聖女


 ファラジ・ハーラーと名乗った商人は、マントノン邸の食堂で長い脚を組んでいた。大陸のフィリポ島側の沿岸を支配する大国・レスカトールからの使者である。


「ええ、ですから、軍馬3000頭。あなたにお売りするため、お持ちしました」


「もちろん、買えるものなら欲しいが……。あいにく、今は金がない」


 頭に白い布を巻いた浅黒い肌の青年は、利発そうな笑みを浮かべて、羊皮紙を束ねた帳簿をパタンとたたんだ。


「では、お金はいつ用意できますでしょうか?」


「いや、待ってくれ。なんで3000頭を買うという話になっているんだ?」


「一か月前、あなたの国の侍従卿じじゅうきょうから、3000頭を納入するよう要請がありまして」


 その言葉にヴラマンクは一緒についてきたルイを振り返る。

「そんな! ボクは3000人の騎士が必要とは言いましたが、3000頭もの馬を買うなどと言うはずございません! そんなお金がないのはボクが一番よく知っています!」


「お前な……、言わなくてもいいことをわざわざ言う必要がどこにある?」


 ヴラマンクがにらむとルイは急に口ごもった。

「そ……、それは! 王国の財産で果たして、何頭の馬が買えるのか分からなかったものですから。来ていただいて相談をと思い、こちらの事情を伝えておこうと……」


 その説明に、つい長いため息が漏れる。

 相手は強欲な商人だ。──つねに最大の利益を得ようとする。一度でも具体的な数を言ってしまえば、その数を持ってくるだろう。


 ヴラマンクが苦しい顔をしていると、ファラジは笑みを浮かべたまま眉をひそめた。


「困りましたね。海を越えて3000頭もの馬を運んできただけでも、大金がかかっているのですよ。代金を払っていただけないとなると、こちらにも考えが……」


 彼の言う『考え』など想像したくもないが……、おそらく、レスカトールの武力を物を言わせて強引に払わせるか、払えなければ、国土をいくらか割譲せよとでも言うつもりなのだろう。


「なぁ、渡航費用は、何とか時間をかけてでもねん出する。だから、帰ってはもらえないか? 戦争中のサングリアルの国土など、そちらも興味はないだろう?」

 馬で渡れない土地には興味がないというレスカトールの商人ならば、もしかしたら、帰ってくれるかも知れないと期待したのだが……。ファラジはその申し出を一蹴した。


「いいえ、このまま馬だけ持ち帰ったとなれば、私の王国内での評判にも傷がつく。何としても買ってもらいます。国土で払えないとなれば……、“人”でも構いません」


「……それは、サングリアルの国民に奴隷になれということか?」

 ヴラマンクの目に怒りの火が宿る。


 だが、ファラジはそれを軽く受け流し、続けた。

「もちろん、音に聞こえたサングリアルの騎士たちに、傭兵としてタダ働きしてもらうのでも構いませんよ」


「うちの騎士はロクに訓練も出来ていない連中ぞろいでな。大した働きは出来ないぞ」


「ふむ?」

 恨みのこもった言葉に、ファラジは多少興味を覚えたようだった。


「とにかく、今すぐ結論は出せない。そちらが海を渡っている間に、こちらの都合が変わったことも理解してもらいたい」


「……待てて10日ですね。それまでに結論とやらを出していただきましょう」

 あまりこちらを追いつめても利にはならないと判断したのだろう。ファラジは10日後に再び会うことを約束し、マントノン邸を後にした。


       †   †   †


 民と騎士の造反。

 ファラジが持ち込んだ支払いの問題。

 すぐにでも軍備を整えて反撃に転じたいのに、頭の痛い問題が2つも起こっていた。


「ペギラン、鍛冶屋に頼んだ武器はどうなってる?」

 マントノン邸を早足で歩きながら、ペギランに進捗を問う。


「陛下が持ち出してくださった宝石では、せいぜいガスコーニュの城に眠っていた古い剣を研ぎに出すのがやっとといったところでしょうか」


「仕方がない。ガスコーニュ伯に借金をするしかないか。地下にある宝物庫にまでは火も回っていないだろうから、王城に戻ることさえできれば、宝物庫の宝でなんとか金も返せると思うんだが」


 そう言って、ヴラマンクは腰に手をやった。

「この短剣も売ってくれ。代わりは一番安いナイフで充分だ」


「こ、これ、王家の紋章じゃないですか! ダメですよ、売ってしまっては」


「──先祖伝来の形見の品だが、まぁ、出来ることは1番安いナイフと大差ない。差額で10人の武器が買えるなら、そっちのほうが得だろうが」


「10人どころか、50人分は買えますよ!」


「そいつは助かるな。鍛冶屋だけじゃなく、大工や木工職人も集めるんだ。6から7ピエほどの堅いフレン材やププリエ材で細い丸太を作り、ぐるりと溝を彫って持ち手をつければ、鍔がなくともなんとか使える即席の槍になる」


