第25話 帰還

冬戦争時代に継続的な歪重力攻撃に晒された名古屋は、都市全体が二十メートルほど陥没し、かつての三大都市の一角は、いまや地上八階部分までが伊勢湾の底に沈んでいた。

 だが皮肉にも、この災禍が結果的に名古屋という都市を今に伝えることになった。海水が構造遺伝界の侵入を阻んだからだ。東京や大阪の建築物はすべて構造遺伝界に取り込まれて横浜駅化し、設計者の想定とは似ても似つかぬ姿に変貌していた。だが名古屋は本州の都市のうちで唯一、横浜駅で覆われる以前の姿をとどめている。

 伊勢湾周辺の地域は常に、この古代都市の遺跡を求める観光客で賑わう。といっても、海面から数百メートルも飛び出した老朽ビル群を見て、それが人間の手で建てられたものだと信じる者は少ない。横浜駅で暮らす人間たちは皆、建築物というのは自然に生えてくるものだと思っているのだ。

 観光客はエキナカからこの都市を眺めるだけで、船で近づくような真似はしない。ただでさえ駅の住民は外に出るのを嫌う上、建物が崩落する危険があった。このため、フジツボの貼り付いた廃ビルの地上九階部分に打ち上げられたヒロトを見つけたのは、伊勢湾で活動する非SUICA所有者の兄弟だった。

「おーい、そこのお前、生きてるか?」

 遠くからの叫び声でヒロトは意識を取り戻した。ボートのエンジン音も聞こえてくる。振り向くと、二人の男がこちらに近づいてくるのが見えた。

「兄貴、やめとけよ。こいつきっと追放者だぜ。エキナカの連中に関わるとろくなことがない」

「バカ言え。エキナカで育ったやつがあんな色黒な訳ねえだろ。どっか別の海域から流れてきたんだよ」

「ここんとこ外海人が海峡を通ってきたって報告は来てないよ。なあ、やめようって」

「尾鷲あたりから来たスパイかもしれねえ。最近あのへんの勢力が歯向かってきてるってボスが言ってたからな。なんにせよ確認しねえと」

 弟は嫌々という感じだったが決定権は兄にあるらしく、ボートは廃ビルに近づいてきた。


伊勢水軍(と彼らは名乗った)は、伊勢湾を中心に活動する非SUICA所有者の集団だ。湾内の離島や知多半島の先端部などあちこちに居住地がある。横浜駅から廃棄されるものを回収して暮らすという点では九十九段下と同じだが、その人口規模は三十倍ほどもある。回収した物資は食品・工業材料・情報機器などが各地域に分配され修理・加工される高度な分業システムが発達していた。

 兄弟は、まず本拠地である神島にヒロトを連れて行き、自分たちのボスに会わせた。水軍のボスは筋骨隆々の五十近い男だった。エキナカではもちろん、九十九段下の漁師にもこれほどの体格の男は見たことがない。

 ボスはヒロトが「18きっぷ」でエキナカを通ってきたということはどうしても信じないようだった。廃ビルで助けだされた時には既にカバンを失っており、駅滞在の証拠となる彼の持ち物はすべて海の藻屑と消えていた。18きっぷ、ケイハの通信端末、電池の切れた構造遺伝界キャンセラー、そして、ネップシャマイの電光板。

 だが彼が三浦半島の九十九段下という岬の生まれであることを話すと、ボスは彼を故郷まで送り届けることを約束した。

「我々は東国にも活動範囲を広げたいと思っている。伊豆半島までは交易のつてを確立しているが、その先はほとんど行き来がないからな」

 この水軍の棟梁は、いずれ横浜駅太平洋沿岸の地域を束ねて君臨するという野望の持ち主で、既に紀伊半島にも拠点の拡大を進めていた。この漂流者の世話をすることで、東国への勢力拡大の足がかりにする腹のようだった。

 だがヒロトは、その前にしばらくこの地域に滞在したいと申し出た。この土地で行われているイモやカボチャといった農作物の栽培を教えてほしい、というのがその理由だった。

「なぜだ? お前の国は人口も少なく、駅からの物資で十分に生活しているというではないか。我々も農業はある程度行っているが、生産性の高い仕事とは言えない」

 とボスが言うと、ヒロトは答えた。

「必要になるからだ。もうしばらくしたら、横浜駅からの物資は得られなくなる」

「何故そう思う」

「横浜駅が消滅するからだ」

 ボスは変なものを見るような目でヒロトの顔を見た。側近たちは顔を見合わせて「どうもこの男は頭がおかしいらしい」「恐らくエキナカの人間に何か恐ろしい目に合わされたのだろう」と小声で話していたが、ボスの許可でヒロトの申し出は通った。

