第三節
息が、苦しい。足が重い。
けれどそれでも逃げなければ。ファナリヤはひたすらに人を避けて走る。
……逃げ続けるのなんて毎日だった。彼らに拾われるまで、わたしはずっと逃げていた。
そう、わたしはただ日常に戻っただけ。戻っただけなんだ。
だけど……だけど、どうしていつもより息が苦しいのだろう。
どうしていつもより足が重いのだろう。
――ファナリヤさん。
自分を呼ぶ青年の優しい声が頭の中で反響する。
トラベロは、本当に優しい人だった。同じ力を持つ者からも異端として蔑まれる自分を、笑って受け入れてくれた。
曖昧な今に至るまでの記憶の中でも、色眼鏡で見ない人間は彼だけだった。
不思議と感じる懐かしさも相まりとても嬉しかった。
涙が出るぐらい、嬉しかった。――けれどもう会えない。
自分は神秘力者で追われている身、彼は力を持たぬ普通の人。
何気ない日常を送れる彼を巻き込むワケにはいかない……
「あっ……!」
足元の石に躓いて転ぶ。
膝に痛みが走るが多分、擦りむいた程度だろう。これしきの痛みで止まっている場合ではない。
「やれやれ、随分とやってくれたものだな」
立ち上がるその背後から嫌な声が聞こえる。
……もう、追いつかれてしまったなんて。恐怖に身を竦めながらもまた走り出そうとするが何故か固まったように足が動かない。
「先程は坊やのおかげで不意を突かれたが……今度はそういくまい。私と来て頂こうか? ――君の持つ力をあの方が求められているのでね」
「や……嫌っ、こないで……!! いやぁあっ……!!」
髪も動かせず縮こまることもできないファナリヤには、ただ怯えて叫ぶことしかできなかった。
そしてその叫び声は一人の元へと届く。
「ファナリヤさん……!?」
彼女を探し走り続けていたトラベロの耳に彼女のであろう悲鳴が入る。
声はこの道を曲がった先から聞こえた、今まさに彼女が男に連れ去られようとしているのでは?
――だとすれば急がなければ!
「な、何だ今の悲鳴……女の子みたいだったが」
「ご主人すみませんっ、消火器借してくださいっ!」
悲鳴を聞きつけ近くの店の店主が姿を現したと同時に半ば強奪するように備え付けの消火器を持っていく。
走りながら栓を抜きホースを構えて道を曲がる。
すると悲鳴の主は確かにそこにいた。……先程の男と共に。
今まさに連れ去られようとしている瞬間だ。
――どうか、間に合ってくれ!
願掛けをするようにトラベロは彼女の名を叫んだ。
「ファナリヤさんッ!!」
「――何?」
男が自身の声に気を取られたのを好機として消火器を勢い良くぶちまける。
白い煙が男の視界を奪う。それはファナリヤも同様で、前は何も見えない……だが、先程までは石のように動かなかった身体が再び自由に動くようになっている。
逃げるなら今しかない! 再び足を踏み出そうとした拍子に重たい瓶が転がる音がして気を取られたその瞬間、彼女の身体が勢い良く抱き上げられる。――彼だ。
「と……トラベロさんっ!?」
「しっかり掴まっててください! 逃げますよっ!!」
しがみつくファナリヤをしっかりと抱きかかえ、トラベロは一目散に走り出した。
「あのっ、どうして……っ」
「貴女を助けたのは僕ですから!」
「でも、わたしっ」
「力のあるないは関係なしです! 一度助けた人を途中で見捨てるなんて絶対しないしファナリヤさんが嫌がる相手なんかに絶対渡さない! 例え何があっても僕は最後まで貴女を護ります!」
「…………トラベロ、さん」
自然とファナリヤの目が潤む。
自ら巻き込まれる選択をしてまで彼は助けにきてくれた。
嬉しさや罪悪感……様々な感情が混ざりすぎてどうすればいいか、何を言えばいいかわからない。
涙を拭うようにしてトラベロの肩に顔を埋め、身を委ねた。
「何が何でも貴女を家に連れて帰ります、それで……っ!」
急に言葉が詰まる。いや、言葉が詰まっているどころか息も詰まっているかのような苦しさがトラベロを襲う。
さらに身体がまた勝手に宙に浮き上がり、抱き上げていたファナリヤと無理やり引き剥がされて近くのシャッターに叩きつけられた。
ファナリヤはトラベロの名を叫び駆けつけようとした瞬間彼と同じように宙に浮き上げられ、身動きも取れずじたばたともがく。
「……力を持たぬのに立ち向かってくるとは大した度胸だ」
またもや男が追いつき、手を翳したままゆるりと近づく。
もう片方の手を再び翳して、トラベロに狙いを定めるとまた身体が勝手に浮き上がる。
「ぐ、この……離っ……!」
「それはできかねるな。こうして一度歯向かったからには、徹底的に逆らえなくなるまで潰させてもらおう」
今度は手がひゅ、と下に素早く動かされてトラベロの身体は再び地面へ叩き付けられる。
さらに間髪入れず男はドリブルをするかのように手を上へ下へと動かして浮き上げては叩きつけ、また浮きあげてはを繰り返す。
「がはっ! う、ごほっ……あぐっ!」
咳き込む暇もなく手毬のように叩きつけられるトラベロ。
視界が霞む。身体も痛い、意識もぼやけてきた。
しかしその目は諦めを決して見せず、叩きつけられるまでのわずかな間すらも反抗しようと必死にもがく。
見ていられないファナリヤは思わず叫んだ。
「やめてっ、お願いだからやめて! 彼に手を出さないで!」
「それは、できかねる相談だな。ここまで見た以上は見逃すことはできない。それに君にも良い見せしめとなるだろう」
「嫌……いやっ、やめて! やめてよ! 貴方たちと一緒に行くから!!
