漂白

 そこは20歩四方ほどの狭い小部屋だった。


 部屋の中には蝋燭の明かりしかない。藁の寝台の奥で、先ほど見た、学者風の男が椅子に座り、羽根ペンで羊皮紙に何やら書きつけている。

 男の胸には丸い鈴のような花がいくつも連なった形の“華印フルール”が輝いていた。


「その“華印フルール”……。鈴蘭の“魔風士ゼフィール”か」

 ヴラマンクの問いに、ペンを止めることなく“魔風士ゼフィール”が答える。


「……自己紹介くらいならば、しておく暇もあるでしょう。初めまして、サングリアルのご一行。私は〈幸福の鈴蘭フルール・ド・ミュゲ〉の“魔風士ゼフィール”エグジリと申します」


「初めて見る顔だな?」

 そう尋ねながら、ヴラマンクは背後に回した右手に風を集めていた。相手がどんな力を持っているか分からない以上、先手必勝だ。


「他の“長命将軍ロンジェ・ヴィテ”たちの顔を知っているということは、あなたがヴラマンクですか。ポラックの言っていたとおり、本当に子供の姿になっているのですね……。たった今、本国に送る報告書に、あなたの死因を書き終えたところですよ」


「ほう? 俺を殺せるつもりか」

「答えるまでもないことですが、敬意を表して教えておいてあげましょう。あなたはここで死に、サングリアルは滅亡します」


「やってみろ! ──ペギラン、行くぞ」

 油断なく剣を構えていたペギランに、鋭く号令をかける。しかし、エグジリは焦る様子を見せることもなく笑顔でこう言った。


「ええ、やってます」


 エグジリが笑うのと同時に、剣を振り上げていたペギランがふらつき、倒れる。だが、エグジリが風を操る姿をヴラマンクは見ていない。


「攻撃はなかったはずだぞ!」


 理解を超えた出来事に、思わず大きな声が出た。

「アテネイ、ペギランを守れ! ルイ、俺の後ろに立つんだ!」


 そう叫び、右手に集めていた風の渦をエグジリに向けて放つ。だが、エグジリは風の渦に両手の人差し指を差し込み、にっこりと笑った。そのまま渦を押し広げると、ヴラマンクの放った風があっけなく霧消する。


「なんだとっ?」


「……あなた、本当にヴラマンクですか? リュードさまと互角の“流気エオリエンヌ”を持つ魔風士ゼフィールと聞いていましたが……。あなたを包む風は、とても弱い」

 驚愕の声を上げたヴラマンクに対し、エグジリはどこか落胆した様子を見せた。


「……俺も本当に、自分がヴラマンクなのか分からなくなるときがあるよ」

 ヴラマンクは精一杯の負け惜しみを言った。


 “魔風士ゼフィール”の強さは体からわき出す風──“流気エオリエンヌ”の大きさと、植生界面エクスクルシフの強さで決まる。


 例えば、ポラックが操っていたいばらは、極度に凝縮され、実体を持った流気エオリエンヌだった。流気エオリエンヌによる攻撃なら、実体があろうとも、植生界面エクスクルシフを展開することで防ぐことが出来る。


 しかし──、今しがた、ヴラマンクがエグジリに対して放った風は実体を持たなかった。それを、エグジリはいとも容易く霧消させた。


(あのいばらは実体があったから、防ぐ範囲を絞ることができたっつーのに!)


 ヴラマンクは戦慄する。

 実体のない風はどこから吹き込むか分からない。それを防ぐには全身を薄く守っていなければならないはずだ。だが、エグジリの植生界面エクスクルシフは、防ぐ範囲を絞らっておらずとも、ヴラマンクの風を封じてみせた──。


「ペギラン、無事か?」

 叫び、状況を確認する。


「え、ええ。多少気分が悪いですが」

「相手の力が分からない。近寄ったら同じことの二の舞だ」

 そう話しながら、ヴラマンクは敵の能力を分析しようとしていた。


「たとえ、私の力が分かったところで、あなたたちには何もできませんよ? あなた方の攻撃は効かず、私の攻撃は防げないのですから」

 そう言うエグジリは椅子から動いてすらいない。


(本当に効かないのか? 何か、攻撃手段は……)


 ヴラマンクは剣をかざし、短く「アテネイ!」と呼んだ。アテネイが駆け寄り、ヴラマンクに触れる。

 体が白銀の風に包まれ、力が湧いてくるのを感じた。


「これならどうだっ!」

 手にした剣をエグジリに向かって投げつける。

 恐ろしい勢いで飛んで行った剣は、確かにエグジリの体を切り裂いた。


「やったか!」


 だが──、


「あと何本、剣を無駄にしますか?」

 不意に、ヴラマンクたちの背後からエグジリの声が聞こえた。


 声のした方を向くと、そこには悠々と壁に背をもたれて立つエグジリの姿が見える。


(何が起こった!?)

