第1章 ホンファ
第2話 内線電話
照明を抑えた薄暗い部屋で、男はじっとモニター画面を見つめていた。
眼前の四角い枠の中では、深い蒼色のグラデーションの上を、反時計回りの白く美しい渦がゆっくりと進み、それに寄り添うように、時折赤い点が明滅を繰り返している。
モニター画面の放つ光は男の顔を青白く照らし、男の眉間に浮かんだ皺に、深い影を刻みつけていた。
男の名は
プルルッ、プルルッ……。
卓上の電話機がコール音を鳴らした。
反射的に男の手が、緑色に点滅している通話ボタンに伸びた。
「萩生田だ」
低い声が部屋に響いた。
「所長、パラセル諸島の観測所から通信が途絶えました。緊急回線も全てブラックアウトです」
切迫した声の主は、IMLで事務局長を務める
「人員の安否は?」
「不明ですが、状況から推測して絶望的です」
「全員か?」
「残念ながら、全員です……」
「“ホンファ”の動きはどうなっている?」
「現地時間の10時過ぎまで南シナ海で停滞していましたが、勢力をカテゴリー4に拡大した途端に、北に移動を開始。パラセル諸島を飲み込みました。
当初はそのまま北に向かい、中国の海南島か香港周辺に上陸するものと思われましたが、パレセル諸島の真上で急停止。周辺の島々に甚大な被害をもたらしました」
「現在の状況は?」
「先程になってまた移動を開始し、現在は東に進行方向を変えています」
「今の勢力は?」
「勢力はカテゴリー3に後退しました。移動速度は60㎞。ルソン海峡に向かっています」
「今後の予測進路は?」
「このまま明日には、太平洋側に抜けるものと思われますが、九州南部に上陸する可能性も残されているというのが、分析官の見解です」
「分かった、まずは日本政府に警告を。それから“ひまわり”を半球観測モードに設定し、頻度二倍で北半球を中心に撮影するよう、オペレーターに指示してくれ」
「分かりました」
「15分以内にオペレーションルームに行く。それまでに理事とフェローを、全員集めておいてくれ。予定通り、本日は重大な決議を行う」
「了解しました」
氷村からの返事と共に、電話機の通話中のランプが消えた。
「絶望的……」
萩生田の頭の中には、氷村の言葉が何度もこだましていた。
※
萩生田は椅子の背もたれに深く身を預けて、真っすぐに天井を見上げ、そこに埋め込まれているダウンライトをじっと見つめた。
そうでもしていないと、今にも足元の床が崩れて、奈落の底に落ちていくのではないかと感じられたからだ。
パラセル諸島には同じ志を持つ仲間たちがいた。そして萩生田が自身の後継者として育ててきた男がいた。
ほんの数時間前には、誰ひとりとして、この恐ろしい事態を予測していなかった。
当然だ。たった今しがたまで、悲劇を予感させる予兆など、一片も無かったのだから。
一体パラセル諸島で何が起きたのだろうか?
仲間たちは、どのように最期を迎えたのだろうか?
そして自分は、彼らに――、そして彼らが残していった家族に――
一体どんな言葉を掛けてやれば良いのだろうか?
様々な想いが一時に萩生田の胸に去来した。
大声で叫びたい衝動を、かろうじて萩生田は抑え込んだ。
とにかく――、自分には今やらなければならない事が有る。
その思いだけが、萩生田の心の平衡感覚を保たせていた。
萩生田は腕時計に目を落とした。秒針があと少し回れば丁度正午だ。
「もうこんな時間なのか」
昨夜からずっとホンファのデータ解析に没頭していて、時が経つのも忘れていた。
卓上のカレンダーは、2053年8月20日を指していた。
このときの萩生田には、これから始まる長い一日について、微塵の思いさえも至ることはなかった。
※※※
――ホンファ
中国語ではそれを『紅花』と記述する。
本来は可愛らしい女の子の名前だが、今、萩生田が直面しているホンファは、風速180㎞を越す大型ハリケーンだ。
元来ハリケーンとは、大西洋周辺に発生した巨大熱帯低性気圧を指し、かつて太平洋周辺では、同じものをタイフーン。インド洋周辺ではサイクロンと呼んでいた。
しかし2030年代半ばから様相が変わった。
それらの移動ルートが多様化しはじめたのだ。
サイクロンが北米に、ハリケーンがアジアに上陸するような越境が頻発し始めると、国連の世界気象機関WMOは実情に合わせ、その呼称を全世界でハリケーンに統一することに決めた。
ホンファは国際ルールに従い、今年2053年に中国に上陸する3番目のハリケーンとして、中国気象局が命名したものだった。
※
萩生田が率いるIMLは、WMOが3年前の2050年に日本に創設した組織で、主にハリケーンの発生と、上陸先の予測を任務としている。
なぜ敢えて日本だったかと言えば、理由は単純だった。2050年の時点で、世界中で現役運用されている民間気象衛星が、日本の“ひまわり”しか残っていなかったからだ。
耐用寿命の長いひまわりを保有していたが故に、期せずして日本は、世界で最も進んだ気象研究の場になったのだった。
IMLの本部は埼玉県比企郡にある。かつてそこは、気象庁の気象衛星通信所と呼ばれていた場所だ。
ひまわりの運用体制の中で、観測データの受信業務を担っていたその施設が、国連の要請に従って、敷地や設備と共に気象庁から譲渡移管され、IMLの母体となった。
施設だけに止まらず、ひまわりの管制業務を担っていた技官たちも、気象庁からIMLに出向を命じられていた。
※※※
萩生田がIMLの所長の座についたのは、彼が日本人であるという理由以前に、国際研究機関のトップに相応しい、研究者としての業績があったからだ。
