参章 咆哮
咆哮/1
二度目の野犬騒動から自宅に戻ると、銀之助は犬の姿で寝室で寝こけていた。私はその姿を見て、仕事部屋へと向かい、パソコンの電源を入れた。パソコンが立ち上がるとすぐに小説を進めた。
不思議とすらすらと文章を紡ぐことが出来た。ページ数は一枚、二枚と徐々に増えていき、気付けば二時間程度で十二枚を仕上げていた。残り十一枚で枚数は足りる。
私は煙草に火を点けて、今書き綴った小説を見直した。海の干潮を利用したトリックでの殺人。それを主人公である探偵が見事に見抜き、犯人の鼻を明かした。
トリックとしては在り来たりかもしれないが、見た目は綺麗にできている。だがしかしだ、読者はどう思うだろうか。こんなことある訳がない、ここまで干潮の差は出ない、などと一部は騒ぐのだろう。そして、とある理系の誰かが干潮での満ち引きの差のデータを取り出してきたりするのだろうな。
私はパソコンの電源を落とした。紫煙が部屋に充満していく。天井を眺めていると、羽田さんが口にした言葉が私の頭の中で再生される。
邪魔しないでくれよな。
煙草の火を消した。私は立ち上がり、縁側へと向かった。月光がぼんやりと森を照らしていた。
あの森の中に〝魔犬〟は住んでいるのだろうか。おそらくだが、羽田さんが語っていた〝魔犬〟は、私が見た獣人であろう。羽田さんが三十を過ぎた頃……そういえば今羽田さんはいくつだろうか。見た目からして、六十より少し上ぐらいだ。ということは、もしも私が見たあの獣人が羽田さんの言う〝魔犬〟ならば、既に三十年以上生きていることになる。確かに、〝魔犬〟と言っても相違ない。
すーっと、寝室の襖が静かに開いた。
「主殿よ、寝ないのか?」
金色の瞳を擦りながら、銀之助はそう言った。
「寝たくても寝られないだけだ」
煙草を吸おうとしたが、仕事部屋に置いてあるのを思い出した。もう少し、あの〝魔犬〟のいるであろう森を見ていたかったが、煙草の誘惑には抗えず、仕事部屋に戻ろうと森に踵を返した。
「主殿よ」
その私の背中に、銀之助は起きたばかりの甘い声で語りかける。
私は足を止めたが、振り返らずに「何だ?」と言葉を返す。
「三日ほど、どこかに行かぬか?」
「何故だ?」
「私は旅に出たくなったぞ、主殿よ」
「行かぬ。私は、ここが好きだ」
「ここにいては殺される、ということならばどうだ?」
銀之助が不吉なことを言う。殺される、ねぇ……那美以外が私を殺したところで、一銭の得にもならないというのに。
「誰に? 何故?」
銀之助に聞き返す。
「〝あれ〟に、〝戯れ〟で」
〝あれ〟……か。
「あの獣人か?」
銀之助は「うむ」と小さく答える。
「戯れで、三日後に私を殺すのか?」
「うむ」
頭をガシガシと掻いて、私は仕事部屋に戻って煙草を取ってきた。
「主殿よ、その臭いを私は好かぬ」
銀之助の小言は完全に無視して、私は火を点けた。紫煙は部屋に足掻きながら充満していく。
「三日……か」
私はまた森に目をやった。
深すぎる森は、それだけで巨大な一個としての存在のように見えた。もしかしたら、あの森そのものが既に大きな一つの生命であり、私が見た魔犬は、そこから私に警告しに来たあの森の使者なのかもしれない。そして、私はその森の使者に三日後に殺されるそうだ。
ははは、つまらぬ。なんともつまらぬ筋書きであろうか。私の人生というものは、どこまでも行ってもつまらぬものであったか。
「ギン、三日だな?」
銀之助はため息をつきながら「うむ」と答えた。呆れているのだろうか。
「充分だ」
私は仕事部屋に行き、パソコンの電源を再度点ける。あと十一枚だ。やろうと思えば今日で終わらせることができる。今日だ。今日中に終わらせる。そうすれば、あと二日残る。今回の締め切りは、決して延ばせぬし、延ばしてはいけないものだ。煙草を消して、私は一気に話を創っていった。
咆哮/2
早朝の四時からだ。そこから十一時間。休憩なし(煙草やトイレなどを含めず)。一時間に一枚のペース。うむ、まぁ悪くない。
さてと、私は今書き綴った物語を見直す。犯人は自信があったトリックを見破られて、犯罪に至った経緯を話し出した。ここまではよくある話だ。そしてその理由に私は……意味を持たせなかった。
戯れ。
〝やれそうだったから〟と犯人は語った。理由として挙げるのならそれがもっとも適当だと。そして、感情の篭っていない笑みを浮かべながら奴は言うのだ。
「また会いましょう」奇術師のように仰々しく頭を下げながら崖から飛び降りた。
私はにやりと、笑ってしまった。なんと在り来たりだろうか、と素直に思った。まるでこれから更に話が続きそうだ。気晴らしの最終回としては、充分であろう。頭の中にはこれからの話が浮かんできていた。この犯人は死んでなどおらず、主人公を嘲笑いながら次の犯罪を犯していくのだ。宿命のライバルとして。
「こんなものだろう」
私は携帯電話を手にとって、ビワに電話をかけた。ビワは二回のコールで出た。
『もしもし? 何ですか、こんな半端な時間に』
「これからメールで原稿を送る。チェックはした。誤字脱字があっても、明らかなもの以外は修正しないでくれ。それと終わりは〝完〟ではなく〝了〟とするように。えーっとあとはあれだ。私はこれから旅に出る。もう連絡は付けられぬ」
『はぁ? あんたねぇ……あ、いえ、先生。修正は絶対に有り得るのですから、そう言わずにとりあえず……』
「すまない。あぁ、それとだ。もしも私に何かあったら、銀之助のことは頼む」
『銀之助って、あのくそ生意気で可愛くない犬のこと? 絶対に嫌なんだけど』
「はははっ、そうだ。あのくそ生意気で可愛くない犬の事だ。大丈夫、つるんでいれば、何となく奴のいいところがわかってくる。任せたからな」
私は電話を切ると、「銀之助!」と奴の名前を読んだ。とてとてと音を立てながら、奴は犬の姿で現れた。口には餌箱を咥えていた。金色の瞳は、不満を大いに表している。
「すまんすまん」
私は銀之助が持って来た餌箱を受け取り、フードを入れて居間のコタツの上に置いた。私も執筆している最中は食事をしていなかったので何か食べようとしたが、カップ麺もパンも切らしていることを思い出した。米はあるので炊けばいいのだが、不思議と空腹感はなかったので、自分の分は銀之助の食事を眺めてからにすることにした。
銀之助は勢い良くフードを食っていく。何度言ってもこの食い方を直そうとはしない。我が道を行く、ということなのだろう。
「銀之助」
食うのをやめて、金色の瞳をこちらに向けた。「何の用だ?」と語っている。
「お前はビワの所に行け」
はて、と首を傾げた。銀之助は数秒私の顔をじっと見つめ、合点が言ったように一度頷くと、大きなげっぷを私に向け放った。
ドッグフードの独特な臭いが鼻につく。銀之助は私から視線を逸らし飯を平らげると、キッチンへと向かい、ペットボトルに入った水を人の姿で持ってきた。
「何を言い出すかと思えば下らぬことを」
奴はペットボトルの蓋を開け、咽喉を鳴らしながら水を飲んだ。
「貴様こそ何を言うか。私が居なくなれば、この家に住むのは不可能だ。だからビワのところに行けと言っておる」
銀之助は水を飲み干し、またげっぷをする。顔に似合わず、何と下品な。
「私はここを気に入っておる。ここを離れる気などない」
「ギンよ、これだけはどうにもならん。私が死んだらここを追い出されるのは必然だ」
