第3話 「理想」

会議室に通されると、室内全ての視線がリタに集まった。背後の扉が閉まる。重苦しい空気と嘲るような白々しい挨拶とが部屋の中に閉じ込められた。


「リタが参りました」

言って、挨拶の形をとる。国の重臣や王族たちのぎらぎらとした目つきの中で、彼女の優雅な物腰は異質だった。


「よく参った。話は聞いておるな、リタ」

父親であるはずの王は、リタに対してどこまでも他人行儀だ。それはリタも同じだが。


王はこの民に好かれ文武に秀でた王女のことを、他の王族のように嫌ってはいなかったが、王族の中で低い地位にありながら聡明で優れている彼女を持て余していたのは確かだった。


「はい。ご無沙汰しております、陛下。大まかなお話は以前より伺っておりますが、出立の日取りなどは、まだ」

「日取りは決まっておらぬ。お前がよいと申すなら、すぐにでも出立を準備させるが」

「では明日には立ちましょう。恐れ入りますが、そう、手配いただけますか」


王は頷いて目だけで近くの者に指示を出した。すぐに自国を出て行こうとする王女を止める声も惜しむ声もない。顔を背けて安堵の息をつくものや、属国へいく王女を忍んで笑う者はあったかもしれないが。

「お前に問うのはこれが最後だ。本当に良いのか」

リタは片膝をついて、深くこうべを垂れた。


「はい。リディアの王、ゼノイト様とのご婚姻を、謹んでお受けいたします」

リタの言葉を最後に、本日の会議はお開きとなった。王が退室して、他の者もぞろぞろと部屋を出て行く。

そんな中、いつまでも立ち尽くすリタの前に第一王子のユウラが通りかかり、立ち止まった。

彼は整った顔に爽やかな笑みを浮かべて、彼女に簡単な祝辞を述べる。父と似た美しいブロンドの髪と翠の瞳。白く透き通った肌にほんのりと赤い、色気のある薄い唇。


「リタ、本当に行ってしまうんだね」

「嬉しい?ユウラ兄上様」

「そうだね。君がいなくなるのは喜ばしいことだよ」

爽やかな笑みは口元にたたえたまま、この第一王子はリタを憚ることなく邪魔であることを口にした。リタも負けずに可愛らしい笑顔を作って兄に向ける。


「あらやだ、照れ隠しかしら。時期国王候補ともあろう兄上様がそんなことを軽々しく口走って。思慮が浅いんじゃなくて」

「ふふ、ご心配ありがとう、可愛い妹君。でもね、僕が君を嫌いなのは今に始まったことじゃない。君は国民に慕われているけれど、君と血の繋がった眷属はみな君のことが嫌いだよ。かわいそうな妹。君がどれだけ僕を非難しても、それは僕の得にしかならない。敵の敵は味方ってね」


家族という無償の愛も繋がりももたない、かわいそうな妹。哀れみの目を向けながら、ユウラはリタの横を通り過ぎた。現国王は子が多く、権力争いの只中にあってリタのように国民に人気があり才気あふれる第四王女など邪魔でしかない。王族とはいえ家族に邪険にされ、国民からも国そのものからも遠ざけられる、哀れなリタ。


「兄上様はかわいそう、とおっしゃいますが——」

凛とした声が、部屋を出て行こうとしたユウラの耳に届いて、彼は足を止めた。振り返ると、微塵の哀愁も感じさせない堂々とした妹が、こちらを見据えている。


「リティアに嫁に行くことを、私は嬉しく思っています。なぜならリティアの食べ物はおいしいし、海も山も川も近くにあるというではありませんか。それに、政治面では我々の先をいっています。ご存知でしたか?かの国は、国王さえも法に逆らえないのです。国会は国民に傍聴され、軍は政治に一切の口を挟むことは許されない。政治を行う文官は国民から選出されるし、その権利は等しく与えられる」