しかし、そこに至るまでの萩生田の経歴は異色であった。
もともとは気象庁の技官であった萩生田は、在職中に、気象研究で世界的に有名な米国オクラホマ大学に国費留学した。そしてそれが人生の転機となった。
気象庁時代からコンピュータによる気象解析を研究テーマとしてきた萩生田は、大学でもそれを博士論文のテーマに選んだ。
予算の乏しい日本の官庁では、成果が約束されない基礎研究は冷遇される。データ解析の要であるPCでさえ、二世代も前の古いものしか与えられないのが通例だ。
しかしそれと打って変わって、米国の大学では民間企業の寄付金に支えられ、豊富な研究資産を自由に使う事が出来る。
新しい環境は、萩生田の発想を大いに刺激し、萩生田は寝食を忘れて研究に打ち込んだ。
日本で乏しい計算リソースを駆使しながら、高速なプログラムを開発してきた経験は、萩生田にとって大きな資産だった。
初めから贅沢な研究環境に慣れている米国人の同僚の誰よりも、萩生田が書くプログラムは洗練されており、しかも一桁高速に結果をはじき出した。
指導教官の教授から才能を高く評価された萩生田は、当時研究室で進められていた、先進的なプロジェクトのリーダーに任命された。
※
『スーパーコンピュータの広大なメモリー空間に、全地球規模の気象シミュレータを構築する』
それが萩生田が抜擢されたプロジェクトの目的であった。
桁外れのコンピューティングリソースに、最先端のセンサー技術、ネットワーク技術を統合していく困難な仕事は、萩生田の意欲を大いに駆り立てた。
そして間もなく、彼の手腕は他の大学にも知れ渡るほどになった。
やがて萩生田は、留学期間の満了を迎えた。しかし彼は気象庁に戻る事はせず、そのまま研究者として大学に残る道を選んだ。
自分の力で未知の領域を切り開く、知的な高揚感の虜となったからだ。
萩生田が率いた、気象シミュレータのプロジェクトは大成功をおさめ、その功績を認められた彼は、自らもオクラホマ大学で教授のポジションを得た。
自分の研究室と研究スタッフを持つようになると、萩生田の研究は更に加速していった。萩生田の次なる目標は明確だった。
※
『自らが手がけた気象シミュレータ上に、高精度な自動気象予測システムを実現する』
その目標を掲げて以来、コンピュータによる気象予測は、萩生田にとっての生涯の研究テーマとなった。
観測によって得られた膨大な気象データと、地球物理の測地学データを帰納的に相関させ、群論と統計学を駆使した独自のコンピュータ解析を行うことが萩生田の見つけ出した手法だった。
そしてその手法よって萩生田は、次々と画期的な成果を上げていった。
萩生田の働きによって、以前であれば異常気象と一括りにされていた突発的な気候変動の多くが、理論的に説明可能となった。
またそれは同時に、ハリケーンの進路予測の精度向上にも大きく貢献した。
WMOが萩生田の業績に着目して、IML設立と同時に、彼を所長として迎えたのは、当然の成り行きと言えた。
※
IMLに移った萩生田は、オクラホマ大学での研究を更に深め、そして拡大させた。その陰には日本政府の強いバックアップがあった。
文部科学省がIMLに提供したスーパーコンピュータ“
21世紀初頭にベンチマークで世界ランキング一位を獲得したスーパーコンピュータ“
所長の萩生田に加え、気象庁の優秀なスタッフ、気象衛星ひまわり、そしてスーパーコンピュータ垓。正にIMLは日本の頭脳と技術の結集と言えた。
※※※
萩生田はワードプロセッサの画面で、ホンファの解析結果を最終確認し、そのレポートの先頭に1ページを追加して、表題を書き入れた。
『Doubt and verification about course operation of hurricane』(ハリケーンの進路操作に関する疑惑と検証)
萩生田は表題の下に自分の名前Akira Hagiudaを記し、更にその後ろに、共同執筆者としてもう一人、Zhang Haifengを付け加えた。
Zhang Haifenとは中国人、
IMLの上席研究員である張は萩生田の命を受け、IMLから中国気象局に出向し、パラセル諸島で観測を行っている最中に悲劇に遭った。
萩生田は最後に張の名をもう一度確認し、データをメモリーカードに保存して、ノートPCの画面を閉じた。
「張、すまなかった……」
萩生田は目を瞑り、一回だけ深いため息をつくと、自らの気持ちを引き締め、意を決するかのように席を立った。
※
萩生田の執務室は、秘書が控える隣室に繋がっている。
ドアを開けるなり萩生田は、「アイリーン、これからオペレーションルームに行ってくる」と、目の前の女性に声を掛けた。
女性は萩生田の秘書、アイリーン・ミドラー。
やや褐色がかった美しいブロンドヘアが印象的な米国人女性だ。彼女は萩生田がオクラホマ大学の教授だった時から、ずっと秘書を務めている。
アイリーンは、萩生田がオクラホマ大学からIML所長に転出する際、自らが強く希望して萩生田に従った。
萩生田とは20歳近くも年が離れているが、彼が最も信頼を置く人物の一人である。
「お時間はどれくらいでしょうか?」
アイリーンは萩生田に訊ねた。
「多分、2時間ほどだ。その後は予定通り、19時には小橋首相に会いに官邸に行く」
「分かりました」
アイリーンは手元のタブレット端末に、萩生田のスケジュールを書き込んだ。
萩生田は、アイリーンがまだその動作を終えないうちに、まるで何かに急かされるかのように部屋を後にした。
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