終章 天輝く

   天輝く/1


 翌日、私と銀之助は朝の八時に起きた。私にしては何も無い日にこの時間に起きるのは早い方だ。

 私は銀之助の朝食をすぐに用意し、自分の朝食は簡単に済ませた。食後すぐにシャワーを浴び、自分が持っている着物の中で一番高級なものを来た。仕事をやめるときに銀座で誂えたものだ。光沢のある黒地に、黄金の刺繍が悪目立ちしない程度に施されている。その黄金の装飾の中でも、袖に小さく施されている菊を私はとても気に入っている。

「馬子にも衣装だな、主殿よ」

「それはこれから私が言う台詞だ」

 奴に新しい着物を渡した。奴の髪色より明るい銀色の着物だ。そして簡易帯も渡した。

「なんじゃこれは?」

「プレゼントというやつだ」

「ほう。私の機嫌を取ってどうするというのだ?」憎まれ口を叩きながらも、銀之助は嬉しそうに笑みを浮かべていた。今着ている着物を恥じらいもなくするりと脱ぐと、すぐにそれへと着替えた。シンプルな着物であったが、銀之助が着ることで美しい容姿をより映えさせる。下手な装飾があるものなら、ここまで仕上がらなかっただろう。

「ふむ。馬子にも衣装だな、銀之助」

「美しすぎて嫌味を言いたくなるのもわかるぞ。私は主殿と違って心が広い。存分に私に嫉妬し、羨望するが良い」

「やれやれ、だな」

 私は玄関へと足を向けた。

「ギン、出掛けるぞ」

「む。もっとじっくり見ればよいのに……」

「あとでじっくり見るさ」

 背中越しに話しかけた。銀之助はそれを聞いて犬の姿になり、とてとてという足音を立てながら、私を抜かして玄関へと向かっていった。

「ははは」

 子供のような銀之助の行動に、思わず笑い声が漏れた。

「よしよし、まずは羽田さんの家に行くぞ」

 玄関の戸を開けた。そして私はいつものように外へと出た。雀の声は耳に心地よく、風はまだ暖かさを孕んでいた。

「うむ、今日も良い天気だ」

 大きく背伸びをしてそんなことを私は呟いた。

 羽田さんの家に向かう途中、私は何度も足を止め、見慣れているはずの景色を愉しんだ。木々はもう秋の装いを始めていて、季節の移ろいをその身にしっかりと感じた。

「銀之助」

 銀之助は、いつも開けている距離を小走りで詰めてきて、私を見た。しかし、名前を呼んでみたものの、私は何を話そうか考えていなかった。何となくこやつの名前を呼んでみたかっただけもしれない。

「何でもない、気にするな」

 奴は金色の瞳を細める。私はその瞳をちらりと横目で見た。用も無いのに私の名を呼ぶな、そう銀之助は言っているようだった。

 数十分、足を止めては銀之助に語りかけるという行為を繰り返し歩いていると、羽田家へと到着した。

 通り道の途中の畑に羽田夫妻は居なかったので、少し離れた畑にいるのかもしれない。もしかしてと思い、私はあの野犬どもに荒らされた畑の方へと足を運んだ。考え通り、その近くに羽田夫妻はいた。

「おはようございます、羽田さん」

 私は片手を挙げて、二人に挨拶をした。二人は荒らされた畑とは反対に位置する畑を、腰を曲げながら世話していた。

「やぁ先生。珍しく早いじゃあないか」

 羽田さんがにっこりと笑った。そして腰を伸ばして、二度、三度と腰を叩いていた。

「今日も精が出ますね」

「いつまでも落ち込んでられねぇさ」

 羽田さんの笑顔は相変わらずで、私も彼につられて笑う。

「これなら安心ですね。明日からも、どうぞ精を出してください」

「なんだい、皮肉かい先生? らしくないなぁ」

「ははは、まさか」

 そう言って、私は羽田さんの畑を去った。

 次に私はいつも考え事をする川原へと向かった。水の近くということもあるのか、空気は冷たくしんとしていた。その空気を私は大きく吸い込んだ。その空気と共に、さらさらと流れる水の音が私の肺へと入ってくるように感じた。

 私は平岩へと上り、腰を下ろした。

「川のせせらぎは心を和ませる効果があるな……」

銀之助は前とは違い川で遊ぶことはなく、平岩に乗って伏せていた。体を撫でようとも思ったが、それをしようとすると銀之助が嫌がるように思えた。

 煙草に火を点けた。

 久々に小説の事を考えるためではなく、気晴らしのためにここに来た気がする。鼻歌を口ずさむと、銀之助が体を起こした。奴の体を光が包む。

「機嫌が良いのか、主殿よ」

 人の姿に化けた銀之助は行儀良く座っていた。

「はは、そう見えるか、銀之助?」

「見えるぞ、主殿よ」

 肩をすくめて奴を見た。銀之助は柔和な笑みを浮かべたまま首を傾げた。

「機嫌が良いのかもしれぬな。仕事と関係なしにここに来たのは、この町に住んでから初めてだ」

 いつも何だかんだと悩みながら煙草を吹かしていた。それが今は、仕事と一切関係なしなのだ。機嫌も良くなろう。

「そんな主殿を見るのは、私は初めてだぞ」

「そうか」

「いつもはもっと疲れた顔をしているように思える」

 確かに、いつも締め切りだ何だと追い詰められてはいるが。

「仕事が終われば、私とて晴れ晴れとした顔をするさ」

 そう言って、私は煙草を携帯灰皿に押し込み、寝転がった。

「それは一張羅ではなかったのか?」

「服というものは汚れるものだ。それが一張羅であれ、な」

 汚れたならば洗えばいい、それだけだ。

 銀之助は私の腹を枕に寝転がった。

「重いぞ、ギン」

「我慢するがいいぞ、主殿」

「やれやれ」と言って、私は瞼を閉じた。

「寝るのか、主殿よ」

「少しな」

 風は暖かい。このような最高の状況で一眠りしないのは、この自然に失礼であろう。

「寝た後はどうするのだ?」

「町の人々全てに挨拶をする予定だ」

「つまらぬ」

「つまらぬものか」

「そうなのか?」

「そうなのだ」

 そのようなやり取りの後、私と銀之助は眠りに落ちた。


   天輝く/2


 小一時間私と銀之助は居眠りして、町への挨拶を全て済ませた(銀之助は起きたときには犬の姿であった)。皆が皆、「今日は随分とお洒落だね」とか「男前だね、先生」やら「結婚でもするのかい?」などと好き勝手言っていた。そんなに普段から私はだらしない格好をしているだろうか。

「そう言えば」

 私は携帯電話を取り出してあの狐獣医師へと電話をかけた。

『何ですか変態小説家さん』

「貴様は何処に住んでいるのだ?」

 数瞬の沈黙が流れる。

『そうですね、家に住んでいますよ。まさか洞穴に住んでいるとでも思っているのですか?』

 狐ならば有り得るからな、などとは言わないでおいた。

「何、ちょっと寄っておきたいと思ったのだ。別段嫌がらせなどするつもりはない」

『嫌がらせなどされてたまるものですか。川を渡って車が通れる坂を上った先ですよ。神社が目印です』

「わかった。これから歩いていく。おそらく三、四十分で着くぞ」

『安物の茶を用意して待っていてますよ』

「それはありがたいな」

 通話を終えると、銀之助が私を見た。金色の瞳が嫌悪を明らかに表している。

「ギンよ、私も確かにあの獣医師のことを大好きとまでは言わぬ。しかし、あやつの性格は、あれはあれで味のあるものさ」

 本心のままに言うと、呆れたように銀之助はため息をついた。

「さて、行くぞ」

 私は歩を進ませた。


 いつもの川の橋を渡り、五分ほど歩くと坂が二つある。車が通れる坂と、人ひとりがようやく通れる道だ。車が通れる道は途中で更に二つに分かれ、一方は上り、一方は下りとなっている。下っていけば国道に出る。

 私はこの坂を上ったことはなく、全く未知の世界であった。

 家の裏の鬱蒼とした森であれ、この坂道の行き先であれ、小さい町(村)ながらも、私の知らないことは多い。改めてそう思った。

 坂を上りきったところで、私は大きく深呼吸した。

 いくら農作業を時折手伝っていたとはいえ、慢性的な運動不足はどうにも解消できていないようだった。汗を軽く拭う。

「いやはや何とも、確かに神社だ」

 決して大きいとは言えないが、これは立派な神社だ。鳥居は歴史を適度に感じさせる具合に風化していた。鳥居の奥には、それに見合うだけの本殿があった。

「さてさて、狐獣医師はどこにいるかね……」

 左を見て右を見た。すると右側に民家らしきものがあり、そこの駐車場には見慣れたジープが停まっていた。私はその民家に足を進め、チャイムを押す。

 玄関の戸の奥から足音が聞こえ、やがて戸が開いた。

「おやまぁ、本当に歩いてきたのですか」

 白衣を着ていない珍しい姿の玉城獣医師だ。

「来ると言ったら来るさ」

「で、あなただけでなく銀之助ちゃんまで」

 銀之助は私と玉城獣医師を離れた位置で眺めていた。また何かされるとでも思ったのかもしれない。こやつは玉城獣医師に会う度に嫌な思いをしているはずだ。

 玉城獣医師は銀之助を見て微妙な笑みを浮かべた。

「玉城獣医師、何ですかその顔は?」

 彼は肩をすくめた。そしてそのまま家の奥へと向かっていった。何も言わなんだが、入ってもいいのだろう。

 私は玄関で編み上げ靴を脱いだ。銀之助は玉城獣医師の家に入ることを嫌がるようにしていたが、私が靴を脱ぐのを見て心を決めたのだろう。嫌そうに瞳を細めながら私についてきた。

 居間らしき場所へと向かうと、机には既にお茶が一つ置かれていた。

「狐の獣医師様の割りに、中々気が利くな」

 嫌味を言うと、居間の奥からくすくすと玉城獣医師とは似ても似つかない笑い声が聞こえた。

「うちは狐専門の獣医ではありませんよ。それとも嫌味かしら?」

 淡い栗色の髪をポニーテールにした女性が、キッチンらしきところから現れた。女性は茶菓子を盆に乗せていた。

 私は目頭を押さえた。予想をしておくべきだったのだ。いくら嫌味ったらしい獣医師であれ、容姿は並以上なのだ。妻子の一人や二人、いることは考えておくべきだった。

 茶菓子を机に置くと、私の顔を見てにっこりと笑った。

「失礼いたしました、奥様」

 奥様は笑顔を顔に浮かべたまま、私の隣へと座った。

「あの人に聞いていた通り、面白い人ですね」

 私は頬を掻いて、彼女から視線を逸らした。

百恵ももえ、さっさと席を外しなさい。一応私の客人だ。一応、客人、だ」

 先ほどの私の嫌味への仕返しだろう。相変わらず憎たらしい奴だ。

「はいはい。お友達といるときに妻なんていらないものね」

 ふわりと彼女は立ち上がると軽く会釈をして居間を出て行った。

 私は茶を啜る。美味かった。今まで私が飲んだ茶の中では間違いなく一番だ。

「で、何しに来たのですか?」

 玉城はしずしずと茶を飲んだ。

「茶を飲みに来ただけだ」

「それ飲んだらさっさと帰ってくださいよ」

「茶の色が無くなるまで飲みきったらな」

 また茶を啜る。とてとてと音を立て銀之助は私に近づくと、茶を舐めようとした。

「玉城獣医師、こいつ用に茶をくれんか?」

「何を馬鹿なことを言っているのですか。カフェインは犬にとっては毒ですよ」

 玉城獣医師の言葉を聞き、銀之助の瞳を見た。数日前にこいつは茶を飲んだ。しかし体調を崩すことはなかったが……。

「そうなのか、それは知らなかった」

「チョコや玉ねぎもアウトですよ。飼い主なのですから、それぐらい勉強してください」

 銀之助は玉城獣医師を金色の双眸でちらりと見ると、つまらぬ、とでも言うようにその場で伏せた。

「ところで玉城獣医師よ」

「何ですか?」

 茶菓子の羊羹を玉城獣医師は一口食べた。

「あの百恵という方はお主の伴侶か?」

「えぇ。ここの神主の娘さんです」

「ほう。どうやって出会ったのだ?」

 ぎろりと玉城獣医師は私を睨んだ。

「色恋沙汰で盛り上がる年頃でもないでしょうに」

「はっはっはっ、良いではないか。聞いておきたいのだ」

 玉城獣医師は茶を啜り、小さくため息をついた。

「私が学生の頃に義父の口利きでね」

 まさか話すとは思わなかった。玉城獣医師のことであるから、適当にはぐらかすと思っていたが。

「今日はやけに素直に話をしてくれるな」

「たまにはね」

「玉城の、〝たま〟だけに、たまにか」

「……」

 何も言わずに玉城獣医師は茶を飲んだ。銀之助が馬鹿にするように「わふ」と鳴く。別に誰かを笑わそうと思ったわけではないのだが、ここまで空気が凍てつくとは予想していなかった。

