第3話

 宴席にうずまいていた酒勢しゅせいも、ようやく落ち着きはじめた。

 一人また一人とはいをひっくり返して帰っていくたびに、わたしと修太しゅうたはやれやれと心をで下ろす。宴席に腰を下ろしてまだたったの三十分だけれど、さんざん好き放題言われて正直かなりストレスがまった。

 残っているのは、酒にきたない年寄り連中ばかりだ。

菜穂なほも修太も、おうの一周忌までにゃあ結婚しちょかんといかんで」

 アルコール臭を吐き散らしながら、おじいちゃんがゲハゲハ笑う。

わたしたち孫には昔から優しいおじいちゃんだけど、酒の入ったときだけは嫌悪の対象だった。酒気を帯びたら傍若無人ぼうじゃくぶじんわめき散らすサマはまさに高知の男の典型で、その豹変っぷりが、わたしは子どもの時からとにかく怖かった。

 まるで、酒に人格を乗っ取られたみたいに思えるのだ。

 今だって、自分の息子が死んだっていうのにこれだ。昨日はしんみりと父さんの死に顔を眺めていたおじいちゃんも、本通夜の酒精しゅせいあおったとたん、弔問ちょうもんのお客といっしょになって下品な笑い声をはじけさせていた。

 なんで、自分の子どもが死んだのに、そんなバカみたいに笑えるんだろう。そう考えると、ハラが立つというよりもわたしは怖かった。

 もう八十近い高齢だから、喜怒哀楽がにぶくなっているのもあるだろう。でも、息子なんだぞ。あんたの子どもだぞって思う。思ってしまう。

 それが普通じゃないのか?

 間違っているのは、わたしのほうなのか?

「こりゃあ! 忠子ただこ!」

 いきなり大声で、おじいちゃんがおばあちゃんを呼んだ。

「はいはい」

 眉根まゆねくもらせて、おばあちゃんが台所からやってくる。

「ハイハイがあるか! おのれは、あれだけ言うたに、またワシに土佐鶴とさづるを出しくさってからに!」

 怪気焔かいきえんを巻き上げて、おじいちゃんがおばあちゃんを責め立てる。出されたお酒が気に入らないらしい。

「ああ、ごめんなさいねぇ。間違まちごうちょったろうか…」

司牡丹つかさぼたんやアホウが! さっさと持ってきい!」

 おじいちゃんはすっかりでダコ。しまいにはおばあちゃんに向けて御猪口おちょこを放り投げる始末だ。さすがに周囲の親戚がおじいちゃんになだめの言葉をかける。おばあちゃんはしゅんとうなだれて、また台所に戻っていった。

「恥ずかしい…」

 ぼそりと、わたしは思わずつぶやいていた。無言で修太も同調している。

 昔の人だからしかたないとはいえ、ここまであからさまな亭主関白ていしゅかんぱくを見せつけられては、女のわたしのうちにドス黒いものが湧き上がってしまう。

 残っている親戚も、男性陣はだいたいがおじいちゃんと似たり寄ったりのクチだから、たいして気にも留めていないし、女性陣もやれやれまたかと慣れた様子だ。

 こんな田舎の風習が、わたしは心底キライた。憎悪しているって言ってもいい。

 父さんの怒鳴どなり声もキライだった。けれど、父さんの言葉には、信念があった。一本筋の通った理念があった。だから、怖かったけれど学びも多かった。

 でも、おじいちゃんの怒りは違う。怒りの理由はただの自儘じままだし、その根底には女を見下している本性が当たり前のようにある。そんなケッタクソの悪い光景をまざまざと見せつけられて、わたしの心はさらにき乱されてしまった。とにかくおばあちゃんがかわいそうだった。

「おお、やっぱり司牡丹やないといかん!」

 新たに満たされた御猪口を一瞬で飲み干して、おじいちゃんが幸せそうに息を吐く。赤銅色しゃくどういろの顔になった取り巻きが、さらに徳利とっくりを寄せる。満面の笑顔で、おじいちゃんはそれを御猪口で出迎える。

