第8話 氷村
「そう言えば所長は元々、気象庁に勤めていらっしゃったと聞いていますが」
ハンドルを握ったままで、氷村が萩生田に話題を向けた。
「だれから聞いたか知らないが、ずっと昔の話だ。日本の大学でマスター課程を修了した後、気象庁の予報部に勤務していたんだ」
「何年くらい、そこにいらっしゃったのですか?」
「三年半余だ。その後は、政府の海外留学制度を使って、気象研究で名高いオクラホマ大学の大学院に行った」
「そのままオクラホマ大学に残られたのですね?」
「初めはドクター過程を終えたら、すぐに帰国するつもりだったんだがな。実務よりも基礎研究の方が肌に合っていたんだろうな。
奨学金を負担してくれた日本政府と、快く送り出してくれた気象庁には申し訳ない事をしたがね」
「そのお蔭で、世界の気象予測が飛躍的に進歩したのですから、誰にも文句など無いでしょう」
「そうであったら有り難いんだが」
「当時のお仲間はまだ気象庁に?」
「いや、日本の省庁はある程度の年齢になると、大抵が外郭団体に出向させられるんだ。ほとんど中には残っていないよ。
私に近い年次で、今も省内にいるのは二人だけ。一人は当時私の直属の上司で、係長だった今の塚田次官だ。彼は次期気象庁長官の呼び声が高い。
もう一人は同期入庁の下村という男。彼は今、予報部の部長になっている。どちらも優秀な研究者だったが、今では立派にキャリア官僚を務めているよ」
「日本では純粋な研究職のまま、組織のトップに上り詰めるのは難しいようですね」
「そのようだな。そう考えてみると、私が今でも研究を続けていられるIMLの環境は、ありがたいのかもしれないな」
「奥様とお子さんは、まだアメリカですか?」
「妻とは離婚したよ。もう何年も向こうの生活に馴染んでいたので、日本に帰国する事自体、全く考えられなかったようだ。子供は妻が引き取った」
「IMLがご夫婦を引き離したみたいなものですね」
「そうじゃない。IMLはただの切っ掛けに過ぎないよ。私が仕事に熱中しすぎて家庭を顧みなかったのが本当の理由だ。
もしもIMLに移っていなくても、いつか離婚していただろう」
「個人的な事をお訊きしてしまって、申し訳ありませんでした」
「ところで君はどうなんだ? 一緒に働くようになってからずいぶん経つが、これまでこんな話はしたことが無かったな」
「私の事をお話しても、毒にも薬にもなりませんよ」
「君はWMOからの出向で、IMLに来ているのだろう。なぜ日本人の君が、ジュネーブに本部のあるWMOに入ったんだ?」
「所長と同じですよ。向こうの大学院を卒業して、そのままそこに居ついただけです。WMOは身近にあった就職先というだけです」
「君も留学後残留組だったのか」
「若干違いますけどね。うちの場合は、両親がドイツの永住権を取って、向こうに住んでいるんです。
私は日本の国籍を持ってはいますが、生まれも育ちもドイツです。小学校時代から大学院を卒業するまでは、“ヘス”の奨学金をもらっていました」
「ヘスだって? そりゃすごいな」
萩生田は驚いた表情で、ルームミラーに映る氷村の顔を見上げ、更に話を続けた。
「ヘスはドイツに本社を置く多国籍企業だな。あそこの奨学金は難しいので有名だ。IQ140以上という規定もあったはずだが――、という事は、君は天才という事か?」
「子供の頃に測定したIQなど、当てになりませんよ。
ただ、天才児というブランドは、人生に様々なメリットをもたらしてくれますからね。それに乗っかって生きてきたのは確かです」
「日本に親類はいるのかい?」
「いるようですが、没交渉ですね。両親ともに日本が嫌で海外に飛び出したようなので、思い出話さえしてくれた事がありません」
「君の境遇も意外に複雑なんだな」
「複雑だとは考えた事はありませんが、愛国心を持つべき国が無いのは寂しい気もします。文学的に言えばデラシネというやつでしょうか」
「デラシネか。フランス語で根無し草の事だな」
「恰好良すぎますか?」
氷村は笑った。
※※※
IMLを出て10キロ程走った氷村のワンボックスは、坂戸西スマートインターチェンジから関越自動車道に乗った。
「所長、良かったらお茶でもいかがですか?」
氷村はクーラー付のサイドボックスから冷えた日本茶を取り出して、後ろの席の萩生田に手渡した。
「ありがとう、いただくよ」
萩生田はペットボトルのキャップを捻って開けると、一口それを飲んだ。
※
車はいつの間にか、関越自動車道から東京外環道に入り、視界の先には段々と高層の建物が増えてきた。
このまま首都高5号線を抜けて都心環状線に入れば、目的地まではすぐそこだ。
高速道路は相変わらず退屈な景色が続いている。窓の外を眺めているうちに、萩生田は急な睡魔に襲われた。
徹夜でレポートを書いていたためか、それとも体調が悪いのか?
