第4話


 お座敷は、ずっと蛍光灯がともされている。

 田舎いなかとはいえ、さすがに一晩じゅう起きて死者を見守っていたりはしない。騒ぎ疲れた親族一同はそれぞれの寝所へ帰っていった。

 遅いお風呂から上がったわたしは、まだ熱の宿った髪をでつけながら、ロウソク型の照明が輝く仏壇をぼんやりとながめていた。

「姉ちゃん、まだ起きちゅうがか」

 振り向くと、修太しゅうたが立っていた。わたしより一時間は早く身体を流して、さっさと部屋に引っこんでいたのだけれど、どうやらトイレからの帰りらしい。

「まだ起きちゅうもなにも、あたし今おフロから出たとこながやけど」

「ああそ」

 短い反応を残して、修太は二階へ上がっていった。

 おじいちゃんとおばあちゃんは一階で生活していて、今はもうここから少し離れた寝室へ引っ込んでいる。今夜この家に泊まっている他の親戚も、めいめいがあてがわれた部屋に引っ込んでいた。わたしたち母子おやこ三人はまだ若いので、上り下りの必要な二階の客間に陣取っている。

 修太の重々しい足音が、やがて聞こえなくなった。ふすまをパタンと閉める音がする。

 自分も、もう寝よう。

 そう思って、そしてわたしはいま一度、父さんの遺影が笑う仏壇に目をやった。

「おやすみ、おう」

 小さく、声に出してみた。それだけで、ぐっと涙が込み上げてくる。

 きっと、明日はブザマに泣いてしまうんだろう。

 あれだけ憎かった父さんの死に、これだけ取り乱してしまっていることがなんだか悔しかった。でも、それが当たり前なんだって、わたしは心に言い聞かせる。

 父娘おやこなんだから。

 父と娘なんだから、しかたないじゃないか。

 指先で目尻をぬぐって、わたしはここでふと、窓際まどぎわを見た。

 カーテンは、閉まっている。

 もうコレは癖になってしまっている。目の前で眠る父さんのせいで。

 夜が来たら、カーテンを閉めなさい――

 部屋の窓だけじゃない。天窓てんまども、トイレの窓も、換気の小窓もぜんぶぜんぶぜんぶぜんぶ。

 たったひとつだけ、納得できなかった父さんの論理。

 魔が差す――っていうのは、きっとこんなことを言うのだろう。

 たった今まで父さんの死に涙していたっていうのに、ここでわたしの心に、ふと底意地の悪い考えが浮かんだ。

 静かに、窓辺まどべに歩み寄る。


 そして、わたしは、カーテンを左右に開いていた。


 闇。

 外は、すみをぶちいたような漆黒しっこくだ。

 透明な黒は、鏡になって部屋の様子を映し出す。

 ――どう、お父う?

 カーテンなんか、開いてようが閉まっていようが、正味しょうみどうだってイイじゃない。

 今夜この部屋は電気がともりっぱなしだろうけど、ふつう寝るときは家じゅうまっくらになる。そんなまっくらの家の中を、たとえヘンな人が外からのぞいていたとして、いったいなにが楽しいっていうの。

 まっくらな、なにも見えない家の中を見てたって――

 返事は、ない。

 当たり前だ。もう、父さんは死んでしまった。

 だのに、わたしは反論の返ってこない現状に満足してしまっていた。

 父さんと、わたし。

 たった二人の、この状況。

 わたしが父さんの持論に反駁はんばくし、そして父さんはなにも返せないでいる。

 こんなシーンを、ずっと夢見ていた。

 最後の最後で、ようやくかなった。どうだザマぁ見たか偏屈へんくつオヤジって、やっとわたしは痛快な気分になれた。

 やがて、そんな異様な昂揚こうようもふっとめた。

 醒めてしまえば、自分の行動がバカらしく思えてくる。みずからをあざけりながら、わたしはカーテンを元どおり閉めようと手を掛けた。


 かたり


 はっと、わたしは振り返った。

 誰かがこのお座敷にやってきたのかと思った。

 けれど、誰もいない。周囲に人の気配はない。

 かたり、かた、かたかた――

 小さく、物音は続く。

 家鳴やなりにしては長い。ちょっと前の時みたく、また地震だろうか。

「え?」

 ふと、わたしの視界のすみを、なにかが動いた。

 後ろによじっていた身体からだを戻す。

 窓。

 外の様子は、なにも見えない。窓は、黒い鏡になってしまっている。

 

