第48話 ドットイーター パックマン その1

 宇宙では水はとても貴重なものだ。地球で暮らしていた頃には、もちろん限りある資源としての大切さは知っていたつもりだが、あまり意識せずに水道の蛇口に手を当ててずいぶん無駄に流していたものだ。


 月で生活し、宇宙船で飛び回るようになって三年余り、飲料水は別として、水ってのは意外と使い回しが効くものなのだな、と思うようになった。エンジンルームから巡ってくる冷却水を生活用水として使ったり、逆に生活用水をリサイクルしてまたエンジンルームに戻したり。ガンマ線を防ぐ障壁として、または船の重心調整にバラストタンクに入れて凍らせたり、宇宙船内の仕事のうちでも水に関する仕事はけっこう時間が取られる面倒な作業だったりする。


 だからと言って、もちろん無駄に使える水なんてない。1ミリリットルだって宇宙空間に放出したりしない。すべて使い回す。


 そんな大切な水だが、あたしにとってソルバルウ号での最大の贅沢はお風呂だ。あたしがソルバルウ号で働き始める時に、コータくんはソルバルウ号内時間で48時間ごとにお風呂が使える最新のシステムバスルームを導入してくれた。それも中古ユニットなんかじゃなく、ぴかぴかの新品ユニットをソルバルウへ組み込んでくれた。


 最新のシステムバスルームがどんな具合か。無重力空間でどのようにお風呂に入るか。それは秘密だ。ご想像にお任せする。あたしがどうやってバスタブに漬かっているか、好きに妄想してもらって構わない。




「コータくーん、お風呂入るのー?」


 もうもうとした湯気の中で身体を拭きながらコータくんに声をかけた。


 もしコータくんもすぐにお風呂を使うならシステムの運転を続けておく。また一からお湯を作るなんてもったいない。今日はお風呂に入らないと言うのなら、システムを切って水のリサイクル処理を始めないと。湯気さえももったいない。


 しかし、コータくんの返事はなかった。


「コータくーん!」


 一般的に言って、宇宙船パイロットはお風呂に入らない。もちろんそれは悪い意味でではなく、コックピットから離れる時間を極力少なくするためだ。交代要員のいる大人数チームならまだしも、コータくんは基本単独航行だ。


 お風呂に入らないと言っても、ちゃんと任務としての基礎運動を終えた後に蒸したタオルで汗を拭き取り身体をきれいにしている。宇宙ではそれで十分に清潔な状態を保てる。お風呂なんて贅沢の極みだ。


「寝ちゃったの、かな?」


 さて、どうしよう。あたしがお風呂システムを使うようになってから、コータくんはちゃんと気を使ってくれているようで、入浴中はコックピットに引きこもって出てこないようしているっぽい。


 だからと言って、勤務中に居眠りは良くない。ましてや宇宙船操縦中だ。コンピュータ制御の自動航行とは言え、人間の目で確認して人間の手でスイッチを押すのだ。叩き起こしてやらなければ。


 あたしは身体についた水分を丁寧に拭い取り、とりあえず下着とTシャツだけを身に付けて湿ったバスタオルと着替えを手にバスルームを出た。


 濡れた長い髪をなびかせるように壁を蹴って飛ぶ。髪の湿り気も完全に乾かして水分を回収したいところだけど、時間がかかるので自然乾燥に任せている。この方が室内の乾燥状態にも潤いを与えていいし。


 と、かすかにあたしを呼ぶ声が聞こえる。

 