銀之助は私はぎろりと睨み付ける。
「主殿が死ななければ良い、そうであろう」
「あの化け物に襲われたら、確実に私は死ぬ」
「ならば代わりを作ればいいであろう」
「代わりでもいいのなら、ビワでもいいだろう」
「何を言っておるのだ。代わりを作るのだ。その代わりは主殿であろうに」
「待て、ちょっと待て」
頭を抱える。銀之助の言葉が理解できない。
代わりを作ればいい、確かに銀之助はそう言った。それに対し私は、私の代わりを作ればいいのならビワでもいいだろうと答えた。ここまでは問題ない。会話は成立している。
「ギンよ、代わりを作るのなら、私でなくてもいいだろう」
再度奴に確認する。銀之助は眉間に皺を寄せて答えた。
「くどいぞ、主殿。代わりは主殿だ。それ以外何者でもない。あのビワという者でもなければ、あの狐でもない。代わりは主殿だ。だから代わりを作ればいいのだ」
頭が痛い。寝ていないからだろうか。
「とにかく、私は一旦寝る。面倒なことはその後で考えることにする。この話は一時保留だ。いいな、ギン?」
銀之助は水を飲み干し、またげっぷをした。
「仕方あるまい。主殿の頭の回転の速度は亀のように遅いようだしな」
いつもいつも一言多い化け犬だ。
「私は寝るが……ギン、お前はどうする?」
「私も寝る」
「そうか」
私は寝室へと戻り、布団を被る。銀之助は犬の姿になると、前と同じように私の布団へと潜り込んできた。
咆哮/■□■
私は逃げたのだ。この町(村)に。那美の手から逃れるように。両親の凄惨な死を目の当たりにして、これ以上誰にも死なれたくないから。これ以上、誰も愛したくないと思ったから。
しかし、それでも人との関りというものは完全に断ち切ることはできなかった。僅かなきっかけから、いつの間にか絆が築かれている。腰を叩きながら農作業をする人を見て、大変そうだからと手伝ったことから始まった。雑草を抜いたり、牛舎の掃除、農耕機の調子が悪いというのなら、前の経験を活かし一時しのぎとはいえ修理をした。小説家としてデビューすると、自分が創り上げる世界が好きだと言ってくれる人々が、この町(村)だけでなく日本中に増えた。
そう言えば、先生と呼ばれだしたのは何時からだっけか。あぁ、そうであった。羽田さんだ。あの人が私を先生と呼び始めてから町(村)の人々も呼び始めたのだ。最初こそやめてくれと言っていたが、結局誰もやめてくれなかったな。
何故だろうな。人を避けてきてここに来たはずなのに。どんどん輪が広がり、今では町(村)全体と付き合い始めていた。道を歩けば誰かが私に声をかけてくれる。私も道を歩いていれば誰かに声をかける。
――アナタハ、ダレモ、ノゾンデイナイモノネ
望んでいない……か。
私はどうすれば良かったのだ? お前が死んだとき、何もかもをかなぐり捨てでも、お前と死の闇へと沈めば良かったのか、那美よ。
私にはわからない。
――ナギ。アナタハ、ワタシスラモノゾンデイナイモノネ
そうかもしれないな。私は、お前を望んでいなかったのかもしれないな。いいや、お前だけでなく、すべてを望んでいなかったのかもしれない。
――フフ、ナギ。アナタガアイスルモノスベテ、コロシテヤルカラ
愛するもの、か。私は何を愛しているのだろうな。お前を愛していない……望んでいなかったというのなら、私は〝何を愛していた〟のだろうか。わからない。
――アナタガアイスルモノ、スベテヲ、コロシテ、ヤル
ならば私は、お前が殺す以上に、人を愛そう。
はは、何を愛せるというのだ。こんな……こんな空っぽの私が何故、あのようなことを言ったのだろうか。
私が、殺したのだ。彼女を絶望させたのだ。最後の最後で、私は彼女を裏切ったのだ。それに彼女は絶望し、死んだのだ。そうに違いない。
――……ホントウニ、ズルイヒト
那美よ、お前は何故最後に笑ったのだ……笑った?
――……ホントウニ、ズルイヒト
笑うはずなどない。
――……ホントウニ、ズルイヒト
彼女は、私の言葉に絶望していたはずだから。
――……ホントウニ、ズルイヒト
何故、笑う?
――ソンナアナタガ、ダイスキダッタワ
え?
咆哮3/想う者たち
昼下がり、一人黙々と羽田は畑を片付けていた。羽田の家からは一番遠い畑で、一番大きな畑だった。
荒らされた稲を見て心を痛め、撒き散らかされた糞尿に苛立ちを抱きながら、羽田は一人で片付けをしていた。
「羽田さん、私は怒っていますよ」
助手席のドアを開けているジープの中から、魔法瓶に入っている茶を飲みながら、玉城は言った。
彼は本日の往診を終え、羽田の片付けを暇つぶしとでも言いたげに、眺めていた。
「そうかい、あんたにもわかるかい。俺の気持ちが」
「はははっ」
羽田はぎろりと玉城を睨んだ。
「怖いですねー。私はね、あなたの勘違いに笑ったんですよ、羽田さん」
玉城はいつもの調子で言葉を紡ぐ。
「あなたはあの万里 凪を拒絶した。あれはひどい、ひどすぎます。あの人にとっては死刑宣告のようなものだ。あなたが言う〝空っぽ〟の人間にとってはね」
羽田は首を二度、三度と鳴らして玉城のジープへと足を向けた。
「羽田さん、あなたの形容は正しい。あれは確かに〝空っぽ〟だ。自分の望みがないと言っても良い。あそこまで無欲な人間、中々いない。いいや、無欲ではありませんね。そう、やはり〝空っぽ〟という表現がしっくり来る」
羽田は煙草に火を付け、ジープを背もたれにして腰を下ろした。
「あなたは言いましたね。あれは〝空っぽ〟だと」
羽田は煙を青い空へと吐き出した。それを見た玉城は、更に話を進めていく。
「それは全くもって同意しますよ。普段のあなた達は、与え与えれる理想的な共生関係を築いていた。それなのに、見返りを求めない人間が急に現れる。何か裏があるのではないかとあなた達は疑い、そして彼に全然他意がないことを知り、あなた達は疑ったという行為を恥じた」
玉城は茶を飲み、新たな茶をコップに注ぎ足した。
「あなた達は贖罪とでも言うように、彼へと礼を渡そうとした。しかしだ、彼は一切それを受け取らない。それでも彼は自分たちを助けていく。〝行為だけを見れば〟、それは一方的に与えられていることになる。最初は良い。親切な人、優しい人、無欲な人。そう思われる。だが、それは長く続いた。次第にあなた達は不安になっていく。無尽蔵な〝空っぽ〟の善意。向けられる〝空っぽ〟の笑顔。人間らしさが欠如している。それが次第に恐怖に変わる、はずだった」
玉城は言葉を切った。そして車から降りて羽田の隣へと腰を下ろした。
「恐怖に変わらなかったのは、あなたの〝責任〟だ。あなたは礼を断る彼を強引に食事に誘い、そしてそこに多くの人を呼んだ。普段彼が手伝っている人たちだ。皆で感謝の言葉を述べた。それから、彼は謝礼を受け取るようになった」
羽田は煙草の火を消して、畑へと投げ入れた。
「よく調べたじゃあないか、玉城さん。そんなに先生のことが気になるのかい?」
「はは、そうですね。私は〝あれ〟が大いに気になっている。そして気に入らない。〝空っぽ〟なはずがないのに、あれは見る限り完璧な〝空っぽ〟だ」
「今日は随分と饒舌だねぇ」
羽田は立ち上がり、大きく体を伸ばす。
「話が逸れて失礼。つまりだ、彼をあそこまで懐柔したあなたが、彼の優しさを完全に拒絶したんだ。〝空っぽ〟の見返りを求めない無尽蔵な善意を、ね。彼にとっては絶望だ。与えられるものが、本当の意味で無くなったから。なので、謝ることをオススメしますよ」