 回転して飛んだ剣は、矢のように風に舞って飛ばされることなく突き進み、灰色の“長命将軍ロンジェ・ヴィテ”を切り裂いたはずだった。しかし、エグジリは一瞬にしてヴラマンクたちの背後に移動している──。


「さて、まずはこの少年からです」

 エグジリが指をつきつけたその先に、ルイの姿があった。

 慌ててルイとエグジリの間に体をすべりこませる。──その瞬間、目には見えないが、確かに、体に風を感じた。鼻の奥がつんとして、頭がくらくらする。気を失いそうになるのをこらえながら、植生界面エクスクルシフを展開し、風を断ち切った。


「無色の風。それに……お前の力、“毒”か」

 息をついて、エグジリをにらみつける。鼻をつく刺激臭と、その後の吐き気。全身の痺れと倦怠感。鈴蘭はその全身に強い毒を持つ。エグジリは毒を操る“魔風士ゼフィール”なのだ。


「ふむ、分かったからと言って、なんだと言うのです?」

 再び鼻を刺すような臭気が室内を満たす。とっさに口元を押さえたが、効果はない。ぐらぐらと頭が揺れ、強烈な吐き気が襲う。


「狭い室内じゃ勝ち目がない! いったん逃げて、形勢を立て直すぞ!」

 そう叫び、木製の扉をぶちやぶる。


 だが、またしても──、


 扉を出た先にはエグジリが薄い笑いを浮かべて立っていた。


「逃がすと思いますか」

「なっ!? どうなっていやがる!?」


 今度も、灰色の“長命将軍ロンジェ・ヴィテ”が移動する瞬間に気づけなかった。扉の外でエグジリが手を上げるのを見て、慌てて後じさる。エグジリはただ悠然と右手を振った。部屋の中を、そよ風がないでゆく。──しかし、それは死を運ぶ風だった。


 アテネイが、ひざをついたペギランの顔を抱き、植生界面エクスクルシフを展開するのが見えた。


 ヴラマンクも近くでふらついていたルイの顔を抱き寄せる。

「息を止めても無駄ですよ。私の毒は全身から回りますから」


 ペギランが嘔吐し、びちゃびちゃとアテネイの服を汚した。アテネイも顔を赤くして必死に口を押さえている。嘔吐にはいたらないが、ヴラマンクも体に力が入らない。


「あっけないですね……。では、順番にあの世へ送って差し上げます」

 どことなく呆れた様子で、エグジリはヴラマンクに歩み寄った。


 ルイを抱いたまま片手で腰に下げたナイフを抜き放ち、よろよろと切りかかる。腕に、肉を裂く感触が伝わってきた。


 しかし──、

「無駄です。私はどこにでもいる」


 確かに切り裂いたという感触は霧散し、代わりに、エグジリの声が背後から響いた。


「ぐ……、一体、どうなって……」

 振り向きざま、ナイフを払った。そのナイフがエグジリの脇腹深くに食いこむのを、ヴラマンクはその目で見た。それでも──、またも、ヴラマンクの正面にいたエグジリは忽然と姿を消し、その奥に移動していた。


「それは私であって私でないのですよ。さながら、いくつもの花を同時に咲かせる鈴生りラセームの鈴蘭のようなもの」


 そう言ったとたん、エグジリの姿がヴラマンクの鼻先に現れた。


「な……!」


 全身を守る植生界面エクスクルシフをむりやりこじあけられていく感触。薄く短い時間の中で、ヴラマンクは死を覚悟した。その時、



「ふむ。主君がそんなに大事か」

 吐き捨てたエグジリの胸から血にまみれてらてらと光る剣が突き出ていた。背後に忍び寄ったペギランが肩で息をしながら、剣を深く突き出す。


 瞬間、エグジリの姿は風に溶けるようにして消え、ペギランの後ろにあらわれた。エグジリはペギランを愛しく抱きしめるかのように手を伸ばし、その鼻先を病的なまでに細く白い手で覆う。


