大トリ 萬願亭道楽

 横浜市鶴見区に苦災寺という仏閣がある。中世に光明法師という荒僧が建立したもので、時の政権から『荒ぶる戦いの仏』として手厚い保護を受けていた。ご本尊は不動明王である。この寺の宗派は華麗宗である。そう、あの萬願亭極楽丈が日常という名の僧侶であった時に修行した二王寺が総本山の末寺である。なので昔から萬願亭一門と親交が深い。この寺で道楽が復帰独演会を務めることになった。それはそういった理由からである。

 一時は十代目、萬願亭苦楽を継ぐことになった道楽だったが、襲名独演会に失敗し、継承を辞退、自身二度目の失踪していたが、今回は約半年という短さでの復帰となり、一部では「天才復帰」だの「苦楽の重圧を超え道楽で気楽にやれば、いい落語家になる」という、賞賛の声が上がる一方、「二度も失踪していておめおめと復帰するとはいい面の皮だ」とか「精神力の弱さにより本当の名人とはなりえない」という厳しい意見もあった。それゆえ、大きなホールを避け、五十人入ったら超満員という苦災寺を復帰独演会の場所に選んだのは、今後の試金石としてお誂えの会場であったからだろう。この会、前宣伝は行われず、近所の書店でチケットを手売りする方法がとられたが、インターネット全盛のこの世の中は恐ろしい。道楽の独演会のチケットを販売しますと、書店の店長がツイ●ターに書き込んだだけで、一種の大炎上。朝から問い合わせの電話が鳴り止まず、まだ販売開始まで一週間あるのに書店前にビニールシートやゴザを敷いて待つ人の行列が出来たりして大騒ぎ。販売当日には、チケットは五分で売り切れた。散々だったのは書店の店長で、「もう道楽さんのチケットには関わりたくない」と泣き言をツイ●ターに書き込み、またもや大炎上し、批判を浴びた。ついに店長「ツイ●ターはやめます。フェイス●ックにします」と宣言し、ようやく事態は沈静化した。(でも店長さん、自分のチケットはちゃっかり確保していたそうである)


 さて、独演会当日。この日まで家に籠って稽古に励んでいた道楽は、あのひどい不眠症も治って、すっきりとした朝を迎えていた。

「ああ、やっと落ち着いて落語が出来る」

 と独り言をつぶやいていると、

「落伍しなけりゃいいけどね」

 とスジャータが嫌味を言った。

「やなこと言いますねえ。こういう時は奥さんは三つ指ついて『頑張ってくださいませ』とか言うもんじゃありませんか」

 道楽が文句を言うと、

「どこの時代錯誤だよ。三つ指つくのは腕立て伏せの時だよ。親指、人差し指、中指」

 と数えながら指をポキポキ鳴らした。

「これ以上強くなってどうするんですか……まあいいか」

 そういうと道楽は自室に戻って最終稽古を始めた。


 独演会は午後七時からだったが、道楽は午後三時に自称、豪華大マンションを出た。苦災寺の住職が「やじうまが出て、大変なことになるかもしれん。早めにお入りなさい。夕餉はこちらで用意するから」とおっしゃったからだ。当然、神奈川県警鶴見警察署にも届けをちゃんと出している。もしかすると警備をしてもらわなくてはならないかもしれない。準備は用意周到に行わなければいけない。

 家を出て一時間後の午後四時、道楽は苦災寺に到着した。幸いというか期待外れというかやじうまはほとんどいなかった。まあ、それもそうだ。この苦災寺、鶴見の森の中にあって、たどり着くのがとても難しい。若いときから通っている道楽でもよく道を間違える(極度の方向音痴だから当然といえば当然だが)。初めてここに来るお客様は大丈夫なんだろうか。道楽が心配すると、いつの間にか現れた住職、花札任天が道楽の心を見透かしたように「五時になったら小僧たちに道案内させるでのう」とおっしゃった。

「ありがたいことでございます」

 道楽が頭を下げる。

「それより、この満開の桜を見よ」

 そう言われて、道楽は頭を上げた。気付けば季節は春だった。それにしてもなんという美しさだろう。この時のために、桜の木は厳しい冬をじっと耐える。我が身も厳しいことが多かった。しかし、自分は逃げてばかりいた。桜にはなりえない。道楽はそう懺悔した。でもまあいいか。そういう性格だからね。えへへへ。世界に一つだけの花になろう。そう決心した。


 五時半を過ぎると、客席が満員になってきた。そんな中、小さなビデオカメラを持った連中が現れ、

「『ニヤニヤ生放送』なんですけど、今日の独演会、インターネットで生放送させていただきますぅ」

 と言って機材を組み立て始めた。住職からそれを聞いた道楽は、

「聞いてませんけど」

 とやんわりクレームをつけた。すると、

「鎚楽師匠からは了解もらってますぅ」

 と意外な名前を出してきた。そこに張本人、鎚楽が現れ、

「おう、俺が許可出したぜ。萬願亭を世間に出す、いいチャンスだぜ。文句言うな」

 と強引に話を決めてしまったのである。

「随分と商売上手なことです」

 道楽と住職はため息をついた。


 午後六時。道楽は寺が用意してくれた粥を食していた。大量に食べては芸に支障が出る。だからと言って空腹では体力が持たぬ。粥は丁度良い食べ物だった。

「さあ、やりますよ」

 道楽はお茶をすすると、自らに気合を入れた。


 午後七時。住職、任天が本堂に現れ、ざわついていた客席が静まり返る。

住職は「みなさん、こんばんは。今夜は無駄な説法は無用ですな。演者の道楽くんは、ご存知の通り、若くして天才と謳われながら、自分の芸道に迷い、長きにわたり逼塞すること五年。そして萬願亭苦楽の名跡を継ぐというプレッシャーに負け、また失踪するという、劇的な人生を送ってきた人間です。そんな彼が『一生、道楽として芸道に邁進する』と決意しての復活独演会。彼の人生は今日の高座にかかっていると言って過言でない。観客の皆さんも心して、彼の落語を聞いてあげてください」と言って頭を下げた。客席からは拍手が起こる。そして、出囃子が鳴り、萬願亭道楽の登場となる。そのお題は、古典か? 新作か? めくりが捲られる。そこには『痩身合戦』と書かれていた。

 客席では「聞いたことあるか?」「いやあ」「古典かな」と首を傾げる姿が散見される。ソデで見ていた鎚楽は、

「あの馬鹿、新作のネタ下ろしをやるつもりだ。失敗したらどうすんだ」

 と道楽の無謀を罵倒した。そんなことにはお構いなく、道楽登場。座布団に座る。そして深々と一礼をした。


 えー、馬鹿な男が再び戻って参りました。まず、そのことを笑ってやってください。甘んじて受け止めます。でもわたくしも噺家の端くれ。笑われてばかりじゃあいけません。笑われるのではなくて人を笑わせるのがわたくしのお仕事。今夜は精一杯皆様に笑っていただけるよう勤めます。


