第13話 その3
僕は眼鏡をかけた。拡張現実端末のAR眼鏡だ。
「起動。船内の動体センサーとリンク」
眼鏡のフレームをダブルタップして拡張現実をスタートさせる。AR眼鏡のレンズを通して見える世界が一瞬だけ薄いグリーンの光に包まれて、僕の目の前にドラクエ風のウインドウが仮想的に表示される。
ローディングという文字が踊っている間にリンクデバイスのチタンの指輪を右手人差し指と中指に装着する。少し高かったけど虹色に鈍く光るチタンの焼き色が気に入っている指輪型端末だ。
「リンクデバイスを承認して。あと船内マップ表示」
僕の声に反応して薄緑に彩られた視界が目まぐるしくウインドウを入れ換える。ドラクエ風のひらがな仮想ウインドウはジャレッドに特注でセッティングしてもらったものだ。桜子にAR眼鏡を何度か貸したことがあるけど、その都度ひらがなばっかりで見にくいって怒ってたな。
移動用マグネットアンカーを両腕に装備している間にデバイスの承認は終わり、眼鏡の左レンズの視界に船内マップが表示された。これで僕の視界と船の内部情報は同期された。ファミコン風味の複合現実、8ビットミクストリアリティ起動完了だ。
対静電気用パーカーのファスナーを目一杯顎まで上げて、戦闘準備オーケー、さあ、狩りの時間だ。今日は虫捕りのゲームで遊ぼうと思ってたけど、急遽虫狩りに変更だ。
「直近2分間の移動物体を探してモニターして」
眼鏡の前に右手のチタンの指輪を持ってきてペラペラと本のページをめくるような仕草をする。すぐに目の前に浮かんだ半透明のひらがなウインドウがめくられて、ここ2分間の船内通路の空気密度の変移がグラフに表されて視界左下の船内マップとリンクした。
数秒待つこともなくマップに一個だけマーカーが現れた。大きさ約15センチほどの物体がゆっくりとした速度で船尾方面へ移動中だ。
「よし、ロックオンだ」
指輪をはめた人差し指でターゲットマーカーをつっつく。すると目の前にグリーンの三角錐が現れてくるくると回ったあとぴたりとある方向を指した。船尾方向、距離は920センチメートル。まだすぐ近くにいやがるな。
「よし、駆逐してやる」
無重力空間では殺虫剤スプレーは使えない。重力がなく対流が起こらずに散布された薬剤がその場に濃厚な密度で留まってしまうからだ。それにスプレーした噴射の反作用の運動エネルギーで身体が後方へ投げ出されてしまう。
万が一にも宇宙船内で害虫を発見した場合は直接打撃攻撃で仕留めるのが鉄則だ。
たとえば、オルファ社製の業務用折り刃式炭素コーティングカッターで一撃、とか。
三角錐のマーカーが真っ直ぐ正面を向いてその下に表示されている数字がどんどん小さくなっていく。そして対象の敵機がぐんぐんと大きくなる。
「墜ちろっ!」
無重力空間での姿勢制御はコツがいる。身体のパーツを腰から分けて考えて、大きく根元から順番に回転させていく感じだ。僕の右手に握られた業務用カッターが大きな弧を描いて空飛ぶ巨大ゴキブリに振り下ろされる。
しかしブラック・トローチは大きな翅をカサカサと言わせて無重力空間でも器用にするりと軌道を変えて僕の刃をかわし、そしてお互い睨み合いながらすれ違った。
「やるじゃないか」
やはりこいつは無重力にちゃんと適応している。ブラック・トローチの動きは重力の制約から解き放たれた優雅に舞う蝶のようだ。でも僕も負けてはいられない。
左腕に装着した武具のトンファーのような形をしたマグネットアンカーで狙いを定めてワイヤーを射出する。当然のようにブラック・トローチはワイヤーを避けるが、僕の狙いはもちろんそいつじゃない。正面突き当たったT字路の壁だ。ワイヤー先端のアンカーが磁力で通路の壁に食い付く。すかさずリールで僕の身体ごとワイヤーを巻き取り、ブラック・トローチに突進をかける。
「よけられるか?」
同時に右腕のマグネットアンカーも撃つ。進行方向とは少し角度を変えたサイドの壁が狙いだ。
ブラック・トローチは乾いた音を立てて空中で身体の角度を変えて斜めに天井を目指す。僕はそれに反応して左腕のアンカーをリリースして慣性運動に入り、右腕の壁に撃ち込んだアンカーをぐいと引っ張って飛ぶ軌道を変えた。そのままサイドの壁に着地し、同時に強く蹴る。前に進む動きに加えて天井方向へ急激な方向転換だ。
しかしブラック・トローチは僕の突撃に慌てる素振りも見せずに一回だけ大きく羽ばたいて姿勢を修正して、逆に僕の顔面を目掛けて突っ込んできた。
逃げずに向かってくるか。ますます厄介な虫だな。僕は炭素コーティングカッターを、奴は鋭い角度に開いた顎を、かなり速いスピードですれ違いざまにぶつけ合った。硬い金属質な音が鳴り響き、流線型の黒い奴はするっと僕の背後に抜けて行った。
「なんて音を立てるんだか。あいつの顎は金属かよ」
不意に目の前に浮かぶ三角錐の矢印がくるっと大きく回って下を指した。下? いや、下じゃない。これは、ターゲットと僕の座標が相対的に一致したことを意味する。つまり奴が、僕を捉えたのだ。
やばい、と体勢を立て直すよりも早く首に衝撃が走る。何か大きな手に鷲掴みされたような感触だ。取り付かれたか。
「ちいっ!」
まずい。ブラック・トローチの顎は鳥もも肉すら食いちぎる。迂闊に手を首元に回したりしたら指の二、三本持っていかれる。かと言ってこのまま首根っこを掴まれてる訳にもいかない。
僕は両腕を前に突き出してマグネットアンカーをすぐ目の前の壁に撃ち込んだ。リールを巻き取ると同時に前転の要領で身体を回転させて背中から壁に突っ込む。いつまでも首に噛み付いているといい。このまま押し潰してやる。
どしっと重い衝撃が背中から胸へと駆け抜けて、一瞬息ができなくなった。しかしゴキブリを潰す、あの外骨格が破けて中の柔らかいのがはみ出るという感触はなかった。逃げられたか。
「いってえな、もう!」
首元から離れたブラック・トローチはカサカサと翅を羽ばたかせて僕の目の前を通り過ぎ、刹那、目を合わせてきた。真っ黒い複眼を僕に向けて長い触覚をピンと張る。そしてまるで馬鹿にするようにヒラヒラと、フラフラと、すぐそこのT字路を右に消えて行った。
「ゴキブリごときが……!」
襟足に手をやる。さすがのブラック・トローチもガラス繊維を編み込んだ対静電気用パーカーは噛みちぎることはできなかったか。でもパーカーを着込んでいなかったらと考えるとゾッとする。延髄部分からゴキブリに食われるなんて、人類史上最低最悪な死に方じゃないか。
「思ったよりもおもしろくなってきたな」
進化したゴキブリよ。人類の本気を見せてやるよ。
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