第12話

それを良いことに、紗枝は、さっきの事務所を見に行った。すると、セキュリティのしっかりした部屋は、【幹部室】と掲示がしてある。暗証番号と指紋認識のダブルキーで、中には簡単に入れない。紗枝は、当然すっと入ったが。中では、何と藤(ふじ)陵(おか)ともう一人、こちらは禿げた男が話していた。彼の座っているデスクの上のネームプレートには、【HHTP代表取締役・大(おお)伊(い)太(だ)】と書いてある。

「今回もうまく捕まったな、アホどもが」

そう言いながら、男は琥珀色の液体を口にした。黒のスーツに黒ネクタイ。サングラスにスキンヘッド。どう見ても、反社会勢力のいでたちにしか見えない。

「今回は一人、上玉がいる。俺の物にしたい」

 藤陵は、タバコを吸いながら言った。

「どうぞ、お好きなように。俺は、金しか興味ねえからよ」

「しかし、お前も相当貯め込んだだろう。どうすんだよ、そんなに貯めちゃって」

「海外さ。俺の目は【タイ】に向いてるんだ。ああ、中河と企画してるよ。」

「【タイ】。そりゃまた」

「【オネエ】が多い、って言うじゃねえか。あっちで、一儲けよ」

「へえ。まだ、儲けようと」

「当たり前だ。ここまで儲かったのに、ここで止める手は無いだろう。お前は、やらないか」

「昔から狙った所は外さない。大学野球選手権での決め球は、アウトコースのストレート。変わらねえな、大伊太。しかし、俺は遠慮しとくよ。県警から、行方不明者の捜索願が、テレビに出たって話じゃねえか。危ねえよ」

「ふふ。だから。だから海外さ。お前だってその手堅い守備。やっぱり、東横のセンターだな。」

{へえ、この人達、大伊太と藤陵、って言うんだわ。しかも、大学の野球部なのね。泰介さんから聞いた事ある様な気がするわ}

 紗枝は、東横大学、の名前を聞いた事があった。あれは、確か泰介と一緒にいる時に、出てきた名前ではなかったか。藤陵が続けた。

「テレビ局も、その人間たちに共通した、特異な趣味があることは嗅ぎ付けてたぞ」

「予想していたことよ。もうそろそろ、ヤバいと思う。海外に行くのはそのためさ」

 大伊太は、煙を天井に向けて吐きながら言った。

「ま、せいぜい頑張ってくれや。ところで、中河の方はどうなんだ」

 藤陵が尋ねると、

「あ、ちょっと待ってくれ。情報が来てたよ」

 と言うと、大伊太は、くるっと後ろを向き、パソコンの画面を見た。するとそこには、メールのやり取りの履歴があった。その中に、中河からのメールがある。

〔こちらは、万事順調。今回も、五十名応募。うち、一名は頂く。外国航路希望者は、全員。いつでもツアー、オーケイ。ルートが決まったら連絡を。〕

 と、書いてあった。それを見た紗枝は、まるでツアー会社の文章のように書いてある内容に、少し違和感を覚えた。多分、情報が漏れることを恐れて、このようなやり取りにしているのだろう。

”一般的に、先にルートが決まっていて、そのルートを希望する人が、申し込むパターンじゃないかしら。ルートが決まったら、連絡を、ってどういう事。また、そのルートが決まっていないツアーに、五十人応募するかしら。何か、ますます怪しいわ”

 この時点で、紗枝が泰介と近くにいると言う、事実を知っていれば、事態は収まったのかも知れない。だが如何せん、主人を放って守護霊同士で、勝手に会うことはできない。後は、紗枝がどこまで食いつけるかだった。

「どうやら、今回のツアーで出航できそうだよ。お前は、日本でこのHHTPを続けるのか」

 メールを見た大伊太は、藤陵に向かって言った。すると、

「いや、俺はさっき言ったように今回、特別な上玉をゲットした。こいつを俺の物にして、さっさと夜逃げして蒸発するよ。お前らがいないんじゃ、東京で採用して、静岡に派遣。派遣先の最低賃金で給料を支払う、と言う形は取れない。おまけに、この事務所があって、研修ができる。だからこそ〈研修費〉と称した借金を作らせることができる。あいつらを捕まえておくことができると言う訳だ。お前らがいないと、給料のごまかしや、缶詰にして宿舎に軟禁状態、と言う事はできないよ」

 と、内部のシステムを事細かに話した。

“ええっ、給料のごまかし。軟禁状態。やっぱり、何かおかしいと思ったわ。だから、外部と連絡が取れないし、逃げられないようになっている訳ね。二重にも三重にも、縛られているんだわ。それにしても困ったわ。特別な上玉って〈愛結〉ちゃんの事じゃないかしら。そうだとしたらどうしよう”

 大まかな内部の様子を知った紗枝は、一人焦っていた。このままじゃ〈愛結〉は、男色藤陵の女(男?)にされてしまう。かと言って、それを〈愛結〉に知らせる手段は、囁くか、何かを吹く事しか、術は無かった。ただ何となく、不思議なパワーが湧いてくるのを感じていた。次の日、朝早くから目を覚ました〈愛結〉は、食事を済ませると、昼からの出勤に備え、準備に余念がなかった。そして、渋谷の店に来たのは午後四時。〈愛結〉は、紗江が一人、憂(う)れいている中、ダンディな黒いスーツを身に纏い、各テーブルを拭き始めた。誰よりも早く来て、掃除をしているのだ。そろそろ掃除が終わり、尿意を催した〈愛結〉は、何気なくトイレに入った。そして、まだ一人しかいない店内で、客席に座り、店内を見渡した。

”熟女のおばさま達って、どんな、お姉さんやばさんが来るんだろう”

”〈愛結〉ちゃん、今のうちに逃げようか”

 紗枝は、耳元で囁こうと、〈愛結〉の近くへ降りた時だった。誰もいないはずの店内に、何と藤陵が現れた。

「あ、店長。おはようございます。いらしてたんですか」

「ああ、ちょっと仕事があってね。早くから、ご苦労さん。他の奴らは何してる」

「ああ、控室で仮眠してます。自分は、興奮して眠れなかったので、勝手に掃除に来ました」

「ああ、良い心がけだ。じゃ、よろしく頼むよ」

「はい」

 何気ない会話をした後、〈愛結〉は控室へ戻った。しかし、藤陵の不気味な笑いには気が付かなかった。その夜、初めての【ホスト】の仕事を終えた〈愛結〉が、次のショウに備えて着替えようとしていた。他の男共が先に着替えるように、わざと遅く控室に入った〈愛結〉が、スーツを脱ぎ、まさに下着を脱ごうとしていた時、控室の陰から、じっとその姿を見つめる目があった。何やら気配を感じた〈愛結〉がパッと胸を隠すと、その目は不気味に微笑み、部屋に戻って行った。着替えてフロアを掃除していると〈愛結〉は、藤陵から呼ばれた。フロアー担当の陣内が、

「おい、新入り。専務がお呼びやで。今すぐ、来い、って」

「は、お、俺ですか」

「そうや、お前をすぐ呼べって。早う行けや」

「はい」

 怪訝な思いで、専務室のドアをノックする〈愛結〉。

「どうぞ」

 中では、デスクに両肘をついて、口を両手で覆った、藤陵がいた。その目は、嬉しくてたまらないように、真ん丸だった。

「何でしょう」

「呼んだのは他でもない。君は、顔が良いのはもちろんだが、体つきも、筋肉の付き方がバランスよく、私のタイプなんだ」

”ぎょ、ぎょえ、こいつ、男好き”

 <愛結>の顔から、笑顔が消えた。デスクから、ゆっくり前に出ると、〈愛結〉の真ん前に立った。そしてそのまま壁まで肩を押し、壁に押し付けた。そのまま

「本当の名前を教えなさい。カワイ子ちゃん」

 と、不気味な笑顔で言う。

「は。何の事でしょう。お、俺は、ほ、細谷」

「知ってるんだよ。お前が女って事は」

 〈愛結〉の言葉を遮って、藤陵が言う。

”なぜ。なぜ、知ってるんだ”

 〈愛結〉は、びっくりして、言葉が出なかった。

「ふふ。図星だったか。カワイ子ちゃん。子ネコちゃんだな」

 そう言うと、右手で顎を下から持ち上げた。

「今日、掃除の後、トイレに行ったね」

 そう言われて、〈愛結〉は今朝の事を思い出した。

”そう言えば、掃除の時こいつと会って、そのあと、確かにトイレに行った。でも、それがなんだ”

「ええ、行きましたが」

 ニヤッ、と嫌らしい笑みを浮かべると、勝ち誇ったように言った。

「その時、どっちのトイレに入ったかい。もちろん、男性用だよね、俊君」

 そう言われて、〈愛結〉は顔から血の気が引いていくのが分かった。

”しまった。つい気を抜いて、女性用に入ってしまった”

「しかも、第二部に入る前の着替えでは、なぜ、一人だけで着替えたんだ」

”畜生。そんな所も覗いていやがったのか”

 〈愛結〉は地団太を踏む思いだったが、下を向いただけだった。

{まずい、こいつ。すべて知ってるのね。何とか、この男の女になるのだけは、止めないと、共犯者にされてしまうわ”

 そんな間にも紗枝は、不思議なパワーが、どんどん湧いてくるのを実感していた。

”何か出来そう。〈愛結〉ちゃんのために、ようし、いっちょやったるわ”

 そう腹をくくって、今にも藤陵に飛び掛かろうとした。

「こんな可愛い男がいるなんて、と、びっくりしていた。だが、名前がすんなり出てこない。胸の発達が、大胸筋のとは違う。怪しいと思っていたが、やっぱり女だったとはなあ。俺は、男には興味ねえ。お前みたいに、すっきりした女が大好きなのさ」

”マジい。バレバレだぜ。どうするんだよ。俺、食べちゃう気”

 冷や汗をかきながら、下を向いていると、

「ま、すぐにものにするつもりはない。ゆっくり、観賞してからいただく。それまでは、私の付き人になれ。いつでも私の側にいろ。その代わり、給料は、あの看板通り出す」

 と言う言葉を聞き、〈愛結〉は、紗枝の心配をよそに、

”わお。一晩三十万。俺、男になんて興味ねえけど、学費のためだ。我慢だ”

と、心の中で叫びながら、

「分かりました。ありがとうございます」

 と、その場を取り繕うことができた。

{危ない、危ない。勇み足をするところだったわ}

 紗枝も、一安心だ。しかし、いつ急に襲ってくるか分からない。それまで、<愛結>をしっかり見つめておくしか無かった。そうして、藤陵の付き人になった<愛結>は、店にちょっと顔を出して、ホストの真似をしては、彼の部屋にいて、彼の身の回りの世話をしていた。

”いつ、俺を食べに来るのか、それだけが不安だな”

<愛結>は、迷っていた。金は欲しいが、専務に見染められ、そのうちに愛し合おう、と言われている。自分にはまったくその気は無い。しかし、働かない訳には行かない。

何しろ、毎日三十万の収入は、何と言っても魅力だ。恐る恐る藤陵の世話をする毎日だった。ところが、同じ時に採用された、仲間の様子がどうもおかしい。毎日【ホスト】の時間にちょっと出て、あとは藤陵の部屋に引っ込んでいた<愛結>だから、知らなかったのだ。

実は、【ホスト】だけではなく、第二部でダンスショウ、と称して【下着野球拳】や【裸踊り】をさせられていたのだった。【野球拳】では、女性の下着を着た男共と、客のお姉さんたちがじゃんけんをして、勝った方が、負けた相手を脱がせていく、と言う、ごく一般的な遊び。しかし、男共は、女性用の下着二枚である。対して客の女性は、負けたら指輪、時計、ピアスやイヤリング等貴金属から外していく。圧倒的に男が不利である。しかし、それが客には大うけだった。裸になったら、そのままセリのように、ステージの真ん中で、客から金額を言ってもらい、それがお花になる。しかしまるで晒し者だ。しかも、セリの金額は十円から始まる。わざと一円ずつ上げて、長い時間を裸の晒し者として、ステージに立っている。赤っ恥も良い所だった。次は、パンツ一丁になって、腰ふりダンスを踊ったり、フレンチカンカンよろしく、パンツ一丁のまま、並んで足を上げたりするらしい。挙句の果てには、その恰好のまま客席の周りを、腰振りで回るらしい。

その時の、『お花が多ければ、三十万も夢ではない』と言う事が真相だった。そして、その場でお客のおばちゃんに、急所を握られてそのままお持ち帰りになったり、パンツを脱がされて、札束をお尻で挟んだだけ貰える、と言うゲームをさせられたりした。

そして、そのおばちゃんが来ると、そのおばちゃんのお気に入りになり、毎回、そのゲームをさせられると言う。しかし、させられる方も、結構な金額になるため、やむにやまれぬ状態だそうだ。ただ、三十万を超えると、それから超えた分は全て、店側の分となる。この分をねらって、わざわざ【ホスト】を集めたと言う訳だった。そして金を持っている熟女を対象としたのだった。

『一晩、三十万』なんて、あんな事をして、の【三十万】じゃねえか。基本給って、十万いかねえし。労基法に触れるんじゃねえか」

「そうだよ、体(てい)のいい事ばかり言いやがって。くそったれが」

「法に触れるね。確か、最低賃金て、自治体で決まってるんだよ」

 さすが、元公務員の自衛官上りが言った。

「どう言うこったい」

 みんな、ブチ切れ寸前らしく、鼻息が荒い。

「労基法によると、各自治体で最低賃金は決めることになってるんだよ。東京だと、最低賃金は時給千円より下。でも、月二十五日働いたとしても、十七万はもらえるはずだからね」