 さて、いつの世にもデブってものは絶えません。殊に徳川の御代もダラダラと泰平が続きますと、荒ぶる心を持つはずの武士たちも安穏とした生活にすっかり己の本分を忘れ、旗本、御家人、果ては諸国の大名連中までもが堕落して酒池肉林、遊興の限りを尽くし出しました。そんな姿に業を煮やし、何人かの時の施政者は思い切った改革、倹約令を出して引き締めを図ろうとしました。享保の改革しかり、寛政の改革しかり、天保の改革しかり。しかしながらそれらは一時的にしか成果をあげることが出来ず、結局は施政者自身の身を滅ぼすこととなり、またまた武士たちは快楽の道、堕落の道へと進んでいくのでございます。それは徳川吉宗の死後、田沼意次が台頭し、松平忠信の老中退職後、徳川家斉が将軍となり、水野忠邦失脚後、程なく幕府自体が潰れてしまうという歴史的事実が証明しています。なんてことは高校の山川出版社の日本史の教科書に任せまして、要するにわたくしの言いたいことは人間の欲望は際限がなくて、一度ドツボにはまっちゃうとさあ大変、行きつくとこまでいっちゃうのねっていうことでございます。ああ、なんとも抑えの効かないのが人間です。その中でも食欲というのは特に抑えが効きません。あと一口、あと一個と甘いものやらしょっぱいものやら食べて食べて食べ尽くす。気が付けば立派な成人病。今の世ならば病院で検査すれば、やれ血糖値が高いだの、悪玉コレステロールの値が高いなど、治療の指針がございますが、江戸の時代はそんなのありませんから、自制なんてことは出来ません。堕落の果ては奈落の底まで続きます。そんな、堕落の象徴のような殿様がこの話の主人公でございます。

 殿様の名前は富永相模守堅太(とみなが・さがみのかみ・かたふと)。武蔵国長津田領十六万石の譜代大名でございます。もともと富永家は代々幕府の金銭出納を承っていました。しかし、殿様は幼少より算術が苦手で、いつも金銭に損失が出るために金銭出納の役に任ぜられずに、江戸城紅葉山文庫で図書の管理を行っていました。その仕事ぶりは評判が高くて、図書の在庫を聞かれると必ず「無につき取寄せ」としか返答せず、他の者が後で探すと大抵あったそうです。仕事ぶりの評判が高かったのは悪評の方だったんですね。しかし、なぜか時の将軍に寵愛されて出世は早く、十五歳で兄の死を受け富永家を相続、最初の官職『丹後守』を名乗り大名となります。その頃より、今で言うストレスから来る、過食症の症状が現れて、その年のお彼岸に江戸城中で開かれた『大名対抗おはぎ大食い大会』で百八個のおはぎを平らげ、将軍よりお褒めの言葉を授かったそうです。でも殿様にとってはそんなこと朝飯前のことでした。いつも江戸屋敷から他の大名の十倍もの弁当を持参しているのにもかかわらず、それでも食い足りずに、江戸城の台所に忍び込んで、おこぼれを頂戴していたので、殿様のことを『天下の御台所』と呼ぶものもいたそうです。可哀想なのは弁当を作る富永家の勝手方で、毎朝、豆腐屋より早く起きて弁当を作っていたようで、担当の家老はすぐ過労死したそうです。また弁当も十人前となると一人では城中に運びきれず、いつも五人の従者が弁当を背負って登城するのでこれを『長津田候の弁当行列』と言って嘲笑うものもいたそうです。

 このような食生活の乱れから殿様は過食症から巨食症と悪化して、見るも無残にぶくぶくと太り出してしまいました。しかも格好悪い下っ腹太りです。日に日に太る殿様を見て、病弱で有名な新井注石は「蒲柳の質は秋が来れば葉が落ち、富永丹後の下っ腹はますます太るでしょう」と自らの貧弱な体と、殿様の太々しい体を比較して嘆いたということです。

 こうして、丸々と太った殿様を見て、江戸城中では、その官職をもじって『富永団子守』と呼ぶものが出てきました。さすがに殿様はこれにショックを受け、官職の変更を将軍に願い出ます。哀れに思った将軍は、朝廷に上奏して新たな官職をいただきました。『相模守』です。そう、富永相模守の誕生です。しかし、しかしです。今度は城中で殿様のことを『富永相撲すもう守』と呼ぶのが流行しました。今度も激しくショックを受けた殿様は、将軍にふたたびの官職変更を直訴しましたが、さすがの将軍もこれを退けました。自業自得ですな。

 ここに至って殿様は決意します。『痩せてやる』と。ついに、殿様、富永相模守の熱く過酷な痩身への道が始まったのであります。


 殿様はまず、今、江戸や大坂で流行りの『雷雑風らいざっぷう』という痩身道場に通うことにしました。入会金三十両という高額ですが実績が瓦版に乗っていて、殿様と並んで肥満で有名な竹内修理之介が半年で二十貫も痩せたという話を聞いて、いてもたってもいられなかったのです。早速、鍛錬に入ると、まず殿様の食生活についての聞き取りがご教授の方からありました。

「殿様が一日にどれだけのものを召し上がりになるのか伺います。まずは朝餉には何を召し上がりになりますか?」

「そうじゃのう、白飯を十杯は食ったかのう」

 それを聞いたご教授の方は青ざめました。

「殿様、白飯は糖質と言って、太る元凶だと言われております。十杯は論外です。理想は一杯を少なめに盛って食すがよろしいかと」

 それを聞いた殿様は激怒した。

「白飯をたらふく食わねば、政務に支障をきたす。考え直されよ!」

 ご教授の方は困ってしまって、

「せめて玄米になされたら」

 とアドバイスしました。しかし、殿様は、

「玄米だと。鶏の餌を余に食せというか」

 とまた怒ってしまいました。

 ご教授の方は心底困ってしまい、質問を変えました。

「主菜は何をお召し上がりでしょう?」

 殿様は答えました。

「実はな、あまり公にはできぬが薩摩の黒豚を焼いて食しておる。脂が乗って美味じゃぞ」

 ご教授の方はのけぞりました。

「豚肉はご禁制でございますよ。それに、豚肉の脂は脂質と言って肥満の原因でございます」

 それを聞いて三たび怒る殿様。

「薩摩の黒豚は水戸徳川家から送られてくるのじゃ。水戸公も好んで食している! それに、余の正妻は水戸の出じゃ、付き合いというものがあるから、黒豚の搬入を取りやめることは出来ぬ」

