第12話 その2

 壊れたプラスチック容器、破けたペットボトル、こぼれた保冷剤。黒く小さい外骨格の脚のようなもの。虫網で採れたものを空きのコンテナに放り込んで、僕はタブレットのコンテナ情報を読みながら貨物区を後にした。


 念のためハッチのコンソールパネルで貨物区内に異常がないのを確認し、僕はゆっくりと壁を蹴って背泳ぎのような体勢でふわふわと居住区へと舞い戻った。


 ラッコみたいにお腹の上にタブレットを置いてコンテナ情報のページをめくる。それによると荷物の送り主は月のとある大学の研究室だ。火星のナントカ研って大学研究室に検体を送ったようだが、そのデータの中に僕は重要なキーワードを見つけた。それは手書きの歪んだ漢字で「要冷凍」と読めた。英語の注意書きにはそれらしいことは記されていない。これでは漢字が読めない港内作業員だとこの荷物が要冷凍品だと気付けないだろう。


 無重力空間では熱対流が起こらない。とは言え、貨物区は人が作業する場所であり当然のように空調を操作している。つまり空気は絶えず循環し、冷凍品は常に適温の空気に触れている訳で熱伝導でわずかずつだが熱エネルギーの移動が発生する。無重力空間でも冷凍鳥肉を解凍してオーブンで焼いて食べられるように、冷凍荷物も温度が上がって溶けてしまう。やっぱり保冷剤が溶けて膨張してペットボトルを破裂させたんだろう。


「まったく、余計な仕事増やしてくれちゃってもー」


 荷物の送り主への報告や賠償問題に関してのあれこれは会社に頼むとして、寝る前の定時連絡までにこの問題の報告書を作成しないとならない。もう、ゲームで遊ばなくちゃならないってのに、また8時間の睡眠義務を破って睡眠時間を削らなければ。


 とにかくまずは腹ごしらえだ。鳥もも肉の照り焼きソースがけを待たせている。ごはんと味噌汁も温めないと。


 と、生活用品がごちゃごちゃと積み込まれた狭い居住区に滑り込んで、コタツにセットしたお皿を手に取ろうとして、僕は不意に固まってしまった。


 ない。


 こんがりと焼き上がった鳥もも肉が消えていた。ちゃんと皿に乗っけたはずなのに。肉の脂が皿と肉とを接着させるから浮き上がって飛んで行ってしまうこともないのに、僕のお肉が消えてなくなった。


 そして、僕はもう一つあるべきものがなくなっているのに、ようやく気が付いた。あの破裂したコンテナ。検体を研究室に送るってことだが、その検体ってなんだ? あのコンテナには容器と保冷剤の破片は入っていたが、検体とやらは見当たらなかった。検体はどこに消えた? そもそも検体はなんなんだ。


 僕はタブレットでコンテナ情報を読み直した。見落とした情報があるはずだ。


「これは、なんだ?」


 あった。荷物の内容物、検体のデータだ。それはたった一言で記されていた。


 食用昆虫『ブラック・トローチ』と。


 少なくとも、僕の知識の中にブラック・トローチという名前の昆虫はない。それも食用昆虫だなんて、見たことも聞いたこともない。僕はタブレット端末でその嫌な予感しかしない名前をネット検索にかけた。ヒット数こそ少ないものの、それの画像はすぐに現れた。


 てろてろと脂ぎったような黒光りする硬質の羽、ぴんっと長く伸びた特徴的な触覚。黒く焼け焦げた茶色い砲弾のような流線型のボディ。そして見覚えのある黒い脚。壊れたコンテナのすぐそばで見つけたあの黒い脚だ。


 ブラック・トローチの正体はコックローチだ。ゴキブリだ。それも低重力下で成育されたため重力の制約を解かれ巨大化した体躯の食用ゴキブリだ。それが宇宙船の中で姿を消している。


「ちょっと待ってくれよ」


 荷物は冷凍されていたはずだ。それが貨物区内の適温の空気に晒されて解凍され、巨大ゴキブリが動き出したとでも言うのか?


 ゴキブリは死んでいなかったのか。その驚異的な生命力で体組織を冷凍されても生き絶えることなくじっとその時を待っていたと言うのか。


 そもそも保冷剤のペットボトルの破裂は温度の上昇ではなく、蘇生したゴキブリが原因なのではないか。保冷剤が溶けて膨張したくらいで破裂するほどペットボトルって弱かったか。むしろ柔軟性と弾力性とでぱんぱんに膨れたペットボトルが容易に想像できる。そのぱつんぱつんのペットボトルにゴキブリが噛み付けばどうなるか。


 そして、消え失せた鳥もも肉と姿を消したゴキブリの二つ謎が意味するものは。僕の頭の中でバラバラだったパズルのピースがかっちりと組み合わさった。


「ここに、いるのか?」


 ふと、僕のかすれた呟き声に反応するかのように小さな異音が聞こえた。繊維状のものを断ち切るような、それでいて粘着性のあるものを啜りあげるような音が、そこにあるコタツの向こう側からかすかに聞こえてくる。


 僕はそっと床を蹴り、なるべく音の鳴る場所から遠ざかるように天井へと浮き上がってからコタツの向こう側を覗き込んだ。


 その瞬間、僕に発見されたということを悟ったそいつは、まるで威嚇するかのように黒々とした光沢のある翅を広げて、表面の粗い金属をこすり合わせるような音を立てて飛び上がって僕に突っ込んできた。


 手のひらぐらいに大きなゴキブリの襲撃に宙に浮いたままの僕は為す術もなくただ両手をクロスさせて防御するので精一杯だった。


 するとそいつは嘲笑うかのようにカチャリカチャリと硬質な音を立てて大きく羽ばたいて、僕の目の前で軌道を変えて開けっ放しだった居住区のハッチから飛び出ていった。


「なんだよ、あのデカさは」


 翅を広げれば手のひらなんかよりもずっと大きい。世界最大と言われるマダガスカルゴキブリよりもでかく、しかも翅を使ってこの無重力空間を自在に飛んでいた。無重力を克服し、適応してやがる。そして、獰猛なほどに腹を空かせているらしい。


 僕の足元に噛みちぎられ食い散らかされた鳥もも肉が浮かび上がってきた。


「……よくも」


 僕の心の奥底に潜む野生に火がついた。動物としての本能が警鐘を鳴らす。こいつは宇宙船内において僕の生命の維持に対して大いなる脅威となり得る。生かしておくにはあまりに危険過ぎる。


「よくも、僕の晩ご飯を!」


 そして、何よりも僕の鳥もも肉の仇!


「駆逐してやるッ!」

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