地の底に引き込まれるような、強い眠気だった。
「所長、目的地に着いたら起こしますから、どうぞお休みになってください」
氷村の言葉に、萩生田が「ああ、頼む……」とまで答えたところで、意識は急に遠のいていった。
氷村はしばらくルームミラーでその様子を伺っていたが、やがてポケットからスマートフォンを取り出した。
「身柄を確保しました。これからそちらに向かいます」
萩生田はおぼろげな意識の中で、氷村のその言葉を聞いたが、それを不審に思う間もなく、深い眠りに落ちて行った。
※※※
アイリーンは萩生田の指示に従って執務室に残り、ホンファの進路を示している大画面モニターを見つめていた。
萩生田が部屋を出た直後までは、ホンファはゆっくりと東に進んでいたが、30分程過ぎたところで、やや北に進路を取りはじめ、進行速度を段々と増している。
ルソン海峡に差し掛かる直前では、速度は90㎞にもなる勢いで、ホンファの進路はより北寄りとなり、明らかに北東方向に進み始めた。
台湾の先端部分は、既にその白い渦の下に隠れている。
モニターに表示される情報は、ホンファが一度カテゴリー3まで下げていた勢力を、再びカテゴリー4に回復しつつある事を示していた。
アイリーンは状況報告のために、先程から萩生田のスマートフォンをコールしているが、呼び出し音が鳴るだけで、電話は繋がらない。
何度やってみても結果は同じだ。
運転中で気が付かないのだろうか?
順調に走っていれば、萩生田はあと30分程で目的地に着くはずだ。
到着時間を見計らって、もう一度掛けてみようかとも思ったが、ホンファの動向をあれほど気にしていた萩生田の事である。
すぐの連絡を望んでいるはずだ。
アイリーンは手元のタブレット端末で、萩生田の専用車の位置を確認してみた。IMLが保有する車両には、全てGPSの発信機が備えられているのですぐに場所がわかるはずだ。
画面に地図が現れると、アイリーンは「なぜ!?」と短く叫んだ。
車の現在位置を示すピンの表示は、IMLの敷地内に刺さっていた。萩生田の車がまだIMLに駐まったままだという事だ。
ただ事ではない。
異常を直感したアイリーンは、すぐさま内線電話で警備室を呼び出した。
「警備室、こちら所長室のアイリーンです。所長の専用車に異常があるようです。大至急警備員を駐車場に送って確認してください」
要件のみを相手に伝えると、アイリーンはタブレット端末にもう一つ別のパスワードを入力した。
萩生田のスマートフォンには、安全保障上の理由から、位置情報を定期的にサーバーに送るよう特殊な改造がされており、それを知る者だけが、萩生田の現在の居場所を知ることができた。
スマートフォンからの位置情報は、バッテリーの消費を抑えるために、15分に一度報告される。
萩生田の移動履歴は、萩生田が関越道から東京外環道に入り、5分前には埼玉県和光市の辺りを走っていたことを示していた。
※
プルルッ、プルルッ……
アイリーンの目の前で、内線電話が鳴った。駐車場に向かった警備員からだ。
「所長の専用車は駐車場に置かれたまます。誰も乗っていません」
「周囲に変わったことは?」
「何もありません」
「スペアキーを使って、車内とエンジンルームを点検して!」
「わかりました」
萩生田が秘書である自分に何の連絡もせず、誰かの車で移動している。しかもこちらからは連絡が付かない。
アイリーンには正体が分からないものの、何やら嫌な予感があった。
状況を自分の目で確認するため、アイリーンは駐車場に向かって、廊下を走り始めた。
※※※
地下二階でエレベーターを下りると、前方に駐まっているテスラLSには二人の警備員が張り付いていた。
一人はドアを開けて覗きこみ、もう一人はボンネットの中を点検している。
「何か分かった?」
アイリーンが声を掛けた。
「車内には何もありませんでしたが、エンジンルームではバッテリーパックからパワーケーブルが抜かれていました」