「困りましたねえ。殿様の今の食生活を変えられなければ、当道場では殿様の減量をお助けすることは出来ません。入会金はお戻ししますから、お引き取りください」

 ご教授の方はすっかり諦めて、殿様に言いました。それはそうですね。『雷雑風』は信用商売。痩せられぬ会員などいらないのです。

「ふん、わかったわい。余は『雷雑風』になど金輪際入らぬ。ここも所詮、都合のいい瓦版広告を出して儲けておるのだな。公正取引委員会に訴えてやる。けしからん」

 そう怒鳴ると、殿様は道場を出られました。


 続いて殿様が訪ねられたのは、運動道場の『黄金道場』でした。

「食事で痩せるなど言語道断。余は運動で痩せる」

 殿様は張り切って道場の門を叩きました。

 道場は筋骨隆々のお方で、いっぱいでございました。その方たちが下っ腹太りの殿様を見て、失笑しています。獅子の中にいる一匹の豚。食べられないのが不思議な有り様であります。しかし、神経も極太の殿様はそんな周囲の奇異の目を気にすることなく運動器具に挑みます。まずは、目の前にある器械に向かいます。

「何々、足漕ぎ水車健康器具とな。どうやってやるのだ。おっ、説明書きがあるじゃないか。まず、器械の腰掛に座り、左右の把手を交互に足で漕ぎ回すじゃと、やってみるか……なんじゃ」

 殿様は思わず叫びました。なんと足が短くて把手に届かないではありませんか。

「ご教授の方、ご教授の方」

 殿様は今で言う、インストラクターを呼ばれました。

「すまぬがもう少し小型のものはあるか」

 殿様が尋ねられると、インストラクターは笑いをかみ殺し、

「殿様、これは一番小さい子供用でございます」

 と言いました。

「そうか、では余の出来そうなものはないかね」

「そうですねえ。あっ、あれなどはいかがでございます」

 と、インストラクターが指差したのは『その場で足踏み健康器具』でございました。

「おう、それをやろう」

 殿様は早速『その場で足踏み健康器具』を始めます。

「わあ、簡単じゃ。愉快、愉快、ゆか……い、痛、痛たたた」

 なんと軽快に『その場で足踏み健康器具』をやっていた殿様でしたが、肝心の器械が殿様の体重を支えきれずに真っ二つに割れてしまったのです。

「な、なんじゃ」

 と尻餅をつく殿様。

「ご教授の方。ご教授の方」

 とインストラクターを呼びます。相変わらず、笑いをこらえてインストラクターがやってきます。

「壊れてしもうた」

 殿様が惚けた声で言います。

「殿様、この器械は九十貫目まで支えられます。もしや殿様は百貫デブ……」

「い、いや、余は九十一貫じゃ一貫目のオーバーじゃな」

 思わず、オーバーなんてメリケン言葉を使ってしまうところに心の動揺が見受けられる殿様。

「はあ、本当でございますか?」

 インストラクターの疑惑の目。

「何を疑う。ああ、余はもう器械を使った運動は嫌じゃ。そうだ羽子板はないか。あれなら昌平坂の学問所にいた折から放課後にやっておったわ。主将であったぞ」

 無理を言う殿様。それに対してインストラクターは、

「羽子板はございませんが似たようなものならございます」

 と答えました。

「何じゃ、あるならそう言え。どんなものじゃ」

「はい。『狭いお部屋で黒球打ち合い』というものでございます。こちらの特殊ギヤマン張りの部屋の中で、この網付き杓文字で小さな黒球を壁に打ち付けて一回跳ねた球を打ち返せば良し、二回跳ねるまでに打てなければ駄目という運動でございます」

「おお、それをやろう」

 殿様は張り切って『狭いお部屋で黒球打ち合い』をインストラクターと始めました。さすがは元羽根つき部主将、お杓文字さばきも鮮やかに、インストラクターと黒球を打ち合います。しかし、数回もやらないうちに、

「はあ、もう疲れた。一風呂浴びて酒じゃ、酒じゃ。冷酒が良い」

 とバテてしまってすぐに止めてしまいました。そして烏の行水、あっという間に風呂から上がると、

「ご教授の方、ご教授の方」

 とインストラクターを呼び、

「誰か酌などしてくれる若後家はおらぬかな」

 と臆面もなく言い放ちました。さすがのインストラクターもこれには呆れ、

「そちらのご面倒は承りかねます」

 とあっさり断ってしまいました。

「つまらんのう」

 殿様は不満顔で言いました。のん気なものです。これですっかりやる気がなくなった殿様は『黄金道場』行きを一回で止めてしまいました。入会金五十両です。もったいない、もったいない。ちなみに目方の方は酒を飲んだ分五貫増えてしまいました。全く駄目な殿様でございますね。