だからトラベロさんを殺さないで……ッ!!」
「余程この坊やが大事と見える。……しかし“マグメール”に逆らったらこうなると、
身を以て知ってもらわねばな」
顔色を変えず男は意識が朦朧としたトラベロを持ち上げて、今度は手をゆっくりと握り出す。
するとトラベロの半開きになっていた目が苦しみに見開く。
……首が、絞めつけられている。息ができない。
見えない紐を解こうとするかのように首に手をやりながら、
地に打ち上げられた魚のように口をぱくぱくと動かしても酸素を取り込めない。
――ああ、僕。きっと死ぬんだな。
何故かやけに頭は冷静に状況を判断していた。意識は真っ白、視界も大分ぼやけているし耳も遠い。
そんな状況で死なないという判断ができるワケがなかった。
しかし何故だろうか、あまり死にたいと思わない。……いや、違う。“死にたくない”という“願望”ではないだけだ。
“死ぬワケにはいかない”という“使命感”だろうか、いやその表現もまた違うような気もした。
このままでは間違いなく死ぬが、死ぬワケにはいかなかった。
「――さんっ、……さん!!」
ファナリヤの声が聞こえる。
きっと今彼女は酷く泣いているのだろう。
そう思うと胸が締め付けられる。彼女の泣く姿は見たくない。
出会って間もない少女に何故ここまでの感情を抱くのか。
いや、そんなことはどうでもいい。彼女が泣くのは嫌だ。
このまま連れていかれてしまったらどんなことになるか。
したくもないことを……トラベロが思っている以上に酷いことをさせられるのかもしれない。――そんなの嫌だ!
何とか抵抗しようと試みるも、相手の神秘力という圧倒的な力の前には為す術もなく、ますます首は圧迫されるばかり。
瞼も重くなり、目を開けることができなくなってくる。
もう、本当に限界かもしれない……また冷静に頭は判断した。
その姿はファナリヤの胸を強く圧迫する。
「あ、あぁ……っ!」
――助けなきゃ、早く助けなきゃ! 彼が死んでしまう!
必死に動くが神秘力により自由を奪われた身体は動かない。
どくん、どくん。焦りと絶望で心臓が早く脈を打つ。
「やめて……お願い、お願いだからやめてよ……!」
必死にもがいても男は耳にそれを挟むことなく、いやむしろその言葉を心地よい音楽として扱っているかのようににやりと笑ってトラベロの首を絞め続ける。
そして――彼の手が文字通りぶらりと垂れ下がろうとしたその時、彼女の口から慟哭にも似た叫びが飛び出した。
「やめてぇええええええええッッ!!」
……その瞬間、男は驚きのあまり手の動きを止めた。
「何……!?」
男は驚愕することしかできなかった。
――眩い光が彼女から放たれ、渦巻くようにその場を包んでいたのだ。その光景に気を取られて握っていた手を開くと、トラベロを縛り付けていた力が消え彼がその場に倒れこむ。
光を放ったファナリヤ自身もこの光景に驚きを隠せない。
驚く二人を他所に、やがてその光はくるくると軌跡を描いてトラベロへと向かい、次々彼の身体に入り込んでいった。
――暖かい。
トラベロはぼやけた視界に映る光に安らぎを覚える。
(……ファナリヤ、さん?)
