魔物は、主を覗けば恐らく五種。圧倒的巨体を誇る猪型のベヒーボアと、高い知能を持つ猿型のワイズマンモンキー。あとは、飛行能力と毒を持つという蝶型のポイズンバタフライと、蜂型グリーンビー。そして——


「……いた」


 今狩夜が見つけた、熊型のベアだけである。


 狩夜は、デイリークエストの最後のターゲットであり、力試しとしてはうってつけの相手であるベアの姿を見据えながら、風下から慎重に近づいた。


 森の中をノシノシと歩くベア。近づくにつれて再確認するその巨体に、狩夜は思わず息を飲む。


 正直、怖い。怖くてたまらない。当然である。森の中で熊と遭遇するなど、日本人にとっては悪夢でしかない。加えて、狩夜はマタギである祖父からも、熊の恐ろしさは幼いころより耳にタコができるほど聞かされているのだ。


 日本最強最大の陸上動物、それが熊。


 狩夜は、今からその熊を独力で狩ろうとしている。一般人には絶対にできないことを成し遂げ、自分は強くなったんだと自覚するために。


 手の平から汗が噴き出してくる。心臓が跳ねまわり、呼吸が乱れる。レイラが一方的に仕留めるところを見ているだけだった昨日とは、何もかもが別だった。世界そのものが違って見える。


 覚悟はとうにできていたはずなのに、実物を見たら気持ちが揺らいでしまった。だが、それも仕方ない。幼いころから刷り込まれた恐怖心は、そうやすやすと克服できるものではないのだ。


 何か切っ掛けが欲しい——と、狩夜は周囲に視線を巡らせた。そして、つい先ほど購入した水鉄砲が目に入る。


 マタギ鉈を地面に置き、狩夜は水鉄砲を手に取った。手作り感あふれる竹製の水鉄砲。その中には、魔物が嫌い、魂を浄化するマナが溶けたユグドラシル大陸の水が、たっぷりと詰まっている。


 水鉄砲を見つめながら、狩夜は胸中で「よし、これで」と呟いた。次いで水鉄砲の蓋を開け、森に乱立する大木の陰から上半身だけを出し、ベアに向けて水鉄砲を構える。


 そして——


「おらぁ! こっちだ毛玉野郎!」


 自らを鼓舞するかのようにあえて大声を出しながら、水鉄砲を発射した。


 狩夜の声に反応し、すぐさま顔を狩夜の方へと向けるベア。その顔面に——


「グルゥアァ!?」


 水鉄砲から発射された水が直撃する。次の瞬間には、黒い煙の様なものがベアの顔面から上がりはじめた。


 苦し気な鳴き声を上げ、両前足で顔面を覆いながら立ち上がるベア。上半身をがむしゃらに動かしながらたたらを踏み、今にも転びそうである。


 隙だらけなベアの姿を見据えながら、狩夜は意を決してマタギ鉈を再び手に取り、大木の陰から飛び出した。


 先ほどとは違い声を上げたりはしない。無言のまま全力で走り、苦しむベアとの距離を瞬く間に詰めていく。そして、無防備にさらされたベアの腹部目掛け——


「——ッ!!」


 マタギ鉈を、地面に対して水平に一閃する。


 肉を切り裂く確かな手ごたえと共に、マタギ鉈を振り抜く狩夜。致命傷を与えたと確信しながら、すぐさま距離を取り、ベアの両手が届く範囲から離脱する。


 次の瞬間——


「グルゥウアァアァァアァ!!」


 先ほどよりも遥かに大きい絶叫を上げるベア。そして、いまだに黒煙を上げ続ける顔面から両前足を放し、再び四足歩行の体勢を取る。次いで、凄まじい形相で狩夜を睨みつけてきた。逃げる様子は——ない。どうやらベアは、手負いのまま狩夜と戦うことを選択したようである。


