第5話

 三日後、ふたりぶんの葬式は営まれた。

 おばあちゃんの急逝きゅうせいを受けて、父さんの式は延期になった。怪死ということで、警察の取り調べは今も続いている。

 もっとも、おばあちゃんは自殺と言うことでほぼ固まっていて、葬式も思っていたよりずっと早く出せた。どうせならと、ふたつの式はあわせてり行われることとなり、結局父さんは五日も荼毘だびされるのを待つことになったのである。

 わたしは、疲れ果てていた。

 おばあちゃんの衝撃的な最期を目の当たりにして、精神はもうぼろぼろだった。

 警察の取り調べを受けているとき以外は、ずっと部屋でぼんやり過ごした。

 父さんと、おばあちゃん。

 ふたりとの昔の記憶にふと沈んでは、思い出したように泣いた。こころが黒土くろつちで汚れてしまっていて、それをなけなしのしずくが必死で洗い清めているような、そんな気分だった。

 やっと人心地ひとごこちを取り戻せたのは、葬儀が終わってからだ。

 骨になったふたりを見て、時計の針がようやく動きはじめた感じだった。

 火葬場から父さんの実家に戻ってくると、当たり前のように精進落しょうじんおとしは始まった。

 でも、宴席は湿しめっぽく、三日前のような乱痴気騒らんちきさわぎにはならなかった。おばあちゃんの突然の自殺は、遺族の誰もに黒いかげを落としていた。特に衝撃を受けていたのがおじいちゃんで、父さんの通夜のときにはあれだけバカ笑いしていた大酒飲みが、まるで一気に痴呆ぼけがきてしまったみたくふにゃけている。

 気の毒にこそ思いはすれ、わたしは、おじいちゃんがかわいそうだとは思えなかった。おばあちゃんを奴隷どれいのようにこき使ったであろう半生の罪がいま跳ね返っているのだと思うと、痛快な気さえした。我ながら残酷な孫娘だって思うけれど、事実なんだからしかたない。

 義雄よしおを頼むぞと、親戚たちは母さんに口酸くちすっぱく語りかける。なんならこの家に引っ越して面倒を見てやってくれって、年寄り連中は腑抜ふぬけたおじいちゃんを母さんに押しつけようと必死だ。それがなんだか腹立たしく、しかし、腹立たしいって感じられるまでに精神が回復していることに、わたしは手前第一てまえだいいち安堵あんどのため息をこぼすのだった。

 こうして、酒気は終始しゅうし鳴りを潜めたまま、精進落としはお開きになった。

 一週間ちかくも田舎に貼りつけられていた親戚が、いそいそとをまとめて帰っていく。日の暮れるころには近隣の親族もいなくなって、家にはわたしたち母子おやこ三人とおじいちゃんだけになった。

 ほどなく、母さんは翌朝の食べ物を買いに出かけた。おじいちゃんは親戚を見送って以来、書斎にもったままだ。

 ふたつの遺影と、位牌いはい

 仏壇に並んだ母子の笑顔を、わたしと修太は神妙な面持おももちでながめていた。

 五十年の時を経てふたたび血で染まった仏前も、今は新しいたたみに張り替えられてキレイなものだ。あの夜の惨劇を想起そうきさせる痕跡こんせきは、もうなにひとつとして残ってはいない。

「もう大丈夫かえ、おえ?」

「うん」

 修太しゅうたの心配の問いかけも、これで十度は数えただろう。いつもは家族仲に淡泊たんぱくなクセに、ここぞというときは誰よりも家族を気にかけるヤツなのだ。その点では、この肥満ぎみの弟より、わたしのほうがよっぽどひねくれているって思う。修太の心配をありがたいと思いこそすれ、言葉で感謝なんて到底とうていできないからだ。