「だよな」

「おかしいじゃん」

 そっと、控室に行ってドア越しに部屋を覗いてみた。すると、服を着ながら、文句たらたらだ。

”そうだったのか。だから、最近、みんな機嫌悪そうだったんだ。それにしてもひでえ話だ”

「まったくだ。俺、明日、辞めようっと」

「おいおい、正気かよ」

「何だよ、悪いって言うのか」

「いやいや、あの契約書って、ようく見たか」

 元公務員は、落ち着いている。

「そんなのいちいち見るかよ」

 あちこちで、イライラしている声がする。それを制して言ったのは、経済学専攻の大河内安だった。

「そこがあいつらのねらいさ。みんな、その場で合格させて喜ばせ、文書なんか見る気にさせないのさ。※印で横っちょに小さく書いてあったぜ」

 ズボンを履く手が止まって、みんな経済学専攻の男の言う事に耳を傾けている。

「いいかい、良く聞けよ。読むからな。【※私達は、仮採用期間者として、この契約期間、内容を厳守します。もしこの契約に違約した場合、研修費として借用した一千万は、その場で返済いたします】どうだ」

「ええ、そんな事書いてあったか」

「お前知っていたなら、何でもっと早く教えなかったんだ」

 別な男からもっともな追求だ。すると大河内は、

「俺も、契約終わってから気が付いたんだ。自分がもらった契約書を読み直していたら、分かったのさ。就活の時に、さんざんこういう目に遭ってたから、もしかして、と思って」

 横で化粧をしていた男は、読み上げた男の手から契約書をひったくると、目を皿のようにして読んでいた。すると元公務員が、

「やばい。試用期間、いわゆる仮採用。つまり、最低賃金を削ってもいい対象者ってことだ」

 と、目を丸くして呟くように言った。

「な、何だよ、こりゃあ。詐欺じゃねえか。しかも、〈研修費一千万〉を借用しただと」

「勝手に研修させといて、勝手に借金とは、合点がいかねえよ」

「ようし、今から社長を袋叩きだ」

「引っ張り出しに行こうぜ」

「よっしゃ、行こう行こう」

「おいおい。ちょ、ちょっと待ってくれよ」

「何だよ、邪魔するのか」

 すると、今度は元派遣で旗振りをしていたと言う、楠野が言った。派遣では良くこう言う、パターンが多いと言う。

「いやいやそうじゃない。『一晩、三十万』の後ろの方は」

「何だよ、また何か書いてあったのかよ。まったくう」

 ブーイングの中で

「いいかい、読むよ【※一晩、三十万の可能性は、かなり低い事を自覚しています。したがって三十万は、自分で客を見つけて稼ぎます。これらを了承したうえでサインします】これだぜ。俺も、別な奴から言われて読んだら、このざまだ」

「じゃ、一晩三十万って、そう言う可能性もある、ってことか」

 みんな、ごうごうの非難の嵐。

「おばさん達に、お持ち帰りしてもらうか、あんな踊りして、パンツに金、挟んでもらってよ。あれで可能性があるって事、それを承諾します、か。はああ」

「『はああ』、だ」

 かつて【エンタの神様】に出ていた、まちゃまちゃのパフォーマンスの声だった。

「何だよ。にっちもさっちも、行かないじゃん」

「この契約書がある以上、どうだろう。頭を冷やして良く考えてみな。社長をぶん殴ったりしたら、警察行きだぞ」

 元公務員は冷静だ。

「しかしよう、このままじゃ俺達、好きなように使われるだけだぜ」

「何とか、力づくでぶっ潰す事はできないかな」

「それだったら、まずあの用心棒を何とかしないと」

ホストの店にも、ニューハーフの店にも、もめる客相手の用心棒がいた。たいていは、金で雇われたチンピラだが、刃物を隠しているので、下手に手出しはできない。

「何とかいいアイデアねえか」

「畜生、今に見てろ」

”やべえ、他の奴ら、半分タダ働きさせられてたんだ。俺も危ねえな『三十万出す』って言ってたけど、本当かどうかわかりゃしねえ。早(はえ)えとこ何とかしないと”

部屋の外で聞いていた<愛結>は、すっかり焦ってしまった。その夜は、藤陵が会議と言って出ていたので、藤陵の部屋から出て、店の様子を見てみた。なるほど、第一部のホストが、女性客の相手をしている。中には、まだ一部なのに、すでに綺麗なホストの品定めを、始めている客もいた。紗枝も話を聞きながら、焦っていた。

“こんなひどいことしてたのね。許せないわ。何とかできないかしら”

 <愛結>のピンチが分かるので、何とかしたいが、危険な状態に無い〈愛結〉に対しては、紗枝にどうする術も無かった。

 愛する妹の<愛結>が、冷や冷やしながらも学費を稼いでいる時、その兄貴は、何らいいアイデアも浮かばぬまま、仕事に就いていた。午後七時の開店と同時に、ぼちぼち客が入りだす。<翔>も、前の店で慣れているので、男相手は苦痛ではない。女として生活していきたい。ゆくゆくは、女性として一生を終わりたいと思っている。そうやって、一週間が過ぎた頃だった。<翔>は、人事部長と言う、辻本に呼び出され、部長室に来た。島田と辻本。どこかで聞いた名前だ。

「まあ、掛けたまえ。君は女の子として、お客さんにとても人気がある。常務がお気に入りだそうだ。今日から、君は秘書だ。常務直々のご指名だから、今夜のうちに、常務に挨拶をしておきたまえ」

「えっ、秘書ですか。どんな事をするんですか」

「常務室へ行けば分かる」

「分かりました」

{常務秘書。お前が。出世したなあ}

 泰介は、自分よりはるかに、出世のスピードが早い<翔>に、驚いていた。

{しかし、あの中河だろ<翔>にも、何か変な手出しをするんじゃないかな。そん時は、俺様の出番だ。安心していいよ<翔>}

 前の店での事は、すっかり忘れたのか、泰介は自信満々だった。<翔>が常務室のドアをノックして入った。

「失礼しまあす。常務、何か、ご用ですか」

 少し甘えた声で、鼻にかけて言った。すると中から低い声で、

「入れ」

 と、答えた。

「常務。秘書って何するんですか」

「まあ、そこへ座れ」

 甘えたような、上目づかいで中河を見た〈翔〉は、言われるまま、デスクの前の椅子に座った。中河は、デスクの前に出て来て、ネームプレートの【HHTP常務取締役・中河】の前に立ち、腕を組んで〈翔〉を見た。その目は、すでに獲物を捕らえて、今まさに牙を立てようとする、興奮しまくった猛獣のような目だった。口からは、危うくよだれを流しそうになり、慌てて拭う。〈翔〉がほしくてたまらない様子だった。慌てたのは泰介だ。

”ヤバいよ、仙人様。ど、どうしましょう。やっぱり、この中河って奴。可愛い男が好きだったな”

 そう思いながらも、天井を右往左往するばかり。

「〈翔ちゃん〉、君を秘書にしたのは、君を僕だけのものにしたかったのさ」

 そう言うと、つかつかっと〈翔〉の前に来て、両肩をつかみ、ウインクした。

”おえっ”

と思いながら、泰介はいよいよ焦った。

”ヤバい、このままじゃ〈翔〉が。〈翔〉には、やりたい事がちゃんとあるんだ。邪魔するな”

 急に肩を押さえつけられ、動けない〈翔〉に、中河は徐(おもむろ)に顔を近づけていく。〈翔〉は、びっくりして動けない。

”ど、どうしよう。ようし、こうなったら一か八か。それ”

 泰介は、電話のベルの音を真似た。

”おっ、やればできるじゃん”

 なんと、泰介に技が増えていた。精進の賜物だ。

「ちっ、電話だ。こんな時に」

 舌打ちしながらそう言うと、デスクの上の電話に出ようとした。その時だ。

”〈翔〉、今だ。部屋から出ろ”

 そう囁いた。〈翔〉は、はっとして、周りを見たが、誰もいない。しかし、取り敢えず言われたとおりに、部屋から出ようとした。

「あ、ちょっと待ってて。すぐ終わるから」

 そう声を掛けた中河は、電話に出た。

「あ、大事な話だとまずいんで、外で待ってます」

 そう言いながら、〈翔〉は部屋の外へ出た。泰介は、この時〈翔〉に必死に囁きかけた。

{〈翔〉、逃げて。お願いだ}

〈翔〉は相変わらず、辺りを見回すだけだ。

{何だよ、気付いてくれよ。おい、〈翔〉、逃げろってば}

 しかし、耳の穴をほじって、不思議な顔をするだけで、その場を動こうとはしない。

電話に出た中河は、相手から何も聞こえないので、怪訝な顔をして電話を置いた。

「何だよ、何も聞こえないよ。変だなあ。確かに鳴ったのに」

 そう言いながら、急いでドアの外の〈翔〉を呼び戻した。するとさらに、欲望の高まった親父は、舌なめずりしながら、〈翔〉をしっかり壁に押し付けた。

「ちょっと、止めてください。私は、そんな趣味ありません」

「何、バカなことを言ってるんだよ」

 スケベ親父と化した中河は、全く聞く耳持たない。どんどん、脂ぎった顔を〈翔〉の、すべすべした可愛い顔に近づけていく。

「きゃあ、嫌ですう」

 両手で顔を覆いながら振りほどこうとするが、体の大きな中河に、力で適うはずがない。

”おいおい、言わんこっちゃない。だから逃げろって、言っただろう。こうなりゃ、俺の浮遊霊生活も、終わっちゃったな。あばよ、〈翔〉。これから後は、俺じゃない、優秀な守護霊に守られてくれ”

 泰介は、現世の人間に直接手を出そうとしたのだった。直接手を出せば、膨大なエネルギーが出る。しかし、その代わり守護霊としては存在できなくなり、永遠の浮遊霊生活になる。敢えて、あの泰介が、ここまでやろうとした。えらい成長ぶりだった。感心、感心。

その、最後の手段に出ようとした時だった。今度は本当に、電話が鳴った。

「何だよ、全く」

 超ムカついた中河は、〈翔〉を横に投げ飛ばし、明らかに怒って電話を取った。

「誰だよ。何の用だよ。あ、すまん、すまん。さっき、間違い電話があって、ちょっとイライラしてたんだ。あはは、そんなんじゃないよ。で、何だ、急に」

”ふう”

 一息ついた。

“だから逃げろ、って言っただろう。もう”

 泰介は、すっかり〈翔〉の守護霊として、責任感が芽生えている。

「えっ、そ、そんな。わ、分かった。今から行くよ」

 乱暴に電話を置くと、まだ、床に投げ飛ばされた時のまま、横になっている〈翔〉の手をつかみ、引き起こすと、

「おい、俺から離れるな。今から出かける」

 そう言って、常務室から出ると、人事部長の辻本に一言声を掛け、あっという間に、車で出かけて行った。後を追いながら

”相当急いでるな。何かあったな。どこへ行くんだろう。ひょっとしたら”

 と、泰介は考えた。すると車は予想した通り、中央道をひた走り、静岡方面に向かった。そして、例の【富岳風穴】に着いた。誰もいないステージを通り過ぎ、二階へ上がると、【幹部室】と書かれた部屋の前へ来た。暗証番号と指紋認証で部屋へ入ると、そこには二人の親父と一人の若い男がいた。中河に腕を引っ張られて、中河の後から、倒れ込むように部屋へ入った〈翔〉。

「おい、どうしたんだ。急用だから、すぐに来い、って」

中河は、息せき切って走ったらしく、ハアハア言っている。〈翔〉はもちろん。立っていられず、床に横になって息をしている。それを見た若い男は、心配して声を掛けた。

「大丈夫ですか。水でも持って来ましょうか」

 それを見た〈翔〉は、ハアハアしながら答えた。

「あ、ありがとう、ございます」

 その時互いの顔を見た。そして二人は、気が付いた。しかし、その前にすでに泰介と紗枝が声を掛けていた。

”〈翔〉兄さんと、〈愛結〉ちゃんです。でも、声を掛けないように。気づかないふりをして”

その声が、今度ははっきり、自分のための声だと察した〈翔〉は、〈愛結〉に合図を送って声には出さなかった。

”<愛結>”

{紗枝さん}

”兄貴”

{泰介さん}

 互いに驚いて、しばらく黙って見つめ合っていた。そしてやっと、〈愛結〉が水を取りに行った。しかし、この二人の行動は、三人には見られていなかった。三人は、テレビを見ていたのだ。その間隙を利用して二人は、部屋の隅で、テレビの画面に見入る三人を尻目に、ひそひそとこれまでの事を話していた。

「何やってんだよ」

「いやあ驚いた。兄貴こそ、何やってんだよ」

 驚いた二人は、【幹部室】で、中河と藤陵、それに大伊太が絡んでいるらしい悪巧みを、互いに報告し合っていた。二人の守護霊である泰介と紗枝も、久しぶりに会って、こちらも二人で、これまでの事を報告し合っていた。

