夜窓

大郷田螺

第1話

 父さんが、った。

 もう何年も病床にせっていたから、ある程度の覚悟はできていた。

 それでも、五十五歳は若いって思う。若すぎる。

 父さんの容体が急変したからとにかく帰ってきてと、ふるさとの母さんから電話を受けたのが昨日のお昼まえだった。仕事は山積やまづみだったけれど、緊急の懸案だけチームの先輩たちに引き継いで、あわてて職場を飛び出した。

 新幹線に飛び乗ってすぐ、訃報ふほうは届いた。あっという間の臨終だった。

 それでも、覚悟をしていたぶん、ショックはそこまで大きくなかった。母さんの涙声が途切れた数秒後には、会社に忌引きびき休暇の申し出を電話していた。七日間の休みで、どこまで実家の身辺整理ができるかなどを考えながら、西へと駆ける車体に身を任せていた。

 自分の冷静さが、ちょっと怖いぐらいだった。

 葬式は、父さんの実家でり行うという。父さんの実家など、今ではもう年にいちど、正月に帰省したときにあいさつに行く程度になっている。おじいちゃんもおばあちゃんもまだまだ健在で、自分の息子を看取みとることになった二人の心中を想うと、わたしはなんともやりきれない思いに包まれた。

 新幹線からローカル線に乗り換えて高知に入り、そこからさらにバスを三回乗り継いで、ようやく父さんの実家に戻ったのがかれこれ夜の八時すぎ。玄関には一対の提灯ちょうちんがぼんやりとともっていて、中からは親戚やご近所さんたちの声が漏れていた。

 父さんはもう、病院から家に帰ってきていた。

 きれいな白装束しろしょうぞくを着せられて、まっしろな布団のうえに横たえられていた。

 父さんの死に顔と対面したときは、さすがに涙がこぼれた。

 学歴こそぼんだけど、博学で勉強家で、そして完璧主義者だった父さん。

 子どものころから、怖かった。

 雷のような声でしかられるたびに、わたしはうつむいてめそめそと泣いたものだった。

父さんが怒るときは、かならずわたしに非があった。ときには理不尽だって思うこともあったけれど、父さんの論理の前にはなにも言い返せなかった。言い返したところで、万倍返しで批難された。糾弾された。否定された。それがまた怖くって、さらに泣いた。

 わたしにとって、父さんは、畏怖いふの対象以外のなにものでもなかった。

 二十七になった今だって、そうだ。

 年子としごの弟――修太しゅうたも、それは同じだろう。父さんは手を上げることも珍しくなかったが、それは女のわたしより男の修太のほうが何倍も経験している。

 我が子を一人前の人間に育て上げる――

そんな信念にもとづいた愛のムチだったっていうのは分かる。今でこそ、わかる。

だけど、父さんのあまりの完璧さが、潔癖さが、わたしたち姉弟にとってはとても重かった。反論したってどうせ言い負ける、り込められてしまう。そんな経験ばかり積んだ幼い日々が、わたしを引っ込み思案)に、弟を自虐的に育て上げた。

 父さんなんか、いなくなって欲しい。

 そう思ったことも一再いっさいじゃない。

 だのに、それなのに――

 父さんの死は、やっぱり悲しかった。

 仮通夜は、ほとんどわたしは関与しないまま終わった。

 そして今日、本通夜は盛大に営まれている。

 父さんの実家はとにかく山深い田舎いなかなものだから、通夜はきっちり自宅で夜遅くまで行われる。父さんと同年代の親戚が中心になって、胃も破れよと言わんばかりにさかずきみ交わしている。もう外はまっくらだっていうのに、お寺さんすらまだ捕まっていた。

「おえ」

 げんなり顔の修太が、親戚の輪から抜け出してきた。

わ。ひっとりだけ逃げて、オレにだけおじさんらあの相手させて」

 不平を吐き出しながら、修太はどっかと隣に座った。

最後に会ったのが今年の正月だったけれど、そのときからさらに太っている。高校のころまではスリムで、クラスの女子からそれなりにモテた弟も、県外の大学に入学したのを皮切りにどんどん自堕落じだらくな体つきになっていった。

 きっと、父さんの目から脱出できたことで、張り詰めていた修太の精神の糸はぷつんと切れてしまったのだろう。心身ともにたるんだ自分を見られたくなかったのか、父さんが難病におかされるまでの三年間、いちども修太は家に帰ってこなかった。今でも、正月以外は家に寄りつかないでいる。

 根が人見知りなものだから、修太は親戚づきあいも苦手だった。それはわたしも同じだから、こうして縁側で満点の星空を眺めている。

 夏の終わりの夜は、少し肌寒かった。

「まだ結婚せんがかって、おじさんがうるさい」

「同じく」

「オレまだ二十六やで? なんぼいうたち早すぎやろ」

「アンタはいいやん、男やき。あたしは女やき、やれ婚期がとか、あてが結婚したがは二十歳はたちやったのにアンタは――とか、もうええかげんウンザリや」

 脇に置いていたオレンジジュースのびんを、わたしは一気にあおった。

彼氏あいて、まだおらんが?」

「あんたこそ」

「こんなデブにカノジョがおったら、世間サマに失礼やろ」

 修太が謎理論をつ。父さんが聞いたらきっと長説教だろう。

「おあは?」

「台所よ」

 喪主だってのに、母さんは来客の世話にかかりっきりだった。もっともこれは本人の希望で、とにかくなにか用事に追われてないと気がふさいでしかたがないんだそうだ。

 高知の田舎では、今でも宴席の裏方は女性が中心だ。

一家の女たちは台所に結集して、お酒やら皿鉢さわちやらの用意をせっせとこなす。男はほとんど手伝わない。当然のように宴席に腰を落ち着けては、大酒におぼれ、料理に舌鼓したつづみを打っている。