 最低限の反応を返し、そして、わたしは仏前を立った。

 おばあちゃんの遺影を見ているうちに、あの夜の出来事がまざまざと思い出されてきて、その場にいたたまれなかった。

 修太は、じっと仏壇を見つめている。まだここで残る様子だ。

 わたしはひとり、縁側に出た。

 夕暮れを背に、りっぱな庭木は黒い切り絵になっている。適当な位置に腰を下ろして、わたしはあの不可思議と向かい合うことにした。三日を経て、ようやくその勇気が出るまで自分を取り戻せたのだ。

 おばあちゃんの、豹変。

 泣き声でわめき立てていた、あの内容。

 一言一句、ほぼ正確に覚えている。わたしの脳に刻まれている。

 殺してないって、言っていた。

 忠正を殺したのは私じゃないと、最後までおばあちゃんは主張していた。

 思うに、おばあちゃんを子殺しの凶行に走らせたのは育児ノイローゼが原因なのだろう。

 たいした能力もないのに親の七光りで地元の顔役を務めていた若いころのおじいちゃんは、それはもう絵に描いたような「飲む、打つ、買う」の夫だったらしい。高知の御城下おじょうかには女を何人も囲っていたそうだし、仕事で得た報酬ほうしゅうのほとんどを自分の快楽のためにぎ込んでは、一家を貧困におとしいれていたと聞いている。

 そんな家庭をかえりみない亭主ていしゅの下で、おばあちゃんがどれだけの鬱屈うっくつを抱えていたかは想像にかたくない。それが、ふとなにかの拍子ひょうしに爆発したのが、叔父おじさんの殺害だったんじゃないだろうか。

 あの否定ぶりを見るに、きっと、おばあちゃんは一種の心神喪失状態だったのだろう。言うことを聞かない子どもをカッとなって折檻せっかんしてしまって、気づけば、子どもは事切こときれていた――は、ちょうどそんな具合だった。自分がやってしまったなどと信じたくない、否定してしまいたいって気持ちはよく解る。

 だからといって、おばあちゃんが悪くないわけじゃあない。なんの罪もない子どもを殺したのは重罪だ。きっとおばあちゃんも、ずっとそのことを気にんで生きてきたのだろう。でなければ、いきなり自分ののどを刃物で突いたりはしない。それくらい、五十年前の事件はおばあちゃんにとって禁忌タブーだったのだ。

 そんなかわいそうなおばあちゃんを、わたしの乱暴な問いが殺してしまった。信じたくないけれど、それが真相なのだ。

 そのことを思うと、後悔しかない。

 いくら恐怖で取り乱していたからって、おばあちゃんを殺人犯だって決めつけて問いただしたのは最悪だった。小さなころから優しくしてくれたおばあちゃんに、わたしは取り返しのつかないひどいことをしてしまった。

 事件後、ようやく、わたしは一連の事件をかえりみることができた。

「ごめんなさい」

 涙があふれた。

 亭主関白なおじいちゃんに怒鳴どなり散らされ続けた夫婦生活を思って、泣けた。

 母さんが弟を殺したのだと長男とうさんに責められた苦悩を思って、泣けた。

 孫娘のわたしにまで糾弾きゅうだんされた悲痛を思って、泣けた。

 ひとしきり感情のたかぶりにまかせて震え、やがて、わたしは涙をぬぐった。

 紫に焼けた秋空を見上げて、また考える。

 肝心の謎について、思考を向ける。


 あの現象は、なんだったのだろう――と。


 おばあちゃんの話を総合するに、父さんもきっとあの光景を夜窓よまどで見たことがあるに違いない。母親が弟を惨殺するシーンだなんて、学校に行きはじめたばかりの父さんにはきっとすさまじく恐ろしいものだっただろう。それがトラウマになって、父さんは大人になってからも夜窓を直視するのを怖がっていたのだ。

 だからこそ、夜が近づくと、父さんはあんなにも執拗しつように窓を隠すよう、家族に強要したのだ。一般の窓に限らず、家じゅうのありとあらゆる外への目をふさいでいたのだ。 

