第4話 足りなかったもの
再会した彼女の眼は絶望に満ちていた。病院の待合所はごった返していたが、彼女にだけ暗いスポットライトが照らされている。もう一度あの笑顔が見たい。マキの笑顔が思い浮かぶや否や、「おれが直してやる」そう叫んでいた。マキは重たい頭を上げ、おれを見る。
「あなた医者じゃない。何できるの?」
マキはおれをにらみつける。
「ごめん。ウソをついていた。おれ心臓外科医なんだ。マキのお父さんの状態は難しいけど、まだ望みはある。おれが必ず治してる」
「ホント?できる?」
マキは目に涙を浮かべておれを見つめた。必ずこの涙を笑顔に変えてみせる。そう誓った。メスを握らないというのは単なるエゴだということに気付いた。
マキと再会したその夜、久しぶりに日本の医療センター長に電話をした。彼は恩師でもあった。再びメスを握ることになったこと。これまでの医者として自分に欠けていたもの。そんな話を伝えた。「そのオペがお前の卒業試験や。その患者ひとりに全力で向かってみろ」と。高い技術と知識はあったが、人として欠けているものがあったのだ。院長はそれを分かっていて、この中国へ送り込んだのだと知った。
この数か月、メスを一度も握っていない。だから筋トレもした。模型を使い何度もシュミレーションを繰り返した。カテーテルで人工弁を取り付けるのは大変な技術と集中力が要求される。かつての失敗し挫折した、ちっぽけな自分はいない。マキの父の検査は二週間にわたり行われ、手術チームも結成され何度も会議を行った。日本から輸入をまっていた人工弁も到着し、いよいよ弁置換手術の準備が整う。
「信じてる。」
そうマキは、初めて見る白衣姿のおれに言う。必ず助ける。ただ一人のこの患者に集中するだけだ。
そして手術は無事成功した。ありがとう。マキの顔は涙でぐちゃぐちゃだった。
今日はとてもすがすがしい秋晴れ。マキの父親の快気祝いがあり、おれはそれに呼ばれていた。5、60人はいるだろうか。マキの家族。40度の白酒も飲まされ、言葉を超え本当に楽しい時間だった。
「あなた、私達の家族よ。もしあなたが貧乏になったら、うちに来てね。ご飯は食べ放題よ」
まずい。この暖かな雰囲気とマキの言葉で涙があふれてきた。テーブルのナプキンでとっさに目頭をおさえた。家族・・・ これまでそれが何か、なんて考えたこともなかった。中国人は皆あたたかい人ばかりだ。そしてそんなあたたかい〝家族〟が〝本物〟の医者としての自分を、取り戻させてくれたのだ。
南通を去る日。あのカフェにおれはいた。今日はおれのために、貸切。病院仲間や通訳の陳、そしてマキが店員としてそこにいた。
「あなたには技術がある。それを困っている人のために使ってね。私には何もないけど、家族があるわ。もしまた辛くなったらいつでも来てね。それが、ワタシがタクさんにできることなの」
また、涙が出てきた。おれはこんなに泣き上戸だったのか。ここへ来る前とは自分がまったく別人になっていることがはっきりと今は分かる。マキのお蔭だ。本当にありがとう。おれはマキと抱き合った。
一年前に初めて迎え入れてくれた巨大な吊り橋は、しっかりと長江にたたずんでいた。遠くの方には大型貨物船が何隻も見える。ありがとう。何度も心の中で叫んでいた。
大河に架ける橋 〜ある医師の切ない愛の物語〜 三田一龍 @mitaichiryu
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