「で、今日は本当に何をしに来たのですか?」

 玉城獣医師は頬杖をついた。彼の瞳は鋭かった。

「何、戯れだ」

 玉城獣医師の瞳がより一層鋭くなる。こちらの真意を探っているのか、それとも何か別の感情か。私には判断しかねた。

 しばらく無言の睨み合いが続いた。四度、銀之助はあくびをした。それだけ長い沈黙だった。私が茶を飲み終わっても沈黙は続いた。

「煙草を吸っても良いか?」

 私はその沈黙を破り、玉城獣医師に問いかけた。

 玉城獣医師は「どうぞ」と簡潔に答えると、灰皿とは思えない豪奢な陶器を私に差し出した。机の上にずっとあったのだが、立派過ぎて灰皿とは思えなかった。

「どうも」

 私も簡単に答える。火を点けると銀之助は立ち上がって居間を出て行った。

「犬も肺がんになるんです。あまり……というか、吸わないようにしたほうがいいですよそれとお茶のおかわりはいかがですか、まだ大分色は残っていますよ?」

「いや、これを吸ったらお暇する」

 私は深く煙を吸って、細く天井へと吐き出した。玉城獣医師の奥様、百恵さんが居間へと来られた。

「あら、あのワンちゃんが出てきたと思ったら、煙草から逃げてきたのね」

 私は肩をすくめた。

「煙草は体に百害あって一利なし、ですよ」

 にっこりと満面の笑みを百恵さんは向けてくる。私は人差し指を立てて「ちっちっちっ」と指を振った。それを見て玉城獣医師は呆れたようなため息をついた。

「一利はある」

「あら、何ですか?」

「あなたのようなお美しい方に心配していただける」

 百恵さんはぽかんと僅かに口を開いた。

「饒舌なのは小説の中だけのようだ」

 玉城獣医師は新たな茶を淹れ、嫌味を言うとまたしずしずと飲み始めた。少しして、百恵さんが肩を震わせながら笑い出した。

「もう……ふふふ、ねぇあなた。この人……とっても面白いわね」

「いいかい、百恵。こういうのはね、くだらないというのだ」

「ふふふ、あなた、こういう人好きでしょ、ふふふ」

 玉城獣医師はため息をついた。私はそれを表情を変えずに見ていた。やがて、彼は不機嫌そうに眉間に皺を寄せ、「何か言いたいことでも?」と言ってきた。

「いいや、何でもないさ。玉城獣医師は私のことが好きなのだと思ってな」

 煙草の火を消すと、私は立ち上がった。

「ギン、お暇するぞ」

 玉城獣医師も私とほぼ同時に立ち上がる。私を見送ってくれるつもりなのだろう。

「ところで狐獣医師よ」

「何ですか変態小説家さん」

「このあたりに野犬などは出てこないのか?」

「えぇ、ここは一応神社ですから。獣達もそれを察して来ないのだと思いますよ」

「そうか、なるほどな。ここにいるのは人に化けている狐のみというわけか」

 玉城獣医師に皮肉を込めた笑みを向けた。それに対し、玉城獣医師もまた似たような笑みを私に向けていた。

「そこまで送りますよ、変態」

「それは助かるよ、狐」

 私と玉城獣医師の会話を、百恵さんは大層楽しそうに聞いていた。


   天輝く/3


 私と玉城獣医師、そして銀之助は坂道を下っていた。

「玉城獣医師、ここまでで結構です。そろそろ暗くなりますし」

「そろそろ暗くなるから見送っているのですがね。この坂道は慣れていないと、少々きついでしょうから」

「ならば車で送ってくれてもいいだろうに」

「ガソリンは有限の資源です。あなたのために使うべきではない」

 なんと嫌な奴だろう。

「まぁ、ここまででいいというのなら、ここまでにしておきます。一応もう一度言いますが、この坂道は慣れていないと少々きついので、お気を付けて」

「うむ。ありがとう。また茶を飲みに来ることにする。茶、美味かったぞ」

「そうですか。百恵に伝えておきます」

「うむ。ではな」

 私は片手を挙げて、彼に別れの挨拶をした。

 しばらくは特に問題なく歩いていたのだが、日が暮れ始めてくると、途端に足元が不安になってくる。何度も小石に躓いては、転びそうになった。

 なろほど、慣れていないと少々きつい、か。

 煙草に火を点けた。空を仰いで見ると、せっかちな星が既に顔を覗かせていた。銀之助は私が立ち止まると、坂道を一気に下っていき、また走って戻ってきた。

「貴様は何をやりたいのだ、ギン」

 銀之助が首を傾げると、人の姿へと変身する。

「私は走りたいから走った。それだけだ」

 私はそんな銀之助の頭を撫でた。目を細めて奴はそれをただ受け入れた。

「主殿よ、刻限は近いぞ?」

 風が乱暴に吹く。銀之助の金色の瞳は怒りと憎しみが複雑に入り交ざっていた。それは私に向けられたものではない、おそらくあの獣人に対してだろう。

「そうだな。急いで家に帰ろう。ここにいては玉城獣医師に迷惑がかかる」

 私はゆっくりと歩を進めた。

「ずいぶんとろいな、主殿よ」

「前のお前みたく転びたくないからな」

 いつもよりも少しだけ注意して歩くだけで、大分歩きやすくなったように感じた。

 りーん、と鈴虫が一回弱く鳴いた。鼻で笑うと銀之助が「気持ち悪い」と率直な感想を私に述べた。

「笑ってはいかんのか?」

「なぜ虫如きの羽音で笑うのだ」

 私はまた鼻で笑った。

「ギン。私が笑ったのは、鈴虫が鳴いたからという単純な理由ではない」

「ではどうして笑ったのだ?」

 一つ目の坂の分かれ道を、私達は下っていった。ここの道はまだ歩きやすかったが、私は進む速度を変えることはせずにゆっくりと歩いた。空は紺碧に染め上げられつつあった。

「どうして笑ったのだ、主殿よ」銀之助の二度目の質問に私は答えた。

「今はもう鈴虫の季節ではない。それなのに鳴いたことに笑ってしまったのだ」

 銀之助は顎に手をやり、少し考えるように「うむ」と声を上げた。

「一度だけ鳴いて、それから鳴こうとしない。きっとあの虫は、『もう誰もいないのか……』と孤独に思ったに違いない。その心境を思うとどうも、な」

 銀之助にそこまで話すと、奴はくすりと笑った。

「同情して笑ったのか、虫如きに」

「如きとは何だ。一寸の虫にも五分の魂だ」

「それもそうだな。同情するには値するか」

 それからも私と銀之助はこのような話を繰り返した。気付けば坂を下っていて、いつもの橋へと着いた。

 空は大分暗くなっていた。携帯電話を取り出してみると、そろそろ十七時になろうとしていた。

「秋の夜長か。やれやれ」

 橋を渡り、帰路を辿った。畑には誰もおらず、静かなものだ。

「早い時間にこの姿で歩けるのはいいものだ」

 それを聞いて、ちらりと横にいる銀之助を見る。口元は笑っているが、瞳には変わらず憎しみと怒りが入り混じっていた。

「ギン、家に帰ったら風呂に入ろう」

 銀之助は「ははっ」と短く笑った。

「主殿は風呂が好きだな」

 横目に奴の瞳を見る。先程までの暗い感情は多少は身を潜めていた。それが私にとっては嬉しかった。こやつは笑っている姿が良く似合う。花が咲いたように笑う、という比喩はこやつのためにあるのかもしれない。

「何だ、主殿よ?」

 その笑顔のまま、銀之助は私に顔を向けた。私も自然と顔が綻んだ。

「何でもない」

 玄関の戸を開け、私は靴を脱いですぐに風呂場へと向かった。簡単に浴槽を洗って、湯を張り始めた。

 居間に戻ると、銀之助は縁側で森を見ていた。

「何を考えているのだ、ギン」

 私は銀之助の後ろに腰を下ろした。銀とも灰とも取れる髪が僅かに揺れた。しかし、こちらを振り向こうとはしなかった。

「主殿よ、あのケダモノは命を奪うことを何とも思わない。汚く、醜い。しかし、それでも私はあいつを殺せぬ」

 銀之助の頭を引っ叩いた。

「何をするのだ?」

 頬を膨らましながらこちらを振り向いた。

「銀之助、まだ〝死〟については教えられぬ。しかしだ、〝命〟について、今から教えてやる」

 私は立ち上がって、灰皿を持ってきて、煙草に火を点けた。相変わらず銀之助は顔をしかめたが、私は何も言わなかった。

「〝命〟というものはとても尊い。どのような宝よりもだ。それは〝他人〟が奪ってはいけないものだ、それが誰であっても……ましてや、神でもだ。わかるな?」

 銀之助は曖昧に頷きながら「うむ……」と口にした。

「だから、軽々しく殺すなどと言わないでくれ。それこそ堕落してしまう」

 私は銀之助の頭を撫でる。煙草の火を消して、私は立ち上がると浴槽へと向かった。湯は丁度良い量が溜まっていたので、蛇口を捻ってお湯を止めた。

 浴室から出て、居間に戻る。その時に壁にかけている時計を見た。そろそろ十八時になる。意識していないと、時間は早く過ぎるものだ。

「風呂に入るぞ」

「うむ」

 銀之助は立ち上がり、何も持たずに浴室へと歩き出した。それに続き、私は二人分のバスタオルと下着を持っていった。

 私達は何も話さなかった。体を洗っているときも、浴槽に浸かっている時もだ。時折銀之助は大きなあくびをし、それに私も釣られた。そんな私を見て、奴は僅かに微笑んだ。また釣られて、私も微笑んだ。

 風呂から出て、バスタオルで体を拭いた。今日に限っては、銀之助も珍しく自分で体を拭いていた。

「どうした、珍しいな」

「たまにはな」

 体を拭き終わると、銀之助はまたあの銀の着物へと袖を通した。相変わらず、よく似合っている。着方がわからずただ袖を通しているだけなのが、とても残念であった。

「着付けは任せたぞ」

 まだしっとりと濡れている髪と体が、着物の間から見える。私はため息をついて、緩めに帯を締めて着付けた。だがしかし、その姿の方が……何と言うか、艶かしい。

「風呂に入ったばかりだ。汗だくにされてもたまらない」

 私も簡単に着こなして、居間へと向かった。戻る途中ついでに、冷蔵庫から缶ビールを取って座った。

「私には何もないのか?」

「お前は茶も飲めないらしいしな。何を飲めるというのかね?」

 玉城獣医師の声真似をして言ってみると、銀之助は心底嫌そうに顔を歪めた。

「酒を持ってくるのだ、主殿よ。日本酒だ」

 日本酒か……飲ませて良いものか。ちらりと銀之助を見る。腕を組んで口を尖らせながら私を睨みつけていた。

「わかったわかった。貴様は茶を飲んでも大丈夫であったし、ただの犬でないことは承知している。今回だけだぞ」

 私は再び立ち上がって、キッチンへと向かった。シンク下の収納の中から、一本日本酒を取り出した。これは去年に羽田家にて神棚に飾られていたものだ。酔っ払った羽田さんに渡されたのをよく覚えている。封も切っていなかった。