 特に紗枝は、三人の関係まで知っている。その細かな内容まで、泰介に逐一知らせた。泰介は、その三人が自分とどんな関係なのか、まだそこまでは、掌握できていなかった。三人が食い入るように見ている、テレビの画面には、

『悪徳業者、緊急踏み込みにより、摘発。組織ぐるみの犯行か』

 と言う見出しで、スクープが報道されていた。しかも、国営放送が、臨時ニュースを出していた。

[繰り返します。先ほど入ったニュースです。最近、行方不明者が続発していた渋谷、新宿近辺の、不審な事件ですが、行方不明者の一人とみられる男性が、新宿二丁目にある、風俗店まがいの店で働いていた事が判明しました。新宿警察署と警視庁が、合同で捜査を行っています]

その後のインタビューには、中河の店の、常連客のおばさんが出ていた。話によると、『持ち帰った【ニューハーフの男性】が、自分の要求を断ったうえ、多額の前金を持って逃げた』と言う事だった。そこで、このおばさんが、警察に乗り込んだらしいのである。

「おい、やっちまったな。とうとう」

 藤陵が言う。

「どうする、大伊太」

「お前、どうする」

「早いとこずらかろうや。パスポートも、あいつらの分は俺が持ってるし」

「中河はどうする」

「俺は、この前言ったように、お前や藤陵とはもう、別行動取るよ」

「残った男共はどうする」

「ふん、房総の沖に沈んでもらうか、例の炎で一緒に焼けてもらうか、だな」

「ちょっとそれも酷(ひで)えな」

「今更、酷(ひで)えも何もあったもんじゃねえよ。さっさと、とんずらさ」

「そうと決まりゃ、早いとこずらかろうぜ」

{大伊太、中河、藤陵。何だか、どこかで、聞いたような記憶があるぞ。ちょっと待てよ}

 泰介のシナプスが動き始めた。名前を繰り返す。まるで、コンピュータの計算のように、ぱちぱちと、シナプスの手がつながり始めた。そして、あっという間につながった。そうだ、忘れもしない、あの三人組だ

{思い出したあ}

{ど、どうしたんですか。そんな大きな声を出して}

 紗枝がドン引きするくらい、大きな声で泰介は叫んだ。名前を変えてはいるが、読み方は同じだ

{さ、紗枝さん。あいつらだ。そうだ、姿や名前は変わっても、声や仕草は変わらない。俺を海に連れて行って、まるで女子との話の【だし】に使った、同級生のあいつらですよ}

{ええっ、やっぱり。ひょっとしたら、と思ってました}

 そう言うと紗枝は、富士岡の話を全部話した。すると、泰介に初めて、オーラのような光が一瞬見えた。守護に対する気持ちが、やっと真剣になった証の、オーラだった。一般的には守護霊となった瞬間に見えるものだが、泰介に至っては、やっとこの時点で見えたのだ。

{ふざけるな。ようし、紗枝さん。こいつらを、何としても警察へ引き渡しましょう}

 すると今度は、人間同士の激しいやり取りが聞こえた。

「何だと。俺の女にならない、って言うのか」

「あったりまえだよ。あたいは、元々、男には興味ないんだよ。お前が金くれるって言うから、そのフリしてたんだけど、あんな汚い事までやってたなんて、全然知らなかったよ。そんな奴らの女になんか、なってたまるか」

〈愛結〉が富士岡に啖呵を切った。富士岡はあまりの事に、怒りでわなわな震えている。すると那珂川が、〈翔〉に、静かに聞いた。

「お前は、俺と一緒に行くよな」

 〈翔〉は、首を横に振った。

「えっ」

 その答えを聞き、那珂川は〈翔〉の方へつかつかと近寄って行った。そして、その腕を強引につかもうとした。そのまま、無理矢理に連れて行くつもりらしい。その時だ。

那珂川の股間に、急所蹴りが決まった。〈愛結〉が綺麗に決めたのだ。那珂川は、股間を押さえたまま、一言も発せず、ガクッと膝から崩れ落ちた。

「あたいを知らないと見えるね、おっさん。おい、親父。あの禿げ頭に言ってやれよ。俺が面接の時、何て言ったかよお」

 そう言われて富士岡は、面接の時を思い出していた。

「あっ、お前」

「へっ、思い出したかい」

「こ、こいつ、空手やってたんだ。一筋縄じゃ行かないぞ」

「うわ、空手。な、那珂川。わ、こいつ、気絶してるじゃねえか」

 那珂川は、目を白黒させ、口から泡を吹いている。

{〈愛結〉って、凄いなあ}

 泰介は、この場でも、他人事のように感心している。

「お、おい、まずいぞ。あいつらを呼んでくれ」

 大井田が、富士岡に言った。すると富士岡は、

「ふ、分かった。ちょうど、逃走用に四人ほど呼んでいたんだ。もうすぐ着く頃さ。こ

うなりゃしばらく、静かにしていてもらおうか。そして腕ずくでも連れて行くぜ、カ

ワイ子ちゃん」

 不気味な笑いを浮かべ、右指をパチ、パチ鳴らしてタバコを取り出と、徐に火をつけた。そして、ゆっくり吸い込むと、白煙をふうっと、吐き出した。薄暗い部屋の中で、富士岡の顔だけが、やけに白く浮かび上がる。

{紗枝さん、どうしよう}

{泰介さん、どうにかしてくださいな}

 泰介は、さっきまでのオーラはどこへやら。あのオーラは、何回か使ってみないと、うまくコントロールは出来ない。ついさっき、オーラをつかみ取った泰介は、まだまだうまく使えない。残念ながら、天井をおろおろ飛び回るだけ。

{泰介さん、しっかりして}

 泰介がおろおろしている間に、どやどやっと、階段を上る音がした。すると富士岡は

「おっ、ちょうど良かった。セキュリティ切るよ」

 そう言うと、デスクの下のボタンを押し、セキュリティシステムを解除し、外の人間を、部屋の中へ招き入れた。

「おう、待ってたぞ。ちょうど、腹ごなしの運動にピッタリの相手がいる。可愛がってやれ。その代わり、怪我させるなよ。安全な場所に連れて行って、薬打って、俺のモノになってもらうからな。ふふ」

{薬。ひょっとして、麻薬}

 泰介は、紗枝と顔を見合わせると、その事を確認したように、互いに頷き合った。

「上等じゃん。どうせ汚ねえ金で雇われた、用心棒だろう。俺が相手だ」

 〈愛結〉は、鷺立ちの構えで、眼光鋭く腰を落とした。

「何を。小生意気なあ。可愛いからって容赦はしねえ、ぼこぼこにしてやるぜ」

 すると慌てて 富士岡が、くぎを刺した。

「おい、聞こえねえのか。怪我の一つでもさせてみろ、お前らを沈めるからな」

 それを聞いた用心棒は、

「ああ、こりゃ済みません。可愛がるだけですよ」

「じゃ、いっちょ、やったるか。それ」

 そして、いきなりビンタを張って来た。しかしその張り手を、軽くかわす〈愛結〉。

今度は別な方から、やっぱりビンタだ。パンチはなかなか打てない。しかし、これもまた、軽くかわす。だんだん苛立ってくる男達。富士岡と大井田は、その間に那珂川を起こす。

{紗枝さん、〈愛結〉ちゃんがピンチになったら、手助けしてください。僕は、〈翔〉を何とか逃がすように、努力してみます}

{分かりました。泰介さんも、気を付けて}

 この場になって、やっと泰介のリードが様になって来た。しかし、さっきから〈翔〉は床に座り込んだまま、〈愛結〉の戦いを見ているだけだった。

{〈翔〉君、さあ、行くよ。〈愛結〉ちゃんが戦っている間に、外に出て警察に通報だ}

 そう囁くと、初めて〈翔〉が反応した。

「そうだ。誰か知らないけど、ありがとう。こんな事してる場合じゃない」

 ぱっと立ち上がった。

{よし、その調子だ}

 泰介も、やっと調子が出てきた事を実感した時だ。

「おっと、どこへ行くんだい、彼女」

 大井田が、その手をぐっと掴んだのだ。

「何するんです。離してください。離せ」

「そうはいかないね。すべての秘密を知ったからにゃあ、返す訳にはいかないねえ」

{くそお。何とかしなきゃ}

 泰介は、大井田に何らかの対策を考えた。ところが、その前に<愛結>が、用心棒どもに囲まれてしまった。壁際にじりじりと追いつめられている。そこでついに、〈愛結〉得意の必殺前蹴りが、正面の男の顔面を蹴り上げた。男は吹っ飛びノックアウト。それを見た残りの三人は、

「畜生、ふざけやがってえ」

 と、見境も無くパンチを打って来た。〈愛結〉よりも二十センチ以上背が高く、体重に至っては、三倍近くあるのではないか、と思われる体格の男達だ。三方からパンチを繰り出し、〈愛結〉の蹴りや突きをはね返す。さすがの〈愛結〉も、疲れてきた。しかし、この中に紗枝が入る余地は無かった。おろおろしているうちに、三人に掴まれ、動けなくなってしまった。

「こいつら、ここまで知ってるんだ。下手に、東京には連れて行かないで、しばらく楽しい部屋に閉じ込めておけ。ほかの奴らの始末が終わったら、房総の沖にでも沈んでもらおうか。おとなしく、俺に抱かれてればいいものを。ふふ」

 富士岡は、不気味に笑いながら、用心棒にあごで指図した。すると用心棒は、〈翔〉と〈愛結〉の二人を、がっちり捕まえたまま、部屋を出て階段を降り始めた。さらに富士岡は、どこかに電話をかけた。

「おい、まだか、急げ。こっちも、ちょっとややこしくなってきた。早く、残りを始末して、ずらかるぞ」

 相手は、仲間らしい。ここから、逃げようとしているのだ。

{おい、止めろ。何て事するんだ。止めろってば}

 聞こえることは無い声で、泰介は、用心棒どもに必死に叫んだ。

{どうせ聞こえないでしょ。地下室あたりじゃないですか。仕方無いから、そこで考えましょうか}

 紗枝が言うのも聞こえないくらい、泰介の正義感は燃えていた。

{沈んでもらう、って、殺されることじゃないか。そんなの駄目だ。許さないぞ}

そして泰介は、あろうことか、用心棒の一人に掴みかかって行ったではないか。四人とも、頭を剃り上げ、サングラスをして、プロレスラーのようにがっちりしている。

元々弱気な泰介が、でかい男になんと掴みかかっていった。何とかして<翔>の命だけは守りたい、と言う強い気持ちが、芽生えていたに違いない。ただ、考えてみれば、今の泰介に守れる可能性は、とても薄かった。囁くか、音真似をするかしか、できないのだから。そして、やっぱりと言うか、らしいと言うか、打算的な気持ちも、若干否めなかった。なぜなら万が一、<翔>の体を、房総の沖にでも沈められでもしたら、堪ったものではない。守護霊としての責任を果たせない事になり、浮遊霊になって彷徨(さまよ)うはめになる。そうなってしまうと、現世に戻れる可能性は、限りなく低くなり、万が一の可能性に掛けて、【補助霊】に助けを待つか、素直に反省して地道に【六道】からやり直すか、と言うくらいしか、術は無い。

{おらあ、食らえ}

しかし、悲しいかな、気持ちだけではどうしようもなかった。ハエか、蚊が止まったくらいの感覚で、簡単に払いのけられた。ところが今回の泰介は違う。

{おらおらあ。負けてなるものか}

跳ね返されても、ブッ飛ばされても、はげ頭に掴みかかって行く。そしてかきむしる。一人にやったら、今度は別な一人に。何度も、何度も繰り返す。やはり、命を取られると言うことを明言された上に、みすみす見逃していては、いかに情けない自分でも、それこそ仙人にきつく言われた【守護霊としてのプライド】が許さなかった。少しは成長したのだろう。それを見ている紗枝も、泰介の心の変化に、自分の気持ちが魅かれているのを感じていた。何回も体当たりを繰り返しているうちに、用心棒も、何かおかしい事に気が付いた。実は浮いている、本来は見えない幽体が、ぼんやり浮き上がっていたのだ。

「な、何だ、てめえは」

{しまった。体が見えてしまったのか}

「何だ、こいつ。化け物か」

{もう、こうなりゃ構うもんか。え~い}

 空中から、映画のゴーストバスターズのように、さらに何回も体当たりして行った。

そのたびに、用心棒は手で払いのける。そして、また体当たりして、はげ頭をかきむしる。これを、四人に繰り返していった。そのたびに、泰介の薄く透き通った体の輪郭が、だんだんはっきりしてきた。ところが、輪郭がはっきりしてきたために、用心棒や<翔>、<愛結>達、現世の人間には、その姿が幽霊のように見えて来た。

 一般的に守護霊は、現世の物に直接接触したり、現世の生物と、直接何かのやり取りをしたり、してはいけない決まりになっている。現世とは一線を画して、守護をしていかなければならなかった。実は、守護霊の上に【補助霊】と呼ばれる、ワンランク上の霊がいる。辰夫を救った霊だ。この【補助霊】になると、その役目上、現世の物との接触ややり取りが可能になる。泰介は、その【補助霊】の範囲までやってしまったのだった。守護霊としての決まりを破った者は、泰介のように、体が徐々に現世の者に見えてきてしまう。そして、完全に見えた時、守護霊としての役目を終わり、一気に【六道】の【地獄~餓(が)鬼(き)~畜生~修(しゅ)羅(ら)】と修行を重ねる事になる。現世への輪(りん)廻(ね)は、そのあと【釈迦】、【閻魔】の面接・適性検査を経て合格すれば、【カミューン】の許諾が降りる。そして【天輝凜】から【水天宮】への行幸が許される。現世で言えば数百年はかかる。気が遠くなるような数字だ。