 これが息子を弔う父親の正しい姿だっていうのなら、わたしは父親なんかいらない。

 真っ赤に染まったしわくちゃの顔を見るのもイヤになって、わたしはふと視線を仏壇に向けた。

 遺影のなかで、まだ元気だったときの父さんが笑っている。

 ――そんなこと気にするな菜穂。メソメソ見送られたってオレも困る。

 まるで父さんがそう言っているようで、わたしは急に胸が締めつけられた。逃がした視線の先で涙腺るいせんを攻められてちゃ世話がない。あわてて、わたしはさらに目を逃がす。

 そして、仏壇の左すみっこに、それを見つけた。

 小さな写真立て。

 もうすっかり色褪いろあせた、小さい子どもの顔写真。

「お母さん」

 となりですっかり気疲れした様子の母さんに、わたしは問いかけた。

「あれって、誰なの?」

「ああ、あれは、お父ちゃんの弟よ」

「おとうと?」

 初耳だった。いや、むかし聞いたけど忘れているだけなのかもしれない。

 アンタ知ってると修太にくと、すごい小さいときに亡くなったんだろって返された。

「病気?」

「そこまでは知らん」

「事故やなかったかねえ、たしか」

「ほうよ」

 母さんの言を断ち切るように、そのまたとなりにいた大叔母おおおばさんが話に入ってきた。

忠正ただまさは事故で死んだがよ。五つのときじゃったかねえ」

「川でおぼれたとか、車にハネられたとか?」

「いや、この家の中でよ」

「え?」

「ひとりで遊びよって、なんかの拍子ひょうしに机にアタマをちつけたみたいでねぇ」

 このお座敷で――そう、大叔母さんはこともなげに言った。

 わたしも修太もぎょっとする。母さんでさえもこれは初耳だったらしい。まあいやだと目をすがめてあたりを見回している。

「そりゃあ忠子姉ただこねえやんも義雄よしおさんもなげいてねえ。そら家にんてみたら我が子が死んじゅうがじゃき、ムリもなかったがやけんど」

 義雄はおじいちゃんの名前だ。二人を配慮してか、大叔母さんはいっそう声を潜めて、当時の状況を語り出す。

「最初に見つけたがは、のおうちゃんやってねえ。学校からんたら、お座敷で忠正がアタマをち割って倒れちゅう。びっくりして、義之は家を飛び出して門の前でワアワア泣きよったがよ。そこに、買い物から忠子姉やんがんて、ようやっと医者を呼んだがじゃ。でも、もう遅かったがよ」

 わたしたち親子三人は、誰も、なにも反応できないでいた。

 ことにわたしは、自分がきっかけで始まった話題にもかかわらず、通夜の場でこんな凄惨なハナシをする大叔母さんの常識を疑った。酒をあまり飲まないおばあちゃんと違って、妹の大叔母さんはとにかく酒豪なもんだから、宴席となると酔いに任せて場の空気にそぐわないハナシばかりする。今さらのことなので、しかたないといえばそうなのだが。

「そう、忠正はちょうど、あこらへんに倒れちょったがやったかねえ」

 皺寄しわよった指で、大叔母さんがお座敷のまんなかより少し右を差す。まんなかとは言っても、今は二つの八畳間はちじょうまを仕切るふすまをぶち抜いているから、本来はちょうど部屋のすみの、ちょうど仏壇の前ぐらいになるだろうか。