 九十九段下の農業はきわめて情報の不足した状態で手探り的に進められていたものだった。スイカネットから集められる工業技術情報は多いが、農業に関するものは全く役に立たなかった。エキナカの食料生産は全て、高度に管理された人工照明による水耕栽培だったからだ。

 右脚の傷が癒えると、しばらくヒロトは渥美半島で農作業に従事した。水軍全体からすれば小規模とは言え、九十九段下よりもはるかに洗練された農園のシステムがそこにはあった。結局、東に向かう船にヒロトが乗り込んだのは、それから一年近く経った春のことだった。


ヒロトの帰還は事前に手紙での連絡が行っており、九十九段下よりも少し手前の岬までマキが迎えに来た。

「帰ってこないと思ってた」

 一年ぶりに会うマキは無表情で言った。

「帰るって言ったろ」

「五日間の予定で一年音沙汰がなかったら、普通は帰らないって思うでしょ」

「悪かった。本当に色々あったんだ。後で話す。それより岬の様子はどうだ? 教授は元気にしているか」

「あの人は死んだわ」

「死んだ? いつだ?」

「あなたが出発した一週間後だよ。いつになっても起きてこないから様子を見に行ったら、そのまま眠ってるみたいに死んでた。死因はよくわからないけど、老衰だと思う」

「……そうか」

 岬に戻るとほとんどの者がエキナカの話を聞きたがったので、その夜は公会堂を使って、自分の五日間にわたる横浜駅の見聞を話して聞かせた。そして最終的に

「横浜駅は、遠くない将来に消滅する」

 ということを告げた。岬の者達は構造遺伝界のことも知らないので「内部で老朽化が進んでいることが判明し、近いうちに崩壊する」というように説明した。崩壊のスイッチを押したのが自分であることは、永遠に黙っていようと思った。

 その後、食料生産の必要性を訴え、伊勢水軍から持ち込んだ何種類かの農作物について説明した。九十九段下の住民は「横浜駅が消える」ということについては半信半疑だったが、食料生産を行うことについては概ね賛同が得られた。そもそも九十九段下のコロニーは人口に比べて労働量が少なく、暇を持て余した若者が多かったのだ。

「お花畑」で暮らすヨースケにも会いに行った。下りしかないエスカレータを登り切ったヒロトを見るなり彼は「なんだ、生きてたのか」という。彼は一年前よりもまた一回り太ったように見えた。「駅に入っていったんだから、普通に駅から出てこいよ」と言って、奥に並ぶ自動改札たちを指した。通路に並んだ六体の自動改札たちは、一年前にヒロトが18きっぷを持って入ったときと全く同じ姿勢で静かに並んでいた。

「スイカネットの様子に変化はあるか。どこか不安定になってるとか」とヒロトが聞くと、「つながったり切れたり。いつもどおり不安定さ」と答えた。

 SUICA認証のできないヨースケ達に出来ることは、スイカネットを流れるパケットを拾ってデータを再構築することだけで、こちらから何かを発信することは出来ない。ケイハはまだ甲府にいるのだろうか、自分が無事故郷に帰れたことを伝える手段はないだろうか、とヒロトは時々考える。

 九十九段下では埋葬の風習はなく、教授は火葬されたあとに海に散骨され、写真一枚だけが公会堂のアルバムに残された。彼が九十九段下に来たばかりの頃に撮影されたものらしく、ヒロトの記憶にある教授の顔よりもだいぶ若い。あの42番出口で出会ったJR統合知性体の保守管理主体の顔だった。

 教授の住んでいた家は、一年前に結婚した夫婦とその幼い子どもの三人が暮らしていた。慢性的に土地不足なこの岬において、教授の記憶はもう洗い流されつつあった。数百年前の記憶を飲み込んでどこまでも拡がった横浜駅とは違い、自然の地面はあまり長く記憶をとどめることは出来ない。

 岬に戻って数日すると、コンクリートでうめつくされた白富士が、一夜にしてエスカレータの黒一色に染められた。それは長かった梅雨が明け、夏が来たという印だった。また富士山が少し高くなったのだろう。

 あと何度この遷移が見られるかは分からない。とにかく今は、横浜駅の消滅に備えなければならない。

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