第4話
お座敷は、ずっと蛍光灯が
遅いお風呂から上がったわたしは、まだ熱の宿った髪を
「姉ちゃん、まだ起きちゅうがか」
振り向くと、
「まだ起きちゅうもなにも、あたし今おフロから出たとこながやけど」
「ああそ」
短い反応を残して、修太は二階へ上がっていった。
おじいちゃんとおばあちゃんは一階で生活していて、今はもうここから少し離れた寝室へ引っ込んでいる。今夜この家に泊まっている他の親戚も、めいめいが
修太の重々しい足音が、やがて聞こえなくなった。
自分も、もう寝よう。
そう思って、そしてわたしはいま一度、父さんの遺影が笑う仏壇に目をやった。
「おやすみ、お
小さく、声に出してみた。それだけで、ぐっと涙が込み上げてくる。
きっと、明日はブザマに泣いてしまうんだろう。
あれだけ憎かった父さんの死に、これだけ取り乱してしまっていることがなんだか悔しかった。でも、それが当たり前なんだって、わたしは心に言い聞かせる。
父と娘なんだから、しかたないじゃないか。
指先で目尻を
カーテンは、閉まっている。
もうコレは癖になってしまっている。目の前で眠る父さんのせいで。
夜が来たら、カーテンを閉めなさい――
部屋の窓だけじゃない。
たったひとつだけ、納得できなかった父さんの論理。
魔が差す――っていうのは、きっとこんなことを言うのだろう。
たった今まで父さんの死に涙していたっていうのに、ここでわたしの心に、ふと底意地の悪い考えが浮かんだ。
静かに、
そして、わたしは、カーテンを左右に開いていた。
闇。
外は、
透明な黒は、鏡になって部屋の様子を映し出す。
――どう、お父う?
カーテンなんか、開いてようが閉まっていようが、
今夜この部屋は電気が
まっくらな、なにも見えない家の中を見てたって――
返事は、ない。
当たり前だ。もう、父さんは死んでしまった。
だのに、わたしは反論の返ってこない現状に満足してしまっていた。
父さんと、わたし。
たった二人の、この状況。
わたしが父さんの持論に
こんなシーンを、ずっと夢見ていた。
最後の最後で、ようやく
やがて、そんな異様な
醒めてしまえば、自分の行動がバカらしく思えてくる。みずからを
かたり
はっと、わたしは振り返った。
誰かがこのお座敷にやってきたのかと思った。
けれど、誰もいない。周囲に人の気配はない。
かたり、かた、かたかた――
小さく、物音は続く。
「え?」
ふと、わたしの視界の
後ろに
窓。
外の様子は、なにも見えない。窓は、黒い鏡になってしまっている。
見えるのは、中の様子だ。
そして、それは――
「?」
最初は、その違和感がなんなのか分からなかった。
でも、
窓に映る、お座敷の光景。
その中に――
父さんの棺がなかった。
わたしは、自分の目を、続いて正気を疑った。
少しだけ、首を回す。瞳を、めいっぱい仏壇のほうへ向ける。
棺は、果たしてちゃんとあった。父さんの眠る棺は、ちゃんとそこにある。
でも、目の前の窓に広がる部屋の光景に、棺は横たわっていなかった。代わりに黒い机が置かれている。
なに?
なに、これ?
夢でも見ているのか、わたしは?
やがて、わたしはさらに違和感の原因に気づく。
窓に映った室内の景色は、どうも全体的に
そして、その中を、またなにかが横切った。
半分ほど開いたその向こうで、小さな子どもが転げ回っていた。
今は、襖も取り外している。
なのに、窓の中の光景は襖がちゃんとある。
そして、その襖が、音もなく開いた。
もう一度、わたしは後ろを振り返る。
当然、誰もいない。そもそも開ける襖がない。
恐怖が、背筋を
かた、かたかた、かた
音がする。音はずっと続いている。
なんだこれ、なんだこれ、なんだこれ?