 そして、それは――

「?」

 最初は、その違和感がなんなのか分からなかった。

 でも、じきにわたしは気づいた。

 窓に映る、お座敷の光景。

 その中に――


 父さんの棺がなかった。


 わたしは、自分の目を、続いて正気を疑った。

 少しだけ、首を回す。瞳を、めいっぱい仏壇のほうへ向ける。

 棺は、果たしてちゃんとあった。父さんの眠る棺は、ちゃんとそこにある。

 でも、目の前の窓に広がる部屋の光景に、棺は横たわっていなかった。代わりに黒い机が置かれている。

 なに?

 なに、これ?

 夢でも見ているのか、わたしは?

 やがて、わたしはさらに違和感の原因に気づく。

 窓に映った室内の景色は、どうも全体的に調度品ちょうどひんが違っているのだ。合っているのは仏壇だけで、箪笥たんすやらたなやら机やら、その他の家具のデザインはことごとく違う。大まかなレイアウトは合っているけれど、これは今のお座敷とは違う光景だ。

 そして、その中を、またなにかが横切った。

 十六畳じゅうろくじょうのお座敷を、まんなかで区切る襖。

 半分ほど開いたその向こうで、小さな子どもが転げ回っていた。

 今は、襖も取り外している。

 なのに、窓の中の光景は襖がちゃんとある。

 そして、その襖が、音もなく開いた。

 もう一度、わたしは後ろを振り返る。

 当然、誰もいない。そもそも

 恐怖が、背筋をつらぬいた。

 かた、かたかた、かた

 音がする。音はずっと続いている。

 なんだこれ、なんだこれ、なんだこれ?

 わたしはいったい、なにを見ているんだ?

 ガタガタ震えながら、それでもわたしは窓に視線を戻してしまう。

 錯覚だ。気の迷いからくる幻覚だ。そんな科学的な現実的な考察をたてにして、わたしは怪異にふたたび挑む。

 でも、窓の中では、あいかわらず不可思議な光景が続いている。

 襖を開けたのは、若い女の人だった。

 片手に、ぐったりとうなだれた小さな男の子の腕をつかんでいる。

 それは、さっき、襖の向こうで転がっていた子どもだった。

 若い女が、しゃがむ。

 男の子の目線に合わせるように腰を沈め、何事か男の子に言っている。音は、さっきからずっとない。まるで古いフィルムを見ているようだった。

 次の瞬間、

 女は、男の子の顔面をぶんなぐった。

 鼻血を噴き出して、男の子は箪笥までふっ飛んだ。そのまま後頭部を強く打って、畳の上にくずおれる。

 泣いている。男の子は、両手で頭を抱えて泣いている。

 音がなくったって、はっきり分かる光景だった。

 女は、そんな男の子に近づくと、さらにこぶしを振り下ろした。

 ごしゃ、ごしゃ、ごしゃ。

 わたしの頭が、聞こえない音を補完する。おぞましい臨場感が、わたしの恐怖を加速させる。

 女は、執拗しつように男の子の顔を目がけて殴りまくった。最初は抵抗していた男の子も、やがてほとんど動かなくなった。

 力尽きたのか、女も両手を畳に突く。乱れた呼吸を整えている。

 やがて、女は立ち上がった。血まみれの男の子のそばに歩み寄って、その両足首を手に持った。

 ぶらりと、男の子の身体が持ち上がる。

 さらに、女は腕を上げる。ほとんどバンザイだ。

 なにを、なにをするの?