 当然、こんな理由を家族に話せるはずもない。

 ひょっとしたら母さんは知っているのかもしれないけれど、わたしと修太には説明しようもないだろう。あの怪異を実際に見たわたしだって、いまだに信じられないのだ。もちろん警察にだって話していない。言ったって信じてくれるはずもないからだ。五十年も昔の祖母の殺人を、その息子が、その孫が知り得て非難しただなどと、いったい誰が信じられるだろう。

 わたしの知っている父さんは、いたって現実主義者だった。

 だけど、そんな父さんのシビアな態度の裏には、幼いころに見た恐ろしい怪異を否定してしまいたい一心が隠されていたのではないだろうか。剛直なリアリズムをつらぬくことで、恐怖の体験をなかったことにしてしまいたかったのではないだろうか。今となっては知りようもないけれど、わたしはそう思わずにはいられなかった。

 そうだ、ありえない。

 五十年も昔の殺人を、現場の窓が記憶していて、それが夜な夜な映るだなんて。

 あまりに馬鹿げている。非科学的もいいところだ。

 でも、わたしは見た。見てしまった。

 父さんも見たんだろう。そして、それを母親にただしたのだ。

 おばあちゃんは、それはもう仰天ぎょうてんしただろう。

 お座敷の窓に自分の凶行の一部始終が録画されていて、それをもうひとりの息子が見てしまっただなんて。

 いつ、父さんがそれをおばあちゃんに打ち上げたのかは分からない。でも、清廉潔白な父さんの性格を思えば、きっとそれはゆるされないとがだったはずだ。きっと、ちょうじてからも父さんは、おりに触れて母親に、弟殺しの件を問い質したのではないだろうか。

 そうだ、きっとそうだったに違いない。

 だから、おばあちゃんはあんなにも激しく、父さんの霊前に泣き叫んだんだ。

 ひょっとすると、父さんは死の間際まぎわにすら、おばあちゃんを問い責めたのかもしれない。弟の死について本当のことを語ってくれって、枕元に座るおばあちゃんにせっついたのかもしれない。

 ――義之よしゆき

 ――おまんはを嫌いやったがか?

 ――おあのことがそこまで嫌いやったか? 義之!

 まるで気の狂ってしまったような、鬼気迫るおばあちゃんの様子が思い出されて、わたしはぶるりと身体を震わせた。

 こんな真相、わたしは知りたくもなかった。

 父さんだって、きっと。

 夜窓の怪――

 なんて、なんて恐ろしいお節介せっかいなのだろう。

 お座敷の窓だけが、おばあちゃんの罪を見ていた。知っていた。

 だからって、それを他の誰かに知ってほしかったんだとして、その結果はどうだ?

 おばあちゃんは人生のほとんどを後悔と悲嘆のなかで暮らし、父さんは生涯じぶんの母親を殺人犯だと考えて生きなければならなかった。真実を知ってしまった孫のわたしだって、それは同じだ。