 日本酒と猪口を持って居間へと戻ると、銀之助はすんと鼻を鳴らした。

「ほう、神酒か。そいつは良い」

 確かに神酒と言えるかもしれないが、供え方が雑であったし、何よりもそのまま置いてあっただけだ。

「よくわかったな、ギン」

 私は封を切る前に、日本酒を見た、〝神龍〟という名前らしい。

「匂いでわかるものだ。神酒というものはな」

 封を切ると、銀之助はそう言った。既に目はとろんとしており、酔っているように見えた。

「飲む前から酔っているのか?」

 口角を僅かに上げて銀之助に言うと、「酔っているのではない〝幸せ〟というものを感じているのだ」と甘い声で答えた。その声を聞いて、私は多くを注がず、一口二口程度の量を渡した。

 銀之助はその量に対して何を言わずに、ちびりと一口舐めるように飲んで、深く息を吐いた。

「少々古いが、中々に良いものだ」

 私は缶ビールを開けて、ぐいっと一口飲む。苦味が口の中と咽喉、そして胃に広がっていく。

「うむ。久方ぶりに酒を飲んだ。私は満足しておるぞ」

 私はちびちびと酒を飲む銀之助を頬杖をしながら、眺めていた。頭の上の耳と髪色、そして瞳の色さえ意識しなければ、普通の美女だ。美女を肴に飲めるなど、男の贅沢の一つだろう。

 私と銀之助は、用意された酒のみをじっくりと飲んだ。いつの間にか私のビールは気が抜けてしまい、ただの苦い飲み物となっていた。缶を振ってもうほとんど残っていないことを確認すると、その残りを飲み干した。

「主殿よ」

「なんだ?」

「これも至福の一種である」

「そうか」

 銀之助を頭を撫でる。

 銀之助は気持ちよさそうに目を細めていたが、耳をぴんと立てて、一瞬で表情を変えた。

「主殿よ、あのケダモノだ」

 今までのゆったりとした空気が、ぴりぴりとした刺々しい空気へと変わる。

「どういうことだ?」

 私は時計を見た。まだ二十二時にもなっていない。

「まだ刻限には早いぞ」

 立ち上がって、帯をしっかりと締めなおす。

「我等の城に来たわけではない。これは……羽田の家の方角だ」

「行くぞ、ギン」

「待て。冷静になるのだ。きっとまた畑を荒らすだけだ」

「彼らが丹精込めて育てた稲を、戯れで潰されるなどもう我慢ならん!」

 銀之助は大きくため息をついた。

「わかったわかった。ならば主殿だけで行けば良い」

「お前も来い。私から離れると獣人に気付かれやすくなるのだろう?」

「いいや、私は安全だ。奴の狙いは私だ、主殿ではない。それに今更どこに逃げても同じだ。奴は私の匂いも主殿の匂いも知っておる」

 皮肉でも嫌味でもないということは、言葉の雰囲気で理解できた。

「銀之助……」

「気にするでない。戻ってくるまで、非常に嫌だがあいつと話しておいてやる」

「すまない」

 私は銀之助にそう言ってすぐに玄関へと向かった。その時に、「困ったものだ」と呆れるように銀之助が口にしたのを、私は確かに聞いた。


   天輝く/3/戦う者たち


「でぇぇぇぇぇぇぇぇい!」

 羽田は、手に持つただの棒切れを野犬へと振り降ろした。羽田に飛び掛っていた野犬の一匹は、「きゃいん」と可愛らしい声を上げながら後方に吹き飛ぶ。

「ははっ! いいね、久しぶりに血沸き肉踊る!」

 羽田は、万里が知っているような温和な表情をしてはいなかった。深い皺の奥の瞳には年齢相応の落ち着きはなく、二十代のような野心と欲望に忠実な炎が宿っていた。

「ははは、随分元気ですね、羽田さん。あんまり無理しないようにね」

 羽田家の居間にて座りながら茶を啜る玉城。

「久しぶりだよ、こんなに興奮するのは!」

 不思議と玉城の周囲には野犬は寄っていなかった。

「羽田さん、あんまりはしゃがないでくださいね」

 彼は呆れたように羽田に言った。

「あんた!」

 どこから持ってきたのか、羽田の妻である〝公子きみこ〟は、羽田に〝ある物〟を投げ渡した。それを彼は受け取ると、先ほどの瞳をより輝かせた。

「ははっ! さすが俺が惚れた女だ!」

 羽田に渡された物は、〝刀〟だった。シンプルな黒の鞘に僅かに色あせた白い柄。その鞘を乱暴に投げ捨てると、そこから現れたのは、あまりにも在り来たりな刀身。

「俺は伏臣 泰造ふつおみ たいぞう! 俺の刀の錆になりたい奴はかかってこい!」

 羽田は刀を握りなおすと、大きく右足を踏み込んだ。その踏み込みは周囲に振動を与え、野犬たちがそれにたじろぐ。

「おらどうした野犬共ぉ!」

 公子もまた、武器を持っていた。それは羽田が持っている飾り気のない刀とは違い、日本の美術品らしい装飾がなされている〝薙刀〟であった。

「ほう、薙刀ですか。これまたマニアックな武器ですな」

 玉城は変わらず茶を啜りながら、公子を見る。

「はははっ! いいかい、玉城さん。こいつにだけは逆らっちゃいけねぇぞ。俺が唯一勝てなかった奴なんだ!」

 羽田は野犬を一頭吹き飛ばした。それを見た玉城は湯飲みを持ちながら立ち上がった。

「何言ってんだい、あんた! あんたが急に惚れたとか抜かして、勝負を自分で投げたんだろう!」

 公子は飛び掛ってきた野犬を二頭吹き飛ばす。

「仕方ないさ、そんだけお前は美しかった!」

「嫌だよ、あんた! こんな状況でそんなことを!」

 そう言いつつ、公子の頬は赤く染まっている。どんな状況であれ、旦那である男にそのようなことを言われるのは嬉しいのだろう。

 三人はそのような調子で徐々に玄関へと向かっていった。土間まで着くと、羽田は三頭の野犬を吹き飛ばした。勢いが強かったらしく、野犬以外にも玄関の戸も吹き飛ばしていた。

「このまま行くよ、玉城さん!」

 羽田がそう言うと、夫婦揃って若々しい笑顔を玉城に向ける。

「はいはい、わかりましたよ。それにしても、夫婦の愛は美しいものですね。というか羽田さん、あなたは婿入りだったんですねぇ」

 そしてやはり、玉城は暢気に茶を啜るだけだった。


   天輝く/4


 羽田さんの家は、夥しい数の野犬が取り囲んでおり、あの濃い獣の臭いが漂っていた。野犬度もは私に気付くと一斉にこちらを見た。威嚇の唸り声が響く。

 私が右足を前に出すと、一頭の野犬が吼えた。生唾を飲んで、ゆっくりと今出した右足を戻す。まだ野犬共は羽田家を囲んでいた。しかし、全ての瞳が私に向いていた。

 あと少しで羽田家へと到着するというのに、そのあと少しが踏み出せずに、私が舌打ちをした。

「羽田さん……」

 さて、このときの私の頭の中にあるイメージでは、羽田夫妻がキッチンか居間のあたりで二人抱き合って震えているものだった。

「おらぁ! 失せろ犬共ぉ! 魔犬の祟りがなんぼのもんじゃあ!」

 家屋の中から怒声が聞こえると、玄関のドアと共に数頭の獣が飛び出してきた。そしてその奥から現れたのは、間違いなく羽田さんであった。

 事実は小説よりも奇なり。あの獣人を見たときに、その言葉の意味を痛感したはずなのだが、如何せん、私にはまだまだ想像力や状況判断力、また〝人を見る目〟というものは未熟だったようだ。

「俺ぁ、剣道六段、居合い三段! もう我慢の限界だ! 仏の顔も三度まで、容赦しねぇぞこらぁ!」

「私ぁ、薙刀教士だ! うちの旦那が丹精込めた畑をよくもあそこまで滅茶苦茶にしてくれたねぇ!」

 日本刀らしきもの(というかそれ)を手に持つ羽田さん(夫)。

 薙刀らしきもの(というかそれ)を手に持つ羽田さん(妻)。

 そしてそんな二人の後ろには、立ちながら茶を啜る玉城獣医師。

 あぁ、なんということだ。私の中の羽田夫妻のイメージががらがらと崩れていく。

「お、先生じゃねぇか! さっさと逃げようや! 村の人たちにはちょっと前に玉城さんが連絡済みでね、あとは俺たちだけだよ!」

 何故私にだけ連絡がなかったのだということは、今回だけは不問にしておこう。

「おや、今回の騒ぎの張本人の一人である万里さんではないですか。遅ればせながらようやく到着ですか」

 玉城獣医師の瞳が鋭くこちらを睨む。

「どういうことだ?」

 玉城獣医師に真意を問おうと一歩だけ足を踏み出した。すると野犬の一部は私へと襲い掛かってきた。

「喝!」

 羽田さんが右足を思い切り踏み込むと、大地が振動した。私に襲い掛かってきた野犬は体を竦め、何頭かは逃げ出した。

 信じられない。この人、本当は化け物ではないのか!

「先生、早く行くぞ!」

「ほら、先生! ウチの人も限界なんだから!」

 奥様は薙刀をゆっくりと滑らせて、足が竦んでいる野犬共を自然にどかしていく。

 ふと吹き飛んだ野犬を見てみると、切り傷のようなものは見られなかった。おそらくではあるが、羽田夫妻は峰打ちでもしていたのだろう。

「では行きましょうか。万里さんも来た事ですしね」

 玉城獣医師は茶碗を地面に置いた

「羽田さん、ジープまでは行けそうですか?」

 玉城獣医師はそう言うが、これは羽田夫妻を心配したような言葉ではなく、〝私たちを守りながら行けますか?〟という意味であろう。実際、羽田夫妻は「おうともさ!」などと元気良く先陣を切って私に近づいてくる。

「ほら先生、ジープまで行くよ!」

「あ、はい」

 簡単な返事しかできない自分が情けない。

 私は羽田夫妻の後ろを玉城獣医師と共に歩いた。ジープはあの川の橋の近くに停めているらしかった。そんなに距離はなかったが野犬の数が多いせいか、一歩ずつが非常に緩慢で、辿り着くまでに相当かかってしまった。

 まず玉城獣医師が運転席に乗り、奥様が車に乗った。

「さぁ、先生。乗りなよ」羽田さんが刀を構えながらそう言うが、私は車にはすぐに乗らずに運転席の窓を叩く。玉城獣医師は少しだけ窓を開けた。

「すまないが玉城獣医師。私を我が家まで送ってもらえないだろうか?」

 玉城獣医師は不機嫌そうに片眉を上げる。

「何を言っているのですか、このような状況で。さっさと逃げますよ」

「銀之助が家にいるのだ」

 羽田夫妻が同時にこちらを向く。それは私に向けられた視線か、それとも玉城獣医師に向けられた視線かはわからなかった。

「万里さん、何故置いてきたのですか?」

「理由は言えぬ。だが頼む。近くまででいいのだ。私を降ろしたならばすぐに逃げてくれていい」

 玉城獣医師の狐のように細い瞳が鋭くなる。

「どういうことですか、犬が大切だから連れて行きたい、ということではないのですか?」

 私は首を振る。

「理由は言えぬ。曲げて理解してくれ」

 玉城獣医師は私の瞳を数秒真っ直ぐに睨み付けていた。私はそんな彼から目を逸らさなかった。

「いいでしょう。ですが、本当に置いてきますよ?」

「かまわぬ」

 私と玉城獣医師は互いに頷いたが、「ちょっと待ちなよ!」と羽田さんが異論を唱えようとしたが、私は彼に笑みを向け「これでいいのです」と簡単に応え、これ以上の問答を否定した。