 切り裂かれた腹部からは、夥しい量の血液に加え、内臓すらも重力に従って垂れ下がっていた。間違いなく致命傷。どのような治療を施そうと、あと数分の命だろう。


 ベアは、その数分という命をここで燃やし尽くし、狩夜に一矢報いようとしている。


 ここで狩夜は、祖父から教えられたある言葉を思い出し、小さく呟く。


「手負いの獣が、一番怖い」


 狩夜は、マタギ鉈を逆手に構えながらベアを見据え、全身に闘志を漲らせた。


 先ほどの一撃で吹っ切れたのか、もう恐怖は感じない。ただただ頭と心臓が熱かった。もう狩夜の目には、ベアの姿しか映っていない。


 そして、示し合せたかのように、狩夜とベアが同時に地面を蹴る。


 瞬時に詰まる距離。交錯する猛獣の爪と、鋼の刃。


 届いたのは——


「——っらあ!」


 鋼の刃の方だった。


 決死の覚悟で振るわれた猛獣の爪を掻い潜り、狩夜は銀閃を走らせた。ベアの右脇腹から臀部にかけて、一直線に深く鋭い傷が刻まれる。


 肉と骨だけでなく、いくつもの主要臓器を切り裂いたその一撃は、残り少ないベアの命を全て刈り取るのに、十分すぎる一撃であった。


 己の勝利を確信しつつ、戦った相手の最後を見届けようと、ベアへと向き直る狩夜。それと同時にベアは事切れ、その巨体を地面へと完全に横たえる。


「……勝った」


 その場にへたり込みそうになる自身の体をどうにか支えながら、狩夜は小さく呟いた。ほどなくして、強い達成感と共に、喜びの感情が爆発する。


「勝った! 僕だけの力で熊に、こんなおっきな魔物に勝ったんだ!」


 一般人では絶対になしえない偉業。強くなったという事実、そして実感に、狩夜は歓喜の声を上げた。その直後、レイラが動く。二枚ある葉っぱを広げ、狩夜を抱き締める様に包み込んだのだ。


 レイラも祝福してくれている。そう思った狩夜が、お礼の言葉を口にしようとした、次の瞬間——


「え?」


 狩夜は、間の抜けた声を漏らしていた。


 狩夜の全身を包み込んだレイラの葉っぱ、その外側から、いくつもの衝突音が響き渡ったからである。


 突然の事態に愕然としながらも、狩夜は昨晩眠る前にレイラとした、ある話を思い出していた。


 その話とは『狩夜が助けを求める、もしくは危機に陥らない限り、基本的には手出し無用』という、レイラへの依存を打ち切り、狩夜が強くなるための、今後の戦闘における基本方針であった。


 この話をした当初、レイラは「もっと私に頼ってくれてもいいのよ?」とでも言いたげな顔で首を左右に振っていたのだが、長い時間をかけて説得し、どうにかこうにか説き伏せた。ゆえに、今日の狩りでレイラは、魔物の回収以外では一切狩夜に力を貸していない。


 そんなレイラが、動いた。これはつまり——


「……くそ」


 周囲の様子をレイラの葉っぱの隙間から確認した後、狩夜は小さく悪態をつく。


 ワイズマンモンキーが、いた。いつの間にやら、狩夜の頭上には四匹ものワイズマンモンキーがおり、四方から狩夜を包囲している。


 先ほどの衝撃音は、ワイズマンモンキーの投石によるものだろう。ワイズマンモンキーは、狩夜がベアに気を取られている間に接近し、狩夜が隙を見せ、投石で確実に仕留められる瞬間を、ずっと待っていたに違いない。


 なんでそんな手の込んだことをしてまで狩夜の命を狙ったのか? 答えは簡単。間違いなく、昨日の意趣返しである。真正面からでは勝てないと踏んで、このような暗殺を企てたのだ。


 レイラは、そんな暗殺者たちの魔の手から、狩夜を守ってくれたのである。


「なんだよ……全然だめじゃないか……」


 狩夜は俯き、肩を震わせた。


 また守られた。一人だったら、間違いなく死んでいる。


 調子に乗った自分が恥ずかしかった。人間の壁を破って、身体能力が上がっても、結局狩夜はこの程度なのである。


 弱くて、情けなくて、矮小だ。


 こんな体たらくでは、他の誰かを助けるどころか、自分の身すら——


 ペシペシ。


 弱気な考えを止めたかったのか、もしくは今にも泣きだしそうな狩夜を慰めたかったのか、レイラが頭を叩いて来る。頭部に感じる優しい衝撃に元気づけられ、狩夜は気を取り直し、顔を上げた。そして、自身の暗殺を企てたワイズマンモンキーの群れを、敵意を持って睨み付ける。


「キー! キー!」


 一方のワイズマンモンキーたちは笑っていた。入念に準備された暗殺が失敗に終わったというのに、余裕の表情で狩夜とレイラを見下ろしている。


「キャー!」


 リーダーと思われる固体が、鳴き声と共に何かを放り投げてきた。すわ投石かと思ったのだが、随分とゆっくりなうえに、軌道も狩夜から大きく外れている。


「「「キャー! キャー!」」」


 他の三匹もリーダーに続き、何かを放り投げてくる。そのどれもが狩夜から少し離れた場所に落下し、地面を転がった。


 計四つ。狩夜の周囲に投げられた、その何かは——


「……ラビスタ?」


 そう、ラビスタであった。しかも、全身傷だらけで、事切れる寸前といった様子のラビスタである。


 ワイズマンモンキーの意図が読めず、血まみれのラビスタを訝し気に見つめながら狩夜が首を傾げた。が、その直後。狩夜の耳に、聞き覚えのある音が届く。


「こ、これって……」


 それは、けたたましい足音。聞き間違えでなければ、狩夜が異世界にきた直後に聞いた、あの足音に酷似している。しかも一つではない。全方位、至る所から聞こえてくるその足音は、まるで地鳴りであった。