わたしはいったい、なにを見ているんだ?
ガタガタ震えながら、それでもわたしは窓に視線を戻してしまう。
錯覚だ。気の迷いからくる幻覚だ。そんな科学的な現実的な考察を
でも、窓の中では、あいかわらず不可思議な光景が続いている。
襖を開けたのは、若い女の人だった。
片手に、ぐったりとうなだれた小さな男の子の腕を
それは、さっき、襖の向こうで転がっていた子どもだった。
若い女が、しゃがむ。
男の子の目線に合わせるように腰を沈め、何事か男の子に言っている。音は、さっきからずっとない。まるで古いフィルムを見ているようだった。
次の瞬間、
女は、男の子の顔面をぶん
鼻血を噴き出して、男の子は箪笥までふっ飛んだ。そのまま後頭部を強く打って、畳の上にくずおれる。
泣いている。男の子は、両手で頭を抱えて泣いている。
音がなくったって、はっきり分かる光景だった。
女は、そんな男の子に近づくと、さらに
ごしゃ、ごしゃ、ごしゃ。
わたしの頭が、聞こえない音を補完する。おぞましい臨場感が、わたしの恐怖を加速させる。
女は、
力尽きたのか、女も両手を畳に突く。乱れた呼吸を整えている。
やがて、女は立ち上がった。血まみれの男の子のそばに歩み寄って、その両足首を手に持った。
ぶらりと、男の子の身体が持ち上がる。
さらに、女は腕を上げる。ほとんどバンザイだ。
なにを、なにをするの?
わたしはもう、歯の根が合わない。
かた、かたり、かたかた
さっきから止まない家鳴りに、わたしの身震いが同調する。
女は、仏壇のそばに進んだ。そこには、黒い机が置かれている。
その角のひとつの
わたしの
数秒後、女はそれを現実にした。
掴んでいた男の子の足首を、女はぱっと放したのだ。
ごん
血まみれの男の子の頭は、机の角に激突した。
小さな身体が、畳の上にべたんと落ちる。
もう、男の子は動かなかった。
死んだ。
どう見たって、もう男の子が生きているとは思えなかった。
殺したのだ。殺人だ。
殺人犯となった女は、しばらく
やがて、両手で顔を
あとは、残された男の子の死体が、ずっと映ったままだった。
ここで、やっと、両手が動いてくれた。
カーテンを掴んで、わたしは思い切り閉じ合わせた。
惨劇が、布地の向こうに隠れる。忘れていた呼吸を、ようやくわたしは取り戻した。ぜえぜえ肩を上下させて、その場に
男の子を殺した、若い女――
その顔に、わたしは覚えがあった。
そのことが、わたしの心臓を握り潰していた。
あの顔立ち、あの
かたかた、かたり、かた
家鳴りは、まだ続いている。
でも、もうそんなことなど気になりもしないくらい、恐怖でわたしはどうにかなりそうだった。
――
――夜になったら、いっつもなんかがおるって。
――暗うなってきたらぜったいカーテンを閉めとうせって、義之はぎっちり言いよった。
おばあちゃんの言葉。耳によみがえる。
ああ、そうだ。
窓の外、じゃないんだ。
窓になにかがいるって、父さんは言っていたんだ。
これが、これが父さんの見たなにかだったんだ。
あの父さんを異常なくらい怯えさせたのは、きっと今の光景だったんだ。
「
「きゃあ!」
悲鳴を上げて、わたしは振り向いた。
お座敷の入り口に、おばあちゃんが立っていた。
おばあちゃんは、なにやら
「ごめんねえ、びっくりさせてしもうたかねえ」
「お、おばあちゃん… あ、あ、あたし――」
「どういたがで? 菜穂ちゃん、すごい汗」
不思議そうに目を細めて、そして、おばあちゃんが部屋に入ってきた。
わたしは、思わず後ずさる。
もうすっかり
振り下ろす拳。
なにかに
あれは、そう、あれは――