「早く乗りなさい、変態小説家」

「助かる、狐獣医師」

 私は車の助手席に乗り込むと、羽田さんは渋い顔をしながら後部座席へと乗り込んだ。

「少しでも早く降ろしたいので飛ばしますよ」

 全員乗り込むと、玉城獣医師はアクセルを思い切り踏み込み、車を走らせた。


   天輝く/4/黒き欲望


 主殿は走っていった。

「困ったものだ」

 感情というものは、私が思っている以上に、制御が出来ない。

 主殿が家を出ると、気味悪いほどの空気が徐々に満ちていく。遠くではまだあの獣の声が聞こえている。

 何故かなど、答えは勿論、一つだけだろう。

 数十分この静寂に耐えていたが、結局には耐え切れずに口を開いた。

「いつまで様子を見ているつもりだ、ケダモノ」

 ゆっくりだがしっかりと、言葉を発した。少しして、黒いケダモノが姿を現した。〝獣人〟の姿ではなく犬とも狼とも、はたまた獅子とも取れる容姿であった。

「まだ刻限までは余裕があるはずだ」

 べきべきと体のいたる所を鳴らしながら、奴は人間に近しい姿へと変えた。相変わらず醜い変化の仕方である。

 ひゅー、と長くケダモノは息を吐いた。

「いちいち化けるのは骨が折れる。その点、貴様は楽そうだがなぁ?」

 まさに文字通りだろう。こやつは体の節々を変形させて化けるタイプだ。知識の中だけならば、このような種は今より遥か昔に多々存在していたはずだ。

「なぁおい。何か喋ろよ、メス」

「ケダモノよ、感情というものは制御が難しい。知っているか?」

 ケダモノはにやりと卑しく笑った。

「知っておるぞ、よく知っておる。感情というものは制御できない。だからこそ我は、それに従って生きる」

「そうかそうか、理解しているというのか」

 私は奴の目を睨み付けた。下品な赤い瞳は私の真意を汲み取ろうとはしていなかった。ただ私の体を……いいや、私という〝種〟の価値のみを求めている瞳だ。

 気に入らぬ。何とも醜く、汚らわしい。何故このような下等な生物と、私は今まで寝床を共にできていたのか。

「困ったものよな、感情というものは。お前の言うとおり、制御ができぬ」

 そう、感情というものは制御が難しい。それが、〝怒り〟というものならば尚更だ。

「私はな、ケダモノ。初めて、初めて〝殺したい〟と思うほどの怒りをこの胸に抱いている」

「くかか、よせよせ、メスよ。貴様如きでは我の相手にはならん」

 卑しい笑みを崩さずに、私をケダモノは見下した。

「やってみるか、ケダモノ。貴様など、私の力にかかれば……」

「くかかっ!」

 ケダモノは、大きく笑った。腹を抱え、肩を揺らし、片目には涙すら浮かべていた。

「お前程度のメスが、我を殺すと? くかかっ! 久々に面白い冗談を聞いたぞ!」

体を巡る血に、今確かに熱が宿った。

「試してみるか……?」

「まだ刻限には時間があるだろう? だから戯れとしゃれ込もう」

 やはりこいつは気に入らぬ。

 こいつの言動、行動、体臭、心理、何もかもが。殺してしまいたい。滅茶苦茶にこいつを壊してしまいたい。

――誇りを持ちなさい。

 心が完全に憎悪に支配される直前、〝彼女〟の言葉が私を制止した。大きく息を吸って気持ちを何とか押さえ込んだ。

「貴様が言う戯れならば、かくもつまらぬものだろうな」

 くかか、といつもの声を上げて、ケダモノは笑う。

「人間の童共がよくやる戯れだ……」

 ケダモノの耳がぴくりと動いた。

「鬼ごっこ。人間の命を賭けた、な」

 奴が動くのが早かったか、それとも私が動くのが早かったか。


   天輝く/5


 車から降りると、玉城獣医師と目が合った。彼は口角を僅かに上げた。

「何か文句でもあるのか?」

 車のガラス越しに声をかけた。聞こえていたかどうかはわからないが、玉城獣医師はこちらを馬鹿にするように肩をすくめると、車を発進させた。なんともあやつらしい。

 何故か野犬どもは一頭もいなかった。静かなものである。

「さて、化け犬同士話が弾んでいればいいのだが……」

 有り得もしない期待を胸に抱くのは、人間の性かもしれない。

 私は慎重に坂を上り始めた。もしかしたら今は両脇の茂みの中で息を潜め、私を襲う機会を見計らっているのではと思ったからだ。しかし、そのような心配は杞憂に終わり、存外あっさりと私は自分の家へと到着してしまった。

「逆に静かすぎて不気味だな……」

 私は玄関の戸を開けた。

 黒い疾風が走る。その風は鋭く、私を貫いた。そう、貫いたのだ。胸には違和感。何かがあるような、痛いようで痛くない。というよりは今この瞬間を認めたくない、というのが正しいのであろう。

 呼吸をするたびに少しずつ溢れていく〝赤い血〟。

 自分の呼吸、脈拍とは違うリズムを刻む〝異物〟。

 口の端から、ゆったりとした軌跡を残し流れていく血。

 それら全てが現実でありつつも、幻のようだった。

 〝痛み〟というものは、まだ私の脳には辿りついていない。ここまで痛みが伝わるのが遅くなると、これから訪れるであろう激痛に体が戦慄してしまう。

 どれくらい痛むのだろうか。今まで、入院するような大きな事故に遭ったことや、大病を患ったことなどない。きっと、これから私が生きていく中で、これ以上の痛みを味わうことなどないと思うほど、それは痛むのだろう。

 あぁ、だがしかしだ。私としては、この激痛が来る前に意識を失いたいものだ。

 ちくっ。

 おや、予想を外れた痛みだ。蚊に刺されたような程度のものだな。……というのこそ、それは予想を外れた痛みであった。

「あ……あぁあぁああああっぁぁあぁぁぁぁぁぁぁあぁぁぁぁ!」

 口元から血が溢れる。まるで嘔吐するように赤い赤い血が吐き出されていく。

 胸に突き刺さる異物が僅かに脈動するたびに、稲妻をその身に受けたような痛みが走る。異物の脈動は早い。わかるか? 脈動が早いのだ。つまりだ、この痛みもその脈動に合わせ、何度も何度も訪れる。

 言葉で伝え切れるものではない。

 痛い。

 痛い。痛い。痛い。痛い。

 痛いいたいイタイ痛いいたいイタイ痛いいたいイタイ痛いいたいイタイ痛いいたいイタイ痛いいたいイタイ痛いいたいイタイ痛いいたいイタイ痛いいたいイタイ痛いいたいイタイ痛いいたいイタイ痛いいたいイタイ痛いいたいイタイ痛いいたいイタイ痛いいたいイタイ痛いいたいイタイ痛いいたいイタイ痛いいたいイタイ痛いいたいイタイ痛いいたいイタイ痛いいたいイタイ痛いいたいイタイ痛いいたいイタイ痛いいたいイタイ痛いいたいイタイ痛いいたいイタイ痛いいたいイタイ痛いいたいイタイ痛いいたいイタイ!

 何故気を失うことが出来ない?

 何故だ、何故この痛みを……!

「ああああぁぁぁぁぁあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっぁあぁっぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっぁぁぁぁぁぁぁっぁぁぁぁぁぁぁぁあああああぁっぁあああぁぁぁぁぁぁああああっぁあぁぁっぁぁぁぁあぁぁぁぁぁっぁぁぁぁっぁぁぁぁ!」

 咽喉が潰れる。叫びすぎて咽喉が焼けてしまう。

 痛いいたいイタイ痛いいたいイタイ痛いいたいイタイ痛いいたいイタイ痛いいたいイタイ痛いいたいイタイ痛いいたいイタイ痛いいたいイタイ痛いいたいイタイ痛いいたいイタイ痛いいたいイタイ痛いいたいイタイ痛いいたいイタイ痛いいたいイタイ痛いいたいイタイ痛いいたいイタイ!

 助け、てくれ。

 死ぬ、死んでしまう。

 このままでは私は死んでしまう!

 誰でも、誰でもいい!

 嫌だ、このような痛み、耐え切れられぬ!

 嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だっ!

「くかかかかかっかかかかかかかかっ! 何とも情けない声で鳴く人間であろうか! いいや、これは褒めるべきか? 叫べるほどに意識も鮮明であるということかっ! くかかかっかかかっ! 愉快だ、愉快だぞ!」

 歯を食いしばりこの痛みに耐えようとするが、やはり耐え切れる訳がなかった。しかし、この痛みを私に味合わせたのが誰かは確認した。

「魔犬、か!」

「くかかっ、なんだ、まだ喋れるのかぁ?」

 魔犬は腕を捻りながら引く。

 稲妻を超える痛みが胸部を襲う。どうやら、私の胸部に突き刺さっている異物は、こいつの腕であるようだ。

「ああぁぁぁっぁああっあぁぁぁあっぁっぁぁっぁっ!」

 あまりの激痛に膝をつくと、魔犬は楽しそうに笑った。

「くかかっかかかかかかかかっ! さぁて、鬼ごっこを始めるか、メスよ!」

 シャン。

 鈴のような音と共に、あの花のような匂いがする。

「既に貴様は万死でも足りぬ程の罪を犯した。償わなくても良い。ただ、これ以上罪を増やし、私の機嫌を損ねるな。今ならまだ、まだ……楽に死ねるぞ」

 チリチリと、何かが燃えているような音がした。

「くっかかかっかかかかかっかかっかっ! これ以上罪を犯すなと? それは例えば、だ。こういうことか?」

 魔犬はしゃがんで私の顔を見た。

 ずぶり。

 左目の視界が一瞬赤くなったと思うと、すぐに黒く染まる。そして、激痛。

「ああぁぁぁぁぁぁぁあぁあぁぁぁぁぁああぁっぁぁぁぁぁっ!」

 私の、私の目が! なんということだ! 信じられん!

「もう良い、死ね」

 ジリジリジリジリ……。

 太陽がその場にあるようなほどの熱を感じるが、それはこの二つの激痛をより加速させるだけで、全くもっていい迷惑であった。

「やめ、やめ……ろぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ! 熱い! 熱いぃぃぃぃいぃぃぃぃぃぃ!」

 私はもう叫ぶことしかできぬ。誰かはわからぬが、ただでさえこの魔犬に甚振られていると言うのに、何故更にこのようなことをするのだ!

「なぁ、メスよ。こいつが大事か? くかかっ! じゃあ助けてみろよ。くかかかっかかかかっ!」

 体が浮くような感覚。

 止まることのない激痛二つ。

 しかしそれでも、私は生きていた。


   天輝く/6


 森にいた。

 胸の穴は塞がっておらず、左目は全く見えない。

 雨が……雨が降っているようだ。大降りではなく、小降りな雨だ。体の熱を冷ますにはちょうどいいかもしれない。

「中々気が強い人間だな」

 魔犬の姿は見えない。木々が空を覆い隠しているのに、何故雨がここまで来るのだろう。もしかしたら外はもっと強い雨が降っているが。ここではこの木々が邪魔をしていて少ししか雨が届かないのかもしれない。

「くかか、さて、何時まで保つかなぁ……」

 そうだな、どれくらい、私は生きられるのだろうな。心臓を貫かれていないものの、もって数十分ではないだろうか。ははっ、もしかしたら、もっと早いかもしれないなぁ……。

「おい人間、あのメスが来るまで、我を楽しませよ」

 あぁ、そうだ。私は、こいつと話をしなければならなかったのだ。銀之助から手を引き、これ以上村の人々に手を出すな、と。

「貴様が私の言葉を無視することは許さんぞ」

 ぺきぺき。

「ぁっ……!」

 声は出なかった。

 この痛覚は右腕から来るものだ。

 あの、白い棒状のモノの二箇所ほどが、折れたのもしれない。

「くけけけけ、なんだ声も出ぬか、人間!」

 叫べるものなら、叫んでいるさ。

 なぁ、魔犬よ、何故私をここまで痛めつけるのだ。

「どぉれ、もう一本」

 ぱきびき。

「あ……うああぁうぁうあぅああぁあぁぁあぁああぁぁっ!」

 今度は左腕からだ。

 これは折れ……いいや、砕けたか?