 声が流れてくるのはコックピットの方向じゃない。居住区だ。コータくんとあたしのプライベートルームの方だ。


「コータくん?」


「……ギッテ、はや……どれ……く!」


 叫ぶと言うよりもむしろ抑えられた感じに聞こえる声は、それでいて何かに遮られているように遠く聞き取りにくい。


「なーにー?」


 バスタオルをめいっぱい広げてその空気抵抗で速度を緩めて、狭い通路に備え付けてある移動用ガイドレールに引っ掛けてぐいっと方向転換をして今来た通路を引き返す。


 どうやら居眠り運転ではないようだが、何をしているのやら。また無理な格好でアクロバティックにゲームで遊びながら足でも攣って動けなくなっているのか。


 そんな事を考えていると、通路の向こう側、遠くで激しい金属音がした。ハッチを思い切り強く閉めたような音だ。


「ブリギッテ、逃げろ! バスルームに戻って! 早くッ!」


 今度ははっきりと聞こえた。


 何が起きたのか。それを考えるよりも早くあたしの身体は動いてくれた。移動中のあたしのすぐ目の前にバスルームのユニットへのドアがある。


 あたしは両手に持ったバスタオルを通路のガイドレールに引っ掛けて身体を止めた。バスタオルの一点に力がかかって、それに振り回されるようにして通路の壁に背中を打ち付けたが、今は痛みを味わっている暇はない。とにかく急いでまだロックをかけていなかったドアを押し開けて身体を滑り込ませた。


「コータくん、何があったの?」


 ドアから顔だけを通路に出して叫んでみる。


「説明は後! 部屋に入って!」


 何もわからないこの状況ではコータくんの声に従うしかない。バスルームに入るとむわっとした温かい湯気があたしを包む。まだ湿気を回収していないから少しむせる。


 何か事故か。極小デブリ衝突のような振動はなかったと思う。大きな何かとぶつかっていたら、あたしもコータくんもすでに宇宙の藻屑だ。じゃあ何らかの原因で気密が保てなくなったか。いや、さっきの段階で通路に気圧の変化は感じられなかった。


 ほんと、何が起きた? スマホもメガネもあたしの部屋に置きっ放しだ。電話も出来ない。バスルームの端末でなんとかコータくんと話せないものかな。


 コータくんはああ言ったけど、そうっとあたしはドアを開けてみた。うん、空気の流動はない。気圧も温度も変化していない。推進剤漏れとか積荷の化学薬品が染み出したとか、それっぽい臭いもなし。最悪融合炉の異常だとしても、それならばシェルターにもなるコックピットへの避難を優先させるだろう。バスルームへ戻れって、それでは何の意味がない。


「コータくーん!」


 あたしが大声で呼んだ時、ちょうどコータくんが通路の突き当たりT字路を横切った。コックピットへ向かう通路だ。コータくんはあたしに気付いて、咄嗟に身体の向きを変えて壁を蹴って、壁に身体を擦り付けるようにしてこっちに向かって飛んで来た。


「ドア開けて」


 背後を気にしながらコータくんが短く叫ぶ。あたしはドアを開け放って、一歩身体を後ろに引いてコータくんが飛び込んでくるのを待った。


「ごめんよ」


 コータくんは一言謝ってから身体をドアの内側に押し込んできて、すぐに両手を押し付けるようにしてドアを閉めた。その瞬間、あたしは見た。コータくんの背後に、大きくて丸い何かが、口をぱっくりと開けて迫って来たのを。


「何あれ?」


 大きさはサッカーボールをもう少し大きくしたぐらいか。レモンのような明るい黄色をしていて、ぱっくりとあいた口の中は真っ黒。そんな口を開けてコータくんに噛み付こうとする球体が音もなく忍び寄っていた。


 どことなく、見覚えがある。コータくんのちょっと楽しそうな困り顔に、嫌な予感がする。


 コータくんはドアに背中を押し付けて、口に人差し指を持っていく。


「しっ。奴ら、音さえも感知しやがる」


 そしてあたしを見て少しびっくりしたように目を丸くして今度はあたしに背中を向けた。


「なんて格好してんだよ、もう」


 なんて格好も何も、ここはバスルームであたしはお風呂から上がったばかりなの。こんな格好してるのにこれ以上に正当な理由はないと思うけど。


「もうって、ここはバスルームですけど。あたしに何か不手際でもあったかしら? ねえ、パパ?」


 あたしはTシャツとパンツのみの姿で腰に手をやり仁王立ちしてやった。濡れた長い髪が無重力に踊る。


「ああ、うん。急に悪かったよ。緊急事態だったんだ」


 コータくんは自分の羽織っていた静電気防止パーカーを脱いであたしの肩にかけて言った。


「やばい事になった。奴らの反逆だ」


「奴らって?」


 このソルバルウ号にあたしとコータくん以外誰が、あるいは何がいると言うのか。


「ルンバが、人類に牙をむいた」


 やっぱり。あたしは深いため息をついた。

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