 今、そこには父さんの亡骸なきがらを収めた棺が横たわっている。

 あそこで、五十年も昔に、父さんの弟が――わたしたちにとっての叔父さんが亡くなっている。それも、不慮の事故で。

 たたみを血に染めて倒れている男の子を、わたしのアタマは不必要なくらい鮮明に描き出す。

 ぞっとした。

 いやいや口にした日本酒の酔いも、一気にめてしまったほどに。

「ほいで、そのあと――」

「おおの! はまたしょうもない話をしてからに!」

 消沈しているわたしたちを気にするふうもなくさらに話を進める大叔母さんを、向かい席の大叔父おおおじさんがたしなめてくれた。大叔父さんの冷静さに感謝しつつ、わたしは、トイレにいくのをよそおって宴席を立ち去った。

 両手に徳利を持ったおばあちゃんとすれ違う。もう腹は張ったかって問うてくる笑顔に気丈さを感じ、わたしは無言でうなずくことしかできなかった。

 そのまま台所に逃げ込んで、流しに溜まった食器を洗う。さすがにもう女性陣もみんな宴席に着いていて、そこはわたしの格好の避難地だった。

 母さんと修太は、お座敷を出てこない。

 逃げてくればいいのにと思いつつ、わたしはさっきのハナシにまた思いをせる。

 頭の割れた、子どもの死体。

 変わり果てた弟の姿に驚き泣きわめく、幼い日の父さん。

 一家を襲ったであろう衝撃。急転直下する日常。

 この家の中で。

 この家の中で、昔、そんなむごい事故が――


 かたん


 はっと、わたしは物思いから返った。

 誰かがお酒の追加でも取りにきたのかと、後ろを向く。

 誰もいなかった。

 台所とお座敷を結ぶ廊下には、うすやみが沈んでいるだけだった。

 廊下の先から漏れてくる明かりと談笑が、わたしはなんだか急に恋しくなった。お通夜のさなかにたったひとり喧騒の輪から距離を置いている今が、やにわに寂しく、また心細くなった。

 そして――


 かたん


 また、音がした。

 はっと、わたしは耳を澄ます。

 かたり、かた、かたかた。

 めちゃくちゃなリズムで、音は小さく続いている。

 後ろじゃ、ない。

 かすかな物音は、近くのあちこちから聞こえる。見上げると、照明もゆらゆらと小刻みに揺れていた。

 家鳴やなり――か。

 外は、特に風が強いってワケでもない。

 地震が起きているんだろう。震動は感じないけれど、わたしはそう考えた。

体感できない大地の揺れなんぞ、高知じゃたいして珍しくもない。加えて、父さんの実家は築五十年以上も経ったオンボロ家だ。この地方の名士だったひいおじいちゃんの代で得たとみを惜しげもなくそそんだという田舎御殿いなかごてんだけれど、さすがにもうガタも来はじめているに違いない。そういえば耐震補強もまだロクにしていないってハナシだ。

 そうだ、さっき、おじいちゃんの書斎で見たかすかなカーテンの揺れも、きっと地震が原因だったのだ。さもなくば、ただの目の錯覚だろう。帰省して、もう丸一日が過ぎようとしている。父さんが亡くなったショックもあって、きっと自分は疲れているんだ。

 心を納得させるように、わたしは現実主義にひた走る。

 ああだこうだと科学的を気取っているうちに、家鳴りは小さく、間隔も長くなっていった。やっぱり地震だなこれはと、わたしは考察を打ち切った。

 残りの洗い物を片づけて、手の水をぬぐう。

 物音は、もうしない。

 でも、心細さは消えなかった。

 むしろ、それは恐怖のような感情に変わりつつある。

 その原因が、大叔母さんの悲惨な昔語りによるものなのか、それともおばあちゃんの奇怪な昔語りのせいなのか、それは分からない。

 ただ、心がざわめいている。

 氷の海に落とされたみたく、心は怯えている。

 ――なんなの?

 これは、いったいなんなのだ?

 分からない。ちっとも。

 でも、ひとりでいたくない。

 団欒だんらんを、人の気配を、わたしは無性に渇望かつぼうした。

 流しの中の泡だらけの水面が、すうっとんでいく。

 なにかに追い立てられるように、わたしは台所から立ち去った。

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