 あぁ、もう駄目だ。なんと言えばいいのだろうか。この痛みを伝えたいのだが、伝えきれぬ。もう感覚が危うい。何が痛みなのかもわからぬ。だがどうしてだ。何故ここまで私の体は、この痛みを伝えようとするのだ。もうやめてくれ。

「くかかかっかかかかかかっ! まだ叫べるではないか! ほぉれ!」

 ぐちゃりと、右足に違和感。

「■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■!」

 声になどなっていない。

 それでもこの痛みを伝えるために、私は叫んだ。kその横で「くかか」と、気味悪く笑っている魔犬。怒りなど、なかった。ただただ、この痛みを理解して欲しかった。これほど痛いのだから、もうやめてはくれないかと、こやつに伝えたかった。

「愉快だ、愉快だぞ、人間!」

 そう言えば、こいつはどうやって私の体を傷つけているのだ。いいや、知らないほうが良いだろう。

「くかかかっ! ほらほら、最後の一本だ!」

 ぬちゃりと、柔らかいものを潰すように、私の左足は潰れた。

「あぁ……あ……うあぁ……」

 私の手足が、これほど容易く壊れてしまうか。

 ははっ、人間の体は、こんなにも、容易く。

「おい、人間。あともう少し耐えてくれないと、あのメスとの戯れが終わってしまうぞ」

――ナギ、アナタヲ、ユルサナイカラ。

「許さない、か……」

「あぁん?」

「はは……」

 何時死んでも良いと思っていた。

――アナタヲ、ノロッテヤル。

 ここが死に場所になるかもしれないというのに。

――アナタガアイスルモノ、スベテヲ、コロシテ、ヤル。

 嫌だ、なぁ……。

「魔犬、よ」

「なんだ、まだ喋れるのか?」

「あれは、銀之助は、私と共に、生きる。手を引いては、くれまいか?」

「かかっ!」

 魔犬は笑った。

「あれはな、我のモノだ。あれは良い。あれほど濃いメスの匂い、今まで生きてきた中で、いなかった! いいか、あれはな、我のモノだ! 誰にも渡さん!」

 大きく屈強な手が、私の咽喉を掴んだ。

「当然、貴様のような人間如きになど、渡さん!」

「手を、引くのだ、魔犬。あれは、誰のモノ、にもならぬ」

「アレは我のモノだ!」

「貴様の、よう、な。堕落した者が、手に入れて、いいモノでは、ない」

「くかかっ、どうやらまだ壊されたいらしいな。最後に残ったその目を、潰してやろう! そうすればくだらない事を言わなくなるだろう!」

「はは……魔犬よ、命というものは、容易く、誰か、が……奪ってはならぬぞ」

「戯言を!」

 シャン。

 鈴の音がした。

「さすがだ、主殿。よくもまぁ、そこまでされて説教をしたものだ」

 ぼやけた右目で、声の主を見た。確かに銀之助だった。

「遅い、ぞ。ギン」

 小さく息を吸って、私は瞼を閉じた。


   天輝く/6/却火


 万里は意識を失う。

 当然であろう。ここまで破壊されて、ようやっと意識を失ったというのが、異常である。本来なら、胸を貫かれた時点で意識を失うのが当たり前であろうに。

 賞賛すべきは、彼の強靭な意志。

 意識を失うことを拒み続けたのは、生きるため。

「おぉ、何とか間に合ったなぁ、メス」

「いい加減にしろよ、ケダモノ」

 シャン。

 鈴の音と花の匂いが獣人の鼻につく。

「随分やってくれたのう?」

 銀之助は万里を見た。どのようにしたかはわからぬが、四肢は醜く歪んでおり、その四肢の持ち主である万里の顔は蒼白である。

「随分とこの人間を大事にしておるな?」

「私の主殿であるから、当然である」

 魔犬のこめかみらしき辺りが、ぴくぴくと痙攣する。

「お前は我のことを主と認めていないのか? お前が暮らしていた群れの主たるこの我を」

「何故、お前のような奴を主と認めねばなるぬのだ」

 魔犬は吼えた。自分の誇りを傷つけられたからだ。しかし、それがどれだけ銀之助には滑稽に映ったろうか。

「くかかかかかかかかかっかかかかっかかっ! 貴様、もう、その言動、容赦できぬ、ぞ」 

 怒りに任せ言動を繰る魔犬を、醒めた目つきで銀之助は睨み付ける。気付けば、野犬の群れが周囲を取り囲んでいた。

「我が同属でも、容赦……」

「ほほほ、お前と私が、同属であると?」

 魔犬の怒りは一時的に収まる。

「お前たちと共に暮らしていたのは、似ているからであって、お前を同属などと思ったことはない」

 銀之助は、万里と出会うまでは、彼らと共に暮らしていた。自分と似たように変化できるこの魔犬に出会い、もしかしたら自分と同類なのかもしれないと銀之助は思ったが、それも違った。

 彼らは、ただの獣で、発情期が来ればメスを求める。それは、この魔犬も例外ではなく、発情期が来た瞬間に彼女に襲い掛かった。

 それが嫌で彼女は逃げ出し、万里と出会ったのだ。

「そもそも、お前と私が同属であるはずなどない」

「貴様っ!」

「お前は私の足元にも及ばぬ」

 その言葉を発した瞬間、彼女の周囲に紅蓮の炎が巻き起こる。だが、その炎は木々を焼くことはなく熱を帯びるだけだった。

「ケダモノ、やはり貴様は万死では足りぬ。億死、兆死、それでもまだ足りぬ。どうする? 命乞いするくらいは、許してやるぞ?」

 魔犬の息遣いは荒い。

 先程までは怒りからくるものだったが、今は恐怖からくるものだ。魔犬は、銀之助の周りを覆う炎だけで、彼女との力の差というものを感じた。

「安心しろ。貴様が私の主殿に加えた苦痛よりも遥かに上の苦痛が訪れるだけだ。すぐに殺してくれと言いたくなる」

 銀之助は一歩前に踏み出す。

 刹那、魔犬は万里へと視線を移す。

 こいつを盾にすればと、邪念が魔犬の胸中に浮かぶ。だが、それも銀之助の一睨みで愚かな考えであると思い知らされた。

 あまりにも早すぎる勝負の決着である。

「おやおや、ケダモノや。もう何もできないのかえ? なんとまぁ、情けないことだ」

 銀之助の金色の瞳は、妖しく光る。

 ヒュー、ヒュー。

 魔犬の息遣いがより荒くなる。

「私が何か、わかっているか? なぁケダモノ。わかっていての、無礼なのであろう?」

 銀之助は二度確認した。

 ヒュー、ヒュー。

 魔犬の息遣いが、まるで耳元で聞こえるほどに大きくなる。

「答えられぬだろうな、貴様如きでは。まぁ良い。どうせお前を消した後、私は堕ちるのだ。貴様は何も知らなくてよい」

 熱はより強くなり、彼女に触れる前に水滴を蒸発させていく。その熱は周囲を取り囲んでいき、まるでそこに太陽があるかのようだった。

「ケダモノ」

 銀之助は一旦言葉を切る。

「死ね」

 彼女がゆっくりと手を上げたときだった。

「殺しては、なら、ぬ」

 小さく弱い声が、彼女の行動を制止した。


   天輝く/7


 熱が伝わってくる。

 雨で濡れている肌に、心地良い熱が伝わってくる。

 温かい……私を包み込むようで、まるで母の腕で抱かれているようだ。

「ケダモノ」

 銀之助の声だ。どこか刺々しい。

「死ね」

 殺すのか、何かを。

 あぁ、違うな。あの魔犬を殺すのだろうな。

 殺すのだろうな。あの、〝生き物〟を。

――アナタガアイスルモノ、スベテヲ、コロシテ、ヤル。

 殺……して……?

「殺しては、なら、ぬ」

 そう、殺してはならない。命は、奪うものでは、ないのだから。

「安心せい、主殿。あなたは殺さぬ」

 銀之助はほほほ、などと暢気に笑っている。

「こやつを、この魔犬を、殺しては、ならぬ」

 例え、私をどれだけ傷つけたとしても、命を奪う行為は行ってはいけない。

「ギン……いいのだ、もう、許して、やれ」

 お前が来たのならば、私は死ななだろう。

 ならば、それでいいではないか。

「何を言う! そこまでされておいて、主殿に誇りというものはないのか!」

「誇、り……か」

「そうだ、誇りだ! 我が主を名乗るのなら、誇りを持て!」

 銀之助の挙げた手の上空には、大きな炎の球が出来上がっている。

「良い、ではない、か。銀之助。あぁ、そうだ。なぁ魔犬よ。頼むから、村の人々に迷惑を、かけるのも、やめてくれぬか?」

 ぎりっ。

 銀之助が強く奥歯を噛む音が、自分にまで聞こえた。

「消えろ、ケダモノ! 二度と、二度と私の目の前に姿を現すな!」

 ざざざっと、何かが駆けていく音が聞こえた。

 きっと、あの魔犬であろう。そのすぐ後に、小さな足音が徐々に私に向かってきた。これは銀之助だ。私が、銀之助の足音を間違う訳がない。

「主殿よ」

 半分しかない視界が、暗く染まる。

 銀之助が私を覗き込んでいるのだろうか。

「どう、した?」

「何故、あやつを許した?」

 雨は、まだ降っている。だが、この雨は温かい。

「何故、だろうな……」

 理由は説明する必要がないと思った。

 わからぬというのなら、今度……そうだ、今度説明してやればよい。

「主殿は、馬鹿だ」

 ぽたぽたぽたぽた。

 雨がさっきよりも強くなったようだ。

 四肢がじんわりと痛む。痛さの頂点が過ぎてからというものの、あとはゆったりとした痛みに変わっていた。徐々に徐々に、それは感覚を失っていく。

「主殿よ、どうしたのだ」

「目が見えぬ」

「……私にはその目しか治せぬ」

 銀之助の手が左目に触れる。

 燃えるほどの熱が、ほんの一瞬私の左目に走る。それが過ぎ去った後に残るのは、心地よい熱。じんわりとそれは左目を温めていく

「何故、この目しか治せぬのだ?」

「……私の〝起源〟であるからだ」

「手足は、どうだ?」

「無ければ不便か?」

「不便だ」

 新たな世界を、作ることも出来ぬ。

 誰かのために、動くことも出来ぬ。

「血が多いな」

 銀之助の声に、感情はほとんど無かった。流れ行く雲を見るように奴は言った。それが、どれだけの危機的状況であるかを、理解はしていないようだった。

「手足の、壊され方、それに、胸。今生きて……いるだけ、でも奇跡、であろう、さ」

 体は熱を帯びている。それは自身の体が発している熱ではない。銀之助であろうか。だが、何故銀之助が?

「主殿、歩けるか?」

「く……ははっ。無理、だ」

 足が壊されて、歩ける訳がなかろうに。

 本当にこやつは、私を飽きさせぬ。

「何故だ?」

「お前は、足が無くなって、歩け、るのか?」

「無くなりなどせぬ」

 くくく。そう、か。お前は、そもそもこのような状況になどならぬか。

「銀之助……」

「なんだ、主殿よ」

 ぽたぽたぽたぽたぽたぽたぽたぽたぽた。

 雨は強くなる一方で……というのは、表現が違うかもしれぬ。

 雨は、ここまで温かくは、ない。

「泣いているのか、銀之助」

 右目に意識を集中すると、金色の瞳を涙で潤ませる少女がいた。

 完成されてなどおらず、それは歳相応の少女に見えた。

「泣いているのか、銀之助よ」

 ぽたぽたぽたぽたぽたぽたぽたぽたぽたぽたぽたぽた。

「そうだ。私は泣いておる」

 四肢が動かぬのは、全く持って、不便なものだ。お前の、涙すら拭えぬか。

「くく、珍しく、素直だな、ギン」

 この雨が、槍にならぬことを祈る。

「主殿よ、死ぬのか?」

 私はなるだけ大きく息を吸った。

「ははっ、は。お前は、本当に、笑わせて、くれる、犬、だ」

「冗談など、私は……!」

 あぁ、また目が霞んできた。

「銀之助、お前に涙は似合わぬ。お前は、太陽であれ。私と言う、暗闇を照らす、太陽であってくれ」

「主殿、私は……太陽である」

 そう、か。私が言わずとも、お前は太陽であるか。

 どこかの、女神を連想させるものだ。お前のような者が太陽だと思ってしまうとな。

「銀之助」

「なんだ?」

「助けて、くれるのだろう?」

 そう。こやつなら、何とかしてくれる気がするのだ。

「……?」

「私は、死なぬさ。お前が……助けてくれる、からな」

 ゆっくりと、瞼を閉じた。

 あとは、こいつに身を任せるだけだ。

 この、太陽の女神に。


   天輝く/7/天曇る


 そして、万里は意識を失った。

 銀之助の胸中は、不安で満たされていた。

 彼をこのままにしたらどうなるのか、全く彼女にはわからなかった。

 〝死〟というものを完全に理解していない彼女にとって、彼のその行動は、如何せん、わかりづらくて仕方がなかった。

「起きるのだ、主殿」

 彼を、二度三度と、揺さぶるが返事はなかった。

 これは〝死〟ではないかと思った途端、彼女の体に稲妻が走った。 

 私が殺したのか?