{わあ。何だあ、こいつ。お化けえ}

 普通の人間が、ふわふわ浮きながら話している。<翔>も<愛結>も、そして用心棒達も、目が点になった。

{た、泰介さん}

紗枝は慌てた。両手を胸の前で組み、祈るように、心配そうな顔で泰介を見ていた。守護霊の二人以外は、全く何が起きているのか理解できない。

「くそお、化け物め。捕まえてやる」

{ひえ、助けてえ}

 泰介は、頭を抱ええると、ふらふら落ちてきて、床にしゃがみ込んだ。さすが、がっちりした強面の力持ちだ。一度はびっくりしたものの、泰介を捕まえにきた。

{泰介さん、逃げて。捕まっちゃう}

「おら、こいつ」

 そう言いながら、両手で掴もうとした。しかし、もちろん、実体の無い体だから、捕まえる事はできない。すると、その事に今度は本当にびっくりしていた。

「お、おい、こりゃ本物の幽霊だぞ」

「わあ、ゆ、幽霊だあ」

「逃げようっと。バイバ~イ」

「わお、待ってえ。置いてかないでえ」

 さっきまでの威勢の良さはどこへやら。何と、<翔>と<愛結>を放り出してさっさと逃げ出してしまった。

{泰介さん}

{紗枝さん、さようなら。僕は多分、もうそこには戻れない。このまま、仙人が言ってたように、ずっと浮遊し続けるよ。はあ。守護霊になっても、やっぱり駄目だった}

{泰介さん、そんな}

 紗枝は、思わず口にした。がっかりとうなだれて、しゃがみ込んでいる半透明の泰介。紗枝は、上から見守る事しかできない。しかし、<翔>と<愛結>には、半透明の泰介が、ぼんやりにしか見えない。しかも、誰か知らないが、空中の何かに向かって、訳の分からないことを喋っている。二人は、異様な光景に、歯の根が合わなくなった。

「あ、兄貴」

「<愛結>。に、逃げよう」

「この男、いったい何者だよ」

「知らない。でも、私達を助けてくれたみたいね」

「そんな風に見えたけど。仕方無い、悪いけど、早いとこ逃げ出そう」

「ごめんね」

 二人は、助けてくれたらしい事は分かったものの、やはり、意味が分からず、その場を去ってしまった。

{あ、〈愛結〉ちゃん、ちょっと待って。泰介さあん}

 そう言うと、二人は事務所の三人に気付かれないように、急いで階下へ降りると、外に出るドアの所に来た。さっき富士岡が、

”セキュリティを解除する”

と言っていたが、サーチライトや防犯カメラ、鉄条網などは、どうなっているのだ

ろう。二人は、疑心暗鬼でドアを開けた。すると、百メートルほど先に、門が見える。

そこが多分、出口だろう。

「兄貴、どうするよう」

「行ってみましょうよ」

「よし、行くか、ゴー」

 そう言うと、二人は手をつないで、門に向かって走り始めた。その時だ。ピカーッっとサーチライトが光り始め、同時にサイレンがブザーの音のように、ウーッ、ウーッと鳴り始めた。それと、ほぼ同時に、開いていた門が閉じ始めた。

「ああ、ちょっと待ってえ」

 必死に走る、二人の願いも空しく、ガッシャーン、と言う大きな音と共に、門はその固い鉄の扉を閉じてしまった。

「あいつら、どうやって」

 事務所で、モニターに映し出された二人を見て、三人は驚いていた。しかし、すぐに不敵な笑みを浮かべ、

「もういいだろう。女や男は、ほかにいくらでもいるぜ」

 大井田が言うと、那珂川や富士岡も、観念したように頷いた。

「じゃ、付けるぞ」

 そう言うと、デスクの下の、別なボタンを押した。すると事務所の周りを、硬質ガラスでできたドームが覆い、どこからか火の手が上がった。その火の手はみるみる広がっていく。

「や、やべえ。火を付けたぞ。俺達を焼き殺す気だ」

「うわ、熱そうよ」

 ここまできても〈翔〉はやっぱり女。〈愛結〉はやっぱり男だった。

「あったりまえだよ。どうしよう」

「やだあ、肌が黒くなって死んじゃったら、最悪う」

 〈翔〉は、この期に及んで、肌の心配だ。

「なに、バカな事言ってんだよ。この期に及んで、そんな事より、生死を考えろ」

 ほら〈愛結〉に怒られた。ところで、追いかけた紗枝は、火を見ると焦った。

{泰介さん、大丈夫かしら。でも、もうそれどころじゃなくなったわ。どうしよう}

紗枝は、二人の上に浮かんで、迫りくる炎対策を考えていた。

その頃、取り残された泰介は、その場を動けずにいた。なす術も無く、しゃがみ込む泰介。そこへ、突然声がした。この三人の、恐ろしい計画に気付かない泰介。その仕事ぶりを心配していた辰夫は、自分の役目が終わっても、このアホな守護霊の行く末を心配していた。そして、【指導霊】にお願いして、【補助霊】に見張らせていたのであった。案の定、自分の担当の<翔>を守れずに、浮遊する危機になっている。【補助霊】の報告は、やはりしばらく研修させるべきだ、と言う内容だった。その間の<翔>の守護は、【補助霊】が見ると言う。その報告を受けた【指導霊】は、早速、泰介の前に現れた。

{おう、泰介。元気かな}

{おい、偉そうな口きいて。あんた、誰}

 突然、呼び掛けられた泰介。しかも呼び捨てだ。がっくり来ている時に、このため口。カチンときた。仙人には、存分ため口を聞いていたくせに、自分に言われると、嫌なのか。それとも、そのため口が気になるように、成長したのだろうか。その声の主は、白く、長い髭を胸まで伸ばし、白髪のぼさぼさ頭。どう見ても、偉そうには見えない。白いしわくちゃの服を、腰付近で麻縄のような紐で縛っている。右手には、くねくねの棒。

{聞きしに勝る、ダメ男だな}

 長い髭を触りながら、口元を緩めて言った。

{ちょっと、ちょっとあんた。失礼なあ。人にため口聞いといて、なんちゅう奴}

{ほほう、これで彼も苦労したのか。【閻魔】にしっかり言って聞かせないといかん}

{ほ、偉そうに、【閻魔】だってさ。あの恐れ多い【閻魔】様に向かって。おい、どこの爺さんか知らないが、もう少し、口を慎んだが良いぞ}

{ほお、さすがに【閻魔】様が恐れ多いとな。そこは分かってきたようじゃな。仙人も大変だったなあ}

{何、仙人様を知ってるのか}

{ああ、おかげさまで、おまえの仕事ぶりをしっかり見せてもらったよ}

{おお、懐かしい仙人様}

{相変わらず、調子がいいなあ}

{何い。何だよ、調子がいいって。失礼な}

{今、困ってるんだろ}

{お前、腹立つなあ。その言い方。ああ、確かに困ってるよ。だから何だ}

 床にふにゃふにゃになったまま、泰介は、口だけはまだ働くと見える。

{困ってる時だけ、口が上手になります、って彼は言ってたけど、確かにそのようだな}

 誰から聞いているのか、その爺さんは泰介の性格をバッチリ当てる。

{へん。悪いね。でも、仙人様を尊敬しているのは、今は間違いない}

{へえ、成長したな、お前も}

{だから、何だよ。何とかしてくれるとでも言うのか}

{用があるから来た。仙人の依頼でな}

 爺さんは、髭を撫でながら、ボソッと言った。すると泰介は

{何、仙人様の依頼だって。じゃ、彼は}

 ふにゃふにゃのまま、驚いて言った。

{あんなまじめな霊はおらん。おかげさまで、二年前に現世に戻ったよ。しかも、【カミューン】様のご指名で、イケメンでまじめ。金持ちのボンボンの家に生まれたよ}

{へえ、いいなあ。それに比べ、俺は、浮遊霊か。ああ}

{たわけえ}

大きな声に、泰介は軽く吹きとばされ、部屋の壁にぶつかった。しかし、紙みたいな体なので、痛みは無い。

{凄え声だな、爺さん。たまげたよ}

 外にいた紗枝にも、聞こえるくらいの大声だった。

{まだ、分からぬか。このたわけ者が。ワシは、守護霊を取り仕切る、指導霊の王【アンバイジングゼーレ】じゃ。何で、ワシが直々に、お前ごとき不束者に近寄ってきたか、ようく考えよ}

 泰介は、ビビってしまった。全国に、現世の人間の数と同じ数の守護霊、そして修行する守護霊、そして、泰介が本来ならなるべき【浮遊霊】、そして、その【浮遊霊】や守護霊、現世とのやり取り、接触をしてそれを伝える【補助霊】。それらの何千万、いやおそらく一億以上の霊を、一手に取り仕切る【指導霊】の王【アンバイジングゼーレ】が目の前に現れたのだ。

{ひ、ひえ。そ、そのようなお方が、何でまた私目のような物の前に、現れてこられたのでしょう}

{まったくう。有難く思え。仙人の頼みだからじゃ}

{ええっ、仙人様ってそんなに偉かったのですか}

{いや、元々は、まったく普通の守護霊じゃった。しかし、現世の時の生き方と、お前に対する守護の仕方が、守護霊の手本のようなものじゃった。一つの命を大切にしておったからな。お前のように、『あれは男じゃないから、守護をしたくない』など、口が裂けても言わんじゃろう}

{ば、ばれてたのですか}

{あったりまえじゃ。『天(てん)網(もう)恢(かい)恢(かい)疎(そ)にして漏らさず』仙人が言ったじゃろう。お前ら如き者の行動は、一を聞けば百も分かるわい。そこで、彼の守護の様子を見た【カミューン】様は、現世に戻すより、私達、神や仏の仲間に招き入れ、人間界の繁栄を支えさせようとされた。しかし、彼はもう一度だけ現世に戻って、前世で出来なかった恋愛の成就を果たしたい、と願い出て、もう一度だけ現世に戻った。そのような立派な存在が、お前のようなヘぼを心配するからな}

 【アンバイジングゼーレ】は、長い髭を摩りながら、思い出すように目を閉じて言った。話に聞き入っていた泰介は、改めて仙人様を尊敬したのだった。

{分かりました。そう言う方なんですか}

{そうじゃ。あの方の進言が無ければ、お前は今頃、確実に浮遊しているはず}

{はあ。そうですね}

 がっくりうなだれて、弱弱しく話す泰介。

{間一髪のところで、浮遊するのを免れた、お前に残された選択肢は二つ}

 ハッと、顔を上げ、【アンバイジングゼーレ】を見た。

{一つは、木から魚、鳥、犬と順番に、それぞれの神の下で修業し、【閻魔】に成果を見てもらうか、もう一つは、仏の道で『六道』と言う順番に修行して、再度【閻魔】に見てもらうかじゃ。お前の好きな方を選べ}

{そんなあ、急に言われても、どう言う事か分かりませんよお}

 泣きそうな顔をして訴える泰介に、面倒くさそうにしながら、それでも【アンバイジングゼーレ】は、一つ一つ丁寧に言った。しかし、内容はどえらいものだった。

{あのなあ、木の神の修行と言うのは、木の守護じゃ}

{はあ、木の守護。何ですか、それは}

{木の寿命が来るまで、木の幹の中で祈り続けるんじゃ}

 ニヤッと【アンバイジングゼーレ】が笑う。

{は。木の寿命が来るまで、と言う事は、少なくとも数十年。へたすりゃ百年近く。屋久杉なんて何千年ですよ}

{そうじゃ}

{そんなあ}

{しかし、それを乗り越えると、修行年数は途端に短くなる。鳥や魚は長くても数年じゃ。但し、鳥は《鶴》、魚は《カメ》をそれぞれ必ず含めるが、な}

 【アンバイジングゼーレ】は、笑いを押さえて、肩が震えている。

{ええっ。鶴は千年、亀は万年って言うじゃないですかあ。参るなあ}

{なあに、修行して入ればそのうちに、【カミューン】様からの使いが参って、修行年数の残りを教えてくれる。何でも、近年早くなっているから、こっちの一年が現世では十年に近付いているらしいぞ。そうしたら早いもんじゃ}

{でも、何億本あるか分からない木の中で、どうやって探すんですか。この俺を}

{ああ、お前は知らなんだか。ほれ、よく現世の人間の話題に、人面魚や人面犬などが有名になった事があったろう。あれが印じゃよ。木も同じさ。人の顔をした木の模様が話題になるじゃろ}

{はあ、なるほど}

 早速泰介の、いい加減思考が動き出した。それを感じ取った【アンバイジングゼーレ】。

{それとも、仏の道に弟子入りして修行するか。こっちも【六道】と言う流れがあって、なかなか厳しいぞ。まして、こっちの修行中は、一つ一つ階段を上がるように、修行の中身をクリヤ―していかねばならぬ。クリヤ―できねば、ずっとそこで苦しみ抜くか、逃げ出して魔の世界へ身を投ずるかじゃ。さあ、ど・う・す・る}

