第14話 その4

 リンクデバイスの指輪をはめた指をAR眼鏡の前でくいっと広げる。薄く光る緑色のラインで描かれた船内マップが同じくくいっと拡大されて、僕がいる現在位置と移動しているブラック・トローチとの相対的な距離が表示される。ターゲットマーカーがさらに細長い矢印となって眼鏡の視界の中をくるくると回転している。


 思ったよりも機動力がある。それに嫌に賢い。ほんとに虫かって疑いたくなるレベルだ。ゴキブリらしく換気ダクトやエンジンルームの狭いところに潜り込まれたら厄介なことになる。


「この先はっと」


 眼鏡を通して見えるマップを指でなぞる。まだ地の利はこちらにある。このソルバルウ号はいわば宇宙での僕の家だ。侵入者であるゴキブリごときに好きに暴れられてたまるか。


「あそこだな」


 僕は前傾姿勢をとってマグネットアンカーを構えた。最大速度を出せば、奴があそこにたどり着くまでに追い付けるはずだ。


 右腕のワイヤーを左前方の壁に撃ち込む。アンカーが壁に吸着すると同時に強く腕を引き込み、ぐいっと身体ごと前に躍り出る。そしてアンカーの磁力をリリースしてワイヤーを巻き取り、同時に腕をクロスするようにして左腕のワイヤーを右前方の壁に撃つ。あとはその繰り返しだ。どんどん加速していく。


 そしてT字路の壁際には両腕のアンカーを射出。二本のアンカーがしっかりと壁に食らい付き、そのままワイヤーを巻き取りつつ遠心力を加えてさらにスピードを増して右の通路へと突入する。


 ワイヤーアクションのゲームが楽しく楽しくって実際にやってみたくなって、こっそり練習してた甲斐があるってもんだ。


 無重力空間では自分が見ている方向が前となる。そのため視点一つで立体的位置感ががらりと変わってくる。僕はT字路を右に曲がったと言うよりも、目の前にぽっかりと空いた穴に真っ逆さまに落ちていく感覚で位置を把握している。


 いた。ターゲットマーカーが真っ直ぐ前を指す。このままこの速度で前に等速落下し続ければすぐに追い付き、そして追い越せる。巨大なゴキブリは前方に等速落下する僕が押しのけた空気の波を感じ取ったのか、長い二本の触覚をびくんと震わせて一度だけ大きく羽ばたいてこっちを見た。


「追い付いたぞ」


 僕は両腕を胸の前でクロスさせて身体を細くして、身構えるように翅を閉じて慣性で飛ぶ奴を一気に追い抜いた。


 そのまま僕も飛び続け、右側壁のハッチを飛び越えたところで両腕のワイヤーを左右の壁に食い込ませてフルブレーキをかけた。内蔵のリールがギリギリと悲鳴を上げてワイヤーがぴいんと張って僕の姿勢がようやく安定した。ワイヤーを支点にしてバック転の要領でくるりと回転し、漂いながらこちらを見るブラック・トローチに向き直る。


「ハッチオープン。灯りも点けて」


 船のシステムとリンクしているAR眼鏡が僕の声を拾って、空気圧の抜ける音がしてハッチが開かれた。そしてハッチの奥から光がこぼれ出し、逃げ道を失っていたブラック・トローチは僕の予想通り光に誘われるようにハッチをくぐり抜けた。


「よし、いい子だ」


 これで奴はもう逃げることは出来ない。後は始末するだけだ。僕も壁を蹴ってハッチを抜ける。すぐにハッチを閉じてロックをかけ、換気エアダクトも強制的にシャッターを下ろす。


「さあ、ここでは存分に暴れていいぞ。ファイナルラウンドだ」


 奥行きも天井の高さもバドミントンがプレイできるほど大きな部屋の中央部には何本もの太い中空の柱が立っている。その柱の中にコンテナを固定し、部屋の重心バランスが崩れないようにしている。そう、ここは貨物区だ。ブラック・トローチが最初に積み込まれた場所だ。