「だが、“魔風士ゼフィール”でもないあなたが蛮勇をふるうのは、いささか無茶がすぎましたね」

 そう耳元で囁くと、ペギランが白目をむいてくずおれる。



(くそ、打つ手がない……)

 何度考えても手詰まりだった。


「ルイ、おい、ルイ。しっかりしろ。意識はあるか?」

 ヴラマンクが腕に抱いたルイを揺さぶると、弱弱しい返事があった。

「な、なんとか……」


「いいか。アテネイを連れて逃げろ……! ペギランは俺が何とかする」

「は、はい……!」

 二人同時に駆け出すと、エグジリが「やれやれ」とため息をついた。


「逃がさないと言ったはずでしょう」

「くっ、来るな!」

 悠然と歩み寄るエグジリに、ルイは腰から剣を抜き構える。──その剣を見て、エグジリの顔つきが変わった。


「お前、その剣は──!!」



 数瞬、異様な雰囲気に飲まれ、ヴラマンクは硬直する。

 エグジリは片目を抑え、腹を抱えて──、嗤っていた。


「ククク……ハハハハ……アーッハッハッハ! 我らダンセイニが長年追い求めていた剣を、こんなところで見つけようとは! まさか、こんなガキが“太陽王の剣ロワ・ソレイユ”を持っていたとはね!」


「──“太陽王の剣ロワ・ソレイユ”だって?」

「ふむ、知らないのですか。お前が持っているその忌々しい“華印フルール”の価値を」


 次の瞬間、エグジリの顔からすべての表情が消え、すっと目が細くなった。


「返してもらいますよ。その剣が奪われたせいで、ダンセイニは〈甘き死の覇王花フルール・ド・ラフレシア〉が思うままに暴れて、不毛の土地になったのですから。あの最悪の華印フルールを封じることができれば、ダンセイニは再び昔の力を取り戻すでしょう」


 エグジリの手がルイに伸びた刹那、ヴラマンクのナイフがエグジリの背中を切りさく。


「大昔の話だろう。──それに、この剣を奪わなかったら、ダンセイニはサングリアルどころか、大陸にまで侵略の手を伸ばしていたじゃねーか」


「もちろん。より強い者が覇権を手にするのは、1億と数千年前に“始原神華メール・ド・フルール”が生まれた時からの──、いや、それよりももっと昔からのこの世界の掟でしょう?」


 ヴラマンクはナイフに力をこめながら、ルイに呼びかける。


「いいか、ルイ。聞くんだ。お前が持ってる“太陽王の剣ロワ・ソレイユ”は“覇王華印マーニュ・フルール”の一つ〈太陽の向日葵フルール・ド・ソレイユ〉が、その姿を変えたものだ。ソレイユ家の者には代々それを使える素質が備わっているはずだ」


「そ、そんなっ、ボクには使えません。こんなものっ」


「──いいや、使ってもらわなきゃ困る。……それがなかったら、みんな死ぬんだからな」

 ルイが“魔風士ゼフィール”としての力に目覚めなければサングリアルは負ける。それは揺るぐことのない真理だった。


太陽の向日葵フルール・ド・ソレイユ〉の力がなければ、どれだけ破壊してもなお動き続ける“屍人モール”を完全に倒すことは出来ない。

 ならば、リュードの力がどれだけ弱まろうと、不死身の軍勢が半分になろうとも、サングリアルの騎士たちは、絶対にダンセイニには勝てない。殺せなければ、やがて殺される。それは当然の帰結だ。


 ──初めから、戦いの趨勢はルイが目覚めるかどうかの一点のみにかかっていた。

 戦いの間に、ルイが“魔風士ゼフィール”として目覚めれば、勝つ可能性が出てくる。

 目覚めなければ、サングリアルは負ける。

 ただ、それだけの問題だったのだ。



 突然、自らの肩に重い責任がかけられていたことを知らされ、ルイの身がすくむ。

「ボクは……っ、ボクには無理です!」


「聞け、ルイ。〈太陽の向日葵フルール・ド・ソレイユ〉の開花条件は、“光輝”──自らが光り輝き、人々を導く存在であること。騎士たちとともに命を賭けると言った今のお前になら、その資格がある」


 自らの内から輝き、人々を照らす太陽たること。それは、他人から言われて身に着けられる類の適性ではない。ルイ自身が気づくしかなかった。戦いの中で、ルイが目覚めることに賭けるしか出来ない。だからこそ、ヴラマンクはルイを戦いへと連れ出したのだ。