 すると、その窮状を見かねた、家老の神野主膳が、

「殿様は、本当に痩せるおつもりがおありか」

 と尋ねます。

「うぬ、あるにはある。しかし、その方法がわからぬ」

 殿様は不貞腐ります。

「ならば、それがしが良い方法をお探しいたします」

 主膳が言上しました。

「おう、そうか」

 殿様は機嫌を直しました。

「よき手立てを見つけて参れ。それなら余は痩せるぞ」

 殿様は宣言いたします


 神野主膳は情報を仕入れようと草紙屋、今で言う本屋さんに行きます。インターネットなんてなかった時代ですから足で情報を探さねばなりません。

「主人はいるか」

 主膳は草紙屋の亭主を呼びます。

「はいはい、毎度おおきに」

「うぬ、実は痩せるための指南書を探しているのだが、そんなものあるか」

 主膳が尋ねますと、

「ええ、ぎょうさんありますよ。何せ、空前の痩身ばやりですから」

 と主人が答えます。

「そうなのか」

 主膳がつぶやきますと、

「へえ、地方の貧農は知りませんが、この江戸では、下は商家の娘さんやらおかみさん。上は大名の御正室さままで、そりゃあ大流行でございます」

 と草紙屋の亭主が申します。殿様だけでなく江戸の人々は飽食していたんですな。

「女子ばかりだのう」

 主膳が聞きますと、

「そりゃあ、お武家さま、男が太るのは恥でございますから、表立って指南書を求めたりしません。ああ、相撲の殿様ならお求めになるかもしれませんねえ」

「相撲の殿様?」

「ええ、長津田の相模守さまですよ。なんだか城内では相撲守さまとからかわれておいでのようで」

 主膳は赤面しました。

「どうなさいました?」

 亭主が尋ねますと、

「いや、なんでも」

 と言って、主膳は咳払いをしました。照れ隠しですな。

「まあいい、人気のものを幾つか見繕ってくれるか」

「へい。しかし、お武家さまは痩せてらっしゃる。どなたかの頼まれものですか?」

「そ、そうだ。奥の御女中にな」

 主膳は冷や汗をかきました。相撲の殿様が痩身の指南書を買ったとなれば、またしてもからかいの火種になるでしょうからね。

 とにかく、主膳は痩せるための本を何冊かあつらえてもらい、屋敷に戻り、研究を始めました。

「まずはどれから読もうか」

 迷いました主膳は一番難しそうな、『日本痩身道概説』という分厚い書物を手に取りました。その内容は……。

 『そもそも、痩身の術は神代の頃より起こりしものにて、かの天照大神も節制に努め、下って、邪馬台国の卑弥呼も時には絶食してまで己の体型を守ったという云々』

「こりゃ、駄目だ。頭が痛くなる」

 主膳は『日本痩身道概説』を投げ捨てました。こんな歴史の話を読まされては主膳が痩せてしまいます。

「こんなのじゃなくて、実践的なものはないのか」

 主膳は指南書をあさります。

「これなんかどうであろう」

 と取ったのは、『記録付け痩身術』というものでございました。

「何々、自分が毎回食したものを帳面に細かく記録付けする。そうすると自然に痩せられる云々だと。これは簡単だ。しかし殿様はものぐさだからなあ。それに一食にたくさんものを食べられるから、一回で帳面がいっぱいになってしまうなあ」

 主膳は熟考して、これを退けました。

「次は、これだ」

 続いて主膳が選んだのは『食す順番痩身術』。

「ええと、まず、食事の最初には野菜を食べるべし。続いて、豆腐、魚などを食す。飯は最後に食すべし云々」

 へーっと、主膳は感心しました。食事で食べる順番を考えるだけで痩せられるのかと。しかし、

「ああ、駄目だ。殿様は野菜が大っ嫌いだった。それに薩摩の黒豚を焼いたものを飯に乗せて食べるのが何よりのごちそうだからな」

 これも主膳は却下します。

「それから、これは」

 と主膳が手に取ったのは『ヤシの実油痩身術』というものでした。

「ヤシの実ってご禁制の品だろ。駄目駄目」

 ぽいっと主膳は『ヤシの実油痩身術』を投げ捨てました。時代が少し早すぎたようでございます。

「どれもうちの殿様には向かないものばかりだな」

 主膳はがっくりとして畳に転がります。そしてしばらく瞑想しました。思考が迷走した時の彼の癖なんでございます。すると、

「そうだ、腰元らに今はやりの痩身術を聞いて回ればいいんだ」

 主膳は飛び起きて屋敷内を腰元求めて歩き回りました。しかし、物事そう簡単には行きません。若い腰元たちは「わたくし、痩身術などしておりません」と言って逃げ回ったり、「主膳どの、何を失礼な」と怒り出すものも出る始末。調査は一向に進みませんでした。そんな時、『ドシン、ドシン』と大きな音がして主膳は「地震か?」と身構えましたが、違います。殿様の正室、泉姫のおなりなのです。この泉姫は水戸徳川家の出身で通称水戸泉と呼ばれています。その特徴は殿様より太った二百貫デブということでございます。なので姫が屋敷内を歩くと、先ほどのような地響きが起きるのです。姫自身もそのことを自覚して、なるべく部屋から出ないようにしています。なのでなおさら太ります。そのために日夜痩身術に……あっ、ここに痩身術に精通した方がいらっしゃいました。主膳は気が付きますと、姫の面前に控えます。

「主膳、励んでおるか」

 姫が主膳を見つけて声を掛けてきました。主膳はこれ幸いと、

「姫、それがし殿様のために日夜努めております。今もそのことで、屋敷中を駆け回っておりました。それというのも、殿様の痩身のことでございます。聞けば姫は様々な痩身術に長けておるとか。どうかそれがしにお薦めの痩身術をお教えください」

 平伏する主膳。

「うぬ、本来なら無礼な質問と打ち捨てるところだが、他でもない、殿様のため。主膳教えてしんぜよう。まずは江戸、神田神保町の羽沢式部がなす発散痩身流。それに小田原の住人、編傘九斎がなす赤貧痩身流。この二つが今、見所のある痩身術じゃ」

 そう言うと泉姫は『ドシン、ドシン』と振動を震わせて去って行きました。


 姫より有益な情報を仕入れた神野主膳は様子を探ろうとて、神田神保町の羽沢式部の屋敷を訪ねてみることにいたしました。屋敷が近づくにつれ、人だかりができております。「なんだろう」と主膳が人だかりによって行きますと、線香の香りが漂います。主膳は横にいた男に、

「一体、何があったのじゃ」

 と尋ねますと、

「式部先生がお亡くなりになったんだよ」

 との返事。

「なにっ!」

 と屋敷に入ると、白い布を被されたご遺骸が一つ、布団に寝かされております。

「遅かったか!」

 主膳が歯噛みしますと、ご遺骸の横に座っていた若侍が、

「どなたです?」

 と主膳に話しかけてまいります。

「それがし、富永相模守の家臣、神野主膳と申す。羽沢先生に痩身のことでご相談があってまかりこしたのだが、この有様。引き返した方がよろしいかな」

 と主膳、暇を請いますが、若侍は、

「いや、それならばわたくしが式部の跡目を注ぎましたゆえ、少しの時間でしたら、お伺いをいたしましょう。申し遅れましたが、わたくし、発散痩身流、二代目、石垣京太郎でござる」

