第9話 追跡

 IMLの駐車場を出て、警備員のいるゲートを過ぎると、アイリーンは一気にアクセルを踏み込んで加速した。


 最近の道路には、個人の車が走る事などめったにないので、乗合バスと通行人にさえ気を付ければ、多少乱暴な運転をしても誰にも迷惑を掛けることは無い。


 たまにしかない信号機も、黄色く点滅している状態だ。


 関越道の入口までは10分強で到着し、高速道路に乗ったアイリーンは更に車を加速させた。


 テスラLSはセダンでありながら、高出力の多極モーターによって最高速度は250㎞を軽く越える。


 しかも萩生田の車に付いている国連のナンバープレートは、外交特権があるために、交通機動隊に検挙される事もない。


 アイリーンが大泉ジャンクションに着く頃には、萩生田を乗せた車はまだ首都高5号線の護国寺周辺にいた。段々と距離は詰まってきている。


 もしも相手がこのまま首都高を走り続けてくれたら、あと40分程度で萩生田に追いつける計算だ。


 プルルッ、プルルッ――

 アイリーンのスマートフォンが鳴った。IMLからの着信だ。


 ハンドルを握ったままで、片手で通話ボタンを押すと、車内のスピーカーからは先程の警備員の声が流れた。


「監視カメラの記録を確認しました。所長の車に触った人物も、所長を乗せた車も確認できません」


「どういう事?」

「駐車場の映像には、人影が全く写っていません。場内を移動する車も同様です」


「考えられないわ」

「実は、監視カメラの映像に改ざんの痕跡があります。詳細はこれから専門のスタッフが解析しますので、今の時点では、これ以上の事は分かりません」


「入口ゲートの警備担当に、夕方以降にIMLを出た車がいないか確かめて」

「もう確認してあります。17時34分に氷村事務局長の車がゲートを出ています。その他は出入りの業者が数台通過しただけです」

「氷村事務局長ですって?」


 氷村が萩生田所長を乗せた張本人なのか、それとも業者を装って外部からの侵入者があったのだろうか?

 

 どちらだとしても、車への細工と監視カメラの映像改ざんが、同時に行われた事実からして、萩生田所長は計画的に拉致された疑いが強い。


 犯行は所内の事情に通じた者でなければできないだろう。しかも単独では無理だ。


 相手の姿が見えていない状況で事を荒立てれば、萩生田所長の身に危険が及ぶ可能性がある。アイリーンは瞬時に判断を下した。


「この件は、まだ所内には伏せておいて。それと、もしも氷村事務局長の車がIMLに戻ってきたら、大至急こちらに連絡して」

「分かりました。ゲートの警備員に伝えます」


         ※


 アイリーンは警備員からの電話を切ると、急いでスマートフォンのメモリーの一つを押した。


 スピーカーからは、ツーー、ツーーという、国際電話独特の甲高い発信音が鳴った。


「どうしたアイリーン」

「そちらは朝4時ですね、マイヤーズ長官。深夜に申し訳ありません」


「NSAは24時間体制だ、気にするな。それよりも要件を言え」

「萩生田所長が拉致された模様です。私は今、所長が乗った車を追っているところです」


「犯人は誰だ?」

「まだ分かりませんが、所内の人間が複数関与しているようです」


「車が向かっている先はどこだ?」

「東京都内のどこか、というところまでしか分かりません」


「分かった、こちらでもミスター萩生田の位置は探知できる。特殊部隊を送るので現地で合流しろ」

「了解です」


「アイリーン、ミスター萩生田は我々の作戦に、絶対に欠かすことのできない人物だ。必ず救い出せ」

「はい、必ず!」


 アイリーンは悔しそうに唇を噛んだ。自分が無理やりにでも萩生田に付き添えば、このような事態にはならなかったはずだ。


 一体、所内の誰がこの事件に関与しているのだろうか?


