厩の鍵を守る者
サングリアルの騎士たちは800騎から250騎ほどに減っていた。
解放されたヴラマンクは“
それから、すでに一昼夜走り続けている。
明け方からずっと空には雲がかかって、森の中は薄暗い。
背後からは、森の暗殺者と呼ばれて恐れられている“
(眠ってくれるのはいいが、数が多すぎる!)
馬にも匹敵する走力と持久力を持つ“
「陛下、また来ますっ!」
後方を走っていたペギランが叫んだ。
彫像のように光のない目をした狼たちは、吼えることさえなく、無音で騎士たちを追う。その前方の暗がりが、一段と濃くなった気がした。
「右だ! 来るぞ、避けろ!」
それは音のない咆哮だった。
狼の正面に闇のかたまりが現れ、森の木々を大きく丸く削り取っていく。
進みは遅いが、威力は絶大だった。
闇に後ろ半身を飲みこまれた馬が、大きくいなないて倒れる。背に乗っていた騎士も、足から闇の塊に飲まれていった。騎士は仲間の名を叫んでいたが、闇が腰に達したところで、白目をむいて絶命する。
ヴラマンクの近くを走っている騎士が、恐ろしさのためか、意味のつかないことを絶叫して眼前の木に激突した。
「死んだ仲間に同情している暇はないぞ! 気を抜くな、
騎士たちは恐慌を起こしかけている。しかし、それをおしてでも、一刻も早く王都へと戻らなければならない。
“
(急がないと)
先ほどから“
(あと何発も撃てないぞ!)
昨日と今日で何度放ったか分からない“
もう限界は近かったが、眠りに落ちていないことだけが救いだった。
(俺が眠らないってことは、リュードの力が増してるってことなんだけどな……)
右手に集中させた力を増幅し、後方へと放つ。
「お前らはこれで眠っとけ!」
見える範囲の
となりを走るルイの顔は青ざめている。
同じ馬に乗ったアテネイは舌を切ったのか、口から血を流していた。
ペギランでさえ顔色が悪い。
死が順に手を引いていくのを待つしかないような、そんな状況だった。
──そして、更なる絶望がヴラマンクたちを襲う。
「陛下、あれ……」
ペギランが弱弱しく指差した先には、燃え盛る王都があった。
しばらく前から嵐のようにごうごうと聞こえていたのは、火が町を焼き尽くす音か。豊かさと平和を満々とたたえていた王都が夕焼けよりも朱く染まっている。炎の海から、王宮の主塔よりも高い、長く雄々しい影がいくつも立ち上がっていた。
「海路で先を越されたか……」
ヴラマンクのつぶやきを聞いて、騎士たちが失意にうめく。
安全と安心を与えてくれるはずの故郷の惨状に、部下の気力の糸が切れたのが分かった。力をなくしたように、騎士たちが馬の上から転がり落ちる。
「おい、町の者を助けるぞ、気を強く持て!」
そう叫びながらも、無理な注文だということは理解していた。騎士たちに、もはや戦う力は残っていない。
──数瞬の逡巡ののち、ヴラマンクは非情な決断を下した。
(今の状態で王都に戻っても、無駄に死人を増やすだけだ……)
目の前で民が、町が、焼かれていくのを、痛恨の思いで耐える。300騎にも満たない手勢で敵に立ち向かっても、返り討ちにあうだけだ。今は耐え、騎士を休ませねば。
(これから、民を他の町へと逃がすための護衛が必要になる……)
そうは思うが、感情が納得しない。
心を殺し、ただ淡々と、疲れて動けなくなった騎士の体を横たえていく。何人かはそのまま意識が戻ることなく死んでいくだろう。
ルイの消耗が、一番ひどかった。
華奢な体でアテネイを守りながら、30リュー近くを駆け続けてきたのだ。くちびるは色味をなくし、もはや肌よりも白い。
(死ぬなよ、ルイ)
くちびるを噛みしめ、願う。
まだ立っている騎士たちも、いつ倒れてもおかしくはない。しかし、意識がある騎士には民の避難を手伝ってもらわなければならなかった。ペギランに騎士たちを任せ、先に王都へと送り出した。
† † †
横たわるルイたちに木の枝をかぶせて、襲撃者からその身を隠した。
かすかな光を放つ“
(これで少しでも体力が回復してくれればいいんだが……)
その時、背後から聞き知った声がかかった。
「残念です、ヴラマンクさま。……決して護衛を離してはならなかった」
ゆっくりと振り返る。
「デグレ……」
後ろに立っていたのは、サングリアルの
鉄製の鎧は胸の中央で裂け、ぽっかりと開いた穴から、炎の赤がこぼれている。それさえ見なければ、ぼやき屋の大主馬がまだ生きていると錯覚していたかも知れない。