 実際そのようなことはない。彼が死んだとしたら、それは確実にあの魔犬の責任であろう。胸を貫き、片目を潰し、四肢を破壊したのだ。今まで生きていたのが、不思議なくらいである。唯一彼女が復元できたのは〝左目〟のみで、それにはちゃんとした理由があっただけだ。

 今の彼女の〝力〟では、彼の胸や、四肢を復元できるほどの力など無い。

 では何故彼女はそう思うのか?

 簡単だ。彼女は〝死〟を知らないだけだ。〝死〟などというもの、彼女のような存在にとっては、無意味に等しく、訪れるものでもない。知識としての〝死〟はあっても、それだけだ。経験したことなど無い。だからこそ彼女は自分が〝殺した〟などと思う。最後に、〝自分が触れたから〟だ。

 さもありなん。

 それが常識で、どれだけ非常識なことか。

 〝死〟を経験するなど、一度しか出来ない。出来たとしても、それを後の自分の人生に反映など出来ない。それが生物の摂理である。

 だが、彼女にとって、それがどれだけのマイナスか。

 彼女のような存在にとって、〝死〟などというものは、知識だけで十分なのだ。

 彼女は、〝死なぬ〟のだから。

「起きるのだ、主殿よ」

 だが、万里は返事をしない。

 何故だ?

 彼女は冷たくなっていく自分の主を前に首を傾げた。

「作るのだ、主殿よ。もう一人、〝もう一人〟作るのだ……」

 〝もう一人〟作れば、それで死など容易く超越できるだろうに。

「主殿よ。〝もう一人〟がおらぬ。どうした? ここにはいないのか?」

 あぁ、哀れだ。

 彼女は最初から完璧すぎた。

 これこそが、〝彼女〟が彼女に対し、残してしまった唯一の懸念だったというのに。


   天輝く/7/死を紡ぐ


 彼女が誕生したとき、〝彼女〟は近くにいた。〝彼女〟は純白な毛並みがまるで絹のように美しく、凛々しい顔立ちをしていた。しかし、彼女を見るときの〝彼女〟の顔は、慈愛に満ちた、とても温和な顔をしていた。

 彼女はすぐに〝彼女〟から色々と教えられた。教えられた〝知識〟は、まるで水を吸うスポンジのように、彼女に染み渡る。

――あなたの名は■■■■。これから、あなたはそうして生きるのです。

 彼女も〝彼女〟も、犬の姿をしていた。

 この姿のときは、言葉らしきものを交わすことはなかった。互いが互いの表情を見るだけで、自然と意思は伝わってきた。

 彼女はすぐに人の姿になってみせた。耳と尻尾が半端に残り、爪と牙はまだ犬に近かった。それでも、よくできましたとでも言うように、〝彼女〟は二度頷く。

――いいですか? これから安易に、特に人の前で、その姿になってはいけませんよ。

「なんで?」

――どうしてもです。あなたは、これから■■■■として生きるのです。だから、どうしてもです。あなたは、とても高貴な存在なのですから。

「こう、き。高貴……わかったの」

――言葉遣いも気を付けなさい。今はまだ許しますが、直していきなさい。

「わかったの……わかりました、です」

 彼女はまた犬の姿に戻り、〝彼女〟に擦り寄る。〝彼女〟は彼女の灰色の体を丁寧に毛づくろいしてやった。

 どうして彼女が生まれ、〝彼女〟がどのようにして彼女を生んだかは、誰も知らない。しかし、〝彼女〟は確かに彼女を生み、〝彼女〟は彼女を■■■■にするべく、ただそれからの時を生きるだけだった。


 彼女と〝彼女〟の共同生活は決して色鮮やかなものではなかった。彼女も〝彼女〟も、食事をほとんどしなかったし、ほとんど必要でもなかった。〝彼女〟らに必要なのは、そんなものではなかったからだ。

 彼女はいつも人の姿で、〝彼女〟の純白の体に包まれて眠り、そしてそこから起きていた。人が近づけば彼女は犬の姿になり、〝彼女〟と共に身を潜めた。

 いつも彼女の傍には〝彼女〟がいた。

 彼女は、知識から得た母親が、〝彼女〟であると確信した。

「母上」

――やめなさい、■■■■。あなたに母などいないのです。あなたからそう言われる権利などありません。

「では、何と言えばいいの?」

――私には名などもうありません。あなたにあげたのですから。

「ですが、あなたは私の母上です」

――いけません。それではまるで人のようです。自ら格を落とすことは、決してあってはいけません。〝誇り〟を持ちなさい、■■■■。

「私の、母上だもん」

 ぐすり。

 彼女が愚図ると、〝彼女〟は頭を振りながら、彼女の涙を舐めてあげた。

「母上、あなたも人のような姿になれるのですか?」

――なれます。しかし、あなたが生まれた時点で、私がその姿になる必要はありません。

「どんな姿になるの?」

――あなたと同じですよ。あなたが大きくなっただけです。

 〝彼女〟は彼女に、そう言った。


 〝彼女〟と彼女の生活が七年目を迎えるとき、〝彼女〟は眠ることが多くなった。彼女は〝彼女〟のことを心配し、〝彼女〟の近くから離れることが少なくなった。

「母上、どうしたのですか? 最近動きが鈍いです」

――あぁ、ごめんなさい。私はもう限界のようです。ごめんなさい、ごめんなさい。

「母上、どうしたというのですか?」

 彼女は〝彼女〟の言葉の真意を汲み取れなかった。

――もっとあなたに教えないといけないことがあるのに……もっと、あなたの傍にいないといけないのに。

「母上、傍にいてください。私を置いてどこかに行くのはやめてください、母上」

――■■■■、私は死ぬのです。〝死〟というものはご存知でしょう?

「知っています。しかし、〝もう一人〟作れば、それで良いではないですか。作れるのでしょう?」

――なんということでしょう。■■■■、〝死〟というものは教えた、はずなのに。

「だから知っております。ただその個体が終わるだけでしょう?」

 〝彼女〟の教えが悪かったのか、それとも時代のせいか。

 彼女は、〝死〟に対して鈍感だ。本来なら、〝彼女〟ももっと時間をかけて教えるべきなのだが、時代は〝彼女〟を信仰せず〝彼女〟を殺した。

――■■■■、あなたは、〝死〟が理解できていないのですか?

「母上、私は〝死〟などとうに理解しております」

 〝彼女〟は彼女が■■■■に成り得るか、ひどく胸を痛めた。

――今度は、■■■■、あなたが新たに作るのですよ。

「何を言っているのですか? 母上を作るのは、母上しかできないでしょう?」

――■■■■、あなたは……

 〝彼女〟の意識は徐々に遠のいていく。

 〝彼女〟は、最後に思う。

 自分の〝死〟が、彼女にとって、最後の教えになるようにと。

 だが、〝彼女〟のこの願いは、叶うことはなかった。

 そうして彼女は、自分の寂しさを埋め合わせるように、あの獣たちと暮らすことになったのだ。


   天輝く/7/天曇る/2


 銀之助は風のように走っていた。

 何よりも最速に、木々の間を縫うように。あまりの速度に、枝で傷ついた箇所からは、血が滴っていた。しかしそれでも、銀之助は止まろうとしなかった。

――助けて、くれるのだろう?

 主のその一言。

 彼は助けてくれとは言わなかった。すがるわけでもなく、ただ、銀之助を信頼しての一言であった。

 銀之助は、何故〝もう一人〟作らないのかと聞いたが、万里は答えずに瞼を閉じた。

 そして彼女は、本当の意味で〝死〟を理解した。

 今まで理解していたつもりでいたのだ。〝彼女〟のときも万里のときも、二人はしっかりと教えてくれたのに。

 同一の存在であれど、それは違う存在だったのだ。〝彼女〟も、自分も。

 人間というものは不完全だからこそ、種を残していくのだ。

 何故、このようなことにすぐ気付けなかった。この万物の中で、全く同一で、同価値のものなどないのだ。

 一つひとつが全てに価値があり、違うものなのだ。

 そのようなことを教えてくれた万里に対し、彼女が出来たのはあまりにも少なかった。左目一つしか、彼女には修復できなかったのだ。

 あるいは〝彼女〟なら、彼の体など容易く修復できたかもしれない。そんなことを考えてしまった彼女は、未だに甘えが抜け切れていないことに、嫌気が差した。

 まずは、あの男のところに向かわなければ。

 彼女は玉城獣医師の元へと向かっていた。

 自分の体の傷を治したこともあるのだから、治癒の一つや二つ、容易いだろうと、彼女はあまりにも拙い思考で動いていた。


   天輝く/7/天曇る/3


「いたた……玉城さん、もっと優しくやってくれよ」

 場所は変わり、玉城獣医師の住居である神社。

 羽田は布団にうつ伏せに倒れながら、玉城にシップを貼ってもらっていた。妻である公子と百恵は、その隣で彼を心配そうな瞳で見ていた。

「全く、初めての経験ですよ。車に乗っている人がぎっくり腰になるのなんて」

 玉城は呆れたように言いながら、羽田の腰に最後のシップを貼ると、ぺしんと叩く。

「あいたたた……そう言うなよ、玉城さん」

「あれだけ暴れていたのにならなかったのが不思議です」

「はははっ! いやでもよ、久しぶりにすっきりしたよ」

「すっきりして腰がぎっくりですが。言葉遊びのようですね」

 羽田はそんな玉城の冗談に、快活に笑う。

 玉城は万里を置いてきた後、すぐにここへと戻っていた。

「しかしよ、どうしてここには野犬共はいないんだい?」

「さぁ? まぁここは神社ですし、さすがの野犬共も畏れ多くて近寄って来れないのでしょうよ」

 ばりん。

 どこかのガラスの割れた音。

「今のは、玄関のほうからですね。羽田夫妻と百恵はここにいてください。私が見てきますよ」

「あなた……」

「大丈夫だよ、百恵。野犬とは違う犬でも来たのだろうさ」

 玉城はゆっくりとした足取りで、玄関に向かう。その足取りには不安や恐怖などなく、ただいつもより少しだけ慎重になっているだけだった。

「やれやれ、汚いですね」

 玄関の大きなガラスを打ち破ったのは、所々血だらけの銀之助だった。玉城が初めて出会ったときよりも汚れており、傷も多い。

「どうしたのですかな、銀之助ちゃん。君のご主人様は一緒じゃないのかい?」

 玉城は銀之助に一歩近づいた。

 銀之助はぐるる、と唸ったかと思うと、大きく一声吼える。その声はこの神社に響き渡る。

「何か用かい、銀之助ちゃん?」

 玉城は能面のような笑みを顔に貼り付けたまま言った。


   天輝く/想い、零れて


「何か用かい、銀之助ちゃん?」

 銀之助はもう一度吼える。

 主を助けろ、と。

「ははっ、吼えているだけでは何もわからないよ」

 玉城はまた一歩銀之助に歩み寄る。

 銀之助はそのじれったさに痺れを切らし、玉城の白衣を咥えて引っ張る。

「ははは、何をしているのですか」

 なんと腹立たしい男か!

 銀之助はこの男を好いてはいなかったが、この件でより玉城を嫌う。

 走るのには犬の姿が適しているからここまで走ってきたが、人の姿に成らなかったのは、間違いだったようだ。

「銀之助ちゃん、何か用かい?」

 嫌味のように、玉城は彼女に言う。

 それでも彼女は〝彼女〟に教えられたことを守っていた。

 主と認めた万里の前で姿を変えるのはまだ良いとして、他の人間の前では、決して姿は変えぬ。

「やれやれ、あとで万里さんにガラスの修理代金を請求しないといけませんね。あぁでも、あの人……生きているのかどうか、わからないか。そうなったら、やれやれ、銀之助ちゃんに払ってもらうしかないですねぇ」

 玉城は暢気な口調で、万里の死を口にしていた。

 それがたまらなく、耐え切れないほどに、銀之助の癇に障った。

 銀之助は数度吼えた。

 主を助けろ、その口を閉じて、ただ黙って私に従え!

