ホンファの一日

高栖匡躬

プロローグ

第1話 連続殺人 ~はじまり~

 盆休みが明けた東京は、毎日のように真夏日が続いていた。


 都市が昼間に蓄えた熱は夜になっても冷めることはなく、また翌朝には新しい太陽が昇り、そこに直射日光を放つ。


 それはいつもと変わらぬ、8月17日の熱い昼下がり。

 警視庁神田警察署、組織犯罪対策課強行犯係に所属する刑事、吉松尚孝は御茶ノ水駅にほど近い、順天堂大学付属・順天堂医院に向かっていた。


 吉松のポジションは係長代理。35歳になったばかりの、中堅刑事である。


 いつもは現場を飛び回っている吉松だが、この日はたまたま、溜まりにたまった出張費を精算するため、自分のデスクで書類と格闘しているなかで、その事件の第一報が飛び込んできた。


 この日の午前から昼過ぎにかけての短い時間に、2人の高級官僚と1人の日銀幹部が相次いで不審な死を遂げ、順天堂医院に安置されているというのだ。


 それがもしも連続殺人だとすれば、自分が警視庁に任官して以来、初めて遭遇する凶悪犯罪である。しかも被害者は、日本の屋台骨を担うべき高級官僚たち。


 吉松は炎天下の中、はやる心を必死に抑えながら、署に配備されたばかりの最新の電気自動車、トヨタ・レクサスVELのアクセルを踏み込んだ。


 吉松の横の助手席では、ノンキャリアながらも神田署始まって以来の切れ者と称される、上司の三田村康秀係長が眉間に皺を浮かべていた。


        ※※※


 その出来事は、唐突に起きたものだった。


 オフィス街が昼休みを過ぎたあたりの、東京メトロ東西線の九段下駅ホームで、一人の男が突然に倒れたのだ。


 男は救急車で病院に搬送されたが、発見された時には既に心肺停止の状態で、蘇生措置も叶わなかった。死因は急性心不全。


 財布から出てきた身分証明書からは、男は金箱昇吾、43歳、日本銀行国際局の総務課長である事が分かった。


 働き盛りの日銀幹部の突然死。通常ならそれで片付けられるところであっただろう。


 しかし、この日に限っては違っていた。


 金箱が搬送された順天堂大学付属、順天堂医院の救急科には、彼の前に立て続けに2人の患者が担ぎ込まれ、そして死亡が確認されていた。


 両名とも同じく急性心不全であり、また両名とも霞が関の高級官僚だった。


 この時点で吉松が知らされたことと言えば、3名の素性と、死に至るまでの短い経過だけだった。


渡邊浩行 

 財務省 総務部 課長 

 年齢 48歳

 8月17日 10時15分頃

 御茶ノ水駅改札で、突然倒れる。

 順天堂大学付属病院に搬送

 11時30分、死亡を確認

 死因、急性心不全


山田隆正 

 経済産業省 通商政策局 課長 

 年齢 42歳

 8月17日 11時50分頃

 水道橋交差点で信号待ち中、突然倒れる。

 順天堂大学付属病院に搬送

 13時00分、死亡を確認

 死因、急性心不全


金箱昇吾 

 日本銀行 国際局 総務課長 

 年齢 43歳

 8月17日 13時30分頃

 九段下駅ホームにて突然倒れる。

 順天堂大学付属病院に搬送

 14時30分、死亡を確認

 死因、急性心不全


 突然死した3人は、何れも国際金融や財政のエキスパートであり、所属する組織では次代の日本経済を担うエリートと目されていた。


 僅か3時間余りの間に起きた、高級官僚と日銀幹部の不自然な連続死。それを不審に思った救急科の医師から通報を受け、今、吉松と三田村が死体の確認に向かっているのである。


        ※※※


 順天堂医院に到着し、死体安置室に通された吉松と三田村の目の前には、3人の男の死体が並んでいた。死体を検分した吉松は、すぐに首を横に振った。


 3体ともに、体が崩れ落ちる際に付いたと思われる、膝と肘の打撲痕が妙に生々しかったが、それを除けば他殺を思わせる外傷は、全く見当たらなかった。


 やはり医師の診たて通り、3名共に急性心不全であるのは確からしかった。


 偶然か? それとも事件なのか?


「他殺であるとすれば、毒殺か……」

 吉松はこの先に生じるであろう、やっかいな手続きの数々を想像しながら呟いた。

 

 毒殺を立証するには司法解剖に掛ける必要がある。消化器の内容物を調べ、血液を抜いて成分を分析する必要があるからだ。


 今のところは3人は、短い時間内にごく近い場所で死んだと言う不自然さはあるものの、事件性は乏しい。


 遺族を納得させ、裁判所の許可を得る事は可能なのだろうか?