玉城はふぅ、と一息をついて車へと戻り茶を啜った。その一連の行動を見た羽田は、やれやれと肩をすくめた。
「玉城さん、あんた結構先生を気に入ってるだろ?」
「まさか。大嫌いですよ」
「はっはっはっ。そうかいそうかい。ま、玉城さんの言う通り今日片付けが終わったら謝っておくよ」
玉城もにやりと笑みを浮かべる。
「そうしてください。あなたが〝あれ〟と仲良くないと、私は〝観察〟が出来ないので」
「勝手なこと言ってら」
羽田はいつものような快活な笑顔を浮かべた。
咆哮/4
自分の涙の冷たさで、目が覚めた。涙を拭い、改めて思う。
夢だ、と。
確かに、都合が良すぎると思った。那美が……あんなことを言うはずがない。彼女は最後に私を呪って死んだのだから。あのようなこと、言うはずがない。
「ふご」
私が暗い気持ちを抱いていると、腹の上で寝ている銀之助(犬)がいびきをかいた。
「こやつは……どうしようもない奴だ」
半身を起こすと、銀之助がずり落ちる。
それでも起きようとしなかったので、奴の両耳を両手で掴んでみた。「ふぐ」と奴は唸る。少しだけ現状維持をしていたが、すぐに頭を振り回した。銀之助は眠たそうな金色の瞳をこちらに向けている。瞳はこう語る。「何故私の睡眠の邪魔をした?」と。
「別に意味は……」
純然たる無意味な悪戯だったのだが、そう言えばと、私は思い出した。
銀之助は大きくあくびをしていた。
「ギン、お前、花を知っているだろう?」
奴はぴくりと反応を示した。
「香りからして、気高く、美しく、そして麗しい花だ」
すん、と銀之助は鼻を鳴らした。金色の瞳は私に向けられている。その瞳から、私はいつものように明確な言葉を読み取ることはできなかった。しかし、銀之助の瞳はどことなく困惑が含まれているように感じられた。
「花だ、ギン。お前と初めて会ったときに、確かに香ったはずだ」
光が銀之助の体を隠すように拡散し収束したかと思うと、人の姿に化けた銀之助が、私の腿の上で私の瞳を見つめていた。
「銀之助、答えられるだろう?」
「先に一つ答えよ。そうすれば私も主殿の問いに答えてやろう」
「お前の問いに答えれば、花のことについて教えるのだな?」
「うむ」
「よかろう」
銀之助は体を起こし、きちんと正座をして布団の上で私と向き合う。
「何故泣いておる? それは〝悲しい〟ということなのか? 悲しいときに、その涙というものは出るのだろう?」
「え?」
気付けば涙はまた流れていた。
「そう、だな。悲しんでいるな。私は今、悲しんでいる」
悲しんでいる。だから涙を流しているのかもしれない。
「何故だ?」
きっと、那美の夢を見たからだ。それも自分にとって都合の良い夢を。
「悪夢を見た。きっと、それのせいだ」
そう、悪夢だ。私は那美を絶望に突き落とし、殺した。その那美が、最後に私にあのような言葉をかけるはずがない。だからあれは悪夢だ。
「主殿よ、主殿のその涙というものを見ると、私は胸がきゅーっと締まりそうになる。これは悲しいということか?」
「はは……先ほどからお前の質問ばかりだ」
私は涙を乱暴に拭う。
「答えるのだ、主殿よ」
「そう、だな。お前はどう思う?」
「む。わからぬから聞いておるのだ」
銀之助の頭を撫でた。
「今のお前にはまだわからぬかもしれぬが、すぐにわかるさ」
「わからぬ」
「はは……」
銀之助、それは〝悲しみ〟だ。しかし、それを〝悲しみ〟だと私が教えてはならぬ。〝悲しみ〟というものは、自分で気付き、そして初めて実感するべきだ。
そして、他人の涙を見て悲しめるお前は、正真正銘〝優しい心〟を持っている。だから、〝死〟の真の意味も、きっとすぐにわかる。
「お前は、乾いたスポンジのように知識を吸収する」
「褒めているのか?」
「そうだ。そして感心している」
ひとしきり奴の頭を撫でると、私は立ち上がって壁の時計を見た。時計の針は零時丁度を刺していた。
ふむ、随分と休んだものだ。
銀之助が言う魔犬が襲ってくるタイムリミットまで、あと二日だ。
小説は終わった。少しだけ、散歩に出るか。
「銀之助、私は散歩に出る。お前も来い。花のことも知りたい」
「ふむ……このままでいいのか?」
「夜だしいいだろう」
「うむ」
私は顔を洗って、上着を羽織る。昼間は過ごしやすいが、やはり夜は冷える。銀之助の分の上着も渡そうとしたが、奴は「いらぬ」と言った。元が全身毛だらけの犬なのだし、寒さには強いのだろう。
外に出ると、異様なほどに静かだった。
良くある例えを出すなら、私と銀之助以外がこの世からいなくなったと勘違いしてしまうほどに。それぐらい静かだったのだ。
私と銀之助は道中一言も話さずに進んだ。気付けば、荒らされた羽田さんの畑へと行き着いていた。
畑はかなり片付けられていた。とは言え、まだ臭いは残り、所々にまだ折れた稲や糞尿らしきものが残っていた。
「ここを見に来たのか、主殿よ」
銀之助は嫌そうに言った。
前に畑が荒らされたときも、こいつは臭いと言っていたな。まぁ、このような臭いを好きな者などいないか。
「あぁ。これなら明日で片付けも終わるだろう。帰るか」
「主殿よ、これは散歩なのか?」
「あぁ、散歩さ」
私は先程歩いてきた道を辿る。銀之助は鼻歌を交えながら付いて来た。
この鼻歌は私がよく適当に口ずさむものだ。いつの間に覚えたのだろう。
「ギンよ、それは何と言う歌だ?」
意地悪に奴に聞いてみる。銀之助はにやりと笑う。私の意地の悪い質問に奴は気付いたのだろう。
「これはな、〝空っぽの唄〟だ」
「くく、そうか。それはまた、なんとも……」
皮肉だな。私が歌った鼻歌にそのような名前を付けるとは。
「いい名前だ。次からは私もそれを歌おうではないか」
「そうしろ、主殿なら綺麗に歌えるだろう」
私も鼻歌を口ずさんだ。銀之助もそれと一緒に歌う。とても稚拙な二重奏。
「主殿よ」
その二重奏は銀之助の一言で終了を迎えた。
「ここで主殿と私は初めて目が合った」
私は足を止める。
「あぁ、覚えている」
「主殿はここで私を見た」
銀之助の金色の双眸がこちらに向けられる。
「そうだな、お前を見た。その時に花の香りがした。よく覚えている。最初、熊か何かがいるのではないかとも思ったのだ」
光陰矢の如しとは、よく言ったものだ。もう半年も経ったのか。
「花の香りとは、これのことだろう?」
ぱん、と銀之助は手を叩く。すると小さな鈴の音が僅かに聞こえ、それと同時にあの気高く、美しく、そして麗しいであろう花の香りがした。
私は目を閉じ、その鈴の音と香りを愉しんだ。鈴の音はどこか音楽を奏でているようだった。
「このような鈴の音は、初めて聴くぞ。この鈴は何を奏でているのだ、ギン」
「そうか、この音も聞こえるようになったか……」ぼそりと呟くに銀之助は言うと、「この鈴は何も奏でてなどおらぬ。これはな、ただの光の音だ」と私に言った。
「どういうことだ?」
目を開き、銀之助を見る。銀之助の瞳はじっと私に向けられている。それを私もじっと見返す。
銀之助は迷っているように見えたが、やがて口を開いた。
「光にも音はある。そして香りもある。それを人間は忘れているだけだ。私はそれに気付けるよう、きっかけを与えているに過ぎない」
頭に手をやり、小さくため息をつく。
「何故黙っていた。香りについては何度か聞いたはずだ」