 【アンバイジングゼーレ】は、泰介の顔を下から見上げるように、薄目で睨みながらすごんできた。

{そ、そんなこと言われても、ど、どうすればいいのか、僕には}

 泰介は、相変わらずの優柔不断だったが、ある一言で一気に決心した。

{泰介さん待ってるわ。どんな命も大切だと、分かる日が必ず来るから、頑張って}

 どこからか聞こえてきた、紗枝の言葉だった。

{紗枝さん。どこにいるんですか}

{私、外にいます。〈愛結〉ちゃん達が大変なんです。でも、【アンバイジングゼーレ】様の声は、ここにいても、手に取るように聞こえます。だから、全て聞きました。私、ずっと待っています。早く、頑張って修行して、勇気ある、命を大切にする心の泰介さんになって戻って来て。その日をいつまでも待っています}

{紗枝さん}

 泰介は、紗枝の一言で、

{分かりました。長い時間かかるかも知れませんが、守護霊として役目を頂いた身。再度、守護霊の修行をやり直します}

{ようし、分かった。では、ついて参れ。守護霊の修行場へ行こう}

 泰介は、決心した顔で【アンバイジングゼーレ】につまみあげられるように浮かぶと、すーっと空中へ消えた。その途中、【アンバイジングゼーレ】は、右手をパチッと鳴らした。その瞬間、外にいた紗枝の体に、異変が現れた。もりもり、パワーの湧く感じがして、以前感じた、変な気分になった。しかしその間にも、炎はだんだん二人に迫る。

「ね、ちょっとお、ごめんね。お疲れの所。何か、焦げ臭いんだけど、そうは思わない」

「いいえ、私も思ってたところよ。おかしいわねえ」

 事務所の後ろにある寮には、すでに、新宿の店から連れ戻されている【オネエ】や【ホスト】達が、部屋で待機していた。その周りへも、火を放たれたのだった。

「おい」

 ノックをして、隣のホストに尋ねる一人。

「済まねえ。ちょっと聞くが、このあたり、ちょっと焦げ臭くねえか」

「ああ、確かに臭う。煙だね」

 合わせて百人余りの【オネエ】と【ホスト】達が、それぞれの部屋から外を見ると、すでに外は真っ赤だ。炎が立ち昇っている。

「わあ、何だ、こりゃあ」

「死んじまうぞ」

 それぞれの寮から、好き勝手に外へ出ようとした時だった。

「ちょっと、聞いてくださあい。静かにしてくださあい」

 と言う、女の子の声がした。ぼうぼうと、音を立てて燃えている炎。建物中が人の右往左往する音と、話し声。とても、耳に入るものでは無かった。しかし【オネエ】の建物で何人かは、その可愛らしい妖精のような姿に、目を引かれた者達がいた。

「ねえ、ちょっと、何か、言ってるわよ、あの娘」

「あらあ、可愛い」

 呑気な【オネエ】もいたもんだ。ティンカーベルの姿に、少女のように両手を胸の前で握り、首を少し傾げて、近寄って来た。そう言えば、【ホスト】の建物にも、似たような女の子がいた。こちらも、やはり諦めの早い【ホスト】がいて、その女の娘に興味を示す【ホスト】がいた。

「どうせ、助からないなら、君のような可愛い〈ベイビー〉と、一緒にあの世に行こうぜ」

 などと、手の上に乗せて戯れている。ただ、そのティンカーベルに似た娘は、少し迷惑そうだった。

「君達。騒ぐのは止めて、もう少し落ち着こう」

 と、さすがに、元自衛隊員が言っているが、ほかの者は、それどころではない。

「静かにしてくださあい。ちょっと、聞いてくださあい。お願いです」

 実は、ティンカーベルの双子の妹だった。【オネエ】と【ホスト】の建物に、姉妹で入って、二つの建物の人達を、安全な所へ【ワープ】させようとしていたのだった。しかし、自分が逃げるのでいっぱいの人間達には、声が届かない。何回も言っていたが、とうとう、我慢の限界に来てしまった。

「おらあ。静かにせんかい。われら、大人やろ。おたおたしやがってからにい」

 同時にぶち切れた姉妹は、建物が壊れんばかりの大声で、おろおろしている人間どもを一喝した。同時に姿も、ヤンキーのように、金髪になり、くわえ煙草で、チェーンをぐるぐる振り回している。

「わしらが、助けたるさかい、言う事聞かんかい。いつまでも、いつまでも、がやがや言うとったら、頭かち割って、脳みそチューチュー吸うたるぞお。ええんかい」

 ティンカーベルの、なぜか関西弁の一声に、固まっている大男達。さっきの【ホスト】は、腰を抜かして、目が点になり、少しちびっていた。

「おら、ここにおとなしゅう、並べ。早(はよ)うせんかい」

 そう言われて、小さなティンカーベルの姉妹の前に、すごすごと並ぶ大男達。集まってしまったのを、テレパシーで確信した姉妹は、シューっと、元の姿に戻り、可愛い声で、

「じゃ、皆さん、行きますよ。静かにしててくださいね」

 と言うと、一瞬でその姿は消え、富士吉田消防署の駐車場に、テレポートした。【オネエ】も【ホスト】も、訳が分からず、虚ろな目をして座り込んでいた。驚いたのは、署員だ。いきなり変な格好のおじさん達が、空から降って来たのだ。悪夢を見ているようだった。宿直の当番は、日誌を書いていたが、そのまま、固まってしまった。

「ああ、ちょっと、可哀想な事しちゃったかな」

 ティンカーベルの双子は、顔を見合わせると、市立病院に電話して、これから診察に行く、と言う事を、代わって伝えてやった。

「さ、後は、大丈夫でしょ。戻ろうか」

 そう言って、悪党どもの巣窟へ戻って行った。

紗枝は、【アンバイジングゼーレ】のさっきの動作の折、何かの【気】が、あちこちから集まっているような、高揚した気分になった。すると、どうだろう。紗枝の周りを光が包み、まるで後光が差したように、輝きだした。同時に、空の一点がピカピカ光りだしたかと思うと、ドドーンと言う雷鳴に似た大きな音がした。そして、まるで雷のような光の線が、紗枝に集まり、紗枝は全身が震えた。

{きゃあ。何よ、これ。助けてええ}

 紗枝は、周りが眩しくて、目をつぶったまま、一瞬気が遠くなったような気がした。

『紗枝よ、ご苦労であった。〈愛結〉の守護を最後まで良く務めた。お前に、守護霊団の力を授ける。この力を授かることにより、これまでとは全く違った、攻撃的な守護ができるぞ。早速、あのアホな泰介の代わりに、〈翔〉までも、しばらくの間、守ってやっておくれ。それは、さっき聞いた【アンバイジングゼーレ】の声だった。そして、何気なく自分を見た紗枝は、やっと気が付いた。紗枝の体は、昔の衣服のように、ふわふわした生地になっており、頭は、髪が丸く二つに編んである。宙に浮いた紗枝は、服の一部を、足より長く伸ばし、その姿はまるで天女だった。しかし、如何せん生地が透けている。下はそうないが、上半身は胸が丸見えだ。

{あれえ}

 慌てて胸を隠す紗枝。

『心配するな。誰もそのレベルは、気にしておらん』

 事もあろうに、【アンバイジングゼーレ】は、胸の大きさを言っていた。まあ、Bもない。やっぱりAカップだ。

{レベルの問題じゃありません。女子は、やっぱり恥ずかしい}

 紗枝は必死に訴えた。すると面倒くさそうに

『ったく、もう。分かった、分かった。じゃ、これを付けろ』

 そう言うと、【アンバイジングゼーレ】は、またまた右手をパチッと鳴らした。すると、紗枝の胸に《ヌーブラ》が張り付いた。

{きゃあ、何ですか。趣味がヤバいです。普通のブラジャーがいい}

『あんだよ、せっかく、格好良いと思って、その胸にしてあげたのに』

 いかにも不満そうに、口をへの字にして、もう一度右手を鳴らした。

『これでいいじゃろ。もう大丈夫じゃ。それより、お前の仕事に集中じゃ。細かなことは、すぐ傍の【補助霊】に申せ。あの泰介より、はるかに役立つ。では、これからは、【指導霊】に近い、攻撃的な守護ができる。〈愛結〉の運命も、導くのじゃ』

”攻撃的な守護。【指導霊】に近い守護。何の事やら、さっぱり分からない。何の事だろう”

 そう思っていると、

{紗枝さん、取り敢えず、火を消しましょう。細かい事は後で}

 そう言いながら、紗枝の横に姿を見せたのは、ピーターパンに出てくる、ティンカーベルのような可愛い、女の子だった。

{あなたは}

{私は、【補助霊】です。さ、とにかく早く}

{早く、って、ど、どうすればいいの}

{簡単です。『火よ消えろ』と念じて『ドンコン・ツァーラン・ケタクッゾ』と言う呪文を三回唱えてください。そして両手を同時に伸ばして、手のひらを合わせて、一回上に向けてください。その後、火に向けてください。さあ}

{こう}

 そう言いながら、紗枝は言われたとおり、『火よ消えろ』と念じて、

{ドンコン・ツァーラン・ケタクッゾ}

{ドンコン・ツァーラン・ケタクッゾ}

{ドンコン・ツァーラン・ケタクッゾ}

と三回唱えた。そして、両手を言われたとおりに動かした。すると、あっという間に黒雲が広がり、急に雨が降り出した。地響きが聞こえるくらいの、猛烈な暴風が吹き荒れ、瞬く間に消火した。そのパワーは、『ギューン、グワン』と言う電気的な音をたて、猛烈な音とともに一瞬、時空さえも歪めた。そこいらの三次元の物と言う物が、その瞬間だけ、少し歪んで見えたほどだった。それによって、あの硬質ガラスのドームも、一瞬にして木っ端みじんだった。ただ、不思議なことに、〈愛結〉と〈翔〉には何の危害も加えられていない。

{ひゃあ}

 あまりの凄さに、声を失う紗枝。〈愛結〉と〈翔〉も、何が起きたか、理解できなかった。

「俺、頭おかしくなりそうだよ。どうなったって言うんだ、全くう」

「はあ、ふ・し・ぎねえ」

〈愛結〉は、逆切れだ。〈翔〉は呆然だ。紗枝は、自分の手を見ていた。しかし、何も変わっていない。

{何よ、これ}

{ああ、良かった。それが、世界中の守護霊団の力ですよ。何億と言う守護霊の集まりの守護霊団。その一人一人から、あなたにパワーを送ってもらったのです。あなたはこれまで、担当の〈愛結〉ちゃんを、大変まじめに守護してきました。このことを、【指導霊】から報告を受けた【アンバイジングゼーレ】様が、世界中に呼びかけられたのです。なんせ、あの泰介が一緒でしたから、とても心配しておられたのですが、あの泰介さえも、改心するような気持ちの持ち主、と言う事で認められたのですよ。

このまま、〈愛結〉ちゃんを守り切れば、【指導霊】に大抜擢、と言う事もあり得ますよ}

{そんなあ。私にはもったいない話です。でも、〈愛結〉ちゃんを守れるなら、このパワーを生かしていきたいわ}

{じゃ、もう一度事務所に戻って、三人を警察に突き出しましょう。悪を倒すためにも使えるパワーです。【アンバイジングゼーレ】様が仰った〈攻撃的な守護〉とは、そのような事なのです}

 ティンカーベルの話に、ようやく意味が分かった紗枝だった。微笑んで頷くと、ティンカーベルが、

{その前に、する事があります。ちょっと耳を貸してください}

 そう言うと、ティンカーベルの、小さな口で、紗枝の耳に何やら話しかけた。その話が終わると、ティンカーベルは、〈愛結〉と〈翔〉の元へ行った。そして、二人の前に現れ、

{こんばんは。私、ティンカーベルよ。よろしく}

「うわあ、今度はティンカーベルかよ。今夜は、何だ。一体全体どうなってるの」

 いよいよ理解不能になる〈愛結〉を尻目に、〈翔〉は、

「わあ、ティンカーベル。可愛い」

 と、ぐぐぐっと、近づいて行った。

「ちょ、ちょっと、近い」

 鼻先まで寄って来た〈翔〉に思わず言った。その後ティンカーベルは、気を取り直して

{あなたたちを助けに来ました。今から、警察を呼んできます。その時に、名乗り出て三人の悪事を伝えてください}

 と、緊急事態を伝えた。すると、

「オッケー。分かった」

〈翔〉は、ハーフタレントの、ローラのように言った。それを見ていた〈愛結〉は、半分、思考がキレかけていた。そんな二人を尻目に、ティンカーベルは、富士吉田警察署まで、瞬間移動した。

 その頃事務所の中では、あの三人が、これまた腑抜けになっていた。モニターに映っていた二人を、炎が襲うまでは予定通りだった。しかも、ドームで覆われた事務所の中で、仲間を待って、その仲間達と一緒に帰る、その手はずまでは順調だった。しかし、モニターを見ていた三人の目の前で起こった事は、とても現実の事とは思えない、超常現象だった。しかも、一瞬の暴風で、ダイヤでも切れないと、自慢していた硬質のドームまで、自分達の目の前で粉々だ。俄かには、とても信じ難かった。