デグレはヴラマンクに静かに剣を向けた。
「なぁ、どうして俺たちは戦わなきゃいけないんだ? お前を見張っていた“
「それはどうでしょうかねぇ。ああ見えてポラックどのはしぶといですからな。きっと生きていなさるでしょう。……わしが理性を保っていられるのがその証拠ですわ」
この時になって、自分の失敗に気づく。
(くそ、焦って忘れていた。崖から突き落とす前に“
「お前の目的はなんだ、デグレ? 本当に娘に遺言を残すためだけに、“
「すみませんが、王様に伝言を頼むわけにはいかん内容なんですわ。それに、わしはあなたを信用しておらんのです。あなたの失策で死んだようなもんですからな。わしはサングリアルの大主馬を、30年勤めてきました。果たして、あなたが安心してサングリアルをお任せできる方かどうか、その剣で示していただきたい」
疲れを知らぬ“
デグレが1歩踏み込んだ。
「わしはどうしてもあなたと戦わなきゃならんのです。ねぇ、ヴラマンクさま。あなたもわしから取り戻さなきゃならんモンがあるんじゃないですか」
デグレのその言葉がヴラマンクを奮い立たせる。
「お前の守る鍵か……!」
4大貴族が守る鍵は王権の根幹であり、王と貴族が交わしたの契約の象徴だった。1つでも失えば正当な王位を失う。──それだけは何としても取り戻さなければならない。
「そうです。その顔ですわ」
ヴラマンクがようやく剣を抜いてにらみつけると、デグレはにいっと笑った。
(勝負は一瞬──)
その直感に、根拠はない。
あるとすれば、一瞬でカタをつけなければ、ヴラマンクに勝機はないということだ。気力も体力も残っておらず、集中力も切れかけている。
先にしかけてきたのはデグレのほうだった。
ヴラマンクの間合いのはるか外から、長身を活かして踏み込んでくる。手も足も長いデグレの一撃が、剣さえ届かない高みから振り下ろされた。間合いの外からの一閃に、ヴラマンクはかすかに硬直する。
しかし──、勝機があるならば、その身長差にこそあるはずだった。
一瞬止まって見せたのは相手の剣をぎりぎりまで引きつけるための罠。そこからの動きはデグレの目からは地面に溶けて消えたように見えただろう。
柔らかくひざをたわめて、限界まで体を沈める。同時に素早く間合いをつめ、デグレの懐にもぐりこむと、鎧でおおわれていない右脇の下を、剣で突き上げた!
ぶちぶちと肉が裂ける音がして、剣が奥の骨に達する。
出血で死ぬことのない“
「よし、これで……」
思惑通りに事が運び、自然と笑みがこぼれた。
だが──、安堵したのも束の間、下腹のあたりに金属の閃きが見えた。慌てて飛びすさるが、遅い。へその下あたりが焼けるように熱かった。鎧の下から突きこまれたデグレの短剣がヴラマンクの腹をかすめていた。
「お前……、
「さすが。おじけもためらいもなく、懐に入って来られますな。わしも、剣には多少の自負を持っておりましたが……、わしの剣はしょせん競技剣術だったってことですか。わしが生きておったら、今ので勝負はついておりました」
「あのとっさで、鎧の下に剣を差し込めるお前だ。つくづく、俺の臣下でなくなってしまったことが惜しいよ」
奇襲が成功したにもかかわらず、状況は悪くなっている。利き腕を落としはしたが、デグレは左腕も利き腕と同じように扱えるようだ。もう懐に入らせてはくれないだろう。
「さて、続けますかな」
デグレは左腕を鞭のように伸ばして、ヴラマンクのほほを切り裂いた。
腕が伸びきったところを狙って切り落とそうとしたが、長い脚に蹴り飛ばされる。それが最後の反撃だった。
1ピエ半に満たない短剣が恐ろしく長い得物に感じる。もはや、デグレの剣をさばき続けるだけで精一杯だった。
こちらから攻撃に転じようにも、極限まで達した疲れのためだろうか、視界がぼやけて隙を見つけることができない。──そもそも、万全の状態で対しても、勝てるかどうかは五分の相手なのだ。
(このまま体力を削られて、剣を落としたときが命の終わりか)
サングリアルの窮乏にあたって、こんなところで死んでいるわけにはいかない。しかし、どう頭をひねっても打開策は思い浮かばなかった。すでに、手の感覚はない。頭上から激烈に打ち込まれる斬撃にただひたすら耐えるしかなかった。
幾度、剣戟に耐えただろう。
デグレは埒が明かないと見るや、ヴラマンクの剣を真下からかち上げた。なんとか剣を手放すことはなかったが、体の前面がガラ空きになる。
(これは、死んだか?)