「あの時はまだ……人間を知らなかっただけだ」
銀之助は寂しそうに目を伏せた。
「ギン、どういう……」
ぱん、とまた銀之助は手を叩いた。すると鈴の音と香りがゆったりと流れていくように消えた。
「今は夜だから光の力が弱い。されど、これぐらいのほうが心地良かったろう、主殿」
「銀之助、貴様は何者だ。ただの化け犬ではあるまい?」
ふふふ、と銀之助は楽しそうに笑った。
「そう、私はただの化け犬ではない。ましてや、あのケダモノのような者とも違う。しかしだ、主殿よ。いいや、万里 凪よ。私を知らぬとは、それだけで罪であるぞ?」
「教えてはくれぬのか?」
肩をすくめながら問うが、どうせ教えてはくれないだろう。奴の性格はよくわかっている。
「それは出来ぬ。しかしだ、いつか話すやもしれぬ。私が……」
銀之助は輝く金色の双眸を僅かに伏せた。
「私が、〝堕ちた〟ときにでもな。そのときには、私はもう〝それ〟ではなくなっているが」
銀之助が私の前へと出る。銀とも灰とも取れる色の髪が、奴の動きに合わせてふわりと踊る。私は銀之助の背を見ながら歩を進めた。時折銀之助はくるりと回った。まるで踊っているように見えた。
「銀之助、あまりはしゃぐな。転ぶぞ」
「私が転ぶわけなか……」
転んだ。しかも砂利に足を取られた訳ではなく、枝に躓いて。
咄嗟に身を捻っていたし、大した怪我はしておらぬだおろう。
「言わんこっちゃない」
小走りで奴に駆け寄り、手を貸してやった。私の手を取り、銀之助は立ち上がる。
「痛い」
「そりゃあ痛いだろう。ここは砂利道だ」
「うぬ……」
光が銀之助の体を包み、拡散する。どうやら犬の姿で歩くことにしたようだ。
「ギン。犬も歩けば棒に当たる、という言葉を知っておるか?」
銀之助は金色の瞳を気恥ずかしそうに逸らした。
咆哮/5
夜の散歩から帰ってきた私と銀之助は、自然と読書をすることにした。
購入したばかりでまだ呼んでいない小説が数冊あったし、丁度良いと思った。それらのジャンルはバラバラだった。恋愛や推理、サイコ、ホラー、ファンタジー、はたまた純文学まであった。よくもまぁここまで節操なく買ったものだ。
銀之助は縁側で月光を明かりに今時の小説ではなく、昔の小説を読んでいた。私が持っている小説の中であの薄さは、私が書いたもの以外ならば〝人間失格〟だろう。渋い選択だ。
「ギン、それは面白いか?」
銀之助の隣に腰掛け、私も月光を明かりに小説へと目を落とす。
「この人間はつまらぬ」
「そうか」
小説の登場人物のことを言っているのか、作家のことを言っているのかはわからなかった。
そんな銀之助を横目に、私はまずファンタジー小説から読み終わらせることにした。最近アニメ化が決まったというファンタジー小説だ。ページを捲る。数ページで飽きた。
とりあえず、推理小説を読むことにした。導入の書き方は悪くない。ぺらりぺらりとページを捲っていけた。
主人公は両親を失った少年だった。彼は物心付いた頃には孤児院で育ち、両親は殺されたという真実を孤児院の院長から教えられる。ここまでが序章だ。その話を聞いて、探偵として両親を殺した犯人を捜していくというものだ。
ふむ。中々に面白い。この主人公の心理を上手く表現しているし、比喩も上手い。はて作者は誰だったかと表紙を見ると、そこには見知った名前が載っていた。私の後輩であった。はは、実力をいつの間にか抜かされていたか。仕方あるまい、ここは一読者として存分に後輩の小説を愉しもうか。
数時間、私はこの推理小説を読んだ。日が昇ってくる頃には読み終わり、何とも言えぬ感情を胸に抱いた。主人公が心を読める超能力に目覚め、犯人をずばりと言い当ててしまったからだ。
小説を閉じて、ため息をつく。
「今までの綿密な捜査が水の泡だろうに……」
捜査と推理、感情表現。全てが上出来であった。だがしかし、最後のこれだけはいただけない。あそこまでしっかり捜査と推理をしていたのだ。超能力などに目覚めなくても良かろうに。
「主殿よ、朝だ。朝食を用意せよ」
外は明るかった。銀之助の言うように飯でも食って、一眠りするか。
「少し待て」
「うむ」
私は一合分米を研いで炊飯器のスイッチを入れた。三十分で出来上がるから、私は冷蔵庫から適当な野菜と肉を取り、一人分のおかずと味噌汁とを作った。
ゆっくりと作ったため、全てが出来上がる頃には、米も炊けた。銀之助の餌箱にフードを入れ、机の上に置く。そして奴にスプーンを渡し、私の準備が出来るまで待つように命じた。
自分の飯の準備を整え、腰を落ち着ける。
「いただきます」
「うむ」
私と銀之助は二人で黙々と朝食を食べ始める。
会話はなかった。必要なかった、という方が正しいだろう。無理に話をしても、飯が不味くなるだけだ。
銀之助はドックフードだけなので、すぐに食べ終わり私が食事する様を頬杖を付いて眺めていた。
「何だ?」
飯を食べながら奴に問うと、奴は笑った。嫌な笑みではない。晴れやかな笑みであった。
「私も今度人間の食事をしてみたい」
「ならぬ。不健康である」
銀之助はまた笑う。
「ふふっ、人間は不健康なものを食べて生活しておるのか? だから命が短いと言われるのだ」
「お前にとって不健康ということだ。人間にとっては丁度いいのだ」
「そうでございますか、主殿よ」
飼い犬にからかわれるとは、飼い主としての面目が立たぬ。今度こいつの飯をこんにゃくのみにしてやろうかと、真剣に考えた。
食事を終え、私は食器を洗った。それが終わり居間に戻ると、銀之助は縁側でごろりと横になっていた。
「何とだらしない。貴様には淑女らしさというものを求める気持ちはないのか」
「ない。私は存在するだけで美しい。それだけで充分である」
「何と傲慢不遜な態度か」
ため息をついて、頭を振った。「ふふん、本当のことだから仕方あるまい?」などと奴は付け足した。
そんなだらしない銀之助を見て、昨夜の散歩の時に奴が話していたことを思い出した。
「ギン。昨夜お前は、あの匂いと鈴の音は、光の匂いで光の音だと言ったな?」
「言った」
「それはつまり太陽の香りで太陽の音ということなのか?」
この世に溢れる光というものは、頭上で輝く太陽が生んだものだ(人工的なものは勿論除いて)。つまり、光の匂いと光の音はその太陽が生んだものであるはずだ。
「うむ、その通りだ」
「やはりか。太陽の香りと音か。なるほどなるほど」
太陽の香りは、気高く、美しく、麗しい花の香り。音は鈴を転がしたような軽やかな音色を奏でるのか。
「何じゃ主殿。また味わいたいか」
「いいや、今はまだいい」
次は……次があるのなら、春の陽気の中で味わいたいものだ。
「私は寝る。銀之助、お前は?」
「私はもう少し本を読んでから寝ることにする」
「そうか、おやすみ」
寝室への襖を開けた。
「そうだ、銀之助」
「何だ、主殿よ」
「私の小説を読んでみろ」
「主殿が言うのなら、そうしよう」
銀之助は口端を僅かに上げ、そう答えた。
咆哮/6/独り言
万里が寝室で寝息を立てる頃、銀之助は縁側で万里が執筆した小説を読んでいた。
徐々に太陽は昇り、気温も上がっていた。
読書には丁度良い。
銀之助はそんなことを思いながら、小説を読み進めた。万里が書いた小説を彼女は初めて読んだ。何となしではあるが、読んではいけないように感じていたからだ。