 と名乗りました。よくできた若者のようです。

「では伺おう。発散痩身流とはいかなる、痩身術でござるか」

 主膳が問いますと、

「はい、簡単に申しあげますなら、自然の中でゆっくりと心と体を動かし、のんびりゆるりと痩身してゆく技でございます」

 京太郎が答えました。

「過度な運動などはないのだな?」

「はい。のんびりゆるりでございます」

「そうか。では後日ゆっくりと話を聞こう。本日は多忙の中、失礼いたした」

 主膳は礼を言うと屋敷に戻りました。その道すがら、

「発散痩身流、いいぞ。しかし、赤貧痩身流も一応調べてみなくては」

 と独り言をしまして、屋敷に戻りました。

 帰邸するや否や、主膳は小田原の編笠九斎に書状をしたためました。赤貧痩身流とはいかなる痩身術かということです。

 しばらくして、返書が届きました。

『我が赤貧痩身流とは、適正な食事制限をすることによって、体内の悪しき物体を体外に放出し、健康と痩身を可能にした、合理的手法である』

 返書にはそう書かれていました。

「食事制限かあ。すると殿様には無理だなあ」

 主膳が考えておりますと、

「御家老様、玄関に編笠九斎と申す男が、取り次ぎを願っております」

 と家臣が言ってきます。なんと編笠九斎、頼みもしないのに小田原からひょこひょこやって来てしまったのでございます。

「困った御仁じゃ、なんで勝手に来る」

 主膳、憤慨しながら、家来に部屋に連れてくるよう命じますと、編笠九斎が現れます。そして、

「書状を見まして拙者、すべてを察しました。相模守さまに痩身の志あると。ゆえに拙者、小田原より、急ぎまかり越しましたぞ。感謝してくだされ、主膳どの」

 九斎、ヌケヌケと申し上げます。

「厚かましい男じゃの。九斎どの、それがしはそなたを殿様の痩身指南役に指名したわけではないぞ。他にも候補がある」

「ほう、どこの流派ですかな?」

「それは言えん」

「イケズですな」

「うるさい」

 そうした問答が続いていると、家臣がまた現れまして、

「客人の連れが見えております」

 と伝えてきます。

「仕方ない。通せ」

 主膳が許すと、入ってきたのはこの世の者とは思えぬ、絶世の美女。主膳はこれにはびっくりいたしまして、

「ご息女か?」

 と尋ねました。

「いいえ」

「まさか御妻女?」

「いいえ」

「じゃあ、なんじゃ」

「この、おすみこそ、我が赤貧痩身流の奥義中の奥義でございます」

「どういうことじゃ」

「それは拙者を痩身指南役にしていただけたらわかります」

「そなたもイケズじゃな」

 主膳は言いました。

「仕方ない。せっかく小田原から来てくれたのじゃ、そう邪険にも扱えまい。どうだ、もう一方の候補と痩身術の対決をして、殿様のお眼鏡にかなった方が痩身指南役になるというのは」

「願ってもないこと」

「ならば、相手にも伝えねばならぬからしばらく、この屋敷におられよ」

「かしこまりました」

「誰か、誰かある。この者どもを一番奥の客間に案内せよ」

 主膳は家臣に命令しますと、九斎に、

「くれぐれも殿様と顔を合わせぬように。部屋にじっとしておれ」

 と命じました。

 九斎一行が消えますと、主膳は神田神保町の石垣京太郎に人を遣りまして、屋敷に招き入れました。

「どうじゃ、落ち着いたか?」

 主膳が尋ねます。

「いえ、まだばたついております」

 京太郎は答えました。

「そんな時に悪いが、殿様の痩身指南役を選ばねばならなくてのう」

「はっ、喜んで」

「早とちりしないでくれ。まだ其方に決めたわけではない。もう一人、候補がいてのう。それと痩身術の対決をして欲しい。勝った方が痩身指南役となる」

「はあ、してその相手は?」

「当日まで内緒ということにして欲しい」

「そうですか」

「で、対決の場所なんだが、この江戸で殿様の痩身指南など選んだのが世間に知れたら、またまた殿様がからかいの対象になってしまうでの。領国の長津田にある殿様の別邸、『御石荘おいしそう』まで来てくれ。期日は一月のちじゃ」

「はっ」

 頭を下げると京太郎は帰って行きました。京太郎が帰ると主膳は、

「九斎!」

 と声を荒げました。襖の向こうに九斎がいました。

「お主、覗き見をしていたであろう」

 主膳は怒ります。

「いえいえ、たまたま厠に行っていただけですよ」

「嘘つけ。まあいい、期日を聞いたな。一月のちじゃ。準備せい」

「はい。ではこれから早速、まいります」

「えっ? もう行くのか」

「先んずれば人を制すと申します。それにあんな若造にこの九斎が負けるわけにはまいりません」

「なんだ、やっぱり覗いていたのではないか!」

「いえいえ、たまたま目に入っただけ。それよりもお願いがございます」

「なんじゃ」

「領国の調査などしたいので、『領国勝手自由』の鑑札をいただきとうございます」

「なんでそんなものが必要なのじゃ?」

「はい、領国内の清水、山菜や茸などの自生食物や田畑の様子など、こと細かく調べねばなりません。なにせ、我が流派は、口に入れるものが大事ですから」

「ほう、たまにはまともなことも言うのだな。よし、許可しよう」

「ありがたき幸せ」

「じゃあな、良しなに頼むぞ。くれぐれも卑怯な真似はせぬように」

「拙者はいつも真剣でございます」

 そう言うと九斎は部屋を出て行きました。九斎がいなくなると、主膳は殿様に状況説明に向かいます。

「おお主膳、余を長いこと待たしたな。余りに待たすので余はこの落語にもう登場しないのかと思ったわ」

「何のことでしょう?」

「まあ良い。それで痩身の先生は決まったのか?」

「はい、様々な情報から、二人の痩身師まで絞り込みました。発散痩身流の羽沢式部の高弟、石垣京太郎と赤貧痩身流の編笠九斎というものでございます」

「ほう」

「この二人を一月後、長津田の別邸『御石荘』に揃え、痩身対決をさせます。その勝者が殿様の痩身指南役となります。殿様には対決の審査委員長をやっていただきます。決めるのはあくまで殿様だということです」

「責任重大よの。余は正直どっちでもいいんだが」

「殿様! 今度の対決は殿様の体調管理のために開かれるものです。その張本人が、そんな投げやりな気持ちでは困ります。この勝負、剣客ならば真剣勝負ですぞ」

 主膳は万事いい加減な富永相模守に諫言しました。

「そうか、すまぬの」

 殿様は素直に謝りました。

「では、余も対決に参加するため、幕府に帰城届けを出さねばいかんな」

「そちらの手配はもう済んでおります」

「さすが、智慧者主膳。用意がいいな」

「恐れ入ります」

 こうして場面は痩身対決の場所、長津田の富永相模守の別邸、『御石荘』に移るのでございます。


 さて、早々に長津田領に着いた編笠九斎は、『御石荘』に我が物顔で棲みつき、富永家の家臣を下僕のように使います。「貴様は何なんだ!」と怒る家臣に、『領内勝手自由』の鑑札を見せつけ、

「拙者に逆らうと家老の主膳さまからお咎めを受けるぞ」

 と脅し付けてぐうの音も言わせません。まるで自分が殿様になったような様子です。それは領民に対しても同様で、あまりの傲慢さに、「あの者は一体何者なんじゃ?」「なんでも殿様の痩身指南の候補らしいぞ」「殿様の家の方は皆、お優しいのに、あんなのが、のさばったら暮らしにくくなるのう」と領民は怯え、「もう一人の候補があんな者でなければいいが」「いや、きっといい人に違いあるまい」とまだ見ぬ、もう一人の指南候補、石垣京太郎の人気が勝手に上がって行きました。しかし京太郎、師匠、式部の死の後始末に忙しいのか一向に姿を現しません。その間、九斎はつけ上がり、手のつけようもなく横暴を極めておりました。しかし、その職務には忠実で、領内の湧き水、作物の調べは厳重にしております。そこはさすがに一家言ある者の矜持でありましょうか。

 やがて、期日まで十日を切り、殿様、富永相模守と家老、神野主膳が長津田に下ってまいりました。家臣は口々に九斎の所業を主膳に訴えます。

「なんと、仕様のない輩だ」

 主膳は怒り、九斎を呼びつけ、

「お主に『領内勝手自由』の鑑札を渡したのはそれがしの不覚であった。すぐ返上せよ」

 と命じました。

「これは異なことをおっしゃられます。拙者が『領内勝手自由』の鑑札をいただきましたのは殿様の痩身をお助けする調べのため。しかし、返せと申されるならお返ししましょう。調べはもう終わりましたから」

 と九斎はあっさり『領内勝手自由』の鑑札を返上しますと、以後は『御石荘』の一室に籠り、全く出て参らぬようになりました。

「さて京太郎はどうしたものだろう」

 主膳は思いました。対決の刻限まであと二日。一向に参る気配がありません。

「あの若輩では老獪な九斎には勝てぬと見て、逃げたか?」

 そうすると、九斎を指南役にせねばならぬと、主膳は暗い気持ちになりました。主膳は今回のことですっかり京太郎贔屓になっていました。果たして京太郎はいかに?