 完全に密閉された空間で、さあ、立体的なワイヤーアクションを楽しもうじゃないか。




 宇宙史上初の人類とゴキブリの空中戦が始まった。


 貨物区は立方体に近い形をしている。その中心部に柱が何本も立っていて、コンテナが固定されている柱、中空のまま枠だけの柱がある。広いオープンフィールドと障害物があるクローズドフィールドが混在しているようなものだ。


 マグネットアンカーを最大限まで伸ばせば一回の射出で柱群を3周はできる。そのアンカーが2本ある。やり方次第でこの立方体の空間を自由自在に飛び回れる。強い磁力でアンカーを壁に固定し、脚で壁を走り抜け、飛び回り、柱にワイヤーを引っ掛け、そして一気にワイヤーを巻き取る。すると時間を巻き戻すように僕の身体は今来た空間を駆け戻っていく。空を飛び、柱をかすめて鋭い角度で回転し、壁を蹴り、空間に勢いよく放り出される。


 空を飛びながら柱にワイヤーを撃ち込む。複雑に絡むようにワイヤーが柱の合間に張り巡らされ、リリース、巻き取り、射出と3パターンのアクションで柱と柱の間を飛び抜ける。


 ブラック・トローチは翅を使って無重力空間を自在に飛び回る。大きく羽ばたいていったん空中でぴたりと止まったかと思うと、頭を斜め下に向けて急加速して襲いかかってくる。


 ふわりと頭の上に舞い上がったかと思うと、ひらひらと木の葉が舞い落ちるようにいつの間にか足下まで逃げられる。無重力空間を制する生き物は人間だけだと思っていたが、このゴキブリは完全に宇宙に順応している。


 追いかけ、追いかけられ、噛まれ、カッターで切り付け、僕はいつしかこの空中戦を楽しんでいた。




 不意にピピピっと電子的なアラーム音が鳴り響いた。僕もブラック・トローチも一瞬動きを止めて音の出処を探るように耳をすました。アラームは僕の胸元から鳴っている。そうか、もうそんなに時間が経ったのか。


「ゲームに夢中になってるとあっという間に時間って過ぎちゃうよな」


 ゴキブリに何を言っても人語を理解なんて出来ないだろうけど、何か聞いてるみたいにじっとしているからこのまま続けさせてもらう。


「1時間だ。運動に付き合ってくれてありがとよ」


 首からぶら下げていたスマホをパーカーの下からストラップごと引っ張り出し、画面をタップしてアラームを止める。


 会社所属の宇宙船パイロットにはいくつかの業務規定がある。その中でも大事なのは業務効率を落とさないための8時間の睡眠義務と、無重力空間での筋力の衰弱を抑えるための2時間の運動義務だ。今日は後1時間運動しなければならなかったんだ。ゴキブリとのアグレッシブな追いかけっこはちょうどいい運動になった。


「さて、十分楽しんだし、終わりにしようか。おまえもお腹減ってるだろ?」


 人間の僕でさえ疲労を覚え、空腹を感じるレベルでの激しい運動だったんだ。いくら巨大な超ゴキブリとはいえ所詮ゴキブリはゴキブリ。もう素早く動けるだけのカロリーなんて体の中に残っていないだろう。気のせいか、ブラック・トローチも肩で息をしているように見える。ゴキブリの肩がどこらへんかわからないけど。


「僕のようなレトロアクションゲーマーはな、どんな敵キャラでもパターンを見極めて、もしパターンがなくても強引にパターン化させて攻略するんだ。もうおまえは攻略済みだよ」


 いまの親切なゲームシステムに慣れている奴らにはこのゴキブリは難敵だったろう。とてつもない強敵だったろう。しかし、僕はレトロゲーマーだ。理不尽なほどに強い敵キャラと嫌ってほど戦いを繰り広げてきたんだ。パターン化は必須のスキルだ。