銀之助が手に取ったのは、すぐに読み終えられそうなほどに薄い小説だった。これを読みたいと思い手を取ったのではなく、一番最初に目に入ったからだ。
丁寧に彼女はその小説を読んだ。万里がどのような気持ちで、どのようなことを伝えたいかを、真剣に考えたいと思ったからだ。
だがしかし、銀之助には内容のほとんどを理解できなかった。いいや、文字だけなら彼女は全てを理解している。それは、今まで彼女が読んできた小説全てに共通している。意味は理解できているのに、彼女はその真意は理解できていない。
何故、このような行動に至るのか。
何故、そのような心境に立つのか。
彼女にはとっては人間の感情の動き全てが〝理解〟できないのだ。それでも彼女は、万里が書いたこの小説を面白いと思った。
何故、彼女がそう思ったのかは、彼女自身理解はできていない。それは知っている者が書いたからという単純な理由かもしれないし、そうじゃないのかもしれない。
薄い小説ではあったが、気付けばかなり長く読んでいた。太陽はかなり高く昇っていた。銀之助は大きく大きくあくびをする。
ぴんぽーん。
気が抜けるようにチャイムが鳴った。普段の銀之助ならば無視するが、今回は違った。
「先生?」
ぴくりと、銀之助の頭の上の耳が動く。
声は羽田のものだった。銀之助の体が光に包まれる。犬の姿になると、彼女は玄関へと向かう。
「先生、出掛けているのかい?」
かりかりと銀之助は玄関の戸を引っ掻く。
「あれ、ギンちゃんかい?」
銀之助は名前を呼ばれたものの、返事はしなかった。その代わりに先ほどよりも強く戸を引っ掻く。すると、玄関の戸が開いた。
「ありゃりゃ無用心……いや、ギンちゃんがいるから無用心じゃあないのか」
羽田は銀之助の頭を撫でようとしたが、銀之助は後退してそれを拒絶した。しかし、拒絶をしているものの彼女は羽田をじっと見つめていた。
「ギンちゃん、先生はいるかい?」
銀之助は部屋の奥にちらりと視線を向けた。それを見て羽田は奥に万里がいること、そして今は玄関までは来られないことを察した。
「寝てるのか、それとも風呂なのか……ギンちゃん、これ先生に渡しておいてくれ」
上品な紫色の包みを羽田は銀之助に渡した。銀之助は結び目を器用に咥え、居間のコタツの上に置き、また玄関へと戻った。
「ありがとうな、ギンちゃん。また来るよ」
片手を上げて去ろうとした羽田の服の裾を、銀之助は引っ張った。
「なんだい、かまってほしいのかい?」
銀之助は金色の瞳を細めた。
自分の分はないのかと伝えているつもりだったが、羽田にはその意図が通じはしなかった。
羽田はまた銀之助の頭を撫でようと手を伸ばす。それを銀之助は回避するために、服の裾を離して後退する。その一連の行動を見てそういう遊びなのだと、羽田は勘違いした。
「がっはっはっ! ギンちゃん退屈なのかい? すまねーなぁ。片付けが終わったらまた遊んでやるからな!」
羽田はにかっと笑うと、玄関の戸を閉めて去っていった。
そうではない。私は自分の分の食べ物を要求したのだ。
拗ねたように「わふ」と声を漏らして、銀之助は万里が寝ている寝室へと向かった。
布団の上では万里が静かな寝息を立てていた。銀之助は万里の顔を覗き込む。万里の寝息はそれでも乱れることはなかった。
数十分。銀之助はただただ万里の顔を至近距離で眺めていた。万里は特別に顔立ちが良いわけではない。かと言って、特別崩れているわけでもない。どこにでもありそうで、しかしこれは万里 凪の顔と言わしめる造りの顔立ちだった。
また光が銀之助を包み、すぐに失せた。人の姿になった銀之助は、犬のときと変わらず万里の顔を眺める。
さらりと、銀之助の銀とも灰とも取れる髪が万里の顔にかかった。万里は顔を歪めた。
ふふ、と銀之助は小さく笑うと万里の上半身に体を預けて、瞼を閉じた。
「主殿よ。私に教えを説き、叱責したのは、母上以外おらぬ。ゆめゆめ忘れぬでないぞ。私は主殿を、母上とまではいかぬが、好いて接しているということを」
返事を期待せずに銀之助は彼に呟いた。
咆哮/7
息苦しい。というより、重い。特に腹の辺りに何かがあるように。
「重い……」
原因など考えずともすぐわかった。
「ギン……重いぞ」
だが銀之助は腹の上から動こうとせず、眠っていた。
銀之助にしては珍しく上品な寝息を立てているので、起こそうにも何故か遠慮してしまった。自分が飼い主であるのに、飼い犬に気を遣っている自分が、少しだけ情けなくなった。
銀とも灰とも取れる色の髪を撫でる。銀之助は耳を倒していた。何も喋らず黙っていれば、可愛いものだ。
体を起こすと、銀之助はずり落ちる。昨日の夜もこのような感じだったはずだ。
「む、むむ」
銀之助が細く目を開ける。しかしすぐに目を閉じた。
「どけ、銀之助」
ぱしりと頭を引っ叩く。銀之助は眉間に皺を寄せ、金色の瞳で私を睨み付けた。
「無礼であるぞ、主殿よ」
「人の腹の上で寝るほうが無礼である」
銀之助はだるそうに体を起こし、大きくあくびをした。
「シャワーを浴びる。そしてまた畑を見に行く」
「そうだ、主殿よ。主殿が寝ているときに羽田が来たぞ」
「まさかお前、その姿で出たのか?」
「そんなわけあるまいに」
銀之助は背伸びしながら答えた。
「何かの包みだけを渡して去っていったぞ。コタツの上に置いてある」
私は起き上がり居間へと向かう。コタツの上には紫の包みが置かれていた。銀之助が言っていた羽田さんが置いていったものとはこれに間違いないだろう。
私はその包みにすぐに手を出すことをせずに、まずは時計を確認した。時計の針は四時を刺していた。いくらなんでも早朝の四時ではないはずなので、夕方十六時だろう。よく寝たものだ。
次に私は煙草に火を点けた。そして、その包みを丁寧に解いていった。
中には白い紙とおはぎが四個入っていた。包みだけでなく、おはぎを入れている重箱も上品であった。おそらく奥様の趣味だろう。
おはぎは後に食べることにし、その白い紙を手に取った。どうやら手紙のようだった。その手紙には、達筆な文字で、『邪魔とか言ってすまなかったね、先生。このおはぎは俺も手伝って作ったんだ。食っておくれ』とだけ書かれていた。
煙草の煙を大きく吸って、天井に細く吐き出した。
気にしていた自分が馬鹿らしい。羽田さんが邪気を込めてあのような言葉を吐かないことなど、私は知っていたはずなのに。
煙草を灰皿に押し付け、おはぎを見た。一つだけ周りのものより不細工なものがあった。きっと、これが羽田さんが作ったものだろう。
奥様にあーだこーだと言われながらおはぎを作る羽田さんが、目に浮かぶ。後で食べようとしたおはぎだが、この一個だけを先に口に運んだ。
「美味い」
はは、と短く笑い、私はバスタオルを持ってシャワーを浴びるために浴室へと向かった。
シャワーを浴びて身なりを調えると、時間は十七時を回っていた。寝室に行って銀之助を見た。銀之助は犬の姿で体を伏せていた。
「銀之助、私は少し散歩に出る」
銀之助は上目遣いに私を見た。やれやれ、と瞳は語っている。奴は背伸びをすると、早く出掛けるぞと言わんばかりに玄関へと向かっていった。
「やれやれ」
私はそう口に出し、肩をすくめた。
私と銀之助は日が暮れ始めた道を歩んだ。
「日が暮れるのも随分と早くなったものだ」
朱色に染まっていた空は、紺碧へと飲まれようとしていた。息を吐き出すと、僅かに白く染まる。