 逡巡する吉松の思考を遮るように、「おい、来てみろ」という三田村の声が聞こえた。


 三田村が直視する視線の先は、死体の1体である渡邊浩行の首筋だった。


 三田村が顎をしゃくって示すその場所には、僅か0.2mほどの小さな赤い点があった。


「これが何か?」

「気になる」


「もしも注射痕だとして、毒物を注入したのなら、必ず周囲に炎症反応が現れるはずです。しかし、ここにはそれがありません」


「他の2体も見てみよう」

 三田村に促され、吉松は残る2体の首筋を検分した。


「ありません」

 見たところ2体ともに、渡邊浩行と同じ場所には赤い点は見つからなかった。


「遺体を傾けてみよう。俺がやるから、お前は下から覗きこめ」


 三田村は山田隆正の左肩に手を掛けて、遺体の左側を持ち上げた。

 吉松は安置台の下にかがみこむようにして、首の裏側を凝視した。


「ありました、三田村さん」

 その赤い点は、首筋の丁度真ん中ほどに、ぽつんと付いていた。


「よし、もう1体だ」

 同じように三田村が持ち上げた、金箱昇吾の首筋にもその赤い点はあった。


「こっちにもあります」

「他殺で決まりだ」

 三田村の声を聞くや、吉松は弾けたように立ち上がり、スマートフォンを取り出して神田署をコールした。


        ※※※


 司法解剖は翌日の8月18日、裁判所の鑑定処分許可を得て、遺体の安置されている順天堂大学の、法医学研究室に委託された。


 その結果、3人とも心臓には、急性心不全を起こすほどの病的な疾患は認められなかった。

 消化器に残された内容物からも、特に毒性を示す物質は検出されず。


 しかし血液中からは、ブロム化ネオスチグミンが検出された。


 ブロム化ネオスチグミンは、筋無力症や消化器系臓器の閉塞の治療に用いられる経口薬の成分であるが、3人ともそれに該当する既往症も通院歴もなかった。


 実はこの薬品には、病気の治療以外にも用途があった。添加物の無い純粋な成分を僅か10mgほど体内に注射するだけで、突発的な心不全を発症させ、目立った外傷も、生体反応も残さないのだ。


 その特長から、兼ねてより北朝鮮の工作員が、暗殺任務でこの薬品を好んで使う事が、関係者の間では知られていた。


 3人の首筋にあった赤い点を、監察医が入念に調べると、極めてわずかな炎症反応が確認された。


 それは薬剤に対する炎症ではなく、針の刺激に対しての炎症で、それを疑って調べなければ見つからないほどの些細なものだった。


        ※※※


 早朝から始まった3体の解剖に立ち会った吉松と三田村が、病院の通用口を後にした頃には、もう日が傾きかけていた。


「大変な事件にぶち当っちゃいましたね、三田村さん」

「3人の人物、それも高級官僚と日銀幹部の連続殺人。刑事になって20年以上になるが、こんな重大犯罪は俺も初めてだ」


「これから僕たちは、何をすれば良いんでしょう?」

「さあな。今頃本庁は大騒ぎのはずだ。犯罪の重大さに加え、今回は広域捜査だからな」


「水道橋駅と御茶ノ水駅は我々神田署。九段下駅は麹町署の管轄ですからね」

「更に複雑なのは、北朝鮮まで絡むかもしれないということだ」


「公安のヤマってことですか?」

「そうなるかもしれないな。何れにしても確実な事はただ一つ。事件の捜査主体は俺たちの手を離れたって事だ」


 明日になれば、特別捜査本部が設置される。それが本庁、神田署、麹町署のどこに設置されるかは上層部の綱引きだ。

 三田村はそう考えていた。


「刑事部と公安部の、どちらが頭を取るかによっても状況が変わりますね」

「そういうことだ。そして俺たちが今後この事件に関わるかどうかも、俺たちが特別捜査本部に招集されるかどうか次第ってことだ」

 三田村は訳知り顔で、吉松に同意した。


         ※


 前日とは打って変わり、この日はめずらしく、目立った事件が何も起きていなかった。

 そろそろ日勤勤務の時間が過ぎる。


 神田署に戻る車に乗り込みながら、吉松も三田村も、同じようなことを考えはじめた。


――もう自分達は、事件の初動捜査としては、十分に責任を果たしただろう――

――たまには早く帰って、家族サービスでもしてやらなくては――


 なにしろ、特別捜査本部に招集されたら、当分こんな平穏な日はやってこないのだから。

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