 誰も得してなんざいない。みんな、大なり小なり不幸になった。

 ああ、このやるせなさ。

 いったいどこに、この感情をぶつければいい。

 もはやじっと座っていられず、わたしは縁側に立ち上がる。

 お座敷へ。

 あの怪異の場所へ。

 もういちど、真っ向から見てやろう。窓の仔細しさいを調べ上げてやろう。

 今はもう、恐怖よりも怒りが強い。おぞましい神秘にただおびえている現状が、わたしはこの上なく不快だった。

 このままじゃ、高知を去れない。わたしの心が収まらない。

 だだっ広い古家の廊下をきしませて、わたしはお座敷に戻った。

 宵闇よいやみせまる時間。お座敷からは電灯の光がこぼれ出している。まだ修太がいるようだ。コイツがいっしょなら、もう怖いものはない。

 話そう。修太に、おばあちゃんの死の理由を。

 バカにされるかもしれないけれど、それでももう、こんなわだかまりをひとりで抱え込んでいるのはまっぴらだ。

 勇む足に任せて、わたしはお座敷のなかに踏み入った。

「修太」

 部屋のまんなかに、小太りの弟が立っている。さすがにもう、仏壇の前で神妙に座っていたりはしなかった。

 反応は、なかった。

 問題の窓辺を見つめて、修太はぼうっと突っ立っている。

「修太?」

 再度呼びかけるも、返事はない。それどころか、でぶっちょの弟はまるで微動びどうだにしなかった。

 もう外の景色をほとんど見透みとおせない窓を、じっと眺め続けている。

「しゅう…た?」

 ここで、ようやくわたしは修太の異変に気づいた。

 歩み寄って、横から様子をうかがう。

 修太は、魚みたく口を小さく開けてほうけていた。

 一見、間の抜けた表情だったけれど、目だけが違った。

 その双眸そうぼうは、信じられないものでも見たかのように見開かれ、わなないていた。

 そして、その表情のまま、修太はきっとわたしを向いた。

「ど…したが?」

 異様な空気に包まれている弟に、わたしは次第にまれていた。

 まさか、まさかあんたも――見たのか?

 あの事件を、五十年も昔の惨劇をたったいま、この窓に?

 はっとして、わたしは窓を見た。

 窓は、もうほとんど黒い鏡になっている。

 でも、そこに映し出されているのは、わたしと修太の鏡像と、反転したお座敷の様子だった。

「おえ」

 ようやく、修太が声を発した。

 抑揚よくようのない、無機質な呼びかけだった。こんな修太の声は一度も聞いたことがなかった。

「修太、どうしたがで、あんた…」

 だぶついた頬肉ほおにくを引きらせて、そして修太は言った。


「おばあを刺したがは、お姉えながか?」


 ひどいことを、言われた。

 少しのあいだ考えなければ、そう理解できなかった。

 理解したとたん、わたしの感情は突沸とっぷつを起こしていた。

「はあ? あんた、今…なんて?」

「いや、その…」

「なんて言うた? もっぺん言うてみい!」

「スマン、ヘンなこと言うた」

「もっぺん言うてって言いゆうやろ!」

 修太の肉厚な肩に、わたしは乱暴に手を掛ける。オレもわからんって、修太もまた大声を上げた。

「わからんがよ、お姉え… お、オレ今、自分が見たがあが… なんか、その…」

「あたしが、おばあちゃんを刺したって、今あんた言うたね?」

「わからん、お、オレにはわからん… なんで… なんながな、あれは……」

「修太! きちんと話し!」

 刺しただと?

 おばあちゃんの喉を、あたしが突き刺しただと?

 なんぼ姉弟きょうだいだからって、言っていい冗談と悪い冗談があるだろう。これは間違いなく後者だ。

 ふざけるなよ、ふざけるなよ、あんた――

「え?」

 瞬間、わたしの頭を稲妻いなずまが走った。

 修太の肩から、手を放す。

 わたしの、この怒り。この理不尽。この状況。

 これは、

 ――くやしい!

 ――なんで、なんでが…

 ――は、忠正を殺しちゃあせん! は、は…

「おばあちゃん」

 おばあちゃんと、おんなじだ。

 わたしは今、おばあちゃんと同じ立場で、同じ思いを――


 かたり


 はっと、わたしは天井を見上げた。

 家鳴やなり。はっきりと聞こえる。

 かたり、かた、かたかた

 地震。違う。揺れなんて感じない。

 そうだ、これはたぶん、家鳴りでも、ない。

 これは、これは――


 家が、わらっている?


 ぞっとして、わたしは窓辺まどべを見た。

 日は、もう暮れ果てている。

 透明な、黒の鏡面。


 窓の中のわたしは、わたしが見たことのないくらいいやらしく微笑ほほえんでいた。



                          ―― 了 ――

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夜窓 大郷田螺 @tanishi_osato

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