とてとてという足音を立てながら銀之助は付いてきていた。以前のように一定の距離が開いていた。家の中とは違い、外では私に近付きすぎないようにしているのだろう。
空っぽの唄と名付けられた鼻歌を口ずさみながら歩いていると、羽田さんの荒らされた畑へと着いた。
畑は綺麗に片付けられており、臭いもほとんど消えていた。後ろを振り向くと、銀之助はかなり離れていたところにいた。もしかしたら犬の状態のときの方が鼻が利くのかもしれない。
「先生?」
振り返ると、畦道に羽田さんがいた。農具を何個か持っているのを見る限り、片付けを終えて帰る途中なのだろう。
羽田さんは駆け寄ってきた。
「先生じゃないか」
にかっと、羽田さんは快活に笑った。
「こんばんは、羽田さん。片付けは終わりましたか?」
笑みを返したつもりだったが、上手く出来たかは甚だ疑わしい。
「その、先生よ。昨日はすまなかったな。嫌なこと言っちまって」
「ははは……羽田さん、あのおはぎ、美味しかったです。それでチャラにしませんか?」
「へへ、そうかい……そうかい!」
歯を見せて笑う羽田さんを見て、自然と笑みが零れた。やはり笑みというものは作るものではないと、つくづく思う。
「畑、綺麗になりましたね」
「あぁ、大変だったよ。これで魔犬様の祟りも収まってくれればいいんだけどねぇ」
私は煙草に火を点けた。
「貰っていいかい、先生? 煙草切らしちまってさ」
「どうぞ」
煙草を一本羽田さんに渡し火を点ける。
空はほとんど紺碧に飲まれていた。明るい輝きを放つ星のいくつかが存在を主張し始める。
「羽田さん」
「なんだい、先生」
「私はね、ここの人々が好きだ。みんな温かいのです。私はそんなあなた達を、守りたい」
「はは、何言ってんのさ、先生」
羽田さんは細く煙を吐いた。
「魔犬には私が今度話を付ける。この命に代えても。だからお願いがあります。聞いてくれますか?」
「聞くだけなら」羽田さんは肩をすくめた。
「私が死んだのなら、銀之助を佐藤 美和子という女に渡して欲しい。私の家に時々来る出版社の人間で私の担当編集者です。彼女とは旧知の間柄だ。『万里が渡せと言った』と言えば、色々理解してくれるはずです」
羽田さんは携帯灰皿を取り出して、煙草を押し付ける。
「先生、死ぬなんて簡単に言うもんじゃあないよ。あんたの代わりはいないんだ。たった一つしかない命を大切にしなきゃあいけない。だから生きなよ。それに、ギンちゃんは先生以外に絶対に懐かないぜ」
「難しい問題ですね」
私はフィルターぎりぎりまで煙草を吸って、深く煙を吐いた。
「命を懸けてまで畑は守らなくていい。あんたが死ぬのと畑が荒らされるのはどっちがいい、なんて問いかけされたらね、俺はすぐに畑を荒らせばいいって答えるよ」
風が優しく吹いた。
「灰皿をお借りしていいですか?」
「あいよ」
羽田さんから携帯灰皿を受け取り、煙草を押し込む。
「なぁ先生。もっと自分のためだけに生きてもいいんじゃないか?」
「急になんですか?」
「先生はさ、何と言うかな……人のために何かしないとって、考えすぎてるんじゃないか?」
私は言葉を返さずに空を見た。
「先生、聞いているのかい?」
私はまた煙草に火を点けて、羽田さんに煙草を一本とライターを差し出す。彼は何も言わずにそれを受け取り、火を点けた。
「羽田さん、私は……私はね、何もないのです」
羽田さんがぴくりと反応した。しかし、彼は何事もなかったかのように振舞い、煙草の煙を紺碧の空へと吐き出した。
「何もないのですよ。本当に何もない。だからあなた達のために、何かしたいのです。あなた達にはたくさんのものを頂いた。だから、そのためなら命すら差し出す覚悟なのですよ」
羽田さんは空から視線を戻さなかった。きっと、私の言葉の続きを待っているのだろう。
「私にとっての〝愛〟とはきっと、そういうものなのです。誰かのために何かを成すことのです。だからね、私は人を愛し続けるのです。それは人によっては……そう、人によっては誰も愛していないと言われもね」
全てに平等に接しているのなら、特別なものなど何も無いのだろうと思われても。
私にとってはきっと、全てが特別なのだから。
羽田さんは私を見た。とても悲しそうな表情をしていた。
「先生。〝空っぽ〟の器を傾けられるとね、俺らは悲しくなるんだ。不思議と俺らの器は満たされていったとしてもね。じゃあ俺らが先生の器にこちらの器を傾けるとね、何でかね、先生の器に入った瞬間に消えちまうように見えるんだ。でもよ、それを先生は飲むんだぜ? 空の器を口に運んで咽喉を鳴らして、美味い美味いって言いながらね」
〝空の器〟か。
ははは、私は羽田さんにもそう見えたのか。如何せん、銀之助の例えは的確であったか。
存外、隠せぬものよのう。自分の本性というものは。
「なぁ、先生。そんな風になったのには、何か理由があったのかい?
煙草の煙をまた空へと吐いた。
「そうですね、羽田さん。あなたには話しましょう。これぐらいの寒空の下で話したほうがきっと、那美も喜ぶ」
酒の肴にする話でもない。だからと言ってぬくぬくとした部屋で話す内容でもないのだから。
私は羽田さんに話した。
那美との出会いを。那美との蜜月の時を。那美との別れを。
時折言葉に詰まったため、上手く説明できたかはわからない。それでも全て話したという自負はある。時間にしてはおそらく数十分かかったと思う。空はすっかり暗く染まっていた。
「そうかい、そんなことが
「えぇ、そうなんです。だからね、私は愛し続けなければならないのですよ。私のために、彼女のために……〝私らしい愛し方〟で」
羽田さんは立ち上がって腰を伸ばした。
「
私も立ち上がって腰を伸ばした。
「話せません。しかし、聞かないでほしい。あとで全部わかりますから」
「〝あと〟っていつだい?」
「明後日には、はっきりしますよ。きっとね」
「そうかい」
空は満点の星空で彩られている。私と羽田さんは数分それを眺めた。
「明後日にでも、聞かせてもらうよ。
「えぇ、話しますよ」
私がまだ、生きていられたのなら。
咆哮/8
羽田さんとの対話を終え、帰路を辿っていると銀之助が拗ねたように金色の瞳を私に向けていた。
「はっはっはっ! すまねぇなぁ、ギンちゃん! ご主人様を長い時間借りちまってよ!」
銀之助は羽田さんをぎろりと睨み付けて、ついでに私も睨み付けた。これはあとが怖い。ソーセージを要求されるかもしれぬ。財布が薄くなってしまう。
「じゃあね、先生。最後にもう一度言っておくよ。死んじゃあ駄目だからね。生きて、話を聞かせておくれ」
「そうですね……努力しましょう」
できるだけ、ね。
羽田さんは寂しそうに目を伏せると、背を向けた。私はその背中を見えなくなるまで見送ると、体を震わせた。随分長く外にいたせいか、体が冷える。熱い風呂に入らねばなるまい。
のらりくらりと帰路を辿っていると、背後から淡い光が輝いた。銀之助は人の姿に化けたのだろう。
私は振り返ることなく、変わらぬ歩調で歩き続ける。自分の足音と銀之助の足音。それらが交互に聞こえる。
「主殿よ」
「何だ、銀之助」
足を止めることなく、銀之助に返事をする。
「主殿は勘違いしているのではないか? 〝あれ〟の目的は主殿を殺すことだ。主殿が自ら命を渡しても、奴は決して主殿の話を聞かぬぞ」