 何れにせよ、関係者をあぶりだすのは、全てが解決してからの話だ。


 アイリーンは自分に言い聞かせるように、萩生田の救出に意識を集中した。


        ※※※


 氷村のワンボックスは、一ツ橋インターチェンジで首都高から一般道に下り、白山通りを北上して東京ドーム方面に向かっていた。


 萩生田は後部座席に横たわったままで目を覚ます気配はない。


 先程まで明るかった日差しは既に傾き、通り沿いには飲食店の電飾看板がうっすらと灯り始めた。


 太陽電池パネルから自己充電する方式の最近の看板は、以前に比べるとずっと光量が少ないはずなのだが、節電が奨励されて薄暗くなった街中では、ほのかな光でもきちんとその役割を果たしている。


 氷村は神保町の交差点を過ぎると、2つ目のブロックで右折した。


 日本中の出版社の内、半分以上が集まることで有名なこの街は、大通りを一つ外れると大きな建物が極端に少なくなる。


 特に氷村が車を乗り入れた辺りは、オフィス街からも学生街からも、そして駅近くの飲食街からも離れているため、都心でありながら人通りが少ない寂しい場所だ。


 氷村はくすんだ街並みを通り抜け、その近辺では比較的大き目なオフィスビルの前に車を止めた。

 そして一旦周囲を見回し、後部座席の電動スライドドアを開けた。


 すぐにビルからは数人の男が走り出てきて、後部座席から萩生田を担ぎ出すと、手際よく車椅子に座らせ、それを押して屋内に消えて行った。


        ※※※


 アイリーンが運転する車は中央環状線に入った。


 助手席側に映っている地図を見ると、萩生田の居場所を示すマークは、既に首都高を外れた場所で点滅している。

 神田神保町の辺りを移動しているようだ。


 地理的には萩生田が行くはずだった首相官邸とは、皇居を間挟んで丁度反対側にあたる。


「やはり、首相官邸には向かっているのではなかった」

 アイリーンは呟いた。


 アイリーンが一ツ橋インターチェンジを下りたのは、氷村に遅れる事20分と少し。


 氷村が辿ったのと同じ経路で白山通りに出たところで、アイリーンはハザードランプを付けて路肩に車を止めた。

 萩生田の現在位置を詳細に確認するためだ。


 地図上の表示情報では、15分前から萩生田の位置は動いていない。恐らくそこに拘束されているのだろう。


 地図を拡大すると、『L&Wビルディング』と記されている。一般のオフィスビルのようだ。


 その時、アイリーンのスマートフォンからは、NSAからの緊急連絡を示す短い電子音が聞こえた。


 特殊部隊が現場に到着し、最寄りのカトリック教会脇で待機している事を知らせるものだった。


        ※※※


 氷村は萩生田を車から降ろすと、すぐに元来た道を戻っていた。


 スマートフォンを取り出した氷村は、インカムを耳に掛け、マイクに「ラミーヌ・バトン」と告げた。


 音声認識がラミーヌの電話番号を選択し、自動的にコールをはじめた。


「ラミーヌか? たった今、萩生田所長をヘルムートの元に届けた。これからIMLに戻る」

「わかりました、こちらの作業も進んでいます」


「思いもかけず、急展開になってしまったな」

「全く、今日の萩生田所長の提案は寝耳に水でした」


「ハリケーンの操作に関して、あそこまでの証拠データを揃え、且つ核心を突いた考えを持っているとは、思っても見なかったよ」

「あれさえなければ、荒っぽい手は使わないで済みましたね」


「同感だ。今はまだ萩生田所長は、我々がハリケーンを操作しているとは夢にも思っていないだろうが、こちらからすると、彼の行動をそのまま看過する訳にはいかないからな」


「やはり拉致する以外に、方法は無かったと思います」


「ああ」

 そう短く答えて、氷村は口元を引き締めた。


「ところでラミーヌ、彼は説得できたのか?」

 氷村は訊ねた。

「カミノとは二度話し合いました」 

 ラミーヌはもう一人の理事、カミノ・グラシアの名を口にした。


「どうだった?」

「結局物別れです。カミノは、萩生田所長のWMOへのレポートを、我々の手で握りつぶせば事足りると考えていました。

 IMLとWMOの窓口は私達なので、それ自体はたやすい事です。カミノはそれだけで十分だと主張しました」


「君の意見と、違っていたという事だな?」

「そうです。萩生田所長の行動力と政治力からして、今回レポートを握りつぶしても、その場しのぎにしかならならないと、私は彼に言いました。

 しかし、どうしてもカミノは納得しなかったのです」


「私も君の意見に賛成だ。だからこそ、萩生田所長の拉致という思い切った手段に出たんだ。それでカミノはその後、どうしているんだ?」


「所長の拉致は行き過ぎだと、我々を批判し、告発すると言い張りました」


「まずいな。説得できるか?」

「私の感触では、説得は難しいと思います。カミノは半年前の娘の事故死以来、人が変わってしまいました」


 確かにカミノには一人娘がいた。両親と日本に来ることはせず、スペインに一人残り、カタルーニャ州の自宅で一人暮らしをしながら、バルセロナ大学に通っていた。


 娘はいつもカミノの自慢だった。


 娘が事故に遭ったのは、卒業旅行で訪れていたノルウェーのオスロでのことだ。ハリケーンの直撃を受けたオスロで、娘は強風に煽られたトレーラーの横転事故に巻き込まれたのだ。