 と──、前を歩いていたペギランが棒立ちになり、ヴラマンクはしたたかに鼻を打った。


「痛っ! おいこら、急に立ち止まるな。ペギラ……」


「あ、あれは……?」


「あん? 一体なんだって……」

 つられてヴラマンクも廊下の先に目をやり──、その先に見えた後ろ姿に釘付けになる。


「……アンリエッタ?」


 長い褐色の髪に、麗しい口元──、瞳はきっと、海より深く澄んだ青に違いない。


「アンリエッタ!」

 美女と思しき後ろ姿は華やかな気配だけを残して、曲がり角の先に消えた。思わず、ヴラマンクは駆け出す。


 その先にいたのは──、

「あ、おーさま!」


 その先にいたのは、光沢を放つ白い絹のドレスを着たアテネイだった。

 白銀にも思える色味の薄い金髪と相まって、アテネイは釣鐘草カンパニュラの精にでもなったかのようだ。


「今、見せにいこうとしてたんです。見てください。オレ、こんなきれいなドレスきせてもらったの、はじめてです……!」


 しかし、ヴラマンクは心ここに非ずといった面持ちで問う。

「あ、アテネイ。ここに、褐色の髪の女性は来なかったか? 背の高さはオレよりも少し高いぐらいで……」


 そんなヴラマンクに、アテネイは大きく頬をふくらまして、まなじりを釣り上げた。

「んっもう! そんなにルイさまが気になるんですか? オレだって、こんなにきれいにしてもらったのに!」


「──なに? ルイだって? ……いや、俺が聞いたのは、アンリ……」


 みなまで言わせず、アテネイはヴラマンクの手を取り、ぷんすかと怒りながら、ずかずか廊下を10ピエほど進む。とある扉の前で、アテネイは止まった。


「ルイさま。おーさまを連れてきたよ!」


「ハ? えっ? い、いや、お待ちください、アテネイさま! 王さまには内緒にしておくつもりだったのですが……!」

 中から聞こえたのは何やら焦っているらしいルイの声だ。


「開けますね……っ!」


「い、いけません! アテネイさま!」

 アテネイはそんなルイの声など聞こえていないかのように勢いよく扉を開ける。


 ──瞬間、時が止まったかに思えた。


 部屋の中にいたのは純白のドレスに身を包んだルイだった。


 褐色の髪がほんのりと色づいた頬にかかり艶めかしい。

 いつもと違い、どこかおどおどしたルイの瞳の青い光は、しかし、いかに長く伸びたまつ毛にも隠し切れるものではない。レースなどの装飾はほとんどない簡素なドレスは、ルイのもともとの妖艶な魅力をうまく引き立てている。


「な、何を見てるんです」

 よく見れば、長い髪はかつらのようだった。

 ルイがかすれた声を出す。


「あ、ああ。なんだって、また、そんな格好を」

 ヴラマンクが問うと、ルイは顔を合わせないようにしながら答えた。


「ファラジさまが帰ったあとで、王さまがおっしゃったのではないですか。民を説得するにはどうすればいいのかとボクが聞いたら、『何を言ってるかより、誰が言ってるかを人は重視するもんだ』と」


「それで、その扮装を?」


「ええ。民が素直に話を聞くとしたら、聖女クロリスしかおりません。ちょ、ちょうど、マントノン家に、ボクにピッタリのドレスがあったものですから」


 ヴラマンクの言葉はだいぶ意味を取り違えられてしまったらしい。

 だが、ルイの行動を笑うことは出来なかった。──思わず心を奪われてしまいそうなほど、美しかったからだ。


「なんだ、その、……似合うじゃないか」


「ふん……。ファラジさまの件では迷惑をかけましたからね。仮にもボクだって、貴族ですし。代々の美姫びき寵妃ちょうきの血を継いでいますので。自分が多少、見目形が麗しく出来ていることぐらい知っています。──この顔を恨んだこともありますが、今は使えるものなら何でも使わないと」


「ああ……。そうだな、うん。胸に詰め物をすれば、完璧じゃないか?」

 ヴラマンクがそう言った瞬間、ルイがキッとヴラマンクをにらむ。


(な、何かまずいことでも言ったか?)

 ヴラマンクは少し怯みながら、さらに聞いた。


「あ、アテネイもこんな綺麗になっちまってるが、なにか役があるのか?」


「ふん。もちろん、ございますとも。アテネイさまにはクロリスの侍女、ホーラの一人を演じていただこうかと思っております」


「おーさま、この花冠はなかんむりも、オレ、ルイさまと、2人で作ったんだ……!」

 花冠には雛菊マルギェリーテ瑠璃繁縷ムロン・ブリュー昼顔ベル・ド・ジュール釣鐘草カンパニュラもある。


「なんて言って、戦うように説得するつもりなんだ?」

「言葉ではありません」

「どういうことだ?」


「実はある騎士から、話を聞くことが出来たのです。アテネイさまの“栄光の鎧グロワ・アミュール”に包まれたとき、心の奥から勇気が湧いてきたと。──その、勇気を与える力だけを強めて使っていただくことは出来ないかとアテネイさまに相談したら、出来そうだとおっしゃるので」


 その答えにヴラマンクは頭を抱えたくなった。

(俺より、よっぽど現実的に考えてやがる)


 それを聞いて、ヴラマンクの中でも何かが吹っ切れた。華印フルールを使うと決めたなら、いくらでもやりようはあるのだ。

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