煙草に火を点けた。煙草はもうあと二本しか残っていない。今日だけで大分吸ってしまった。
「戯れでわざわざ殺しに来るのだろう? 理由など無く、戯れで。それなのに何故、目的が私を殺すことだと言うのだ?」
「それは……」
銀之助は半端に言葉を切った。
「ギン、何か隠しているのだな?」
自宅が見えた。
「風呂で聞かせろ」
「わかった……」
私達は玄関をくぐる。銀之助は居間へと真っ直ぐに向かっていき、私は浴室へと向かった。湯加減を調節して湯を張る。
ふぅ、と一つ息を吐く。今日は少し、話しすぎた。
浴室を出て、居間に向かう。銀之助は横になっていた。しかし眠っているというわけではなく、瞼を閉じてはいなかった。金色の瞳は虚ろに満ちており、作り物の人形のようだった。
「ギン、どうした?」
銀之助はむくりと起き上がると虚ろな瞳をこちらに向けた。数秒、私はその瞳を眺めた。感情は何も沸いてこない。
「銀之助、らしくないな」
しゃがんで頭を撫でてやる。瞳に徐々に感情が戻っていく。
「主殿こそ、らしくない」
銀之助の口角が僅かに上がる。
「何があった。話してみろ、お前は話せるのだから」
「……風呂に入ったら話すと言った」
「そうか。風呂が溜まるまで、少し時間がある。何か話せ、ギン」
銀之助は這いずるように動くと、私にしがみついた。
「膝を貸すのだ、主殿よ」
「貴様は数日前から態度が変わりすぎだ」
私はあぐらをかくと、銀之助はその膝を枕にした。銀之助のは瞳はいつもの美しい金色の輝きを取り戻していた。
「主殿よ、私に教えを説くというのが、どれだけ名誉なことか理解しておるか?」
「はいはい」
適当な相槌を打って、銀之助の頭を撫でた。撫でている手に、銀之助は頭を押し付けた。「もっと撫でろ」と言わんばかりだ。不覚にも、可愛いと思ってしまった私が確かにいた。
「たった数日。それだけしか私は教えてやれなかった。それでも名誉に思っていいのか?」
頭を手に押し付けるのやめた銀之助は、金色の双眸を私に向けた。言葉にはせなんだが、「無論だ」とその双眸は語っているように思えた。
風呂が溜まる少しの間、私は銀之助の頭をゆっくり撫で続けた。奴は私に身を任せ、私の膝を枕にうたた寝をしている。穏やかな時間であった。
那美がいなくなってから、こんなに心休まる時間はなかったように思える。
不思議なものだ。出会ってから二年も経つ人と共にいてもここまで安らぎを得られぬのに、出会って数ヶ月の化け犬に何故安らぎを得られるのだろうか。
「主殿よ、そろそろ湯は溜まったのではないか?」
「そうだな……」
銀之助は膝から頭をどけると大きくあくびをした。
私は少しだけ痺れる足を引きずりながら、バスタオルを二枚持って浴室へと向かった。湯船を覗くと湯は丁度良い量が溜まっていた。湯を止めて、着物を脱ぎ始める。
「主殿は細い。まるでもやしのようだ」
気にしていることをずばりという所は長所であり、短所であろう。
「うるさいぞ、ギン」
言い訳も思い浮かばず、浴室に入る。当然のことになってしまっているが、銀之助も着物を脱いで浴室へと入ってきた。
「ギン、やはり一緒に入るのか」
奴を見ずに言う。「当然であろう」と銀之助は返した。
「タオルで隠せと言っておろう」
「〝次から〟そうすると言った」
浴室の小さな椅子に座ると、銀之助はその隣にある同じ形の椅子に座った。私はシャワーの温度を調節して、銀之助にかけた。ぎゅっと奴は目を瞑った。
「にゃにをする」
「別に」
私は頭と体を洗い、銀之助よりも先に湯船に浸かる。銀之助は相変わらず、頭を洗うのが苦手らしい。
私より数分遅れて奴は湯船に浸かった。互いに向かい合うように浸かって、同時に一息をついた。
「至福というものだな、主殿」
「うむ。そうだな……」
銀之助の白い頬が徐々に紅潮していく。目を閉じ奴は空っぽの唄を口ずさんでいた。それに私も乗っかって口ずさんだ。
数分間二人で空っぽの唄を口ずさむと、銀之助は小さく深呼吸した。
「あのケダモノと私は、昔寝床を共にしていた」
ぴたりと時が止まったように思えた。私は浴槽の淵に肘をつき、銀之助が続きを話すのを待った。
「二年前だ。私は旅をしていた。そこで奴に出会った。全てが同一ではないものの、似ていたから共に過ごしただけだ。勘違いするなよ、主殿よ」
何を勘違いするというのだろう。自分の貞操の証明でもしたいのだろうか。
「何じゃ、その顔は?」
銀之助はぎろりとこちらを睨み付ける。それに対し、私は口角を僅かに上げながら、肩をすくめた。
「ふん。そして今年だ。奴がついに盛りおってな。だから逃げてきた。〝やり損じた〟のが嫌だから、奴は私を追いかけてきたのだ」
そこまで話すと、銀之助はハンドタオルでくらげを作り出した。しかし上手くいかずに、何度もハンドタオルを湯へと沈めていった。
「お前と出会ってから数ヶ月は経っているぞ。何故奴は森に近い私の家にお前がいることに気付かなかった? 獣と言うのは鼻がいいのではないのか?」
銀之助はくらげを作るのやめた。
「これは憶測でしかないが、主殿のせいであろう。主殿の匂いは何と言うか、濃いのだ」
はて、と首を傾げた。今まで生きてきて臭いといわれたことはなかったはずだ。
「体臭というわけではないぞ。うむ、説明しづらい。存在感、といえばいいのだろうか。主殿はそこにいるだけで他人を飲み込むような存在感を持っている。それに私が飲まれていて、奴は探しきれなかったと思われる。元より好んで人前にでる奴でもないからな」
銀之助は顔の半分を湯に沈めた。人間と違い耳が頭の上にある分、耳に水が入るということがない。私が子供の時は耳に水が入るのが嫌で、プールも海水浴も嫌ったものだ。
「私は自分がそこまで大きな存在だと思ったことはないぞ」
銀之助は顔を出して、ふふ、と笑った。
「確かに主殿は小さいな」
「まぁいい」銀之助の皮肉を軽く流し、「私が原因だとしよう。それで、何故今更になってあの獣人は現れ、そして私を殺すのだ?」
銀之助は金色の双眸を一瞬細め、短く嘆息する。
「あやつは辛抱するということを知らん。だから私を追いかけてきた。しかし、村にいることはわかっているが何処にいるかを正確には把握できなかった」
銀之助ははっきりとここを村と言った。切ない。
「だから、適当に畑を荒らし私を炙り出そうとしたのだろう。その試みは成功した。主殿はこの城を離れた。そのことで主殿の匂いがほとんど無くなり、奴は私を見つけ、現れた。しかし、だ。主殿の匂いが私にはついていた。奴は群れのボスよろしく独占欲が強い。奴は私が主殿の匂いに充てられていると勘違いしている。だから、主殿を殺すと私に言った。それが嫌ならあの臭い巣に戻るようにとも」
また銀之助はハンドタオルでくらげを作り始めた。しかし、やはりハンドタオルは無様に湯へと沈んでいく。
私は銀之助の手を握りながら一緒にくらげを作ってやった。空気をハンドタオルで包み込むと、小さなくらげが出来た。銀之助は満足そうに微笑む。無邪気に笑う銀之助の様は、見ていて心が解される。
「それで旅に出たいと言ったのだな?」
奴の笑みはすぐに曇った。
「うむ……つまり、だ。奴が羽田の畑を荒らしたのこそが戯れで、主殿が殺されるかもしれないのは、私の責であるのだ」
ばつが悪そうに銀之助は言う。
言いづらかったろうに。自分のせいで誰かが死ぬなど、嫌なものだ。
「私とギンがここを離れたら、ここはどうなる?」