長い弧を描いた剣が凶悪な速度で迫った、その時、
「デグレ、おじさま?」
背後から、かすれた声がした。
一瞬、デグレの剣が止まる。
その隙を逃さず、ヴラマンクはデグレの懐に飛び込んで、胸にぽっかりと開いた大穴へと剣を突き立てた。
手にした剣を鎧の割れ目に『かませ』、全身のばねを一瞬で伸ばし、空へと跳び上がる。
「うおおおおおおおおおっ!」
鉄製の鎧が左肩に向けてぎりぎりと裂けていく音を聞いた。骨を断つ感触がしたあと、ヴラマンクの剣は肩当てにはばまれて止まる。
「お、お?」
左肩を寸断されてなお、デグレの腕は動いていた。
だが、さすがに思い通りには動かせないらしく、剣をぶら下げた腕はぶるぶる震えている。
──やがて、体に当たって剣が落ちた。ヴラマンクはすかさず剣を拾い上げ、ついでに思いっきりひざを蹴飛ばす。長身を支えていたひざは逆向きに折れ曲がり、デグレはそのまま倒れた。
「王さま……? デグレ卿に何を?」
今しがた後ろで聞こえた声の主は、つらそうに起き上がったルイだった。ルイはデグレの状態に気づくと、駆け寄って、その頭を抱え上げる。
「デグレ、お前の守る鍵を渡してもらおうか。それから、お前の遺言とやらも聞かせてくれないか? 俺にでも、伝えてやれるかも知れない」
だが、デグレはヴラマンクの声など聞こえていないようにルイに語りかけた。
「ルイちゃんよ、わしの娘に伝えてほしいことがあるんだ、聞いてくれるか」
「で、デグレ卿に娘など……」
「いいか。自分を偽って生きても、苦しみは増すだけだ。偽りの先に待っているのはあてどのない袋小路だよ。──これがわしからの遺言ってことになるかね。ルイちゃん、しかと、伝えておくれ」
「遺言だなんて、そんな! 死なないでください、デグレおじさま!」
まだルイは事情を飲みこめていないらしい。
「わしはもう、とっくに死んでいるのさ。今、動いて、考えてると思っているのは、単に、生前の記憶を体が真似ていただけだ。そして、それももう終わる」
「デグレおじさま。お願いです。行かないでください!」
ルイの懇願に、デグレはしかし、静かに首を振った。
「王、おられますか」
「どうした?」
もはやデグレの目は焦点を結んでいない。
「王よ、わしゃ、死ぬ前にパンが食べたくてねぇ。ダンセイニの兵士が食っているのが、うらやましくて。死んじまったら、もう味覚も何もないもんですから」
「パンだと?」
訝るヴラマンクをしり目に「あぁ、もうお迎えが来たようだ」とデグレは笑う。
「今から言うことを、リュードは決して許さないでしょう。ですが、ヴラマンクさま、あなたなら全てを聞かなくても分かるはず。わしの鍵で開けられるのは
「大事なもの? なんだ?」
デグレの体を揺さぶり、聞いた。
──しかし、その問いに対する答えはもう永遠に返ってはこない。
「王さま、デグレ卿は……」
「あぁ、……ようやく眠ったんだろう」
空を見つめたまま動かなくなったデグレの目を、静かに閉じてやる。
鎧を脱がし、鍵を探したが、どこにも見当たらなかった。
もしやと思い、ルイの制止を振り切って、自分が広げた胸の穴からデグレの体内に腕を突っ込む。──胃の中に、硬いものがあった。
「デグレ、お前……、ダンセイニから隠すために……」
まさかとは思ったが、デグレの覚悟を垣間見た気がして、思わず目頭が熱くなる。胃から出てきたのは確かに、サングリアルの4つの鍵のひとつだった。
「デグレ卿は、これを渡すために、敵に身を売ってまで“
涙声のルイには答えず、ヴラマンクは炎上する王都を見つめる。朱に染まる空の中、ぽっかりと穴が開いたように暗く沈んだ区画があった。
「ルイ、見ろ。デグレが教えてくれた通り、やつら王宮には手を出していない」
「どういうことですか?」
ルイが不思議そうに問う。
ヴラマンクの頭の中で、ひとつの策が練り上がりつつあった。
「今から忍びこんで、王宮に火を放つ」
「そんな……。王さま、正気ですか?」
「ああ、もちろん正気だ。お前は少しここで休んでおけ。王宮に火が上がったら、南へ向かう道で合流するぞ」
ルイに、アテネイや倒れた騎士たちの世話を任せると、ヴラマンクは馬に飛び乗った。
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