第2話
「
子ども部屋の前で、
おままごとにつきあってくれない
振り返る。
鬼の
「カーテンを閉めんかね!」
父さんの指さす先で、二つの大窓が、限りなく黒に近づいた青を映している。
冬の日暮れは早い。遊んでいるうちに、お日さまは顔を隠してしまっていた。
「いっつも言いゆうろう! 暗くなったらカーテンを閉めんといかんと!」
父さんは、けっして
八歳のわたしは、そのことを知りすぎるほど知っていた。あわてて大窓にすっ飛んでいた。震える手でカーテンを
「恥ずかしいと思わんがかね!」
後ろから、父さんの
「外から見えるやろ! 人に見られるやろ! おまんらあが
ここは二階なのに、わたしたちが騒いでいるのを外から見られるんだろうか。
騒いでいるわたしたちを人に見られることの、いったいなにが恥ずかしいんだろうか。
不平まじりの疑問は尽きない。でも、それを言い返すなんてとんでもない。言い返したらきっと、何十倍にも増して父さんは怒る。ひょっとしたら、殴られるかもしれない。
ごめんなさいの言葉だけは、ぐっと噛み殺した。
力も知恵もないわたしの、せめてもの抵抗だった。
「修太もやらんかあ!」
固まっていた修太に、父さんの怒りの
「もう一回や!」
先にカーテンを閉じ終えたわたしに、お父さんは意味不明な命令を下した。
「言うたことを守れん子は、何回もやって覚えないかん」
さっさと開けと、お父さんが泡を飛ばす。さすがにわたしも泣きそうだった。カーテンを開け放ち、また閉じようとする。
「菜穂! おまんはカーテンを開けたとき、ヒモでしばらんがか!」
そこまで要求するか。
こらえていた感情は、ここでとうとう決壊した。
わあわあ泣きながら、わたしはタッセルでカーテンを縛った。そしてすぐ解く。カーテンを閉める。また開ける。タッセルで縛る。解く。
三十回やらされて、ようやく父さんの
わたしの泣き声に呼び水されて、修太も大泣きしている。
「二度と忘れるな!」
ばあんと、子ども部屋の戸が閉まった。家じゅうが揺れるくらいの勢いだった。
悪魔が去っていった。
しばらく二人で
外が暗くなってきたら、カーテンを閉じなくちゃいけない。
外から見えるから。人に見られるから。
だから、夜、カーテンは閉まってなくちゃならない。
父さんに、二度と怒られないために――
こんなふうに、なにかにつけて父さんの教育はトラウマ方式だった。
いちど痛い目を見ておけば、今後はけっしてやらかさないだろう――そんな、ごく単純な教育方針だ。
素直で歯向かう力のない子どもには、この上なく効果的だろう。けれど、やられる子どもはたまったものじゃない。幼いころに刻まれたイヤな記憶というものは、一生涯ついて回る。しかもそれが成長していくにつれて
自分に子どもができたら絶対にこんな教え方はしちゃいけないと、わたしは強く思っている。まあ、それ以前に結婚願望のほうが破滅的なのだけれど…
正直恨んではいるけれど、父さんの教育には感謝していないわけじゃない。わたしも修太も子どものころから『できた子』だって評判だったし、比較的優秀な学績で大学まで卒業できた。
それでも、このカーテンの件だけは、二十七になった今でも納得できないでいる。
夜になってもカーテンを閉めないことについて怒られたのなら、まだ納得もできていただろう。
しかし、父さんの窓に対するこだわりは、思い出すだに異常だった。
もちろん夜だから、外の景色を眺めようって気持ちも起きないし、起きたってロクになにも見えはしない。だから、日が暮れたらカーテンなりブラインドなりを閉めることにはなんの文句もない。
だけど、明らかに誰も見てなどいやしない換気窓だの、天井の採光窓だのに、どうして目隠しを設ける必要があったのだろうか。
問うたことは、一度もない。
問おうったって、もう父さんはこの世にいない。
記憶の海から急に浮かび上がってきた疑問と、しばし、わたしは向き合った。
「菜穂ちゃん」
はっと振り返ると、いつの間にか、うしろにおばあちゃんがいた。
「なにをしゆうがぞね、そこで?」
もうだいぶ背中の曲がったおばあちゃんが、あるかなきかの
と――
「いかん!」
小声で叫ぶと、おばあちゃんはものすごい速さで書斎に踏み入った。まっくらな南の窓に取りついて、カーテンを引き閉める。
「おばあちゃん?」
窓を
「どうしたが?」
わたしが問うと、おばあちゃんはゆっくりとこっちを見た。
「ああ、菜穂ちゃん」
ごめんねえと、おばあちゃんは意味もなく謝る。その表情は、自嘲するようにくしゃりと
「カーテン、閉まっちょかんといかんが?」
「そらあ、夜やきねえ」
ほっと、ため息のようにこぼれたのは、いたって普通の答え。
違う。
わたしは、直感した。
カーテンに対する、父さんの異常なこだわり。
今のおばあちゃんの行動は、それと同じ理由に端(たん)を発していると。
「お
おばあちゃんの小さな肩が、かすかに、ぴくりと動いた。
「おばあちゃん、あたし、
暗がりに
積年の疑問を、理不尽さに対する怒りすらこもった疑念を、わたしはおばあちゃんにぶつけた。
弓のようなおばあちゃんは、じっとわたしの言葉を受け止めていた。
そして、ぽつりとつぶやいた。
「やっぱり、おまん
「え」
ついていった?