 ご安心ください。京太郎はすでに長津田領に入っておりました。では、なぜに『御石荘』に行かないのでしょう。それは京太郎が領内を調査して歩いていたからであります。そのあたりは九斎と同じです。調査することで、長津田の高低差や川の流れを見て、歩きやすさを調べていたのであります。発散痩身流は自然に触れ、自然の中をのんびりゆっくり歩いて痩身するのが基本。そのための調べを綿密に行っていたのであります。しかし、のんびりが過ぎました。対決の刻限まであと数刻を切っています。

「あっ、いけない。調べに没頭して刻限を忘れていた。急いで行かねば」

 慌てて、京太郎は走り出します。急いで急いで! 遅刻したら九斎の勝ちになってしまいますよ。


 その頃、『御石荘』の門前には領民たちが大勢集まってきておりました。皆、まだ見ぬ石垣京太郎を応援しようと待っているのです。それほど、編傘九斎は嫌われてしまったのですな。当然といえば当然ですが。やがて門番が、

「まもなく、刻限」

 と叫び、領民たちが神や仏に祈りだした時、

「お待たせしましたあ」

 と京太郎が全速力で走ってきました。

「発散痩身流、石垣京太郎、見参いたしました」

 大音声で叫びます。

「わあ」「やった」「負けないで」

 領民が声援をあげます。

「ありがとう、ありがとう」

 京太郎は一人一人に握手して回ります。なんかヒーロー気取りです。

「石垣どの」

 門番が釘を差します。

「刻限、過ぎてますよ」

「えっ? 不覚。わたくしの不戦敗ですか?」

 地に膝をつく、京太郎。

「いや、大目に見ますよ。あの憎たらしい、編傘九斎を倒して下さい」

「はい」

 京太郎が頷くと、門番が、

「石垣京太郎どの、刻限ちょうどに到着!」

 と大声で皆に知らせました。


「頼もう」

 玄関で京太郎が案内を請うと、

「いらっしゃい」

 と一人の老人が迎え入れました。

「ささ、どうぞ」

 先導する老人。居間に誘います。

「お座りあれ」

「はい」

 京太郎が着席しますと、老人は向かいに着席します。

(この方は誰であろう?)

 と京太郎が訝しがりますと、

「こんにちは。拙者、赤貧痩身流、編傘九斎と申す。良しなに」

 老人は九斎だったのです。その顔を知らない京太郎はびっくりしました。

「では、わたくしのお相手の」

「そうじゃ」

「では、わたくしが発散痩身流、羽沢式部が弟子、石垣京太郎でございます」

 慌てて、京太郎も名乗りを上げました。立会人も仲介人もなく、対決する二人がいきなり二人っきりで対面してしまいました。これは九斎の作戦でした。こうすれば、動揺するのは京太郎の方。心理面で九斎がかなり有利になりました。小狡い作戦です。そこに、

「両名、挨拶はならん!」

 と神野主膳が慌てて駆けつけました。

「石垣どのはあちらへ、誰か、ご案内せよ……九斎! やりおったな」

 主膳は怒りました。しかし九斎は、

「何のことでしょう。たまたま厠に行こうとしたら玄関から案内を請う声がしたので行ってみたら、ご家中のものこれなく、客人だけが所在なく立っていたので案内したまで。まさか拙者も客人が対戦相手とは思いもよらず冷や汗をかきました。主膳どのは拙者をお怒りですが、怒るべきは玄関を不在にしたご家中の者でありましょう」

 とヌケヌケと言いました。

「それは、そうだが……誰じゃ、玄関から離れたのは?」

 主膳が怒鳴りました。すると家中の者の一人が、

「玄関の守りを離れたのは私ですが、ちょうどあの時、おすみどのが玄関で腹痛を起こして苦しがっていたので典医どののところまでお連れしたため、不在にしました」

 と申し出ました。

「おすみ? 九斎のところのか」

「はい」

「うぬぬ」

 主膳が歯噛みしますと、

「病気の救護なら仕方ありませぬな」

 九斎がもっともだという顔をして言いました。主膳は何も言い返せないのでした。


 さて、しばらくして富永相模守が『御石荘』に姿を現しました。神野主膳も一緒です。ようやく今回の痩身対決が始まるのでございます。主膳がその場を取り仕切ります。

「これより殿様の痩身指南役を決める問答試合を行います。左におりますは、赤貧痩身流編傘九斎。右におりますは発散痩身流二代目石垣京太郎であります。両者正々堂々戦われんことを望みます。では勝負の前に殿様より一言」

 すると殿様は、

「やあ」

 とだけ言いました。ずっこける一同。

「殿様、もう少し、励ましのお言葉を」

 主膳がたしなめます。

「そうか一言というから口を動かすのも面倒だったゆえ、略したが、それではいかんとな。では真面目に行こう。余は痩身して野性的で魅力的よと、世の御女中にちやほやされるような肉体を欲しておる……」

 そこまで殿様が言うと、真っ赤な顔をして主膳が殿様の口を塞ぎました。

「もう、結構でございます。では両人に三つの問題を出す。半刻の猶予を与えるので、その間に回答を出して欲しい」

 主膳はそう言いますと、大きな紙を掲げました。それには、

 

 一、痩身するのに食事制限はするべきか否か

 二、痩身するのに水分はとるべきか否か

 三、痩身に運動は必要か否か


 と書かれていました。

「では両人、考えませ。時間まで散会!」

 主膳が叫びます。

 

 さて、観客の皆様も喉が渇いたり、お手洗いに行かれたい方もいらっしゃるでしょう。ここで十分ほど休憩といたしましょう。そう言うと、道楽は一礼し、高座からはけた。ソデにいたのは住職と小僧が一人、それから鎚楽がいた。道楽は小僧からタオルと、ペットボトルのスポーツ飲料を受け取ると、汗を拭き、喉を潤した。それを待ちかねたように、鎚楽が道楽に話しかけた。