「わからぬ。しかし、少なくとも今まで通りとはいくまい」
「だろうな……」
どちらにせよ、あの獣人を放っておくという選択肢はないか。
「銀之助、貴様は奴らの所に戻りたくない。それはいいな?」
「うむ」
「ならば、あいつに話せばよい。銀之助は渡さぬ、私が責任を持って世話をすると言えばいい」
「そして主殿は殺される」
八方塞がりだな。どのように話せば全て丸く収まることやら。
「私が本気を出せば、奴如き消し去ることは出来る」
「ほう」
「しかしだ、私欲のために〝命〟を奪うことは、私の〝堕落〟を意味する。だから私は何もしない……いいや、できない」
「自分の勝手で人の命を奪うのは確かに、〝堕落〟と言っても過言ではないな」
そう考えると、あの獣人は堕落している。私利私欲のために銀之助を欲し、こやつを脅しているのだ。何も出来ぬとわかっているのだろう。
魔犬様であるのだから、供え物でもしたらどうかという考えが頭を過ぎるが、その供え物は私になるだろう。
「となればだ、話すしかない。とことん、だ」
浴槽から出て、シャワーを浴びた。
「簡単なことではないぞ」
「理解しているつもりだ。しかしだ、それしかない。誰の命も失わないのならそれでいい」
だが、もしそれで話が纏まらぬのならば、私は……。
「ふっ」
銀之助のために命を差し出すのも、悪くないかもしれないな。
「ギン、そろそろ出ろ。明日は早いぞ」
「うむ」
私は一足早く浴室を出て脱衣所にて体を拭いた。すぐに銀之助もやってきた。私は自分の体をそこそこに、奴の体を拭いてやった。
「いい加減自分でやれるようになれ」
「面倒だ」
「お前はいつもいつも……」
本当に手間がかかる化け犬だ。
銀之助の体を拭いた後は、髪を乾かした。髪をドライヤーで乾かし終えると、奴はこちらをじろりと睨んだ。睨まれるようなことは何もしていないはずだが……。
「主殿よ、私は全てを語った。だから主殿よ、今度は主殿が語る番であるぞ」
肩をすくめる。
「いいだろう」
銀之助にそう答えると私は銀之助の頭をぽんぽんと叩く。
「気安く私の頭を叩くな」
「はいはい」
私と銀之助は寝室へと移動した。布団を二組敷いて、私は自分の布団の上であぐらをかいた。
「さぁ何でも聞け」
私は腕を広げる。銀之助はじとりとした目で私を見て、にやりと笑った。
「そうさなぁ……まずは那美という女について、もっと詳しく語ってもらおうか」
私はもう一度肩をすくめ「聞いていたのなら、あれが全てだ。以上も以下もないぞ」と答えた。
「ふむ。ならば、主殿よ、〝死〟について教えよ」
「それはまだ先だ」
「……何にも答えておらぬ」
「さぁ、何でも聞け、ギンよ」
銀之助は顎に手をやり、考えるような動作をした。まるで人間のようだ。
「あぁそうだ。主殿よ、何故〝代わり〟を作らぬのだ?」
今度は私が顎に手をやり考えた。そう言えばこいつはつい先日そのようなことを言っていた。
「お前が言う〝代わり〟というものを教えてくれ。そうでなければ、どうしてもそれには答えられぬ」
「〝代わり〟というものはその言葉通りの意味だ。主殿の〝代わり〟という意味だ」
よし、ここまではいい。私と銀之助の〝代わり〟というものの認識に相違はないはずだ。
「うむ。私もお前の言う〝代わり〟というものは理解できる。では問うが、私の〝代わり〟とは、〝私自身ではない〟。これは理解できているか?」
銀之助は首を傾げた。
「違うぞ、主殿よ。主殿の〝代わり〟というものは主殿と同一の存在であるはずだ。私の母上はそうであった。私は母上と同じ存在だ。そして母上は母上自身の〝代わり〟である私を生み出した。だから主殿も〝代わり〟を作ればいいのだ。同じ存在をな」
……同一の存在?
こいつの母は自分自身の〝代わり〟とするために、この銀之助を生み出したというのか? にわかに信じ難い、しかし銀之助の表情には偽りを口にしているようには見えなかった。
「お前の母は、どのようにしてお前を生んだのだ?」
「わからぬ」
私は長くため息をついた。
「いいか、銀之助。全く同一の存在など、この世界には存在しない。人間や一部の生物は男女で番となり、子を成す。そしてお前もそうであるはずだ。どこかに父が存在しているはずだぞ」
「父など私にはおらぬ。母上は私を生んだ。それだけだ。〝我々〟はそうして生きている」
頭を掻いて、銀之助を見た。
こやつは私が知っている中でも特に変わった生き物だ。あの魔犬のように体を変形させて化けるわけでもない。光に包まれ人の姿になったり犬の姿になったりとする。つまり、今私がこいつに語った常識というものは、こいつには適用されぬのかもしれない。
「ふむ。大体わかったぞ、銀之助。そうだな、今も言ったように、我々人間にはお前の母がやったような芸当は出来ぬ。我々は単体では子孫を残すことも出来ぬし、自分と全く同一の存在を作り出すことも出来ぬ。だから、お前が言う〝代わり〟を私は作ることは出来ない」
銀之助は金色の瞳を大きく丸くした。
「そうなのか? 人間というものは何とも不完全なのだろうか」
中々どうして、哲学的な一言を吐くではないか。
「お前の母はそのようなことも教えてくれなかったのか?」
「母上は人間に興味を持つなと言った。親しくなっては〝格〟を落とすとも言っていた。だから、人間に関しては最低限のことしか私は教わらなかったぞ」
「そうか……ところでお前は今年でいくつになるのだ?」
兼ねてから疑問であった。あの魔犬は数十年単位で生きていると考えられるが、この銀之助は見当つかなかった。見た目的にはまだ若いはずだが。
「今年で私は生まれて十年になる。あのケダモノ共と寝床を共にしているときは八のときだ」
……今年で十歳とな。獣の成長は早いというが、何と言うことか。
「そうか、まだ十歳だったのか……」
「もっと成熟しているほうが好みであったか?」
「そういうわけではない。種族による成長の違いというものに驚いているだけだ」
布団に寝転ぶ。電気を消していなかった。私は体を起こして電気を消して、また布団に潜る。
「主殿よ」
「なんだ、ギン」
「明日、主殿はあのケダモノに何を話すつもりだ?」
「そうさなぁ……お前の保護者は私であるから手を引け、とでも言うさ」
「死ぬかもしれないのだぞ」
「死なないかもしれないぞ」
ふふ、とお互い笑った。
「主殿よ、明日はなるだけ私から離れないことだな」
「お前が助けてくれるということか?」
「ふふふ、助けてやらないこともないぞ?」
銀之助はくすぐるような甘い声を上げながら、私の布団へと潜り込んできた。
「狭いぞ、銀之助」
「細かいことは気にするでない……」
数分もすると銀之助は静かに寝息を立て始めた。ここから数時間も経つと、こいつはいびきをかき始めるのだろう。このままの静かな状態でずっと寝ていれば可愛いものなのだが。
「さて、明日はどうなるかなぁ……」
私の胸中は不思議と穏やかであった。あれだけ〝死〟を覚悟していたというのに、何故だろうと考えた。
あぁ……はは。銀之助のおかげか。
「不思議な奴だよ、お前は」
銀之助の頭を優しく撫でながら、そう漏らした。
とにかく、銀之助のおかげで私は、何事もない明日がまた来て、そして何事もなく終わりそうな気がしていた。
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