第3話
宴席にうずまいていた
一人また一人と
残っているのは、酒にきたない年寄り連中ばかりだ。
「
アルコール臭を吐き散らしながら、おじいちゃんがゲハゲハ笑う。
わたしたち孫には昔から優しいおじいちゃんだけど、酒の入ったときだけは嫌悪の対象だった。酒気を帯びたら
まるで、酒に人格を乗っ取られたみたいに思えるのだ。
今だって、自分の息子が死んだっていうのにこれだ。昨日はしんみりと父さんの死に顔を眺めていたおじいちゃんも、本通夜の
なんで、自分の子どもが死んだのに、そんなバカみたいに笑えるんだろう。そう考えると、ハラが立つというよりもわたしは怖かった。
もう八十近い高齢だから、喜怒哀楽が
それが普通じゃないのか?
間違っているのは、わたしのほうなのか?
「こりゃあ!
いきなり大声で、おじいちゃんがおばあちゃんを呼んだ。
「はいはい」
「ハイハイがあるか! おのれは、あれだけ言うたに、またワシに
「ああ、ごめんなさいねぇ。
「
おじいちゃんはすっかり
「恥ずかしい…」
ぼそりと、わたしは思わず
昔の人だからしかたないとはいえ、ここまであからさまな
残っている親戚も、男性陣はだいたいがおじいちゃんと似たり寄ったりのクチだから、たいして気にも留めていないし、女性陣もやれやれまたかと慣れた様子だ。
こんな田舎の風習が、わたしは心底キライた。憎悪しているって言ってもいい。
父さんの
でも、おじいちゃんの怒りは違う。怒りの理由はただの
「おお、やっぱり司牡丹やないといかん!」
新たに満たされた御猪口を一瞬で飲み干して、おじいちゃんが幸せそうに息を吐く。
これが息子を弔う父親の正しい姿だっていうのなら、わたしは父親なんかいらない。
真っ赤に染まった
遺影のなかで、まだ元気だったときの父さんが笑っている。
――そんなこと気にするな菜穂。メソメソ見送られたってオレも困る。
まるで父さんがそう言っているようで、わたしは急に胸が締めつけられた。逃がした視線の先で
そして、仏壇の左すみっこに、それを見つけた。
小さな写真立て。
もうすっかり
「お母さん」
となりですっかり気疲れした様子の母さんに、わたしは問いかけた。
「あれって、誰なの?」
「ああ、あれは、お父ちゃんの弟よ」
「おとうと?」
初耳だった。いや、むかし聞いたけど忘れているだけなのかもしれない。
アンタ知ってると修太に
「病気?」
「そこまでは知らん」
「事故やなかったかねえ、たしか」
「ほうよ」
母さんの言を断ち切るように、そのまたとなりにいた
「
「川で
「いや、この家の中でよ」
「え?」
「ひとりで遊びよって、なんかの
このお座敷で――そう、大叔母さんは
わたしも修太もぎょっとする。母さんでさえもこれは初耳だったらしい。まあいやだと目を
「そりゃあ
義雄はおじいちゃんの名前だ。二人を配慮してか、大叔母さんはいっそう声を潜めて、当時の状況を語り出す。
「最初に見つけたがは、おまんらあのお
わたしたち親子三人は、誰も、なにも反応できないでいた。
ことにわたしは、自分がきっかけで始まった話題にもかかわらず、通夜の場でこんな凄惨なハナシをする大叔母さんの常識を疑った。酒をあまり飲まないおばあちゃんと違って、妹の大叔母さんはとにかく酒豪なもんだから、宴席となると酔いに任せて場の空気にそぐわないハナシばかりする。今さらのことなので、しかたないといえばそうなのだが。
「そう、忠正はちょうど、あこらへんに倒れちょったがやったかねえ」
今、そこには父さんの
あそこで、五十年も昔に、父さんの弟が――わたしたちにとっての叔父さんが亡くなっている。それも、不慮の事故で。
ぞっとした。
いやいや口にした日本酒の酔いも、一気に
「ほいで、そのあと――」
「おおの! おまんはまたしょうもない話をしてからに!」
消沈しているわたしたちを気にする
両手に徳利を持ったおばあちゃんとすれ違う。もう腹は張ったかって問うてくる笑顔に気丈さを感じ、わたしは無言でうなずくことしかできなかった。
そのまま台所に逃げ込んで、流しに溜まった食器を洗う。さすがにもう女性陣もみんな宴席に着いていて、そこはわたしの格好の避難地だった。
母さんと修太は、お座敷を出てこない。
逃げてくればいいのにと思いつつ、わたしはさっきのハナシにまた思いを
頭の割れた、子どもの死体。
変わり果てた弟の姿に驚き泣きわめく、幼い日の父さん。
一家を襲ったであろう衝撃。急転直下する日常。
この家の中で。
この家の中で、昔、そんなむごい事故が――
かたん
はっと、わたしは物思いから返った。
誰かがお酒の追加でも取りにきたのかと、後ろを向く。
誰もいなかった。
台所とお座敷を結ぶ廊下には、
廊下の先から漏れてくる明かりと談笑が、わたしはなんだか急に恋しくなった。お通夜のさなかにたったひとり喧騒の輪から距離を置いている今が、やにわに寂しく、また心細くなった。
そして――
かたん
また、音がした。
はっと、わたしは耳を澄ます。
かたり、かた、かたかた。
めちゃくちゃなリズムで、音は小さく続いている。
後ろじゃ、ない。
かすかな物音は、近くのあちこちから聞こえる。見上げると、照明もゆらゆらと小刻みに揺れていた。
外は、特に風が強いってワケでもない。
地震が起きているんだろう。震動は感じないけれど、わたしはそう考えた。
体感できない大地の揺れなんぞ、高知じゃたいして珍しくもない。加えて、父さんの実家は築五十年以上も経ったオンボロ家だ。この地方の名士だったひいおじいちゃんの代で得た
そうだ、さっき、おじいちゃんの書斎で見たかすかなカーテンの揺れも、きっと地震が原因だったのだ。さもなくば、ただの目の錯覚だろう。帰省して、もう丸一日が過ぎようとしている。父さんが亡くなったショックもあって、きっと自分は疲れているんだ。
心を納得させるように、わたしは現実主義にひた走る。
ああだこうだと科学的を気取っているうちに、家鳴りは小さく、間隔も長くなっていった。やっぱり地震だなこれはと、わたしは考察を打ち切った。
残りの洗い物を片づけて、手の水を
物音は、もうしない。
でも、心細さは消えなかった。
むしろ、それは恐怖のような感情に変わりつつある。
その原因が、大叔母さんの悲惨な昔語りによるものなのか、それともおばあちゃんの奇怪な昔語りのせいなのか、それは分からない。
ただ、心がざわめいている。
氷の海に落とされたみたく、心は怯えている。
――なんなの?
これは、いったいなんなのだ?
分からない。ちっとも。
でも、ひとりでいたくない。
流しの中の泡だらけの水面が、すうっと
なにかに追い立てられるように、わたしは台所から立ち去った。
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