 エグジリは自らに刺さったヴラマンクのナイフを見つめ、面白くもなさそうに呟いた。

「やはり、このガキは“蛮王ロワ・フィロス”ユーグの血をひく者でしたか」


 “蛮王ロワ・フィロス”ユーグ・ソレイユは、サングリアルでは“聖王ロワ・サン”として知られているサングリアルの開闢かいびゃくおうであり、ソレイユ家の始祖でもある。


「助かりましたよ、ヴラマンク。あなたがこのガキを連れて来てくれたおかげで、サングリアル全土からこの剣を探す手間が省けました」


 瞬間、エグジリを中心に爆発的な突風がふいた。


 少し触れただけで皮膚がひりひり痛むほどの強い毒の風。せりあがってくる胃液が酸の味を口の中に残す。尋常ではない量の汗がとめどなくあふれていた。


 風をもろに受けたルイは口をおさえ、後ろの壁によろよろともたれる。エグジリの長い腕がルイの手から、あっさりと“太陽王の剣ロワ・ソレイユ”を奪いとった。


 次の瞬間。


 エグジリの顔が怒りに歪む。

 その太ももに、ペギランが剣を突き立てていた。


「芋虫め。またお前ですか……!」

 エグジリは怒りに任せ、ペギランの横腹を蹴り上げる。


「ペ、ペギラン……!」

 王の盟友を助けに駆け寄ろうとしたが、その意に反して全身は燃えるように熱く、立っているのがやっとで、足にはまるで力が入らない。


 エグジリは足で落ち葉を払うように、無造作にペギランを蹴り飛ばす。


「あなたたちの相手は後です。この者の希望通り、この芋虫を最初に殺してあげましょう」

 薄暗い室内に、陽炎のような空気の歪みが見える。

 ヴラマンクはとっさに紫の風を起こして、エグジリの放った風をかき消そうと試みたが──、その風はか細く、弱い。


 ペギランは血を吐いてびくんびくんと痙攣し──、やがて、動かなくなった。


「──ペギラン、卿?」

 壁にもたれて眠っているかのようなルイの、かすかな声が室内に響く。


 ヴラマンクは足を引きずるようにして、ルイとアテネイの前に立ち、その身を盾にする。

(こいつらだけでも、逃がさないと……!)


 激しい悪寒に見舞われながら、怒りだけを頼りにエグジリのほうをにらみつける。

 焦点はすでにあっていない。

 歪んでぼやけた視界の中で、一条の白銀の風がふいた。アテネイがヴラマンクの前にしゃがみこみ、敵将に向けてか弱い手を突き出している。──守ろうとしてくれているのだ。


「すまん、アテネイ。少しの間、力を借りる」

 アテネイに守りを任せて、次の技に全力をこめる。


「ペギ……ラン、卿……嫌です、そんな……うああ、」

 背後で、正気を逸しているかのようなルイの弱々しい声が断続的に続いていた。


 歯を食いしばり、力を高める。見開いた目は血が出そうなほど痛い。

(やつの植生界面エクスクルシフを貫くことが出来なければ、俺たちは死ぬ)


 右手に集められた風が、限界に達した。

 エグジリに向け、風を引き絞り、放つ。塔の中をくまなく照らすほどの光を放ちながら、紫色の嵐が室内に吹き荒れた。


「残念ですよ、ヴラマンク。あなたがこれほどまでに弱くなっていたとは」


 だが、エグジリはまたしても、容易く──ヴラマンクの起こした風を霧散むさんさせてみせた。全力を出し切っていたため、半瞬、植生界面エクスクルシフの展開が遅れる。そこを狙い撃ちされた。アテネイの防御を破り、ヴラマンクの体を無色の風が包み込む。


「ぐっ、あっ」


 肺の奥から赤い血の塊が咳と共に出た。

 早鐘のごとき頭痛がひと鼓動ごとに脳天にまで達して気が狂いそうだ。胸が焼けるように熱いのに、体は真冬のように寒い。目の前がまっくらになり、見えているものが意味をなさなくなる。


「お、おーさま……。ごめん、オレ、もう……」

 ヴラマンクを守るように、アテネイが覆いかぶさった。


「アテネイ、すまない。もういい。俺のことはいいから、まだ歩けるなら、逃げろ」

「む、無理だよ。オレ、おーさまのこと、考えないなんて、できない……。できないよ」


「アテネイ、逃げてくれ」

 ふらつく腕に力をこめ、かろうじてアテネイを押しのける。今にもぐらついて倒れ込みそうになる頭を、アテネイの胸がそっと包み込んだ。


「だって、オレ、ずっと考えてたんだ。父ちゃんのこと、助けてもらったときから、何年も、ずっと……」

 アテネイがヴラマンクをきつく抱きしめると、その全身から白銀の風が湧き起こる。逆流する瀑布のように勢いよく噴き出した風は、しかし、すぐさま勢いを弱め、か細い灯火のように揺らめいた。