 ここにきて、狩夜はワイズマンモンキーの狙いに気がついた。奴らは血まみれのラビスタを使って、ここまで誘導してきたのである。この森に生息する魔物の中で、主を覗けば最も強く、恐ろしい魔物を。


 新人殺しの異名を持つ漆黒の四足獣。その魔物の名は——


「ブモォオォォオォ!」


 ベヒーボア。


 狩夜が目にした主化した個体に比べて、一回り以上小振りであったが、それでも十分に大きい。主がダンプカーなら、こっちは軽自動車といったところだろう。


 そんな黒い暴獣が群れをなし、円を小さくしていくかのように狩夜とレイラに突撃してくる。


「キャー! キャー!」


 木の上という安全圏で高みの見物をしながら、ワイズマンモンキーが嬉し気に声を上げた。多くの仲間を屠った狩夜とレイラが、自らが誘導したベヒーボアに潰されるところを、今か今かと待っている。


 真正面から戦って勝てないなら暗殺を企て、それでも倒せないなら、別の魔物を利用し、殺させる。その知能の高さに、狩夜は素直に舌を巻いた。そして、狩夜はワイズマンモンキーの狙い通り、大ピンチである。


 全方位から隙間なく迫りくるベヒーボアの大群。それらを避ける術など、狩夜にはない。川に向かうのは——無理だ。ベアを見つけ、追いかけているうちに、思っていた以上に森の奥まできてしまっている。正面から戦うなど論外。質量の暴力の前に、為す術もなく踏み潰されるだけだ。狩夜一人の力では、もうどうしようもない状況であった。正直、お手上げ。完全に詰んでいる。


 狩夜は小さく嘆息した。そして、自らの無力を胸中で嘆きつつ、こう口にする。


「調子に乗って、本当にすみませんでした……」


——もう二度と、自分が強いなどと思いません。狩りの最中に油断もしません。だから——


「レイラ……お願い、助けて」


 狩夜の口からこの言葉が放たれた瞬間、レイラは狩夜の防衛にまわしていた二枚の葉っぱを、周囲に向けて無造作に振るう。すると——


「ウキャ!?」


 狩夜とレイラを中心にして、世界が上下に分割された。


 狩夜に向かって爆走していたベヒーボアの大群も、周囲に乱立する森の大木も、レイラの葉が通過した場所にあったすべてのものが、ものの見事に切り裂かれ、上下に泣き別れしている。


 切り倒されていく大木の上で、ワイズマンモンキーが目をむいていた。先ほどの状況から逆転されるとは思っていなかったのか、反応が遅れ、宙に放り出されてしまう。なす術なく地面に向かって落下していった。


 そんなワイズマンモンキーたちを見つめながら、レイラが笑う。口裂け女のような、あの笑みだ。


 落下途中のワイズマンモンキーの表情が恐怖一色に染まった直後、その表情は永遠に動かなくなる。


 レイラの体から四本の木の枝が出現し、ワイズマンモンキーの頭部を串刺しにしたのだ。


 まさに一本一殺。四本の枝それぞれにワイズマンモンキーの死体がぶら下がり、磔となっている。


 狩夜ではどうしようもなかった状況をものの数秒で打開し、周囲に死を撒き散らした後、レイラは頭上に肉食花を出現させ、まずワイズマンモンキーの死体をそこに放り込んだ。次いで、周囲に散乱するベヒーボアの死体に向けて蔓を伸ばし、順次肉食花の中へと放り込んでいく。


 狩夜はその光景を見つめながら「結局レイラに頼っちゃったな~」と自嘲気味に呟き、次いでこう口にした。


「レイラ、ベヒーボアの死体なんだけど、一匹だけ食べずに保管しておいてくれないかな? ギルドに運んで、クエストをクリアしよう」


 レイラは、狩夜の言葉にコクコクと頷いた。そして、ベヒーボアの死体が残り一つとなったところで肉食花を引込める。その後、口を大きく広げて、ベヒーボアの死体と、狩夜が仕留めたベアの死体を丸飲みにした。


「よくあるよね。クエストを受注した瞬間に、もうクリアって展開」


 叉鬼狩夜。クエスト【新人殺しを討て!】 をクリア。

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