 しかしその言霊も、彼には届かなかった。

 玉城は「やれやれ」などと言いながら、羽田夫妻の所に戻ろう踵を返した。

 彼女は焦りを感じた。

 この人間は、自分の言葉を無視して、今まさに、主を見捨てようとしている。

 これ以上の屈辱があるだろうか。

 これ以上の冒涜があるだろうか。

――〝誇り〟を持ちなさい、■■■■。

 〝彼女〟はそう言った。誇りを持ち、生きよと。それは、決して自分の位より下の者に媚びず、自分を貫き通す生き方を言ったのだろう。

――良い、ではない、か。銀之助。

 主はそう言った。生きてさえいれば、誇りなどいらぬとでも言うように。それは、自分らしく生き、それによって他者に命を奪われかけようともかまわないという、あまりにも刹那的で、されど自分を貫いた生き方だ。

 どちらが誇り高いかわからない。

 どちらが正しいのかわからない。

 数年前までは、彼女の世界は全て〝彼女〟だった。

 だが今は違う。

 今、彼女の世界は広がり、価値観はいくつもあるのだと、教えられた。

 〝彼女〟の言葉に従うか。

 〝万里〟のように生き抜くか。

 されど彼女は、存外あっさりと、答えを出した。

「私の主を助けろ!」

 銀之助は姿を変えていた。

 万里から与えられた着物は、所々が破れていた。また体中が泥で汚れており、あの完成された〝女〟の片鱗などなく、歳相応の感情が垣間見える。

「おやおや、これは面妖な」

 玉城は銀之助に向き直った。

 言葉とは裏腹に、玉城は銀之助の正体を知っていたかのような顔付きだ。

「おい、主殿を助けよ!」

「私には玉城という名前があるのですがね」

「玉城! 私の主殿を助けるのだ!」

 玉城は嫌そうに顔を歪めた。

「主殿、とは?」

「ええい、万里だ、万里 凪だ!」

 銀之助は玉城の手を引っ張る。

 しかし玉城は、その場から頑なに動こうとはしなかった。

「銀之助ちゃん、何故万里さんを連れてこなかったのですか?」

「主殿は、歩けぬと言った! だから私がこうして走ってきてやったのだ!」

 玉城は片眉をぴくりと上げた。

「ほう」

「主殿は私に助けてくれと言ったのだ! だから、今すぐ主殿を助けるのだ!」

 ぱしん。

 乾いた音。

 銀之助は数瞬、何が起きたか理解できなかった。だが、左頬にじんわりとした痛みが広がったことで、自分が平手を食らったのだと、彼女は理解した。

「き、さま?」

「もう一度言ってみなさい、化け犬」

「助けてくれと、主どの……!」

 ぱしん。

 音は先ほどとは変わらないが、今度は銀之助の右頬が痛み出す。

「もう一度、言ってみなさい」

 玉城の瞳は、確かに怒気を孕んでいる。

「わた、私は……」

「いいか、化け犬。万里さんはね、助けてくれなどと、誰かにすがるような言い方はしない。それにあなたに〝助けてくれ〟と言ったのなら、あなたが助ければいい。私にそのようなことを言う必要はない」

 確かすぎる、玉城の万里への信頼。

 どのような状況であれ、あの男は、万里 凪は、助けてくれ、などと言わないと知っているのだろう。万里 凪は、それほど容易い男ではないはずだと。

「私、は……」

「あなたが、彼の言葉を捻じ曲げ続ける限り、何度でも叩きますよ」

 銀之助の瞳から、また涙が溢れていく。

 情けない。このような人間の前で涙を見せる自分が。

 悔しい。自分では、主を救い出せぬという現実が。

 憎い。あまりの自分の無力さが。

「ひっ……ぐ、私、は……」

 彼女は俯いて、涙を流す。

 その姿は、高貴さなど微塵もなく、愚図っているただの子供であった。

 前までなら、このような状況になれば、〝彼女〟が涙を拭ってくれていたのに。今は誰もいない。

 誰も彼女を、救いはしない。

「私では……救えない、の」

 想いは、一度流れると、止められなかった。

「主殿は、助けてくれるのだろうと、私に、言ったの! でも、わた、ひっぐ、私には、あの人を助けられない、からぁ……」

 助けてくれるのだろうと、彼は彼女に言った。

 全幅の信頼を、彼女に向けて。

 彼は彼女が助けてくれると、確信したのだ。

 そう、〝彼女〟に。

 だが、彼女は今、そんな力などない。

「私、では、助けられないの! だか、だから、助けろ……ひっぐ、助けて、ください」

 彼女はその場で両膝を付いた。

「お願いです……私の主を、助けてください……」

 そのまま彼女は両手を地に付け、頭も付けた。

 目の前にいる、人間に向けて。

 今までの彼女なら、絶対にやらなかったことを。彼女は、彼のために。彼だけのために。

 今はただ、彼を、自分を見つけてくれた、自分に教えを説いてくれた、大好きな人を、救いたいから。

 大切な者を助けられない〝誇り〟など、もういらないから。

 全てを失ってでも、守りたいものができたから。

「お願い、します。私は、主殿が好きなのです」

 ぽたぽたぽたぽたぽたぽた。

 涙は止め処なく、流れる。

「私の体を、撫でてくれる主殿が大好きなのです。私に本を、与えてくれる主殿が大好きなのです。主殿は、私に気付いて……くれたのです。私を、傷だらけの私を、助けてくれたのです」

 玉城からは、怒りなど消えていた。

 眼下にいる、誇り高かった少女。

 それが今、こうして誇りすら捨て、たった一人の〝人間〟のためだけに頭を下げている

「助けたいのです、あのお方を。お願い、ですから。お願い、します。助けてください……」 

 玉城は細く息を吐いた。

「案内してください。その足、その体ではかなりかかったでしょうに。死んでさえいなければ、私が必ず、あなたの主殿を救ってみせましょう」

 彼女は、そのままの姿勢で、わぁっと再び強く泣き出した。

「ありがとう、ございます。ありがと……ござい、ます……ありがとう、ございます……」「行きましょうか」

 玉城は、銀之助に手を差し出した。彼女はそれに躊躇うことなく手を伸ばした。


   天輝く/8


 暗い世界にいた。

――フフ、ナギ。アナタガアイスルモノスベテ、コロシテヤルカラ

 あぁ、またこの夢を見るのか。

――……ホントウニ、ズルイヒト

 そうさ、那美。私はずるいんだ。

――ソンナアナタガ、ダイスキダッタワ

 違う。那美は、そのようなことを言わない。言うはずがない。都合の良い夢は見なくていいのだ。

――あなたは、全部特別なんだもん。そんなあなたが、私は大好きよ。私には、そんなことできないから。

 やめろ。こんな都合の良い夢なんて、いらない。

――私も、あなたの特別の一つなんでしょう? ふふ、なんだか変な気分ね。

 やめて、くれ。

――ねぇ、ナギ。いつか、いつか私が死ぬとしたら、私を愛して。最後だけ、最後だけでいいの。私を、誰よりも特別にして。

 ……!

――お願い。

 あぁ、そうだった……。

 約束、したんだ。彼女が心身を病む前に。そうだ、そうだった。だから、私は言ったんだ。

――忘れないさ。その約束は必ず、果たしてやる。

 彼女に誓いを立てたんだ。


 ならば私は、お前が殺す以上に、人を愛そう。


 お前のためだけに、他人を愛するのだと。生涯、お前を忘れぬように、私は人を愛し、その度にお前を思い出すという、意味を込めて。

 だからお前も言ったのだろう? ずるい、と。自分だけを愛していると、言って欲しかったのだろう? 私に、罪の意識を与えぬように。自分が死ぬのは、自分だけのせいなのだと、私に伝えたかったのだから。それを……私が叶えなかったから。

 そう、だ。夢でも妄想でもなかった。

 彼女は確かに私を見て微笑んで、大好きだったと、言ってくれたのだ。


   天輝く/□□□□


 小さな息遣いが聞こえる。

 人のものではない。血の臭いを嗅ぎ付けた獣であろうか。

 四肢には感覚と言うものが無い。遂に、私の四肢は完全に壊れてしまったのだろう。

 小さな息遣いが増える。

 あぁ、あの野犬どもの類であろうか。私を食いに来たのか、それとも違うのか。

 どちらにせよ、まぁ良い。とても、良い夢を見た。久方ぶりに那美に出会えて、私はそれなりに満足である。

 左目がじんわりと熱い。その熱だけが、私に生きているという実感を与えていた。

 どれくらい時間が経ったのだろうか。もう私の感覚では数年近くが経過しているように感じてしまっている。

 刻一刻と衰えていく私の命の灯火。どうやら銀之助は、この灯火が消えるか消えないかの瀬戸際まで私を助けるつもりはないらしい。全くもって恩知らずな犬である。

 あぁ、眠い。

 先ほども寝ていたのだが、また眠い。次に起きるときには、温かい布団の中で、この両手両足も何故か癒えており、全てが夢でしたという、創作物語はあまりにもくだらないオチであることを期待したいものだ。

 あぁ、体が、ゆっくりと、流れるように、動くようだ。


  天輝く/■■■■


 銀之助と玉城は、車に乗って万里が攫われた場所へと向かっていた。そこは道ならぬ道で、いくらジープとはいえ随分と困難な道のりだった。

「で、こちら側でよろしいのですか、銀之助様?」

「もっと急ぐのだ!」

「あぁ、残念ながら、これ以上急ぐには奇跡が必要ですよ。貴方如きが奇跡を使えるとは思えませんが」

 銀之助はぎりと奥歯を噛む。

 彼が言うことは、一々が正論で銀之助には何も言い返せない。その代わりではないが、彼女の体からは金色に輝く熱が滲み出していた。

「おやおや、銀之助様。その〝無駄〟な力、これ以上使わないでくださいませんか? 汗が出てきて仕方ない」

「いい加減にしろ……私にこれ以上くだらない感情を抱かせるな」

嫌味を言うその代わりに、玉城は肩をすくめる。

 銀之助が案内をする途中の万里たちが住む村は、多少荒らされているもののすぐに戻せる程度だった。玉城は銀之助に気付かれぬように、細く息を吐く。

「あそこまで行けるか?」

 銀之助は正面を指差す。

 ただでさえ村は道を舗装されているところも少なく、そこを突っ切り更に獣道にも似た道を進んだ。そして、今度は車で森の中を走れと言う。しかも、目の前には小さな茂みらしきものが、侵入を防ぐように生い茂っている。

「さすがに無理ですね。一旦降りましょう」

 玉城は車を森の二十メートル程手前で停め、降りた。やけに獣臭く、彼は一つ咳払いする。

 銀之助は玄関のガラスを割ったときに、そのガラスの破片で右足の裏を切ってしまったらしく、足を庇うようにゆっくりと車から降りた。

「奥が暗いですね。ハイビームにしますか……」

 玉城は車のレバーを操作して、ライトの向きを変えた。

 そこで玉城と銀之助は、驚くべき光景を目にした。

 先程彼らが茂みと思っていたのは、獣の集団であった。山犬から狐、狸、猫、猿、鹿、熊、鼠、兎……他にも木々の枝には大小多くの鳥類が、一点を向いていた。明かりが獣の集団に向けられた同時に、一頭の獣らしき影が消えたが、玉城はそれには気付かなかった。 銀之助は、すんと鼻を鳴らす。

「僅かに主殿の匂いが奴らの中心からする。そうか……あれらのせいで先程よりも匂いを感知できなかったか」

「あなたが命じたのですか?」

「私ではない。ふん、くだらぬことを。贖罪のつもりか。しかし結果としては良し、だ」

 銀之助は右足に負担をかけぬように引きずるようにして、その獣の群れへと向かっていった。

「退くのだ、獣共」

 銀之助が透き通るような言霊を発するが、どの獣も退ける仕草を見せなかった。

「退け!」

 先程よりも強く銀之助は言うが、やはり獣共は彼女の言葉に従おうとはしない。それどころか、彼女に向け威嚇の声を上げた。

「何故、従わぬ……」

――いけません。

 〝彼女〟の言葉が銀之助の頭によぎる。

――それではまるで人のようです。自ら格を落とすことは、決してあってはいけません。〝誇り〟を持ちなさい、■■■■。

 自ら格を落とすことは……。

 格を落とす……。

「母上……それでも私は、主殿を助けます」

 銀之助は威嚇の嵐の中、自分が主と認めた者へと歩を進めていく。 彼らの警戒エリアに入ったところで、一頭、また一頭と獣たちが彼女に襲い掛かる。彼女はその攻撃してきた獣たちを、傷つけぬよう、だがしかし強く、払いのけていく。