「おーさま。オレ、おーさまのこと、ずっと──」

 その言葉を最後に、アテネイの体がふっとくずおれる。


「アテ……ネイ?」


 倒れ込んだアテネイの蒼白な顔を見て、不安と焦燥が胸を襲う。

「だ、ダメだ、アテネイ……死ぬな……!」

「ふむ」


 その様子を見ていたエグジリが無表情のまま嘆息してみせた。


「これでもう邪魔立ては出来ないようですね、ヴラマンク。今から、憎きソレイユ家の少年を殺してご覧に入れます。それから、外で戦っている騎士たちがみな死に絶えるのを、一番良い席で見物するといいでしょう。だいぶ毒が回っているようですから、それまで生きていられれば、の話ですが」


 そう告げると、エグジリは眠っているように動かないルイの元へ歩いて行った。


「ルイっ! 逃げろ!」

 しかし、ヴラマンクの叫びもむなしく、ルイはまったく動く気配がない。


「無駄でしょう。体以上に、心が折れてしまっている。元々、彼のような惰弱な精神の持ち主に、この剣を使えたとは思えませんが……。念には念を入れて、私の最高の力で殺しておくとしましょう」


「ルイ、ルイっ! 逃げろ! 逃げてくれ!」


 エグジリの両手から漏れ出す空気が、剣のように鋭い狂気をはらんでいる。

 その冷気にも似た風に触れるだけで、体中のつながりというつながり、肩が、腕が、脚が、腰が、すべてが引き離され、粉砕されたかのような感覚に襲われる。


「頼む、やめてくれ。ルイを……、ルイを殺さないでくれ」

 もはや、声を出すことさえ困難だった。


「ルイ……! 頼む、殺さないでくれ、ルイを……」

「もうお黙りなさい。百年前あれほど我らを苦しめたサングリアル国王ともあろうものが、たった1人の部下の命乞いなど、見苦しいですよ」


 焼けつくような焦燥感。

 ルイが殺されることだけは、何としても認められなかった。


 ヴラマンクはもはや目も見えていない。眼圧の高まりによって眼球が破裂したのか、目からとめどなく温かいものがあふれている。ただ、ルイがいるであろう方向に手を伸ばし、うわごとのように懇願を続ける。


「頼む、“長命将軍ロンジェ・ヴィテ”──。殺すな。そいつがいなくなったら、俺は……」


 今までとは様子の違うヴラマンクに、灰色の“長命将軍ロンジェ・ヴィテ”が足を止める。



「……デュードネ」



 部屋中に満ちた冷気に耐えながら、片手で自分の体を少しでも前へと進める。


「死ぬな、デュードネ……!」

 ルイの正体がデュードネだということに、ヴラマンクは気づいていた。


「デュードネ。俺は、お前を……!」

 ルイの首に巻かれた白いカシュネ。婦人との淫蕩に耽るルイが固く結んだマントの前。娘のいないはずのデグレの遺言──。気づいていながら、気づかぬふりをしていた。


「邪魔です」

 エグジリが無造作に、ヴラマンクの頭を蹴とばした。


 それでもなお、ヴラマンクはルイの方へと手を伸ばす。

 見ないふりをしてきた。気づかないふりをしてきた。自分の中に芽生えはじめていた感情に。それは昔日の面影を追っているだけなのだと、そう思っていた。しかし──、


 ルイが死ぬことがたまらなく怖い。戦の場に置きたくなくて、連れてきてしまった。自分なら守ってやれると、過信していた。離れていたら、知らない間にどこかへ消えてしまうのではないかと怖かった。


「諦めなさい」

 エグジリが冷たく告げる。


 エグジリの“流気エオリエンヌ”が空間全体を押しつぶすかのごとく強く広がっていく。



 その時──、


「つっ!」


 エグジリが短い悲鳴を上げた。


 からからと、石畳に固いものが転がる音がする。

「なんです……? “太陽王の剣ロワ・ソレイユ”が……」


「王……さま……」

 ふと、ルイの声が聞こえた。


 部屋に満ちていた毒の気が弱まり、ヴラマンクの視界が少しだけよみがえる。床に落ちた“太陽王の剣ロワ・ソレイユ”が朱く灼熱している。


 ルイは目をつむったまま、その場で棒立ちになっている。まるでその場に浮いているかのように体重を感じさせない。──いや、実際に少し浮いているのだ。ルイの体は吹き上がる黄金色の風につつまれていた。