「おまえはレッドアリーマーにはなれなかったな。ただの名も無き小ボスだ」


 スマホのフラッシュライトをブラック・トローチに向けて点灯。強く真っ白い光が奴の影を黒く伸ばす。ブラック・トローチは身構えるように脚を畳んで翅を広げた。


 僕は右腕のマグネットアンカーを外して、ワイヤーをブラック・トローチへ向けて撃ち出した。


 撃ち込んだワイヤーをすぐに巻き取る。ワイヤーに引っ張られて、それはフラッシュライトをバックにして大きな影となってゴキブリに覆いかぶさる。ブラック・トローチはそれを羽ばたき一閃、紙一重でかわして背後を取る。僕が何度も試みたパターン化の作業だ。


 そのまま延髄部分に取り付いてカミソリのように鋭い顎で肉をえぐり切り骨を噛み砕く。それが奴の必勝パターンだろう。ただ、奴が取り付いたのは僕の身体じゃない。空っぽのパーカーだ。僕は対静電気用パーカーを脱いでアンカーとともに撃ち込んだのだ。


 ブラック・トローチは六本の脚を大きく広げたまま僕の身体を見失い宙空を漂った。僕は宙に浮いた目映い光を放つスマホをゆっくりとずらした。僕は最初から動いていない。フラッシュライトの強い光源が昆虫の複眼から僕の姿を掻き消していたんだ。


 ゆっくりと動く光源につられてゴキブリは天井を見上げる。僕の目の前に柔らかそうな奴の腹が見えた。あとは、炭素コーティングのカッターを強く振り下ろすだけだった。


 終わりだ。ゲームクリアだ。


 バラバラになった黒光りする翅がくるくると回転しながら散らばっていった。


「さて、ごはんを温め直さないとな」




「そんなヤバいことになってたんですか」


 貨物を運搬する港内作業員がパワーリフターにコンテナを積み込みながら言った。


「うん。研究室の言うことには、突然変異かなんかか、何らかの原因で耐寒性を得たゴキブリが出たんだろうって」


 食用ゴキブリ、ブラック・トローチは5匹1パックで梱包、冷凍されていたらしい。その中の1匹が冷凍状態でも死なず、解凍蘇生して共食いしながら生き延び、ついに保冷剤のペットボトルを噛み破りコンテナを破裂させたのだ。


 問題は、そのコンテナがあと119個あったことだ。1匹なら何の問題もない。レトロゲーマーの敵じゃない。しかし120×5、600匹の超ゴキブリが相手だったら、僕は一瞬で食い尽くされて骨になっていただろうな。


「このコンテナの中にゴキブリ野郎がいるんですか?」


「計算ではあと595匹な」


「マジヤベえ」


 ここは地球と火星の間の中継宇宙ステーションの宇宙港。ここで貨物の受け渡しをして僕の仕事は終わりだ。ゴキブリは火星へ運ばれ、僕は月へ復路の貨物を運ぶ。もう出会うことはないだろう。


「火星にはまだゴキブリはいないらしいですね。こいつらがもし冷凍状態から蘇生したら、火星へのゴキブリの侵攻を許したことになっちゃいますね」


「怖いこと言うなよ。火星に入植したゴキブリが未来の人間の脅威にならないことを祈るよ」


「マジ勘弁です。はい、これでおしまい。あ、コータさん。また面白いレトロゲーム教えてくださいよ」


 パワーリフターにコンテナを積み終え、顔馴染みの港内作業員は運転席に滑り込みながら言った。いきなり言われてもな。と、ふと頭に浮かんだタイトルがあった。


「んー、海腹川背ってゲームで遊んでみな。マグネットアンカーで飛びたくなるぞ」


「マジですか。ダウンロードしてみますよ」


「じゃ、お願いねー」


「はい、貨物確かにお預か、 ぽんっ、 りしました。マジお疲れ様でしたー」


 ……いま、何か嫌な音が聞こえたような気がしたが。気のせいか? 気のせいだ。うん、きっとそうだ。


「じゃあまたなー」


 さっさと月に帰ろう。そうしよう。

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