 わたしはもう、歯の根が合わない。

 かた、かたり、かたかた

 さっきから止まない家鳴りに、わたしの身震いが同調する。

 女は、仏壇のそばに進んだ。そこには、黒い机が置かれている。

 その角のひとつの直上まうえに、女は男の子の頭を持っていった。

 わたしの脳裡のうりに、最悪の未来がよぎる。

 数秒後、女はそれを現実にした。

 掴んでいた男の子の足首を、女はぱっと放したのだ。

 ごん

 血まみれの男の子の頭は、机の角に激突した。

 小さな身体が、畳の上にべたんと落ちる。

 もう、男の子は動かなかった。


 死んだ。


 どう見たって、もう男の子が生きているとは思えなかった。

 殺したのだ。殺人だ。

 殺人犯となった女は、しばらく呆然ぼうぜんとしていた。

 やがて、両手で顔をおおうと、身悶みもだえながら襖の向こうへ飛び出していった。

 あとは、残された男の子の死体が、ずっと映ったままだった。

 ここで、やっと、両手が動いてくれた。

 カーテンを掴んで、わたしは思い切り閉じ合わせた。

 惨劇が、布地の向こうに隠れる。忘れていた呼吸を、ようやくわたしは取り戻した。ぜえぜえ肩を上下させて、その場にひざから崩れ落ちる。

 男の子を殺した、若い女――

 その顔に、わたしは覚えがあった。

 そのことが、わたしの心臓を握り潰していた。


 あの顔立ち、あの面影おもかげは――


 かたかた、かたり、かた

 家鳴りは、まだ続いている。

でも、もうそんなことなど気になりもしないくらい、恐怖でわたしはどうにかなりそうだった。

 ――義之よしゆきは、窓になんかがおると言いよった。

 ――夜になったら、いっつもなんかがおるって。

 ――暗うなってきたらぜったいカーテンを閉めとうせって、義之は言いよった。

 おばあちゃんの言葉。耳によみがえる。

 ああ、そうだ。

 、じゃないんだ。

 って、父さんは言っていたんだ。

 これが、これが父さんの見ただったんだ。

 あの父さんを異常なくらい怯えさせたのは、きっと今の光景だったんだ。


菜穂なほちゃん」


「きゃあ!」

 悲鳴を上げて、わたしは振り向いた。

 お座敷の入り口に、おばあちゃんが立っていた。

 おばあちゃんは、なにやら名状めいじょうしがたい雰囲気をただよわせている。

「ごめんねえ、びっくりさせてしもうたかねえ」

「お、おばあちゃん… あ、あ、あたし――」

「どういたがで? 菜穂ちゃん、すごい汗」

 不思議そうに目を細めて、そして、おばあちゃんが部屋に入ってきた。

 わたしは、思わず後ずさる。

 もうすっかりしわくちゃで、背中もかなり丸くなっているけれど――

 振り下ろす拳。

 なにかにかれたように無表情で、幼子おさなごを暴行する姿。

 あれは、そう、あれは――

「なんで」

「え?」


「なんで殺したが、おばあちゃん?」


 わたしの口を、疑問がいて出た。

「ころ、した?」

「お父うに弟さんがおったがやろ? ここで昔、死んだって…」

 たしか、忠正ただまさって名前の男の子。わたしの叔父おじさんに当たる人。

「おばあちゃんが、殺したがやろ」

「菜穂ちゃん、え? ど、どうした――」

「殺したがやろ!」

 わたしは、絶叫した。

 あとから考えると、わたしは完全にどうかしていた。

 こんな非科学的な現象から知り得た情報で、そこからおばあちゃんを子殺しの罪人だと断定するだなんて、どう考えたって普通じゃない。

 そう、わたしは普通じゃなかったのだ。

 普通じゃないわたしは、怯えとも怒りともかない感情を持て余しながら、上目遣うわめづかいでおばあちゃんをにらみつける。

 おばあちゃんは、ぽかんとしていた。