「主殿よ……」

 玉城はその様子をただ黙って見守っていた。

「生きているノだろう、主殿よ?」

 大きな熊が彼女の前に立ちはだかる。

「主殿よ、答えよ」

 熊が太い腕を振り上げたときだった。

「ギン……」

 獣共がすぐに彼へと視線を向ける。

「ギン……銀之助……私は生きている」

 風のさざめきですら、掻き消されてしまいそうな声だった。


   天輝く/9


 右腕複雑骨折。

 左腕粉砕骨折。

 両足複雑破裂骨折。

 胃・肝臓大部分損傷。

 その他、大小含め骨折、内臓損傷、多数。

「いやぁ……奇跡ですねぇ」

 玉城は、ベッドの横であのときと同じように暢気に言った。私はじろりと〝左目〟で睨む。

「感謝してくださいね。長い間あなたのためにこの場所を貸してくれた義父、そして私に」

 玉城は、恩着せがましく言う。

 まぁ、それも当然であろう。

 あの状況から二十数時間、私はいつ死んでもおかしかくなかったらしい。そのような状況で、専門でもないのにこの玉城〝獣医師〟は、私の命をなんとか繋ぎとめた。

「それにしても……その目、まるで銀之助ちゃんのようですねぇ」

 目が覚めて、鏡を見せられたときは驚いたものだ。私の左目はあの銀之助と同じように金色へと変色していた。

「それで、約半年。よくお休みになってましたねー」

 あれから私は、半年もの間、意識を失っていたそうだ。それが今日、私は目が覚めた。

「中々良い天気でしょう?」

 玉城はカーテンを開ける。眩しすぎる太陽が私の体に染み込んでくるが、私は顔を逸らした。

「あぁ、失礼。半年振りの太陽光でしたね」

 目覚めてから数時間、彼は今私が語った状況を全て親切丁寧に教えてくれたのだ(皮肉交じりではあるが)。

「しかし本当に不思議なものです。あなたが声を出した途端、あの獣たちはあなたを抱えて、わざわざ私の車まで運んだのですからね」

 獣たちか。あのときの息遣いは、やはり獣であったのか。だがどうして、私は食われることはなかったのだろうか。やはり、不味そうだからだろうか。

「まぁ、こうして生きていてくれて私も一安心ですよ。銀之助ちゃんとの約束もありますしね」

 玉城は薄く笑うと、立ち上がりドアへと向かう。

「銀之助は、どこ、にいる?」

 しがれた声で彼に問いかける。久々に声を出したせいか、うまくいかなったのは、ご勘弁である。

 玉城は目をぱちくりさせた。

「喋れるのですね。これはいい。見舞い客を連れてきましょうか?」

 玉城は踵を返し、またベッドの横に戻ってきた。

「銀之助は、どこ、だ?」

 玉城はため息をついた。

「あの化け犬なら、何かの伝承をなぞってか、あなたの家に引き篭もってますよ。岩戸がないのが残念です」

 あの馬鹿者め。

「そう、か」

「宴会でもしてみましょうか、出てくるかもしれませんよ? まだまだ安静ですが、車椅子に乗って出かけるくらいは許可します。勿論私と一緒になってしまいますがね」

 くだらぬ。

「この、狐」

 玉城は「くくく」と朗らかに笑った。

 今まで見たことがない彼の表情に、驚きを隠すことができなかった。このような笑い方をしていれば、もっと敵も少なかったろうに。「あなたはよく、核心を突きますよね」

 玉城は再びドアに向かい、ドアノブに手をかけた。

「あぁ、そう言えば……」

 彼はゆったりとこちらに振り向く。

 そのとき、病室のカーテンが揺れ彼を照らした。

「私も、似たようなものなのですよ?」

 光のせいでよく見えなかったが、彼の頭には、確かに〝狐〟の耳らしきものがあった。

「善は急げですよ、万里 凪さん」

 今度、稲荷でも捧げねばいかぬな。

 病室には羽田夫妻から始まり、ほぼ全ての村人が来た。ほとんどの人々が口々に「良かった」と私の治りかけの体に触れては去っていった。

 思ったより四肢の痛みも少なく、私は彼らに短い感謝の言葉と笑顔を一つ一つ返していった。


   天輝く/終/太陽がまた輝くとき


 翌日。

「さてさて、では宴会の準備もできてますし、行きましょうか」

 玉城は鬼畜な笑みを私に向けていた。

「動けぬ」

「大丈夫ですよ、万里さん。仕方ないから私が運んであげます」

 彼は(何故か)慣れた手つきで私を車椅子に乗せて移動を開始した。

 家の前の道には、机やら椅子やら酒やら樽やらもうどこからこんなに持ってきたのだ、というほどだ。

「一体、どこから、こんなに」

 私は玉城に聞いた。

「あぁ、あなたが休んでいる間ね、村の……失礼、町の人々が色々用意していたらしいですよ」

 ここはもう村に決定だ。やれやれ、悲しいものだ。

「ほら、着きましたよ」

 玉城は指を刺す。あれから全く変わらぬ我が家であった。

「玄関まで、頼む」

「いいえ、彼女が伝承通り引き篭もるというのなら、私たちも伝承通り馬鹿騒ぎしましょう」

 玉城は後ろを振り向いた。

「さぁさぁ皆さん! 万里さんの復活祝いです!」

 歓声が沸きあがる。皆が一斉に酒を飲み始め、飯を食らい、何でも有りの一発芸が披露されていった。

 それでも、銀之助が出てくるような気配は、一切なかった。

 宴会は夜遅くまで続いた。片付けはまた明日ということになったらしく、人も徐々に減っていき、遂には私と玉城のみとなった。

「いやぁ、飲みましたねぇ」

「私は全く、飲んでいないのだが」

「ドクターストップです」

 生き地獄である。

「さて、私は少しだけ忘れ物を取りに行ってきます。そうですねぇ……夜道は怖いですし、ゆっくり歩かなければならないですね。一時間くらいかかりますね」

 全く、変に気を回しおって。

 玉城の背中が完全に見えなくなったのを確認すると、小さく「銀之助」と、奴の名前を呼ぶ。

 耳を澄ますと、奴の足音が聞こえた気がした。

 あぁ、あと……光の匂いだ。

「おいで、銀之助」

 それから数分待っても、奴は姿を現すことがなかった。

「銀之助……話がしたい。おいで」

 私は月を眺めていた。

 玄関の戸が、控えめな音を出して開かれる。それは銀之助だった。私の記憶よりも、色が抜けて白くなっていた。

「憔悴して白くなったか、銀之助」銀之助に笑みを向けながら言った。

 銀之助は小さく首を横に振った。

「あの姿になってみろ、銀之助。話せぬではないか」

 銀之助はまた首を振る。

「もう、あの姿にはなれぬのか?」

 首を振る。

 月を雲が隠し、すぐにまた雲が流れ、月光が注がれる。

 そのときに、奴の瞳の涙をきらりと光らせる。

「泣いているのか、銀之助」

 余計なことをしよって、とでも語るように金色の瞳は月を睨んだ。

「銀之助、私はな、太陽も、月も好きだ」

 月の話題など振るなと瞳は瞬く。

「銀之助、お前に会いたい」

 銀之助は首を振った。

「なぁ、お前は前に言ったな、シンメイが……真名しんめいがあると」

 銀之助は月を睨んでいる。

「当てて、やろうか?」

 銀之助は私を見た。その瞳からは感情が読めなかった。

 どうせ無理だと思っているのだろうか。それとも、当てて欲しいと思っているのだろうか。

「銀之助」

 銀之助は私の太ももへと顎を乗せた。頭を撫でてやろうとしたが、手は自由に動かぬことを思い出してやめた。その代わりに、私は「銀之助」と奴の名前をもう一度呼んだ。そして、大きく息を吸った。

「アマテラス……天照大神あまてらすおおみかみ。この世全て照らす、女神だ」

 銀之助ははらりと一筋涙を流した。彼女を光が包む。

 そこには、見慣れたあの少女が現れたが、私の記憶よりも更に美しさを増していた。

 彼女は私の膝に手を付き、声をあげて泣いている。

「そう、です……私は天照大神。しかし、私はもう格を落としました、主殿よ。私はもうあなたと、別れねばならぬ」

「何故だ」

 何か話していないと、本当にこいつがいなくなってしまいそうだった。

「私は、古き誓いを破ったのだ。私は、失敗作なのだ。天照大神の器ではない」

「お前は日本誕生から数千、数万年もこの国を、見守ってきたのだろう? 失敗作で、あるものか」

「私は、まだ生まれて十年しか経っていない。前代の天照大神は、消え……死んだ。二度と戻らぬ」

 銀之助は語った。神という存在を。

 神は、国の大きな変動の際に時代に対応すべく、時折個体を変えるのだと。前代の天照大神は、人間のあまりの信仰が離れたため力を失ったと。人間の心に、力に、〝彼女〟は殺されたのだと。

「そして、私は未完成のまま、ここに至っておるのだ」

 銀之助の目は赤く腫れる。

「私は、失敗したのだ。だから、私は消えねばならぬ」

 あぁ、泣いているのは自分が消えるのが嫌だからではない。

 きっとこいつは……私との別れを惜しんでくれているのだ。

「銀之助」

 彼女の体は小刻みに震えている。

 あぁ。本当に、四肢が自由に動かぬのは不便なものだ。

「銀之助」

「なん、じゃ?」

「お前は失敗など、していない」

 彼女の瞳から流れる大粒の涙は、まるで彼女を飾る宝石のように感じられるほどに、美しかった。

「お前は、私を助けてくれたではないか」

 慰めにもならぬ言葉であった。そんなことわかっている。だが、彼女は私を助けてくれたのだ。

 私はまた月を見上げた。

「それで良いではないか、なぁ?」

 お前は私を助けた。それだけでいいじゃないか。

「銀之助よ、良いのだ。お前は、お前らしい天照大神に成ればいいのだ」

「しかし……」

「銀之助……」

 もっと、私の傍にいてくれないだろうか? 言葉にはせずとも、きっと伝わっているだろう。

「私、は……」銀之助は変わらず口篭る。

「なぁ、天照大神よ」

 私は瞼を閉じた。

「頼むから、私をもう孤独にしないでおくれ」

 涙が流れていた。

 そう、私は孤独だった。銀之助に出会うまでは。

 誰が近くに居ても、誰と語り合っても、私の孤独は癒されなかった。それは旧友であっても、だ。

 なのに何故、こいつと居ることで私は癒されたのだろうか。そんな答えは簡単だった。

「お前も孤独だったのだろう?」

 ギブスの巻かれている右手を何とか動かし。銀之助の頭を撫でた。銀之助はより一層涙を流した。

「私は、お前が好きだ」

「私も、主殿が好きだ……」

 互いに孤独だった。

 だからお前はあのとき、孤独とはどういったものかを聞いた。確かめたかったのだろう。声を聞き、表情を見て、お前は判断したかったのだ。自分と同じかどうかを。

「なぁ、銀之助。これから沢山失敗しろ。そして沢山後悔しろ。神と言うものは、完璧すぎてつまらぬ。人間のように生きてみせよ。自分の力で、全ての道を切り開け。私も、羽田夫妻も、みんなお前の傍にいるから」

 お前と笑って別れられるその時まで。

「私は……」

 ここまで言っても、銀之助はまだ答えを出し切れずにいた。その態度に私はため息をついて、大きく息を吸った。

「ええい、いいか。居なくなるのなら、何時でも出来るのだ! だから、ここにいろ! 何度も言うが、お前は失敗などしていない! それを失敗だと、他の神々が言うのなら、私が、叱り飛ばしてくれるわ!」

 急に声を荒げたせいか、息切れがした。

「主殿……」

「いいな?」

「……はい」

 銀之助の表情に、ようやっと光が戻る。

 私は彼女の頭を撫でた。

 銀之助は嬉しそうに目を細める。

 すると、花の匂いがした。

 上品で、気高く、そしてこちらを包み込むような太陽の香りであった。

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先生と銀之助 南多 鏡 @teen

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