罪悪感

@HinaAriRyu

罪悪感

 男は妻の幽霊に悩まされていた。

 自身の運転する車で起こした事故が、彼女の死因である。

 夜ごと枕元に立つ彼女が、

 「許せない。あなたを殺したい」

 と、囁いてくるのだ。

 男は妻の毎晩の呪詛じゅそに苦しんでいたが、それは恐怖からではなく、殺してしまった妻への罪悪感からであった。

 結婚してから長い間、妻に窮屈な暮らしを強いてきた。パートに家事にと忙しい妻を一切顧みず仕事詰めで、なんとか仕事が落ち着いたかと思えば、突然の独立。妻の反対を押し切って起こした事業だったが、結果は失敗。借金を抱えながらそれでもなんとか暮らしていこう、と気持ちを新たにしたところでの、不慮の事故であった。

 妻はそんな、自らを蔑ろにするような夫に、どこまでも献身的だった。夜遅く会社から帰ってくる男がどんなに悲しい報せを土産にしたとしても、必ず穏やかな表情と暖かな夕飯で迎えてやった。失敗に絶望する夫の背を撫でてやり、

 「私がいますから、大丈夫ですよ」

 と、琴のような繊細な声で、そう励ますのである。

 男の起業に反対したのも、その失敗を恐れたからではなく、ただひたすらに男の苦労を案じたからである。数年後に男が請求書まみれで這いずりながら逃げ帰ってきた夜も、哀れな夫を安心させようと、柔らかく抱きとめた。

 「私がいますから」

 男は、そんな妻からの奉仕に背を押され、どんな失敗も越えていくことができた。仕事ができるとは言い難い男であったが、それでも働き続け、起業の夢さえも見るようになった。男にとって、妻の存在はどれほど有難かったろう。そのことに男が気付いたのは、事故当日の朝である。

 返しきる当てもない借金を抱えて、それでも男は前向きであった。きっと自分は、この問題も解決できるし、新しい生活も始めることができる。その根拠は曖昧でこそあったが、男には疑いようのない自信であった。

 倒産させた会社の社員に、頭を下げに周るドライブデートであった。男はもちろん一人で行くつもりであったが、社長夫人として自分にも責はある、として妻は助手席へ乗り込んできた。

 「私がいますから、大丈夫です」

 その微笑みを見た瞬間、男はようやく悟ったのだ。自信の根拠となっていたのは、この笑顔であったのだと。男の胸には熱い感情が巻き起こった。未来へと踏み出したアクセルは、強く踏み込んだ時にはもう戻らなくなっていた。事故の原因は整備不良であった。

 「許せない。あなたを殺したい」

 今、男の枕元には、事故の後から絶えず現れるようになった妻の霊が立っている。

 あれほど自分に尽くしてくれた、慈善の心で溢れるような人であった妻が、今は殺意をむき出しにして、男へ恐ろしい言葉を投げかけ続けている。

 男は恐怖より、自分が妻をそうさせてしまったことへの、激しい悔悟の念で押し潰されていた。妻は怨霊になどなるべき人じゃない。悪いのは自分で、妻が願うなら自分を殺してくれて構わない。男はそうも思った。

 しかし妻の幽霊は、一向に男に手を出すことはしない。それどころか彼女は、男の枕元で呪いの言葉を口にしながらも、さめざめと涙を流している。

 そのさまがまるで何かを惜しんでいるようにも見えた男は、この夜に初めて、起き上がって妻の霊へと質問を投げかけた。

 「おまえ、どうして俺を殺さないんだ」

 妻の霊は、男が自分に話しかけていることに気付くと、雨のように冷たい声で答えた。

 「殺したいけれど、あなたが死にたがっていないから出来ない」

 男は驚いた。確かに、自分は死んでもいいと思っていたからである。妻を醜い怨霊の姿で独りにさせるくらいなら、追い駆けて死ぬべきなのだとさえ考えたこともある。しかし、妻のその言葉は幽霊のものでありながらも、確りとした説得力があった。悔しいことだが、内心ではまだ生きたいと思っているのだろうか。男は首を振った。

 「俺が許せないなら、無理やりにでも殺してくれ」

 妻の霊は驚いたように口を開いた後、目線を逸らして口こぼした。

 「許せないのはあなたじゃない、私自身のことです」

 「なんだって」

 「私、失敗してしまったから。あなたを置いて自分一人で逝ってしまったことが、許せないんです」

 そこまで吐露すると、妻の幽霊は泣き崩れた。

 「もう生活はこれ以上どうしようもないのだから、一緒に死んであげようと思ったんです。あなたが苦しむのを見たくなかったから、せめて最後まで死ぬ怖さを感じずに済むようにと思って」

 妻の幽霊の告白に、男は事故の瞬間の光景を思い出した。

 高速道路で、今日一番に踏み込んだアクセルが戻らなくなったとき、動転する男の肩を助手席から掴んで、妻は優しく語りかけた。

 「私がいますから、大丈夫です」

 その言葉はアクシデントでパニックに陥る自分を落ち着かせる言葉ではなく、これから死ぬことへの恐怖を和らげるためのものであったのだ。

 事故の原因は整備不良などではなく、彼女が車に細工を施していたのだ。男が新しく起こした事業は自動車整備に関係するもので、妻も多少の知識を持ち合わせていた。

 男は妻の幽霊が、自分一人だけ死んでしまったことへの罪悪感で枕元に現れていたのだと理解した。そして男は、不憫な妻の最後の願いを受け入れるべく、幽霊の彼女を抱きしめた。

 「すまなかった」

 「私こそ、ごめんなさい」

 男は静かに倒れて死んだ。その顔はいつものように自信に満ち溢れた表情をしていた。

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