何があってこうなったのかは全くわからない。意識が飛んでいる。しかし何故か、この光が彼女が放ったものだと確信ができていた。
どくん、どくん……光が入る度に心臓が強く早く脈を打つ。
――まだ僕は生きている。
あれだけ感じていた苦しみも痛みも全て消え失せた。視界もはっきりと鮮明に光景を映し出し、身体は羽のように軽い。
心臓が鼓動を刻む度に力が生まれていくのを感じていた。
――何故だろう、僕はこの力を知っている。
ゆらりと立ち上がると風がトラベロの周りを舞い踊り始め、やがて熱を帯びて荒れ狂い出す。
――いや、僕は“覚えている”。全てを焼き尽くす紅い炎、そしてその名を!
きっ、と呆然と立ち尽くした男を見据えて手を翳し……彼は記憶に刻まれたその名を叫んだ。
「――《
刹那、熱風は一瞬にして彼の手へと集まり形を成す。
紅蓮の炎と化したそれを弾のように凝縮させ――思い切り投げつける!
呆然とした男に避けるという発想はなく、身構える暇もないまま顔に炎が直撃しその場に蹲った。
息を切らしながらトラベロはその光景を見やり、驚いていた。
(……い、今の、僕が? 本当に僕がやった?)
先程は半ば無我夢中というか、まるで自分の顔をした他人が行っているかのような感覚だった。……これが、神秘力。
まさか自分がそれに目覚める日がこようとは思わなかった。
……しかし、この神秘力に対する懐かしい感覚は何なのか。いや、そんなことを言っている暇はない。
「トラベロさんっ!!」
ファナリヤが涙をボロボロと零しながら駆け寄ってくる。
「ファナリヤさんっ、大丈夫でしたか!?」
「ごめんなさいっ、ごめんなさい……! わたしのせいでっ」
「……大丈夫ですよ、ファナリヤさんは何も悪くないです。こちらこそ心配かけてすみません」
ふるふるとファナリヤは首を横に振る。
「……でも、あの光は何だったんだろう。ファナリヤさんが、あの光を放ったんですよね」
「で、でもわたしも、何が、何だか……」
「です、よね……いや、とりあえず今のうちに逃げましょう、早くしないとまた追いつかれ――」
行動に出ようとしたのと同時に二人の真後ろから勢い良くブレーキの音が響き、振り向くと一台の車が停まっている。
その運転席の窓から身を乗り出して叫んだのは団長だった。
「早く乗れ!」
「団長……!? は、はいっ!」
ファナリヤを抱きかかえ、急いで後部座席に乗り込む。
しっかり掴まってろ、と団長は勢い良くアクセルを踏み込み、車を猛スピードで走らせる。交通法違反スレスレのスピードにシートベルトをつける暇もなく右に左にと揺られる。
「だっ、団長……! こんなスピード出していいんですかっ!?」
「撒くためだからしゃーないだろうが我慢しろ!」
「そ、それにこれ明らかに遠回りどころか、家に向かってない……ですよね?」
「そりゃそうだ、家には帰らないんだから」
「……え?」
トラベロは思わずバックミラーに映る彼女の顔を二度見する。
「……ファナリヤちゃん」
「は、はい……」
「言い出しといて本当に申し訳ないけど……あんたを家には置いていけない。悪いがこのまま出てってもらう」
ファナリヤの顔が即座に青ざめる。
――ああ、やっぱりそうか。それもそうだ、こんなことに巻き込まれるような少女を置いてはおけないだろう。またじわりと目を涙で滲ませて俯き、トラベロが即座に異を唱えた。
「団長! どうして……!」
「悪いがあんたが言ってもこればかりは変えない。……あたしがただの一般人だったらよかったさ。けど……もしこの子絡みのことでうちの団員が巻き込まれるとも限らない。あたしは団長だ。一人のために団員たちを犠牲にすることはできない」
「そ、んな……」
苦虫を噛み潰したような顔で俯く。ファナリヤも泣いてはいないが肩を震わせる。しかし直後の彼女の言葉に二人して顔を挙げた。
「だからファナリヤちゃんの味方にはなってやれない。……その代わりトラベロ、あんたがこの子を護れ」
「……え?」
「トラベロ、よく聞け。……ファナリヤちゃんを連れて駅からイリオスへ行け。
そこに【ティルナノーグ】という組織の事務所がある」
「ティル……ナノーグ?」
「神秘力者で構成された組織……何でも屋さ。ファナリヤちゃんの保護を依頼してるからあんたはそこまで彼女を送り届けろ。