 問われている意味が解っていないのか、それとも、孫娘が狂ったとでも思っているのか――

「あんたも」

 はっと、わたしは目を見開く。

 対面するおばあちゃんが、突然、ぶるりと痙攣けいれんした。

「あんたもそれを言うがかえ! 菜穂!」

 わたしは、仰天ぎょうてんした。

 いつも穏やかで優しかったおばあちゃん。わたしも修太も、怒られたことなんていちどもない。

 そんなおばあちゃんが見せる、初めての激昂げっこうだった。

「義之も言うた! そう言うた! おあが忠正をぶち殺したと! なんどもはそう言われた! なんで、なんでが…忠正を……」

 そこでまた大きく、おばあちゃんは痙攣した。そして、仏壇の遺影をキッと見て、黄色い歯をく。

「義之は、お父うはそう言いよったか? おばあは人殺しやと言いよったがか? おまんにも、修太にもそう教えたがか?」

「そ、そんなこと… ち、違う… あ、あたしは今――」

「なんでじゃ! なんでおまんは孫にまでそんなことを言うた! 義之! 義之! おまんはを嫌いやったがか? お母あのことがそこまで嫌いやったか? 義之!」

 霊前に向かって、おばあちゃんは泣き叫ぶ。日頃穏やかなおばあちゃんが、信じられないくらい取り乱していた。

「お、おばあちゃん!」

「見れるはずがない! おまんが見れるはずがないろうが、義之! あ、あ、は、忠正を殺しちゃあせん! は、は…」

「おばあちゃん!」

「くやしい! くやしい! なんで、なんでが… ばっかり… おお、忠正は、ただまさは――」

 そこで、おばあちゃんは脱兎だっとのごとくお座敷を飛び出した。八十近い歳をまるで感じさせない、狂気の遁走とんそうだった。

 逃げた?

 一瞬、そう思った。

 しかし、小さな足音はすぐに引き返してきた。

 ふたたびお座敷に飛び込んできたおばあちゃんを見て、わたしは戦慄せんりつした。

 冷たい、ひらめき。

 おばあちゃんの手には、大きな出刃包丁でばぼうちょうが光っていた。

「や、やめて! おばあちゃん!」

 殺されるって、わたしは思った。

 それほど、おばあちゃんの形相ぎょうそうすさまじかった。まるで、違うなにかが乗り移っているみたいな夜叉顔やしゃがおだった。

 けれど、おばあちゃんはもうわたしを見ていない。

 仏前の父さんに、おばあちゃんは駆け寄った。ダラダラと涙やらはなやらよだれやらを垂れ流して、遺影の笑顔を睨みつけている。

「もうえい、もうたくさんじゃ。義雄にゃあさんざんかまわって、おまんには人殺しや人殺しやとずっと言われて、あげく、孫にまでそう言われてしもうた… もうかまん、もうえい、もうは、は……」

 次の瞬間、


 おばあちゃんは、包丁でのどを突いていた。


 黒い血が噴出し、白妙しろたえの棺にびちゃびちゃとかかった。

 わたしの鼻を、鉄と生き物の臭いが突き刺す。

「こ、ぼおおぉ…」

 溺れているみたいな悲鳴を上げて、おばあちゃんは棺に抱き着いた。

 ぶるぶると身体じゅうを震わせて、父さんの寝床に血を塗りたくっていく。

 そして、そのまま動かなくなった。

 わたしは、息すらできないでいた。

 おばあちゃんが最初にお座敷に来て、たった数分――

 たった数分で、場は、あまりにも凄惨せいさんな光景に変わってしまった。

 おぞましい魔力が、視界いっぱいに充満している。

 かた、かたり、かたかた

 家鳴りが、うるさい。

 すべてが凍りついた部屋のなか、

 家鳴りだけが、家鳴りだけが大きく――


「いやああああああああああああああああああああああああああ!」


 やっとここで、わたしは普通に戻った。

 恐怖の悲鳴を、家じゅうに吐き散らした。

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