 ルイが右手をかかげると、床に落ちていた“太陽王の剣ロワ・ソレイユ”はふわりと浮かびあがって、ルイの手のなかに収まった。


「王……さま……。熱い、体が……」

 ルイの言葉に正気の色はない。

 どこか熱に浮かされ、苦しんでいるようにも見える。


「ルイ、しっかりしろ! 今すぐ逃げるんだ」

「今さら遅い」

 瞬間、エグジリの手に球形の歪み──無色の風の渦が現れる。


「これで終わりです」


 エグジリが高め続けた“流気エオリエンヌ”は、もはや塔全体を揺るがすほどだった。空間を捻じ曲げるがごとき力の奔流が、ルイに向かって放たれる。


 だが、


「──無駄だ。もうボクにお前の攻撃は効かない。“覇王華印マーニュ・フルール”の植生界面エクスクルシフを、お前ごときが破れるはずがない」


 エグジリの髪を、風が巻き上げた。

 しかし、空ろな顔をしたままのルイは、髪のひと房たりとも揺れはしない。


 エグジリが1歩後じさる。エグジリの放った無色の風は、ルイの植生界面エクスクルシフに食われ、消えていった。


「な、何をした!? 私の風が、あとかたもなく……!」

 エグジリの声に焦りが混じる。


「だけど、ボクの風は、お前の植生界面エクスクルシフをたやすく破ることができる」


「お、お前のごとき惰弱な精神の持ち主が、“覇王華印マーニュ・フルール”を操れるわけが……!」


 ルイが剣を振るうと、すさまじい熱波が室内を襲った。

 エグジリの青白い顔は、だらだらと流れる汗でひどい雨に降られたようだったが、それはすぐに乾いて、あたりには汗が蒸発した湯気が立ちのぼる。


「いっ、いっ」

 喉が乾いて声が出ないのだろう。エグジリはえづくような嗚咽を漏らしている。


「王さま、この剣が教えてくれました。〈太陽の向日葵フルール・ド・ソレイユ〉の開花条件は、自らが『光輝』たること。でも、もうひとつの開花条件があるんです。それは──向日葵ひまわりが常に太陽に向かって咲くがごとき、太陽への、光り輝く存在への『憧れ』……」


 エグジリの顔が恐怖に歪んでいく。ほほが可哀相なほどにこけ、筋張っている。干からびた髪が、ごそりと抜け落ちた。


「朦朧としていたとき、ボクの名前を呼ぶ声がしました。ボクは初めて、自分が蓋をしてきた気持ちに気づいた。激しく身を焦がす『憧れ』じゃない。ただ、冬の寒い日に春の暖かい陽だまりを想うような、そんな気持ちなんです……」


 その聖女のごとき穢れない美しい顔を見て、ヴラマンクもまた、ルイ=デュードネを大事に思う自分の気持ちをはっきりと自覚していた。


(だからこそ、俺は一緒にはいられない……)


 2人は同じ時間をともに歩んではいけない。ならば、自分は消えるしかない。ヴラマンクは穏やかな気持ちで、そう思った。


 熱波によって、毒の気は焼きつくされている。

 動かせるようになった右手に、眠りの風を集めた。


 自分の体に呪いのようにまとわりつく“安眠ソメーユ・サン”の力に、若返りの力があるならば。それは、生命の力のはずだ。眠りとは『小さな死』であると同時に、『生まれ変わり』の力であるはずだ。

 わずかでも、毒の進行を遅らせてくれるかも知れない。そう願って、ペギランとアテネイに眠りの風を送る。


(ペギラン、アテネイ。次はお前らの時代だ。生きろ。生きて、再び目を覚ましてくれ)

 ルイが1歩、前に進み出た。


「王さま、“覇王華印マーニュ・フルール”が語りかけてきます。──ボクは負けない」


「ひ、ひぃっ」

 逃げ出そうとする“長命将軍ロンジェ・ヴィテ”の足が石畳の段差にひっかかる。


 その背中にルイが“太陽王の剣ロワ・ソレイユ”を突き立てた。

 エグジリの体は細かく砕け、千切れた爪や皮膚が積もったような、汚らしい山と化した──。

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