「お、おい。この現実、信じられるか」

「ああ、多分な」

「一体全体、何が起きたんだ」

 三人は、互いに顔を見合わせるが、互いに首を振って、肩をしゃくり、頭を傾けた。

「取り敢えず、早く正気になって、ここからずらかろうぜ」

 その時だった。

「遅くなりました」

 そう言う声と共に、黒服ずくめの男たちが数十人、事務所に入って来た。男たちは、手に手に、拳銃やマシンガンを持っている。

「遅いぞ。もう少しで変なお化けに、やられる所だったんだ」

「変なお化け」

 大井田の話に、一瞬、男共の空気が、引いた。

「本当だぞ。本当だって、なっ、確かに見たよな」

 そう言うと、まだ半分正気になっていない二人も、がくがく震えながら、大きくうなずいた。

「何ですか、そのお化けって。ドームも粉々だし、モニターも壊れて。何かあったのは分かりますが、ここを壊して証拠隠滅にしても、ちょっと早すぎませんか」

「とにかく、早くずらかるぞ」

「誰か、外を見て来い。サツはいねえだろうな」

「俺たちが来る時は、まだ、大丈夫でしたが、この派手な壊れ方だと、付近の住民の中に気が付いた者がいて、サツに連絡してるかも知れませんねえ」

「よし、俺が行ってくるよ。兄貴たちに、武器を渡しとけ」

「さ、どうぞ」

 そう言うと、一人は三人にマシンガンを、一人は外を見に、一人は車の準備に、と非常に手際よく動き始めた。階段を下りはじめた一人は、外に警察がいないかどうかを見に行っていた。ちょうど踊り場まで来た時だった。薄暗い中で、ふうっ、っと生ぬるい風が頬を触っていった。

「うへえ、何だよ、薄気味悪い」

 そう言うと、その頬を拭う仕草をすると、また階段を降りようとした。すると、

{何で、拭うのさ}

 と、か細い声が聞こえた。

「だ、誰だ」

 拳銃を、自分の周りの向け、声を上げた。

{そんな、危ないじゃないか。こっち向けちゃダメだよ。うふ}

 また声が聞こえる。

「だ、誰だよ。ど、どこにいるんだ」

 すっかりへっぴり腰になって、壁際にへばりついた。

{ここよ}

 その壁から、手が出て、男の頬をすうっと撫でた。

「ごくっ」

 男の、唾を飲み込む音が、妙に大きく聞こえ、男の目は点になった。そして、そのまま固まってしまった。

「だ、だ、誰かあ」

 男は、絞り出すように、声を出した。

{ねえ、どうせ呼ぶなら、兄貴を呼んでおくれよ、ね}

 その声に、男はもう一度、

「ごくっ」

と、大きな音を立てて、唾を飲み込んだ。

「あ、あ・に・き。兄貴」

「あ、舎弟が呼んでるぞ。何だよ。何かあったのか。おい、見て来い」

 藤陵が不機嫌そうに第一の手下に言った。すると手下は、事務所の玄関からマシンガン片手に、顔を出した。すると、舎弟の一人が踊り場の壁に張り付き、その顔には、壁から突き出た手が、覆いかぶさっていた。

「おい、お前。妙な顔してるなあ」

 第一の手下が、薄暗い中で、よく見えないまま、吹き出しながら言った。

「ちょ、ちょっと、兄貴い。違います、よく見て」

「お前、先輩に向かって、命令するたあ、いい度胸だ。試し打ちされてえのか」

 そう言いながら、直属の手下は、つかつかと踊り場まで降りて来た。そして、舎弟の顔に、ガンを突きつけた時だ。それまで手下の顔を覆っていた手が伸び、第一の手下の頬を触った。

「おい、何すんだ、てめえ。俺、女が好きなんだよ。男はいらねえんだ。ふざけてるのか、ああん」

 そう言いながら第一の手下は、その手を払いのけ、銃口を舎弟の顔に向けた。その瞬間、再度、第一の手下の頬を触った二本の手は、強力に第一の手下の顔を両手で押さえ、いきなり舎弟の顔に引き寄せた。その顔は、嫌と言うほど舎弟の顔に密着し、嫌と言うほど、ディープキスをした。両手をもがく二人。しかし両手は離れない。息ができなくなった二人は、気を失ってしまった。すると、その模様を見て吐き気を催した紗枝が現れた。

{申し訳ないけど、気持ち悪い}

 そう言いながら、階段をすうっと上がって行った。そして、開いたドアの中を覗き、悪党三人の心を読んだ。

{あら、私、こんな事までできるんだわ。凄い}

 そう言いながら、三人の【苦手な人や物】を読んでみた。

{へえ。意外とあるのね}

 ニヤッと不敵な笑みを浮かべて、再び浮かんだ。そしてふと、

{泰介さんの方は、どうなのかしら}

 と、心配するような顔をして、ため息を一つ吐いた。

 

その頃ティンカーベルは、富士吉田警察署と新宿署に飛び、ファックスを使って、事の仔細を送った。タレこみだと分かった署員は、常に怪しいと踏んでいたあの事務所が、やはり悪の巣窟だったことを知り、本部長直々に陣頭指揮を執って、例の建物に向かっていた。新宿署では、緊急の踏み込みで、ほとんどの手下を捕まえたが、肝心の舎弟や直属の手下等は、一足早く逃げており、行方を追っているところだった。

すぐさま、都外へつながる高速等に検問を設け、都内から出さないように手配していた。またティンカーベルは、ファックスに、富士吉田署管内に、アジトがある事も知らせていたので、同署と連絡を取り合っていた。そして何人かを、すぐに、富士吉田署管内に派遣した。その様子を確認するとティンカーベルは、さっと紗枝の元へ戻り、進行状況を確認した。

「うまくいってますか」

 すると紗枝はニコッとして頷くと、二人に力強く言った。

{さあ、行きましょう。いよいよ、悪党退治よ}

 と、ドアを開ける紗枝だった。

「おい、舎弟や手下はどうしたんだ。えらく遅いじゃねえか」

 いらいらしたように、大井田が言った。すると、

「いやあ、済みません。遅くなりやした」

 そう言いながら、直属の手下が戻って来た。しかし一人だ。

「何だよ、何かあったんじゃねえか、って心配するじゃねえか。で、どうだった」

「何がですか」

「はあ、何、とぼけてんだよ。下だよ、下。警察はいたのか」

「警察」

「お前、どこまでぼけてんだよ。警察を見に行っただろう」

「ああ、警察ですね」

「ああ、そうだよ。警察だよ。いたのか、いなかったのか」

「警察はいませんでした」

「それならそうと、早く言え。ビビるじゃねえか」

「でも、これならいました」

 そう言って手下は顔を手で覆い、ゆっくり除(の)けた。すると、どよめきが起こった。そこに現れたのは、女だった。

「あれ、お前女だった」

 大井田が、怪訝そうに言うと、それを見た富士岡は、真っ青な顔をした。

「ま、マリ」

「あれ、富士岡、お前、知ってるのか。こいつ、端っから女だったっけ」

 大井田の問いに、答える余裕は無かった。富士岡は、わなわな震え、目が点になっていた。

「あれ、私を忘れたの」

「お、おい、お前。誰だよ」

 銃口を向け、気丈に大井田は叫んだ。

「富士岡さん。私、今寒いの。早く、連れに来てよ」

「お、お前、い、生きてたのか」

「嫌だあ、私もだよ。ふっちゃんよお」

 そう言うと、手下の顔はまた別な女に変わった。しかも髪は金髪だ。

「忘れちゃったとは、言わせねえ。認知してもらわねえとな。子どもも一緒に、育ててもらいたいんだけどよお」

「おい、富士岡。いったい、どう言うこった」

 大井田が聞くと、すでに富士岡は、固まっていた。話ができる状態ではない。すると、また別な女の顔になった。

「幸雄。私。奥さんと別れるって言ったから、私、待ってたのに、そのまま置き去りって、酷い」

「あわあわ」

 富士岡は、完全に目が回り始めた。その時だ。心を読んでいた紗枝は、ある顔が、富士岡の頭をよぎって行くのが見えた。紗枝は、

{なるほどね}

 と、納得したのだった。そう呟くうちに、富士岡は、

「あっ。ふう」

 と、気を失ってしまった。富士岡は、とっかえひっかえ女性を食いものにし、飽きて邪魔になると、平気で殺して遺体を捨てていた。紗枝は、富士岡の心を読み、最高に苦手な物を見つけ出していた。そして、その苦手な物、つまり、今まで殺して遺棄してきた、女性の顔に変えていたのだった。しかも紗枝は、すぐさま富士岡の守護霊を見つけると、合図があったら正気に戻すよう指示をした。

「富士岡。どうした、富士岡。畜生、てめえ何者だ」

 そう言うと、大井田はマシンガンをぶっ放した。バリバリバリと、耳をつんざく音が響き渡り、壁に玉の跡が無数に付いていく。

「止めろ、大井田。よく見ろよ」

 那珂川に言われて、大井田が壁を見ると、玉の跡が透けて見えるものの、薄い女の人型が浮かび上がり、倒れた富士岡を恨めしそうに見ていた。長い髪が、顔の半分を覆って、片方の目が見つめている。髪や服は、濡れているように、うっすらと、光っている。

「何じゃ、こいつは、幽霊か」

 大井田が、呻くように言うと、今度は、その女の人型は、富士岡から大井田に、視線を向けて来た。

「な、何だよ、化け物。今度は俺か。俺は、簡単にはやられないぞ」

 そう言うと 大井田は銃口を向け、身構えた。その様子を見る、二人の守護霊がいた。

{どうじゃな。紗枝さんの頑張りは}

{はあ、涙が出るほど凄いです}

【アンバイジングゼーレ】に導かれ、空中からこの様子を見ていた泰介は、いたく感動していた。あのか弱い紗枝が、一人で悪党を退治しようと、頑張っている。悪党を退治する、と言っても、あのパワーがありながら、倒すのではなく改心させようとしている。命に対して、尊厳の気持ちを持ったうえでの技だ。悪い人間でも、良心を目覚めさせれば、改心できる、と言う考えから、紗枝はこのような対策を取ったのだった。

{あのぶっ倒れた、男の守護霊を見てみよ。どうなっとる}

{体が透けて、人間と重なって見えます}

{で、どうじゃ、今、何をしておる}

{今、必死に揺すって、起こそうとしています}

{では、このメガネを掛けて、もう一回見るんじゃ}

 そう言うと、【アンバイジングゼーレ】は、一つのメガネを渡した。何の変哲もない、銀縁のメガネ。それを掛けて、もう一度守護霊を見た。するとどうだろう。

{あれ、透けている体の一か所に、何かいます。ちょっとクモのような、気味悪いもの}

{あれが悪の正体【アヨ・コスカーナ】じゃ}

{何ですか、それ}

{人間の、果てしない欲望の塊じゃ}

{はあ、欲望の}

{人間には、果てしない欲望がある。名誉欲。金銭欲。独占欲等々。その欲望の塊が、ああやって、守護霊の陰に隠れて人間に悪さをさせておるんじゃ}

{あれが。ははあ、分かりました。では、その人間を始末すればいいのですね}

{バカ者。修行中とは言え、お前をこの場に連れてきたのは、そんな事をさせるためではない。今までの修業を思い返してみろ。全部、寿命を全うさせるために、守護をしていたはずではなかったか}

{あっ}

 そう言いながら、泰介は、今までの修業を思い返していた。

{はあ、そう言えば、確かに命を奪っているのはございません}

{そうであろう}

{だから、って、何で修行中にも関わらず、私が呼ばれたんでしょうか}

{ううっ、もう、お前って奴は、どこまで鈍いんじゃ。んん、バカ}

 【アンバイジングゼーレ】は、少女のような拗ね方をした。

{あ、あの、あんまり可愛くないんですけど、あはは}

{分かっておるわい。じゃから、あいつら悪党の三人組の顔を、もう一度しっかり見てみろ}

 【アンバイジングゼーレ】に言われ、泰介は、三人組の男の顔をしっかり見た。すると、みるみる泰介の顔が変わった。

{ひょっとしたら、大学時代のあいつら}

{ようやく分かったと見えるな。あの男達じゃよ。どうじゃ、お前がこんなになった、元々の原因を作ったようなもんじゃ。お返しはしたくないか}

{えっ、そのため?}

{そうじゃ。紗枝さんのおかげで、ようやく改心してきたお前じゃ。しかも、あの辰夫が、最後まで心配していたお前の事。彼は現世に戻ったとは言え、やはり、夢でうなされるかも分からん。なんせ、深層心理には、お前の事が、相当深く刷り込まれているはずじゃからな}

{分かりました。皆さんの、後押しを受けて、この荏籐泰介。男になって見せます。ようし、あいつらぶっ殺してやる}

{こら、今、何と言った}

【アンバイジングゼーレ】は、慌てた。

{ぶっ殺す、と。リベンジです}

{だからあ。もう、いい加減にしてよ}

【アンバイジングゼーレ】が、今度は女子高生風だ。

{はあ}

{今までの話は何だったのかな。空しくなるわい。頼むから、さっきの守護霊の話を思い出してくれんか}

{守護霊の話、ですか}

 【アンバイジングゼーレ】は、とうとう業を煮やして、説明を始めた。

{守護霊の陰にいる、【アヨ・コスカーナ】をやっつけるんじゃよ。人間の体を傷つけてはいかん。わし以外で、人間の運命をコントロールして良いのは、【カミューン】様だけじゃ。だから、今まで身に付けて来たパワーで、あの【アヨ・コスカーナ】を退治し、あの守護霊を、あの人間の担当から外す。そして、代わりの守護霊を回すのじゃよ。あの守護霊どもには、お前より下のレベルから、修行をやり直させる}