わたしの家に?
なにが?
「菜穂ちゃん。お父うを許しちゃってや」
おばあちゃんは、銅像になったみたく
「おまんのお父うはねえ、怖かったがよ」
こわかった?
あの、父さんが?
この世のなによりも怖かった父さんが?
「なにが?」
「わからん」
肝心の点は、期待はずれだった。
でも、わたしは、
「
「なんか…って、なにを?」
「あては知らん。あては、ひとっちゃあ見たことない。でも、義之は何度も見たみたいなことを言いよった」
見た――
それは、オバケの
父さんは、いい大人になってからも、子どものころに見たそれをオバケだと信じ、恐れていたというのだろうか。
「けんど、おばあちゃん。それと、夜カーテンを閉めるがあが、なんの関係があるがよ?」
「それは、夜に出るがよ」
おばあちゃんの声は、いっそう低くなった。
「義之は、窓になんかがおると言いよった。夜になったら、いっつもなんかがおるって。ほんじゃきに、暗うなってきたらぜったいカーテンを閉めとうせって、義之はぎっちり言いよったがよ」
なにかが、いる。
夜、窓の外に、なにかが――
思わず、わたしはたった今カーテンの閉じられた南窓に目を向けていた。
あの向こうに、なにかがいる――のか?
「義之が
だから、おばあちゃんは慌てて南窓のカーテンを閉めたということか。
それにしても――
「おばあちゃん?」
わたしは、思わず声を掛けていた。
おばあちゃんの様子は、ほんとうにおかしかった。自分はなにもわからないって言っている割に、その
明らかに、怯えているのだ。
「どうしたが、おばあちゃん?」
「ああ、なんちゃあない」
ほとんど聞こえないくらいの声でそう言って、そしておばあちゃんはわたしを向いた。
「菜穂ちゃん、おまん――」
「え?」
「おまんは、ほんまに、なんも見えんかったがかね?」
おばあちゃんは、ぽつりと
おまえは、なにも見えなかったか?
窓の外には、なにも見えなかったのか?
そう、わたしは問われている。
「…なにも」
ありのまま、正直にわたしは答えた。
「ほんならえい」
お座敷に戻ろうかと言って、おばあちゃんは部屋に背を向ける。曲がったうしろ姿が、わたしにこの部屋からの退散を迫っていた。
宴席に戻るのはイヤだけれど、これ以上おじいちゃんの書斎にいたってしかたがない。
なにより、一連のおばあちゃんの態度が、様子が、無性に気味悪かった。
もう一度、窓を見る。
薄暗がりに溶け込んだカーテンが、当たり前のように外の景色を隠していた。
夜に、窓のカーテンが閉まっている。
わたしの心に
そして――
「あ!」
ふわりと、カーテンが動いた。
「どうしたが?」
おばあちゃんの声。
なにも、わたしは返せない。
たったいま、カーテンがわずかに揺れたように見えた。
もう、今は動いていない。いや、最初から動いていないのか。暗がりで、そう見えただけだったのか。
「菜穂ちゃん?」
「ああ、ごめん、おばあちゃん」
錯覚だった。
そう決めつけて、わたしは書斎の入り口に立っているおばあちゃんに苦笑を送った。
痛いくらい鳥肌立った両の腕を、服の上から押さえつけながら。
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