「故意に外されたという意味?」
「自然に外れる事は有り得ません。誰かが工具を使って外したのは明らかです」
「所内の人間がやったとしか考えられないわ。監視カメラの記録で、犯人が誰か至急調べて!」
「もうやらせています」
「結構。それともう1つ。現在、誰かが別の車で所長を外に連れ出しています。同じ監視カメラに、所長を乗せた車も写っているはず。同時にそちらも確認を!」
「わかりました、すぐに指示します」
「この車は、もう大丈夫なの?」
アイリーン左手をボンネットに置き、警備員に訊ねた。
「たった今、ケーブルを繋いで、電気系統とモーターの起動を確認したところです。問題はありません」
「よかった、すぐに使います。スペアキーを渡して」
「これです」
警備員からキーを受け取り、アイリーンは車に乗り込んだ。
状況はまだ定かではないが、とにかく萩生田を追いかけるしかない。
※
スタータースイッチを押すと、ドライバー席の前部パネルに明かりが灯る。
スピードメーターとパワーメーターが中央にあり、周囲に距離計やバッテリー温度計などが配置されている、電気自動車ならではのシンプルなデザインだ。
電気駆動なのでアイドリング音は何もない。計器類の灯りだけが、車がスタンバイ状態である事を示している。
少し時間を置いて、ヘッドアップディスプレイがフロントウィンドゥに、カーナビゲーションの地図を投影した。
アイリーンは更にダッシュボードの中から、外部機器用の接続ケーブルを引出し、自分のタブレット端末を繋いだ。萩生田の居所を知るためだ。
助手席側のフロントウィンドゥには、萩生田の現在位置を示す一枚の地図が表示され、萩生田が首都高5号線のルートに入っていることを示した。
地図を確認するなり、アイリーンは車のセレクターレバーをD(ドライブ)に入れ、車を発進させた。
※※※
吉松と三田村は、渡邊浩行の足跡を、御茶ノ水駅から丹念に追っていた。
店舗に設置された防犯カメラの映像が主な手掛かりだった。
吉松と三田村が1つずつ映像を目視して確認していくと、渡邊の姿は時間を遡って、神保町に近づいて行った。
やはり午前の捜査会議で皆が感じたように、神保町あたりに何かがありそうに思えた。
吉松と三田村の部下たちは、本庁の刑事と組んで、山田隆正の足跡を追って水道橋駅と、神保町駅を当っていたが、電話で連絡を取ってみると、やはり神保町に鍵がありそうだという見解で一致していた。
神保町駅の監視カメラには、地下の改札に下りて行く山田隆正と、麹町署が追っている金箱昇吾の姿が捉えられていた。
吉松と三田村が追う渡邊の姿は、明治大学を過ぎてすぎに右に折れた路地の辺りで途絶えていた。そこはもう神保町駅まで200mほどの場所だった。
「猿楽町周辺が怪しいな」
三田村が言った。
神保町一丁目から猿楽町に渡る一帯は、古い街並みが残り、防犯カメラ、監視カメラが手薄な地帯だった。
「一旦、神保町駅まで行って、そこを起点に一丁目と猿楽町を当りましょう」
「そうだな、行くか」
吉松と三田村が早足で歩を進め、靖国通りに出た矢先だった。三田村が急に立ち止まった。
「どうしたんですか、三田村さん?」
「あいつら、どう思う?」
三田村が視線を送った先、片道三車線の広い道路の反対側に、1組のカップルが手を繋いでいた。
「あっ」と吉松が短く声を出した。
帽子とサングラスを見に付けているので、確かとは言い難いが、捜査会議でプロジェクターに映された、暗殺者のペアのように思われた。
男は夏にも関わらず、濃紺の長袖シャツ、女も同じく長袖シャツで、色はモスグリーン。
「行くか」
「行きましょう」
吉松は三田村の言葉に頷き、道路越しのそのカップルから目をそらさないように、同じ歩幅で神保町交差点に向かって歩き始めた。
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