「なんで」
「え?」
「なんで殺したが、おばあちゃん?」
わたしの口を、疑問が
「ころ、した?」
「お父うに弟さんがおったがやろ? ここで昔、死んだって…」
たしか、
「おばあちゃんが、殺したがやろ」
「菜穂ちゃん、え? ど、どうした――」
「殺したがやろ!」
わたしは、絶叫した。
あとから考えると、わたしは完全にどうかしていた。
こんな非科学的な現象から知り得た情報で、そこからおばあちゃんを子殺しの罪人だと断定するだなんて、どう考えたって普通じゃない。
そう、わたしは普通じゃなかったのだ。
普通じゃないわたしは、怯えとも怒りとも
おばあちゃんは、ぽかんとしていた。
問われている意味が解っていないのか、それとも、孫娘が狂ったとでも思っているのか――
「あんたも」
はっと、わたしは目を見開く。
対面するおばあちゃんが、突然、ぶるりと
「あんたもそれを言うがかえ! 菜穂!」
わたしは、
いつも穏やかで優しかったおばあちゃん。わたしも修太も、怒られたことなんていちどもない。
そんなおばあちゃんが見せる、初めての
「義之も言うた! そう言うた! お
そこでまた大きく、おばあちゃんは痙攣した。そして、仏壇の遺影をキッと見て、黄色い歯を
「義之は、お父うはそう言いよったか? おばあは人殺しやと言いよったがか? おまんにも、修太にもそう教えたがか?」
「そ、そんなこと… ち、違う… あ、あたしは今――」
「なんでじゃ! なんでおまんは孫にまでそんなことを言うた! 義之! 義之! おまんはあてを嫌いやったがか? お母あのことがそこまで嫌いやったか? 義之!」
霊前に向かって、おばあちゃんは泣き叫ぶ。日頃穏やかなおばあちゃんが、信じられないくらい取り乱していた。
「お、おばあちゃん!」
「見れるはずがない! おまんが見れるはずがないろうが、義之! あ、あ、あては、忠正を殺しちゃあせん! あては、あては…」
「おばあちゃん!」
「くやしい! くやしい! なんで、なんであてが… あてばっかり… おお、忠正は、ただまさは――」
そこで、おばあちゃんは
逃げた?
一瞬、そう思った。
しかし、小さな足音はすぐに引き返してきた。
ふたたびお座敷に飛び込んできたおばあちゃんを見て、わたしは
冷たい、
おばあちゃんの手には、大きな
「や、やめて! おばあちゃん!」
殺されるって、わたしは思った。
それほど、おばあちゃんの
けれど、おばあちゃんはもうわたしを見ていない。
仏前の父さんに、おばあちゃんは駆け寄った。ダラダラと涙やら
「もうえい、もうたくさんじゃ。義雄にゃあさんざん
次の瞬間、
おばあちゃんは、包丁で
黒い血が噴出し、
わたしの鼻を、鉄と生き物の臭いが突き刺す。
「こ、ぼおおぉ…」
溺れているみたいな悲鳴を上げて、おばあちゃんは棺に抱き着いた。
ぶるぶると身体じゅうを震わせて、父さんの寝床に血を塗りたくっていく。
そして、そのまま動かなくなった。
わたしは、息すらできないでいた。
おばあちゃんが最初にお座敷に来て、たった数分――
たった数分で、場は、あまりにも
おぞましい魔力が、視界いっぱいに充満している。
かた、かたり、かたかた
家鳴りが、うるさい。
すべてが凍りついた部屋のなか、
家鳴りだけが、家鳴りだけが大きく――
「いやああああああああああああああああああああああああああ!」
やっとここで、わたしは普通に戻った。
恐怖の悲鳴を、家じゅうに吐き散らした。
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