 男衆おとこしゅうの胃袋が満足しはじめたころ、ようやく女衆おんなしゅうは宴席に参加する。といっても、男衆におしゃくをしたりご機嫌を取ったりと、女性陣はあいもかわらず甲斐甲斐かいがいしい。

 母さんぐらいの年配ならこれが当たり前なんだろうけれど、今や時代は男女平等。とてもじゃないけれど、わたしはそんな役割は演じられない。といって、親戚のおじさんたちを相手に愛嬌あいきょうを振りくような明るさもない。結局、わたしは台所で配膳はいぜんに精を出していたのだった。

「オンナはええわな」

 小一時間も酒宴しゅえんにつきあわされていた修太が、田舎の習慣に身を預けたわたしを遠回しに非難する。

「明日は関東の親戚らあも帰ってくるき、もっとすごいで、たぶん」

「お姉えのその余裕がムカつくわ」

「残念やったねえ、股座またぐらにぞうさん付いちょって」

「うわ、なにそれサイテーやん」

 そら彼氏もできんわと、修太が笑う。られてわたしも小さく笑った。

 ふっと、言葉が消える。

 どちらからともなく、わたしたちは外の景色を見つめていた。

 庭は、静かに夜気やきを抱き止めている。

 虫のひとつもない。家の奥から絶えず聞こえてくる喧噪けんそうとは、まるで真逆の静けさだった。

 縁側を境にして、まるで別の世界が広がっているよう。

「オヤジ、こわかったなあ」

 修太が、ぽつりと言った。

「オレはもう、一生オヤジに勝てたって思えんがやろうなあ」

「あたしもよ」

 父さんという巨大な眼に見守られて、わたしたちは育ってきた。

言いたいことも言えず、なにをするにしたって父さんの顔色をうかがって生きてきた。

 でも、父さんの反骨はんこつの血は、ちゃんと私たちにも流れている。父さんに遣り込められるたびに、今に見てろってわたしは思ったものだ。

 エラそうに高説こうせつを垂れたって、しょせんあんたは田舎に身を置くしかできないでいるじゃないかって。学歴の大切さを耳にタコができるくらいいてくれていたけれど、そのあんた自身が大した学歴でもないじゃないかって。

 言葉で、知識で、理論で勝てないなら、社会的地位だけは上回ってやろうって、わたしも修太も陰湿な復讐心をいだいて生きてきた。

 でも、それはもう叶わない。

 見せつける相手は、もういなくなってしまった。

 大成した自分を見てくれる父さんは、もうこの世にはいなくなってしまった。そう思えたら――

 なにも、言葉が出なくなってしまった。

 隣の修太は、小さく震えていた。

 わたしの心も急に乱れてしまって、どうしていいかわからなくなった。

 胸の奥からせり上がってくるあつを必死でこらえながら、わたしは腰を上げた。

 声を押し殺して泣いている修太に、姉らしいことがなんにもできない自分が、また腹立たしかった。

 闇の海に背を向けて、わたしは台所へ向かった。

 母さんは、いなかった。

香澄かすみちゃんなら、お座敷ざしきにおるで」

 追加の熱燗あつかんを手にした大叔母おおおばさんが、母さんの居所を教えてくれた。さすがに、宴席に連行されたらしい。葬式はまだ明日だっていうのに無神経にはしゃぎまくる親戚たちの中心に座らされる母さんを思うと、ちょっとかわいそうだった。

 菜穂なほも食べゆうかねと、大叔母さんが質問を返してくる。ええもうじゅうぶんと、わたしは適当にウソを言ってその場を後にした。

 心のさざなみは、まだ引いてくれない。

 だだっ広い旧家の中を、わたしは当てもなくさまよった。


 ――?


 ふと、違和感。

 芽生えたそれがなんなのか、最初はわからなかった。

 立ち止まった場所は、おじいちゃんの書斎しょさいの前。

 古書やら骨董品やらで、八畳間はちじょうまは、正月に訪ねたときそのままの姿で暗がりに沈んでいる。

 その、窓。

 南に面した小窓のカーテンが、閉じられていなかった。

 木製のフレームでめられた四つの透明な長方形は、外の真っ黒な闇夜を映し出している。

 なんで、こんな些細ささいなことに反応してしまったのか――

 その答えは、わたしの家の慣例によるところが大きい。

 日が暮れたら、カーテンを閉める。

 当たり前のことだ。

 だけど、わたしの家は、ただの『当たり前』では片づけられない事情がある。

 亡くなった父さんが、その原因だ。


 父さんは、異常なくらい夜窓よまどおおうう性癖の持ち主だった。

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