この閉じた空間が国会の場であるサリミレとは大違いである。しかしそれを、まだ重臣も王族も残っているこの場で大声で主張して、リタは微笑む。


「私は、嬉しいのです」

だから、嫌いなのだ。だからリタは疎まれるのだ。それを承知していながら、彼女は笑みを崩さなかった。

だからユウラは、苦しんだ。




「は?これだけ?」

船に残った従者の数を見て、リタはあきれ返ってそれ以上の言葉を口にできなかった。港で国民に盛大に送り出された後では、余計に寂しく感じる数だった。

リティアは山と海に囲まれているため、陸路を行けば山越えが必須であり、その負担は大きい。よって海路を船で移動する手段が主であるわけだが、船の上には船員を除いて護衛の騎士と侍女が3名づつ。明らかに一国の王女のお輿入れには少なすぎる人数だった。


「姫様、よくもまあここまで憎まれたものですね」

この抑揚のない淡々とした喋りは唯一リタが指名して同行させた侍女、エッタのものだ。エッタ以外は大抵が第二王女の息のかかったような人選ばかりで、リタは落ち着けないでいた。


甲板に出て風にあたりながら、小さい頃から側にいて頼りになる、少々態度のでかい侍女を見やる。

「安全第一の快適な旅がしたいわ」

「でしたらもう少し親族の方々に愛想を振りまいておくんでしたね」

エッタはこうやって二人の時、ずけずけとものを言った。

「……エッタ、下衆の後知恵ってことわざ知ってる?」

「前知恵をお貸ししても実行なさらなかったでしょう」

「む」

「だいたい安全第一がいいのは私だって同じです。ああ、姫様。危険たっぷりの旅の同伴、ご指名ありがとうこざいます」

「むむ。わ、悪かったわよエッタ。けどもう少し言いようが……」

「私もあなたと同じく尻尾を振るのが嫌いなタチなのです。悪しからず」

「むーう……」


口の達者な侍女は、あの抑揚のない調子で皮肉を言った。涼しげに風に当たる彼女はとても絵になる。さらさらで真っ直ぐなこげ茶の髪をハーフアップにしていて、華奢な顔の輪郭がよく見える。細い顎、細い体つき、それでも背はすらりと高く、胸も大きい。儚げな印象のエッタは、リタと正反対の美人だった。


「そうだ、エッタ。尻尾といえばあの犬みたいな若い騎士、あなた知ってる?」

ロズに稽古をつけてもらったりしていたリタは、大抵の城中の兵の顔を把握している。けれど、あの栗色のくせっ毛の、丸い目をした犬のような雰囲気の彼を、あの会議の前に呼びに来た時リタは初めて見たのだった。そして彼は、この船に乗ってリタの護衛をしている。


「いいえ、存じません。先ほど挨拶を交わしたのが初対面です」

「そう、あなたも知らないのね。名前はヌイ、というらしいのだけど」

「名前まで徹底して犬っぽいのですね。そこまでくるとちょっと胡散臭い気がいたします」

名前にケチをつけられて怪しまれるなんて少々理不尽な気がしたが、リタもあのヌイという若者はどこか胡散臭い気がしていた。


「気になりますか」

「そうね、ちょっと」

「では」

エッタは船内を振り返って、ヌイを見つけると、いきなり声をかけた。

「ヌイさま!お伺いしたいことがあるのですが、今大丈夫でしょうか」

エッタのなんでも仕事が早いけれど、いつも唐突で驚かされる。水夫の手伝いをしていたヌイも少しびっくりして、振り返った。


「あっ、はい!あ、少々お待ちください!この仕事だけ終わらせてしまいます」

荷を移動する仕事をしていた彼は、手に持っていた荷を大急ぎで運んでから走ってリタたちの元へ来た。忙しないところを見ても、やはり犬のようだ。

彼はリタ達の足下にかしこまり、頭を下げた。


「はい、なんなりと聞いて下さい」

その言葉を聞いてエッタは一歩後ろに下がり、目だけでどうぞと後をリタに任せてしまった。

「えっと、あなたは本当にサリミレの兵?」

確かに彼のことを知りたいとは言ったが、突然のことにリタは間抜けな質問をしてしまった。


「はい。ヌイ・フィールと申します。一応立場としては近衛兵の師団長を任されておりますが、私たちの隊は各国の諜報を主としておりますので、本当に形だけになります。リタ姫様がご存じないのは、そのせいかと」