{私の下ですか。【六道】の、一番下からですね。きゃあ、【閻魔】様のクリヤーも必要だ。こりゃ、大変だ}

{お前と同じように、修行の足りん守護霊じゃが、お前と違う所は、仙人こと、辰夫のような、立派な守護霊と、出会わなかった事だ}

{はあ}

 頭を垂れて、素直に【アンバイジングゼーレ】の言う事を聞く泰介だった。まぎれもない事実だから、仕方がない。

{では、どうすれば良いか、分かったな}

{はい。取り敢えず、人間の意識を失くし、その間に【アヨ・コスカーナ】を退治します。そして、【補助霊】を呼んで、代わりの守護霊を託します}

{その通り}

【アンバイジングゼーレ】は、パネルクイズ番組の司会者のように、右手を握り、体の前に出して、力強く答えた。【アンバイジングゼーレ】は、いろいろと技をお持ちのようだ。

{お前のお返しは、その人間の意識を失くす時に、ちょこっとやれ}

{分かりました。ようし、行くぞお}

【アンバイジングゼーレ】との話で、やっと目的が分かった泰介は、対峙する大井田と紗枝を見ながら、すうっと紗枝に近づいた。

「うわ、何だ、あいつ」

 紗枝の隣に降りた、もう一つの人型の影。大井田と那珂川、そして、ほかの手下どもは、がたがた震えながら、二人を見ていた。そして、銃口を向けたまま、少しずつ後ずさりした。

{紗枝さん久しぶり}

{た、泰介さん}

 紗枝の、天女になった姿を見て、泰介も少し驚いたものの、紗枝はそれ以上に驚き、そして喜んだ。それを見て紗枝は、すぐさま、先ほどの守護霊に合図した。それを見た富士岡の守護霊は、富士岡の目を覚まさせた。

{詳しい話は後です。まず、こいつらを眠らせましょう}

{ええ、今からやります。泰介さん、横に行っててください。凄いエネルギーですから、怪我をしますよ}

{紗枝さん、僕もパワーを得ることができました。二人で力を合わせて、退治しましょう}

{ええ。嬉しいです}

{紗枝さん、僕は修行のおかげで、守護霊の姿を見る事ができるようになりました。

こいつらの守護霊には、【アヨ・コスカーナ】と言う、悪の塊があります。僕は、こいつらを退治しますので、紗枝さんは、人間の意識を失くすことを、受け持ってもらえますか}

{分かりました。誰をやればいいですか}

{あのたくさんの手下共をお願いします。僕は、あの三人にどうしてもお礼がしたいので、あいつらは僕が}

{でも、守護霊を見る事ができるようになったなんて、修行して良かったですね!}

{まだ、途中ですが、【アンバイジングゼーレ】様が、特別に参加させてくださいました。なんせあいつらときたら、学生時代に、俺を散々バカにしていた奴らなんですから}

{やっぱり。だから名前に聞き覚えがあったのですね。じゃあ、思い切りやりましょう}

 守護霊の言葉で、やり取りした人型の二人は、行動に移した。泰介はまず、大井田の心を読み、苦手な物を探した。修行で成長した泰介は、即座に読み取った。

{何だあ、大井田。こんなものが苦手だったのか。それ}

 そう言うと泰介は、人型の顔をす~っと、ゴキブリに変えた。それを見た大井田は、

「ぎゃあ~~~」

 と言う、大きな叫び声をあげると同時に、その場に座り込んだ。体は、ガタガタ震えている。そこへ続けて泰介が、久しぶりに〈腰ふりダンス〉を披露した。それを見た大井田は、

“あれ”

 と、冷や汗を流す。確かに、覚えがあるようだ。そして、とどめを刺すように紗枝が

{ほら、この顔よ}

 と言いながら、顔を変えて、その大井田の顔の前に、自分の顔を見せた。すると大井田は、

「あっ」

 と言ったまま、卒倒した。

「お、大井田あ」

{いかがで?}

 泰介の方を向いた紗枝は、何と、泰介の顔になっていた。二人とも、やはり泰介の事は、心の中にあったのだ。

{ああ、そう言う事なんですか}

{こう言う事なのね}

 やっとわかった紗枝に、ティンカーベルは、

{グッ、ジョブ}

 と言いながら、親指を突き出し、笑顔でウインクした。

 残された那珂川は、

「くそお。おい、打て。打って、打ってあいつら化け物を、打ち殺せ」

 そう言うと、自分からマシンガンをバリバリ打ち始めた。手下共も、その声に呼応して武器を、使い始めた。玉が、数百、いや数千発は打たれたのではないだろうか。

耳をつんざく音がして、壁は穴だらけになった。

{無駄だよ、那珂川さん}

 泰介はそう言うと、金髪の可愛い男の子になった。

{今度は、僕が}

 そう言いながら、泰介は顔を変えた。

「うわ、ジョ、ジョーン」

{那珂川さん。覚えていますか。お久しぶりねえ。うふ。私を捨てて、坪井と逃げるなんて、ちょっと酷くない}

「ジョ、ジョーン。ちょっと待ってくれ。あれは、誤解だ。なんかの間違いなんだ。俺は、お前を見捨てていなかったん!」

{言うわねえ。私、富士の樹海から出たいの。寒いのよ、ここ}

「す、すまん。ああするしかなかったんだ。ゆ、許してくれ」

 いつの間にか那珂川は、床に座り込んで、拝む格好をしている。

{那珂川さん、わたし。わ・た・し。覚えてる。お尻が好きだって、いつも触ってたじゃない。美貴よ。でも、お風呂の水に押し付けたの、覚えてる。そのまま気を失ったんだけど、私、どうなったのかしら}

 泰介は、那珂川の心を読み、今までに愛人にした《ニューハーフ》の顔を、順番に出していたのだった。那珂川は、ちょっと気にいると愛人にして、飽きてきたり、別な《ニューハーフ》が好きになったりすると、それまでの人は始末していた。そして遺体を土中に埋めたり、酒を飲ませて眠らせ、富士の樹海に一人残したりして惨殺し、次から次へ、相手を変えていた。そもそも、富士岡にしても那珂川にしても、

『ニューハーフや、性と身体が違う人間なんて、男や女と言う、本来の性へのなり損ないである。人間として役に立たないのだから、どう扱っても構わない』

 と言う、自分勝手な持論を持っていた。

「ひ、ひえ。頼む、すまん。すまん。謝るから、出てこないでくれ。お願いだ」

{何ふざけたこと言ってんのよ。百万はどうしたの。あたしを奪っておいて、ずっと、あたしを好きでいるからね、なんて、嘘ばっかり。早くここから出してよ。真っ暗で、泥臭いしい。お願い}

「ふええ」

 那珂川は、失禁している。

{もう少しそのままでいろよ。楽しい思いさせてやるからよ}

 そう言うと、大井田の前で披露した〈腰ふりダンス〉を、またも披露した。

{どうだい、久しぶりのダンスは}

 ニコニコしながら、ダンスした。すると那珂川は、即座に思い出したらしく、

「ま、まさか」

 呻くように呟いた。

{じゃ、とどめよ。それ}

 そう言うとまたまた紗枝が、泰介の顔になり、那珂川の顔の前に出た。それを見た那珂川は、口から泡を吹いて失神した。おまけに脱糞した。

{ああ、やっちゃった}

 そして、最後はまだ半分寝ぼけている富士岡だ。わざわざ揺り起こし、顔を正面に向けてから、彼の目の前で踊った。

{久しぶりだな}

 声のする人型の踊りに、何となく顔を上げた富士岡は、目が点になった。そして、

{じゃ、今度は俺が}

 そう言うと泰介は、自分の顔になって富士岡の、顔面の真ん前に現れた。それを見た富士岡は、あっという間に、再び気絶した。

 偽名を使って企んでいた、同級生の悪事。おまけで連れて行かれた海で溺れ、守護霊になって十五年。その泰介によって暴かれた。通夜の帰りに大いにバカにされたお返しも、泰介は、今になって返す事が出来た。【泰介を見て驚く】と言う良心が、まだ三人に残っていたことは、泰介をホッとさせた。

こうして、泰介が三人を次々に失神させた。途中から紗枝は、手下共の始末に向かった。半透明の人型のまま、四、五十人はいるであろう、手下共の方にゆっくり、浮いたようにして移動する。いつの間にか、さっきの紗枝の姿に戻っている。

「な、何かがいます。天女」

「何、寝ぼけてるんだよ。まったく、化け物だな」

{かも知れないわね。ふふ}

「き、気色悪い」

{じゃ、ちょっとお休みください。それ}

 そう言うと紗枝は、さっきのように、手を頭上に高く上げ、気を集めた。再び、時空を歪め、世界中の守護霊から気が集中してきた。そして、ビビビ、と言う時間のずれる音がしたかと思うと、たくさんの光が紗枝の手に集中し、ものすごい輝きを発した。

すると紗枝は、その手を手下共に向けた。その光は、地響きを立てて光速で進み、手下共の脳を突き抜けた。とてつもない光量と音に、彼らの脳は、対応能力を超え、身を守るためには、気絶するしかなかった。

{やったあ。紗枝さん、凄い}

 ティンカーベルが、嬉しそうに言うと、

{これくらい、朝飯前。皆のパワーをもらってるし}

 ニコッとすると、そう言った。

{さ、泰介さんの所へ行ってみましょう}

 そう言って、泰介の所へ行くと、泰介は、気絶した三人と手下共の守護霊を、早速呼び出していた。

{だいたい何だよ。こんなのに取り憑かれちまって}

 と、右手に持った袋の中の、たくさんのクモのような虫を、見ながら言った。

{こんなのは、あなた達が、人間の欲をコントロールできないから、入り込むのです。

もう少し、担当の人間の、命の事を考えて守護をしてください}

{おおう、あの泰介さんが}

紗枝は、嬉しそうに言った。すると、そのうちに【アンバイジングゼーレ】が登場した。

守護霊達は、自分たちの最高幹部である【アンバイジングゼーレ】の前に、ひれ伏していた。そして案の定、長々と説教だった。泰介は、説教の始まる前に、例の三人の守護霊に、話をさせてもらった。そして、自分が〔高校時代から野球は下手で、三人から虐げられていた事や、大学時代には、自分のミスでリーグ戦優勝を逃して、晒し者にされたこと。さらには、自分が守護霊になった経緯等〕詳細に話した。すると三人の守護霊は、小さい時に一度、大井田が【死神】に取り憑かれそうになった。たまたまいた、三人の守護霊で退散させることができた。そのため、それから後、図に乗ってしまった事を白状した。そこで、再度、自分のように修行して、守護霊を見直してほしい、と言う事を、こんこんと話して聞かせた。それを見た紗枝と【アンバイジングゼーレ】は、泰介の成長ぶりに、目を細めたのだった。泰介はその後、捕まえた【アヨ・コスカーナ】を、【アンバイジングゼーレ】から預かった【毒消し壺】に入れて蓋をした。それで、一件落着のはずだった。ところが、その【アヨ・コスカーナ】は、なかなか死なない。蓋をしても、いつまでもごとごと音を立てていた。おかしく思った泰介は、ホッとしている【アンバイジングゼーレ】に尋ねてみた。すると、【アンバイジングゼーレ】は、呟くように言った。

{おかしい。なぜだ}

 さすがの【アンバイジングゼーレ】も、理由が分からないらしい。【アンバイジングゼーレ】はすぐに、【カミューン】に聞いてみたと言う。すると、

{こいつらの大本が、元気なのだそうだ}

 と言った。

{大本、と言うと}

 泰介が尋ねると、【アンバイジングゼーレ】は、大変そうに答えた。

{電磁波じゃ。人間が使う、いろいろな電気機器から発せられる、電磁波じゃよ。これは困ったぞ}

{なぜですか}

 よく分からない泰介が聞くと、

{地球全体の問題だからじゃよ}

 と、大きく溜息をついて言った。

{そんなに困るんですか}

{地球全体の事だぞ。どうやっても、最低一日以上はかかる}

{仕方ないでしょ。逆に、世界中の事を、一日でできるなら、簡単な事じゃないですか}

 泰介も、成長したものだ。あの【アンバイジングゼーレ】に、意見している。

{そうは言ってもなあ}

{どうしたんですか。何か歯切れが悪いですね}

 と、泰介が尋ねると、【アンバイジングゼーレ】は、泰介の耳を引っ張り、こそこそと言った。

{ええっ、週末に家族旅行}

{こら、声が大きい。皆に聞かれてしまうじゃないか}

{あの、もう聞こえましたけど}

 一番働いたティンカーベルが、腕組みしながら、しかめっ面で言った。

{あは、いあや、あの、その。ああ、これはじゃな、あはは}

 しどろもどろの【アンバイジングゼーレ】。

{ええっと、今日が木曜日。明日が金曜日。そうすると、今夜中にけりを付けたかった、ってわけですね}

 ばつが悪そうに、【アンバイジングゼーレ】は、頭をかいて赤面した。

{どうせ、また奥さんに、偉そうに言ったんじゃないですか}

 ティンカーベルが、冷たく言い放つ。

{何回目ですか、全く}

{わお、ティンカーベルって、【アンバイジングゼーレ】には厳しい}

 泰介は、蝶々のような可愛い妖精に、女性の強い一面を見た気がした。

{じゃあ、急いで調べましょう!今夜中にどうにかなるかも知れませんよ}

 泰介が言うと、【アンバイジングゼーレ】は、面倒くさそうに言った。

{いや、それには及ばん。もう研究が始まってるはずじゃからな}

{えっ、どういう事ですか}

{ま、それはそのうちに判るから、取り敢えず、下の方の二人の様子を見て来よう}

 そう言って、三人をティンカーベルに任せて、一階へ降りて行った。


 一階では、ティンカーベルのタレこみを受けた、富士吉田署員と新宿署員が到着していた。そして、〈愛結〉と〈翔〉の話から、二階に組織の者がたくさんいると言う事を聞き、どやどやと上がって来た。そして、気絶している三人と、手下共の五十数人を逮捕した。<愛結>と<翔>は、抱き合って喜んだ。もちろん、泰介と紗枝も、抱き合いこそしなかったが、手を取り合って喜んだ。