「あの事故はカミノのとって不運だったな。なにしろ、よりにもよって自分自身が立案した、北海油田の破壊工作の中で起きたのだからな」


「オスロは誘導されたハリケーンの、通過点でしたからね」


 カミノは自らの手で娘を殺したと、自分を責めた。そしてその事故以降、氷村たちの活動に対して段々と批判的になっていった。


「仕方がない、カミノの口を封じよう」

 氷村は決断し、ラミーヌに伝えた。

「実は……」

 ラミーヌは一瞬、言葉に詰まった。


「何だ? ひょっとすると、もう手を下したのか?」

「はい、私は所長の車のバッテリーに細工をした後で、カミノの部屋に寄ってみました。もう一度彼を説得するためです。

 鍵が掛かっていなかったので勝手に中に入ると、彼は電話中でした」


「電話?」

「そうです。私が声を掛けると、彼は慌てて受話器を置きましたが、聞こえてきた言葉の断片からは、明らかに誰かに情報をリークしていることが分かりました」


「誰に情報を漏らしていた?」

「相手は分かりません、ただ放っておくとまた電話をしそうでしたので、やむなく始末をしたという次第です」


「分かった、済んだ事は仕方がない。カミノの部屋に入った事は誰にも知られるな。廊下の監視カメラの映像はきちんと処理しておけ」


「ニコラスに言って、すぐにデータを書き換えさえます」


         ※


 氷村は神保町の交差点を過ぎたところで、車を左に寄せて停車した。そこには仲睦まじい1組のカップルがいた。


 男は濃紺の長袖シャツ、女はモスグリーンの長袖シャツを着ており、男の左手は女の腰に回されており、女は男にしなだれかかっている。


 男の足元には、大ぶりのジュラルミンケースが置かれていた。


 氷村が後部席のドアをスライドさせると、カップルは無言で車に乗り込んできた。


 無駄の無い身のこなし。

 そして鋭い視線移動。


 違いなくその二人は、特殊な訓練を受けていると察せられた。


「お前たちを連れて行くようにと指示を受けている。こちらからの依頼内容は把握しているな?」

 氷村が訊ねると、ルームミラー越しに、二人が頷いた。


 ほんの一瞬前まで二人の間に流れていた恋人同士の甘い空気は消し飛び、冷たく凍てついた緊張感がその周囲を覆っていた。


         ※


 交差点の向かいでカップルを見張っていた吉松は、弾けたように道路に飛び出した。


 折よく近づいてくるタクシーがある。

 吉松は両手を振って、そのタクシーを止めた。


「警察だ、前のワンボックスを追ってくれ」


 吉松はタクシーが走り出すと、すぐさまスマートフォンを取り出して三田村をコールした。


 三田村は吉松にカップルの監視を任せ、一人で猿楽町周辺の聞き込み調査に行っていた。


「三田村さん、例のカップルが車で移動を始めました。今、タクシーで後を追っています」


「わかった、あんまり無理はするなよ。もしもカップルがあの2人なら、お前よりも数段腕が立つんだからな」

「もちろん、心得ています」


 吉松は三田村への電話を切ると、続けざまに神田署をコールした。


 目の前のワンボックスのナンバープレートを伝え、照会を依頼するためだった。


        ※※※


  氷村がIMLへの帰路、再び一ツ橋インターチェンジに入ろうと、道路の中央寄りに車線変更をしたその時だった。


 氷村の視野には、ハザードランプを付けて停車しているシルバーのテスラLSが飛び込んできた。


 日本にまだ何台も無い車だ。いやが上にも目につく。ナンバープレートは青地に白の抜き文字で、頭にはUNの文字が見えた。


「間違いない、萩生田所長の車だ」


 何故こんなに短時間で追いついて来たのか分からないが、現実にそれは目の前にいる。


 フロントウィンドゥには街路灯の光が反射しているため、車内が良く見えないが、運転席に座っているのは服装からして女。


 多分、秘書のアイリーンだろう。 


 氷村はもう一度インカムのマイクに向かい、「ヘルムート・ベルゲマン」と別の男の名を告げた。

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