「なあ、道楽。今やってる噺さあ、物語としてはまあまあ、面白いんだけど、落語としては笑える部分がデブの殿様の部分だけで、ちょっと、いや全然足りないんじゃないか?」

 すると、道楽は澄ました顔で、

「そうですよ。今回は物語だけ楽しんでもらう落語という実験的な噺を書いてみました。ここ最近のお笑いや落語家はギャグや一発芸で受けを取っているものが多いですからねえ。ちょっと反抗心でストーリーを愉しむ落語というのを考えてみたんです」

 と語った。

「そんなんだったらさあ、小説でも読めばいいじゃないか」

 鎚楽がいうと、なぜか冷たい風が吹き抜け、一同、白々しい感じになった。なぜであろう。

「さて、後半を始めますか」

 道楽は気合を入れると高座に戻った。


 どうも、皆様お疲れは取れましたか? お手洗いもすみましたか。いいんですよ、まだなら今から行っても。よろしいですか? では後半に参りましょう。


「さて、刻限じゃ。両人とも準備はよろしいか?」

 主膳が問います。

「抜かりなし」

「はい」

 九斎、京太郎が答えます。

「では、どちらから回答を聞き申そうか」

 主膳がまた問いますと、

「では、年長の拙者から」

 と九斎が名乗り出ました。

「よし、では始め」

「はい」

 返事をすると九斎は話し始めました。

「さて、本日はこのような晴れがましい席に於いて、我が赤貧痩身流の理論をご講話させていただき、この九斎まことに嬉しく思います。ひとえにこの場をお与え下さった相模守さま、主膳さまには感謝いたします。では早速ながら先ほどの質問にお答えさせていただきます。まず、一の痩身するのに食事制限はするべきか否かについてでございますが、これは我が流派の持論、それに痩身術の教科書『日本痩身道概説』からも明らかであります。痩身の術は『食を断つ』が基本でございます。もちろん、完全に断ってしまいましたら死んでしまいますから、必要最低限のものを食します。そうしておれば、体に脂肪がつくこともなく、様々な病気を引き起こす悪性の物質を体に取り入れることもなく、健康に過ごすことができます。ゆえに、食事制限は絶対に必要と断言いたします。続いて二の痩身に水分はとるべきか否かについてでございますが、このことについて申し上げますと、もともと人の体の約七割は水分でできております。ということはすでに体内にはたくさんの水分が蓄積されているということでございます。ここで、ある例をお話ししましょう。神代の時代、土地錦という大変に強い力人が東の国に住んでおりました。彼はいつも自分の体重を気にしており、毎日量りに乗って少しでも日頃の体重より重いと『稽古が足りぬ。稽古して悪い汗を出さねば』と言って猛稽古し、逆に体重が少ないと、『稽古のしすぎじゃ。汗の素を体に入れなくては』と言って、酒をたらふく飲んだ、とされています。この話からわかるように『太ったら水分を出す、痩せたら水分をとる』ということが正しい姿勢でございます。ゆえに痩身の際には水分は控えるべきでありましょう。最後に三の痩身に運動は必要か否かについてでございますが、人というものは寝たきりのご病人でもない限り、日常の生活において知らず知らずにたくさん体を動かしているものでございます。何も特別な運動などしなくても、充分運動しているのです。考えてもごらんください。人間というものは動物の一種であります。鹿や虎が運動鍛錬場に通って、体を鍛えたりするでしょうか? いえ、しません。しかし彼らは日頃の生活において充分体を動かし、あのような素晴らしい体を持っております。従って、特別な運動は必要ないと言えるのであります。以上を鑑みまして痩身とは適切な食事制限によって執りおこなうものであると結論付けさせていただきます。ご静聴ありがとうございます」

 九斎が巧みな弁舌を使い問答いたしました。列席した冨永家中の者たちは、「素晴らしい、そして納得がいく」と褒め称えましたが、肝心の殿様は、

「余に食事を減らせというのか。余の唯一の楽しみを奪う気か。それに力人などという者を例に出しおって。力人すなわち相撲取りではないか。余の前で相撲などというとはいい度胸だ!」

 と大層不機嫌でございました。殿様は江戸城中で自分が『相撲守』と陰口を叩かれているので、相撲用語が大嫌いなのでございます。

 殿様の不機嫌に気付いたか否かは分かりませんがここで、主膳が口を出します。

「では続いて、発散痩身流、石垣京太郎どの、問答いたせ」

「はい」

 京太郎が立ち上がります。

「それではわたくし、発散痩身流石垣京太郎、若輩ながら問答仕ります。本来ならば我が師匠、羽沢式部が勤め奉るところではございますが、先日身罷りましたゆえ、亡き師に代わりまして論じさせていただきます。まず、問の一についてでございます。発散痩身流の基本は『運動により体内の過剰物質を発散し、痩身する』というものでございます。運動をすれば当然、お腹が空きます。ゆえに食事は大変重要なのでございます。わたくしどもでは食事において重要なことはその量でなく質であると考えております。しかるに失礼ながら殿様の食事を勝手方より聞きましたところ、豚肉、鶏肉その他獣肉と本来侍が食さないものを食べておられます。しかし、それはそれで構わないのです。南蛮にはそれらを主食としているものもおるそうです。問題なのは、その食べる量、豚一頭に達する勢い。さらに問題なのは、野菜、山菜などを食せず、肉と飯ばかり食していることであります。食事は色で言いますと、赤、緑、黄を偏ることなく頂戴するのが重要と存じます。殿様の食事は赤ばかりで、緑、黄がない。それを改善すれば痩身を健康的に行うことができます。ゆえに、無理な食事制限は不要でございます。続いて問の二についてでございます。先ほど九斎先生が申した通り、人の体の七割は水分でございます。水分は重要なものでございます。ところで殿様の水分摂取を調べてみるに、その多くが酒でございます。酒というのは実は水分ではございません。酒には糖質という栄養素が含まれているのでございます。飯を食べるのと一緒なのでございます。ですので、殿様にはお茶の服用をお勧めいたします。お茶にも種類がございまして、蕎麦茶、どくだみ茶、よもぎ茶などたくさんございます。それらには体内の毒を出すという効能もございます。ですからお茶であれば、制限なく飲んで構わないと思います。最後に問の三でございますが、このことは我が流派の基本中の基本でございます。運動は必要でございます。しかし、皆様は運動ということを誤解しておられる。運動鍛錬場や道場でするのだけが運動ではございません。私はこの対決の前、綿密に領内を歩き回りました。自然が多くてとても素晴らしい場所だと思いました。なぜ、殿様はこの自然を活用しようとなさらないのか。この領内こそ天然の運動場なのです。花見がてらの山を散策するもよし、小川や池で釣りをするのもよし。ましてや水泳などしたら大変な運動量でございます。自然と接し、自然に体を動かす。これこそ最も効果的な運動ではないでしょうか。総括いたしますと、何事も大事なのは、量より質でございます。これにて問答を終わらせていただきます。ありがとうございました」