「いやあ、本当にありがとう。この会社は、以前からきな臭い評判はあったんだが、なかなか尻尾を出さなくて、手を焼いていたところなんだ。助かったよ」

 本当かどうか知らないが、[銭型]と名乗った警部がお礼を言った。<愛結>は、[銭型警部]に経緯をすべて話し、さらに〈翔〉も付け加えた。そして<翔>と向き合うと、にこっと微笑んだ。


 大捕り物が終わった後、泰介はどうかと言うと。また修行に戻らされていた。木の守護の段階のはずだった。ところが、どう言う事か、すでに鳥、魚、を終え、何と最後の、犬の守護にあたっていたのだ。振り返ると、合点がいく。

木の守護の時は、富士の裾野の、青木ヶ原樹海の中の一本の木だった。木の幹に張りつき、模様で人の顔を作った。そして、数十年か、はたまた数百年か分からないが、守護をするために祈り続けようと、腹をくくっていた。しかし、行ってすぐに担当の木に雷が落ち、いきなり木の寿命が終わった。一回、祈っただけで、呆気なく木の守護は終わったのだった。最低でも数十年は固いだろう、と観念していた泰介の方が驚いた。

次は、鳥だ。最初に必須単位の、ツルの守護にあたった。ツルは千年と言われる。

本当に千年生きるのかどうか、は分からないが、泰介は、これまた覚悟して臨んだ。

このツルは、タンチョウヅルではなく、ナベヅルと言われる渡り鳥のツルだ。中国東北部の方から、日本の九州へ渡っている途中。何と、このツルも不慮の事故に遭ってしまう。あろうことか、ある国が打った、気象衛星と称するミサイルに当たって、あえなくその寿命を終えた。

必須を一発で終えたため、次に飛び級で魚へ行った。多摩川の人面魚となって担当した魚。それでも、数年はかかると思われた。しかし、あっという間に釣り上げられた。ブームの去った人面魚ゆえ、テレビに出る事もなく、食卓に上るはめとなった。

しかし、カメは必須単位なので避けられない。これも下手をすれば、カメは万年と言われ、何年かかるか知れたものではない。しかし、さすがにここまで偶然が続くと

“今度も”

と、色気が出そうだが、さすがに今回の泰介は違って、気持ちは固かった。雄大な流れの、信濃川のカメに挑んで、守護にあたった。ところがあろうことか、外来種のカミツキガメにいきなり食われてしまった。これまで在来種では見た事も無い。甲羅の長さが五十センチはあるような、大きな個体だ。必死になって、逃げるよう声を掛けたが、見たことも無い生き物を、怖がる由もない。まるで、蛇に睨まれた蛙のように、頭から食われてしまった。その様子を見た泰介は、心から泣いた。自分の不甲斐なさに、大きな声を出して泣いた。泣き疲れるまで泣いた。しかし、もう泣いてばかりもいられず、最後の担当の犬に向かった。南紀白浜の、紀州犬の守護を選んだ。

{これまで、不甲斐ない守護ばかりだ。もう少し、気合を入れてやれ}

 と、自分を叱責する。泰介もすっかり成長した。しかも、今回は不慮の事故に遭わないように、飼い主のリードにも目を配り、慎重に守った。数年前、《人面○○》ともてはやされた時は、マスコミも、いろんな《人面○○》を探して回ったが、ブームも去って今は、飼い主さえあまり気にしてくれない。一カ月も経っただろうか。人面犬の人面が、言い換えれば、泰介の顔が、いつの間にか消えていた。

{どうしたのですか。まだ途中です。なぜ、守護をやり遂げさせてくれないのですか}

 【アンバイジングゼーレ】に呼び出された泰介が、珍しく自分の責任に対して、不満を言っている。山形は蔵王の近くの空中で、青空の元、樹氷をバックに話す二人だった。

{まあ、そうカリカリするな}

{カリカリもなりますよ。修行が全然完結できないんです。悔しいです}

{ほらほら、その顔。エラの張り方が、あの、何とか、ええっと、ザ、ザ、何だっけ}

{ザ・ブルングル、でしょ}

 珍しく、泰介がイラッとしている。そんな事はお構いなしに、【アンバイジングゼーレ】は、

{あ、そうそう。そのコンビの彼とは、エラの張り方が、残念ながら足りんよ}

{あ、いや、済みません。そんな事はどうでもいいのですが。別に、エラの張り方で勝負しようと思ってはいないので}

{あは、あ、そうか。こりゃまた、お呼びでない}

 とてつもない、古いギャグを使った。

{誰のギャグか知りませんけど。何とかしてくださいよ。話が、前に進まない}

{そうだな、いい加減に、冗談はよしこさん、だな}

 そう言いながら、自分で受けて、含み笑いをしている。泰介も限界だった。

{ちょっと、【アンバイジングゼーレ】様。ティンカーベルに言いますけど、よろしいんですか}

 そう言うと、【アンバイジングゼーレ】はいきなり真面目になった。よほど、ティンカーベルが、怖いのだろうか。

{ほらね。だからちゃんと言ってください。何なのですか、修行中の私に}

{お、お、おい、お前。他人をからかうんじゃない}

{それは済みません、って、まるで、ボケと突込みじゃないですか。で、ご用件を早くお伝えください}

 ここまでじらされると、いい加減イライラも限界だ。しかしあの泰介が、ここまで我慢できるようになった。たいした成長だ。

{ああ、そうじゃった。【カミューン】様から、お知らせがあり、修行は完了して良い、との事じゃ}

{はあ}

 突然の話に、ポカンとする泰介。呆気に取られている。

{私の場合、修行と言う修行はしておりません。今までは、災害とか、不慮の事故とか、まったく修行になっておりません。それなのに、なぜ}

{実は、修行は、【心】の修行なんじゃよ。お前の心の在り方を高めるが目的じゃ。修行中の守護の場合、自然災害や不慮の事故は、守護のミスとはとらない。あくまでも、その守ろうと言う【姿勢】を重んじているためなのだ}

 そう言われて泰介は、今までを振り返ってみた。確かに、気持ちは今までと全然違う。必死だった。

{でもこれでは、私自身が、納得できません。これで修行完了だなんて}

{ほお、大変な成長だな。仙人も、さぞ喜んでおるじゃろうよ}

{でも、やっぱり完了していないじゃないか、って言われそうで。ちゃんと、したかったなあ}

{ほう、見上げた根性だ。ほれ、その気持ちが大事なんじゃぞ}

{それは、今、分かりました。確かに、こんな必死な気持ちになったのは初めてです}

{よろしい。それだからこそ、修行は完了した。あとは、【閻魔】と【釈迦】、【天輝凜】の面接、適正検査の査定を受ければ終わりじゃ}

{仙人様は、今はどこに居らっしゃるのですか}

{まあ、ため口もすっかり影をひそめて、立派、立派}

{ありがとうございます。で、仙人様は}

{我々の時間で二年前になるかな、現世に戻った。だから、現世ではもうすでに、十五年以上経っておる。信州は野辺山の、科学者の家に住んでおる。いくいくは、父の後を継ぎ、科学者になる。そして今、世の中に溢れかえって、時間さえ進めている電磁波が、人間の環境や健康、ひいては地球の磁気に、大きな被害を出さないように研究していくはずじゃ}

{へえ、大したもんだ。ははあ、それが、【アヨ・コスカーナ】の、大本を退治していくのですね}

{そう言う事なんじゃ}

{でも二年前なら、まだ十五歳くらいですね。会ったら、思い出してくれるかも知れない。ぜひ、お礼が言いたいのです、これまでの}

 俯いて、それまでの自分があまりに情けないのか、それ以上は口に出さない。

{いや、前言ったように、こちらの一カ月が、現世の一年に相当するくらい、現世の時間が早くなっているそうじゃ。あれからさらに、加速していると言う事だから、個体の成長差を考慮しても、すでに、二十歳以上にはなっておるじゃろう。だから、お前の事も覚えておるかどうか}

{覚えておられなくても結構です。多分、立派になっておられる事でしょう。そのお姿を拝見できるだけでも}

{そうか、そうか。殊勝な心を持ったもんだな。ようし、そこまで気持ちの変化があれば、【閻魔】や【釈迦】の面接や適性検査も、十分パスできるだろう。早速、【閻魔】からチェックを受けてみるか}

{分かりました。頑張ってきます}

{よし、じゃその前に信州に行って、彼の姿を見て来い。ワシはここらで浮いておる}

{はい}

{上から眺めると、担当の守護霊がおる。その守護霊に尋ねてみよ。その霊には、こちらから伝えておく}

{そ、そうですか。ありがとうございますでは、信州ですね}

{そうじゃ。野辺山じゃ}

{では、行って参ります}

泰介は、急いだ。時間の進み方が速まっている以上に、ここまで心配してくれた仙人にお礼が伝えたかった。空中を浮遊して行くが、抵抗も無く、障害も無い。あっという間に、信州は、野辺山に着いた。野辺山は高原で有名だが、JRの日本最高地点通過地でもある。野辺山に着くと、研究所らしき家を探した。すると、高原の別荘地と離れた所に、かなり大きな木造の、二階建ての家が見えて来た。『山野中電磁気研究所』と言う、自然の中で不釣合いな玄関の看板に、確信を持って入った。と言っても、浮かんで入ったのだが。中は、廊下が広く、木造である。以前あった洋館を買い取り、その広さを生かして研究所にしたらしい。その中でも特に広い部屋があって、二人の親子らしき人物が、会話を交わしていた。上から覗くと、仙人にどことなく似ている、人間の姿があった。

{ああ、仙人様。お久しゅうございます}

ぽろっと涙をこぼしながら、泰介は呟いた。呟きながら、言葉の意味さえ分からない様な、専門用語を駆使して、父親と会話している少年を見つめた。その時だった、

{荏籐泰介さんですね}

同じように浮かびながら、声を掛けて来る人がいた。それこそ、元仙人の守護霊だった。

{こんにちは。【アンバイジングゼーレ】様から聞いております。私、山之内昭と申します。あの、【山野一哉】君の守護霊を、させていただいております。荏籐様は、たいそう有名な方だそうでございますね}

”有名。この人、本気で言ってるの”

 猜疑心で、思わずこの守護霊の言葉を疑ったが、その態度からは、冗談は微塵も感じられない。浮かんだまま恭しく頭を下げる、山之内だった。その丁寧さに圧倒されながら、泰介もやっとの思いで話しをした。

{どんなお話があったか知りませんが、私はすっとぼけの人間でして、それを守護霊の世界にまでも引きずっておりました。しかし、それを更生させてくれたのが、元仙人様。こと、山野一哉君です。私の守護霊をしていた時の、まさにあの人です}

{で、今日はお礼に来られたとの事。先ほど、あなた様の事をそれとなく耳に入れてみましたが、残念ながら、反応は薄かったです。さすがに、二十年近くも経つと}

{その話を聞くと、たいそうがっかりする、と思われるでしょうが、私は、あのお姿を拝見できれば、それでも十分なのです。いろいろとありがとうございました。仙人様}

 そう言うと、泰介は空中で泣き崩れた。その震える肩に、そっと手を置く山之内だった。その時、父親と難しい専門用語をやり取りしていた一哉が、一瞬、あれ、と言う顔で、周りを見渡した。

「どうした一哉。何か思いついたのか」

 眼鏡をかけて、優しそうな父の目が、一哉に注がれた。

「いや、父さん。今、まさか『仙人様』って言わなかったよね」

「仙人様。いやあ、言ってないぞ。なぜ」

「いや、どこからか『仙人様』って聞こえたんだ。実は、最近になってから、何回も【仙人】って、空耳が聞こえるんだよ。ひょっとしたら、前世は【仙人】ったのかなあ」

「ははは、案外、そうかも知れないぞ。そうだったら凄いぞ」

「だよね。あははは」

 上からその様子を見ていた泰介は、嬉しそうにしていた。ただ、昭は少々驚いていた。そしてその驚きを隠せないまま聞いた。

{よほど、坊ちゃんと泰介様は、深いつながりがあられたのですね。羨ましい限りです。そんなに仲の良い、お知り合いだったと}

 泰介は、そんなもんじゃない、と言おうとしたが、昭のせっかくの感動を壊すことも無いだろうと、帰ることにした。そして【アンバイジングゼーレ】の所へ戻ると、いよいよ【閻魔】の面接から、受けることになった。さあ、泰介の現世に戻る、最終章の始まりだ。

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