それと彼女にゃあんたが必要だから戻ってくんな。護りながら裏方の仕事なんざできないし、して欲しくないからな」
「……団長」
トラベロは思わず目が潤む。バックミラーに映る団長の顔も、微笑みながらも泣きそうな顔をしていた。
彼女がどんな想いでこの決断をしたのかが痛いぐらいに伝わった。
「――はい!」
零れそうな涙を拭い、トラベロは力強い顔で返事をした。
駅の改札口前。人がぞろぞろと改札を通っていく光景を後ろに、団長はトラベロに切符を二枚手渡した。
「大体今から十分後に電車がくる。それに乗っていきな」
「ありがとうございます」
「いいか、何が何でも護ってやれよ。――彼女を助ける責任があるんだろ」
「はい。……絶対に彼女を送り届けます」
「……あ、あの」
トラベロの隣で俯いていたファナリヤが恐る恐る口を開く。
「あの、あの……ご、ごめんなさい、わたし、わたしのせいで」
顔を上げた瞬間、団長の指がファナリヤの唇に止まる。
――それ以上は言うな、そう目で語りかけている。
「……ごめんね、ファナリヤちゃん。力のことも色々気を遣ってたんだろ?」
「そ、そんな……だって、元々はわたし、が」
「あんたは悪くない、それはちゃんとわかってる。あんたが辛い想いをしたのもね」
「……団長、さん」
「――都合のいい話、だけどさ。もし……もし、またこっちに来れるようになったら顔見せにおいで。このバカと一緒にね」
ぽんぽんと頭を撫でられる。
その言葉とその手が、彼女が拒絶の意を示してない事を証明するには十分すぎるものだった。
「はい……はいっ……!!」
ぼろぼろとまた涙が溢れてくる。その優しさが痛い程に染みてどうしようもなく涙が止まらない。団長は可愛い顔なんだから笑えと、涙を掬い取った。
「ファナリヤさん、そろそろ」
トラベロがそっと肩に手を置く。腕で涙を拭い、こくりと頷いて彼より先に改札へと向かう。
「今まで、世話になったね」
「こちらこそ。――今まで、お世話になりました」
深々と頭を下げた後、ファナリヤと共に改札を通る。それから決してトラベロは後ろを振り向かなかった。
振り向いてしまったら名残惜しく思うだろうから――そう言い聞かせてファナリヤを連れてホームへと降りていく。
それを見送った後、団長は携帯を取り出してある連絡先に電話をかける。
「……今、彼女たちが改札を通りました。そう時間もないうちにそちらに着きます。
……はい……はい。わかりました。どうかあの子たちをよろしくお願いします」
ほんの数分もかからぬ会話を終え、携帯を切って再び改札口の向こうを見やり、切実な願いを呟いた。
「――無事でいろよ」
世界中心国マゴニア、首都イリオス。
その郊外近くに存在する小さな事務所、その小ささに見合ったサイズの扉を、一人の少年が開ける。
蒼いメッシュの入った翠の長髪を揺らして事務室へ入る彼を迎えたのは一人の男性。
すぐ近くのデスクで資料を広げていた、水色の髪に金色の瞳が映える整った顔立ちの人物だ。
穏やかな顔でふぅ、と溜め息をついて少年に声をかけた。
「……やれやれ。今日はどこで道草をしていたんです?」
「ちょっとね。……他のみんなはどうしてる?」
「マリナとエウリューダは今戻ってきている最中、
レヴィンとアキアスは今依頼を終えたと連絡がありました。皆十分程で戻るでしょう」
「オーケー。レイン、至急みんなに連絡して」
「……依頼ですか? クライアントとの交渉予定は聞いていませんが」
「マグメールが動いた」
男性――レインの目つきが少し鋭くなる。
「――なる程。そして被害が出ていると」
「今は大丈夫。何とか逃げ切ってこっちに向かっていると連絡を受けたからね。全員戻ったらすぐにミーティングするよ」
「了解です。……これは総出でかからないと大変そうだ」
即座にレインは携帯を取り出して慣れた手つきでメッセージを送る。
会議机の奥に腰掛け、一枚の写真を懐から取り出す。無造作な金髪に翠の瞳を持った顔立ちの幼い男性だ。
「……神秘力を持たないのに立ち向かうなんて、随分と度胸のある人だなぁ。
――興味が沸いてきたよ」
くすりと微笑み、いいことを思いついたかのような顔を浮かべてメンバーの帰りを待った。
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