 京太郎の話は実地に基づいていて分かりやすくて納得のいくものでした。列席の者は九斎の時以上に感心いたしました。殿様も、

「散策や釣りぐらいなら余にもできるわ」

 と納得のご様子。

「これにて問答は終了。結果は明日の辰の刻にこの場所で殿様より言い渡す。これにて今日は散会」

 と主膳が申し上げますと、殿様始め、家中のもの皆、退出いたします。その中、編傘九斎だけが座ったまま、考え込んでおります。その心中は、

(いかん、あの若造をちと甘く見ておったわい)

 と打ち震えておりました。家中のものの多くが京太郎のの勝ちを予想していました。


 その夜更けのことでございます。ここは長津田城、殿様、富永相模守の寝室。

「殿様、殿様」

 と誰かが閉じられた雨戸を叩きます。

「う、うるさいな主膳か。余は眠い。明日にせい」

 殿様は寝言のように言います。しかし外のものは、

「殿様、殿様」

 としつこく雨戸を叩きます。

「な、なんなのじゃ」

 不機嫌になった殿様が、仕方なく起きて雨戸を開けると、そこには編傘九斎が立っておりました。

「きゅ、九斎どうしてここに」

 殿様は動揺します。寝室は天守閣の最上階。九斎は屋根瓦の上に立っているのです。

「ははは、拙者、風魔一族の末裔でございまして」

 と笑います九斎。

「ま、まさか余を暗殺しようというのか」

 殿様が慌てますと、

「そうではございません。殿様に少々お話が」

 と救済が言います。

「ふん、今更何を話されても、余の決心は変わらぬ」

 殺されないと安堵した殿様は大きく出ます。

「まあ、そう言わずに。我が赤貧痩身流の秘中の秘をお目にかけます」

「何じゃ、そんなこと昼間に言え」

 殿様は怒りますが、九斎はひるまず、

「昼間から、大ぴらに言えないのがこの秘中の秘」

 と告げます。

「ならば、申してみい」

 殿様がお許しになりますと、九斎は、

「おすみ、参れ」

 と小田原から来た時からそばに置いているおすみという名の絶世の美女を呼び寄せました。

「殿様この、おすみこそ秘中の秘でございます」

「どういうこと?」

「つまりアレでございます」

「アレ?」

「ナニでございます」

「ナニというとナニか?」

 殿様の鼻息が荒くなりました。

「つまりナニして痩せるというのが我が流派の秘中の秘でございます」

「ま、誠か。そんなことができるのか。なぜ、もっと早く言わん」

 殿様の鼻の下はビローンチョと垂れ下がっています。

「ですから真昼間から言えないのがこの奥義の難点で」

「もう御託は良い。いやはやウハウハじゃのう」

 殿様大喜び。

「では年寄りはこれにて失礼いたします。ごゆっくりお楽しみを」

「おう!」

「殿様、明日は良しなにお頼みします」

「任せとけ、ジジイは早く行け!」

「では」

 夜の帳は静かに降りて行きました。


さて、夜が明けて冨永家痩身指南の師範決定の時を迎えました。家中のものも、昨日の問答の噂を聞いた領民たちも、石垣京太郎の勝利を疑っておりません。ここ『御石荘』大広間には家老の神野主膳と京太郎がすでに待機しております。京太郎の顔は自信に満ち溢れ晴れやかな表情を見せております。そこへ、編笠九斎がとぼとぼ入室してきます。

「おはようございます」

 と京太郎が元気よく挨拶をしても、

「やあ」

 と憔悴しきって返事をします九斎。もう自分の負けを認めたように見えます。

「さて、揃ったな。あ、いや肝心の殿様がみえていない」

 主膳が困った顔をします。

「どうしたのやら」

 主膳が思案していると、

「殿様の、おなり〜」

 と声がして、殿様、富永相模守が大広間に現れます。その姿、髷は明後日の方向を向き、着物は襦袢姿、そしてとても眠そうな顔をしております。とても人前に出せる面ではありません。

「殿様、いかがなされた」

 と主膳が聞くと、

「あっ? ええと、昨夜はこの対決の結果を考えて、良く眠れなかったのじゃ」

 殿様は上目遣いにそう言いました。

「では、その熟考の結果を」

 主膳が催促しますと、

「ああ、今回の勝者は赤貧痩身流の編笠九斎じゃ。理由は聞くな。余は眠い。これにて散会!」

 殿様はそう言うと、大広間から出て行こうとしました。唖然とする、一同。

「お、お待ち下さい!」

 京太郎が殿様に詰め寄ろうとすると、

「この慮外者!」

 九斎がさっきまでと打って変わって大きな声で叫び、京太郎を抑え込もうといたします。そのもみ合いの最中、京太郎は態勢を崩し、『ガツーン』と大広間の大黒柱に頭を強烈に打ち付けてしまいました。

「はんにゃばらはら」

 意味不明な言葉を発する、京太郎。それを寝ぼけ眼で見つめた殿様は、

「その痴れ者を屋敷から追い出せ」

 と冷たく言い放ちました。

 こうして、悪が善に勝ちました。人々は口々にこう言いました。

「アクが強い」


 道楽の長編落語は終わった。しかし、そのとんでもない終わり方に観客も住職も鎚楽も呆然としてしまいました。

「ど、道楽、この落語はなんだ!」

 鎚楽が怒鳴ります。

「ああ、びっくりしたでしょう」

 道楽は平然として言います。

「こんなダークな終わり方させるなんて。観客がびっくりしてるぜ」

「そりゃあ、良かった」

「何が良かっただ!」

 鎚楽はついに怒った。

「何で怒るんですか。人の期待を裏切るので有名なわたくしが高座で、正々堂々と皆様を裏切ったのですよ。今までは途中で逃げてしまいましたが、今度は最後までやり通したんです。『人の期待を裏切る』ってことをね」

 そう言うと、道楽は住職に厚く御礼を申し上げ、苦災寺を後にした。そして、道に迷うこともなく無事に帰宅した。

 この高座は『ニヤニヤ大放送』でインターネット発信されていたため、ネット上では賛否両論大騒ぎになった。しかし、道楽はパソコンもスマートフォンも持っていなかったので馬耳東風でいられた。そして、それからも人を驚かす破天荒な新作落語と、自慢の記憶力で身につけた古典落語をその場に応じて演じあげた。新作落語は若い人を中心にウケ、古典落語では玄人をうならせた。こうして当代一流の名人と呼ばれるようになった。しかし、道楽は「再び苦楽襲名を」という声には一切耳を貸さず、死ぬまで萬願亭道楽を名乗り続けた。


                                        (了)

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