「今まではどこに?」

「リティアに四年ほど。今回の私の人選もそのためです」

「え!四年もリティアにいたの!」

「はい」

急に話にくらいつてきた姫に彼は嫌な顔一つせず、対応した。彼への不信感など忘れた様子で、息を継ぐ間もなく質問攻めにする。

「作法や挨拶、習慣について色々教えてもらいたいの。国の宗教とか、失礼になるような行動とか言動とか、気をつけなきゃいけないことも。あとはね——」

「リタ様、そう私などに気安くなさってよいのですか」

ヌイは顔に出さなかったが、気さくに話しかけてくるこの姫に戸惑っていた。ヌイの仕えている第四王女は、目の前の王女とは真逆の気性だったのだ。ヤサ王女は決して気安くはないし、王族の威厳というものを第一に考えるような厳格な人物だ。


リタははたと首を傾げる。

「そうは言っても、私はたまたまお父様が王族だってだけで、気に安いも高いもないと思ってる。敬意を払われるような立派な人間でないことは、私が一番良く知っているから」

彼女は自ら腰を屈めて、膝をついているヌイと視線を合わせた。


ああ、だからか——とヌイは即座に納得した。

統率のとれた国というのは戦において強い。統率を取るには、絶対的な上下関係が必要不可欠になる。軍であれ、国であれ。だからヤサ王女は王族という国のトップとしての威厳は決して欠いてはならないものとして重んじていた。しかし、目の前のこの王女は、平等のであることの方を重んじているようだった。


リタ王女は思考が平和なリティアにより過ぎている。リタ王女が死んだ方が都合が良い、とかすかに微笑んだヤサ王女の真意は、そういうことだったのだ。統率のとれた、いい国を作り上げるためにはリタ王女のような王族は邪魔だ。

「そうですね、リティアの宗教でしたら——」

ヌイは答えながら、リタ王女のような思想は嫌いではない、と思った。けれど同時に、その思想は戦のない平和な世の中でなければ受け入れられない夢物語だとも思った。


「決まった信仰はございません。リティアには様々な国の宗教が混在しておりますし、中には複数を信仰しているものや、まったくの無宗教の者もいます」

「へえ、それは興味深いわ。宗教間の争いごとは?」

「昔はあったようですが、最近ではまったく無いようです。ところで姫様、出すぎたことをお伺いしますが、もしや隣国の一神教を信仰しておいでで?」

にこやかなリタの顔が一瞬、強張った。


「いいえ、無宗教だけど。なぜそう思ったの?」

「あ、いえ。隣国の宗教は、右の頬を打たれたら、左の頬を差し出しなさい、というような教訓がある宗教だったと」

ヌイは、自らの国の戦力を無力化してしまうようなリタ姫の思想と、その宗教の観念とがあまりに似通っているような気がした。

沈黙があって、不審に思ったヌイはリタの様子を伺うために顔を上げた。見上げるとその姫の顔には、苦笑が浮かんでいた。


「あなたの言葉って私を責めているように聞こえないのが不思議ね。他の王族は異教にうつつを抜かす愚か者って私を非難したけど、べつに私は隣国の宗教のことに詳しいわけではない。自分の思ったことを口にしただけ。まあ、それが許されない立場ってことは知ってる。けど、なんかね、そういうのに逆らってみたくなる性格みたいで」

リタの責任感のない言いように呆れたが、彼女は潮風に目を細めながら、遠くに真剣なまなざしを向けた。


「それにね、私に反対する人って私の考えを馬鹿げた『理想』だって言うの。妄想とか妄言とかじゃなく『理想』だって。理想って、人々がそうあってほしいと願うことでしょ。みんな、そうありたいって、本当はどこかで思ってるんじゃないかな。私みたいな権力のあまりない第四王女だからこそ、ダメ元で理想を追ってみたいの。他の優秀で前途ある王族にはできないことだから」


風を切る音の中に消え入りそうな声が、ヌイの耳に届いた。

やはり、嫌いではないと思った。しかし、同意できないとも。


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