群馬編2話 世代交代
彼を知る者は皆彼のことを「青目先生」と呼んでいた。これは彼が医者である事と、エキナカ住民として極めて特徴的な青い目をしていた事による。青い目は、彼が「外人」なるものの血を引いている証であった。
外人、という文字からたいていの者は「横浜駅の外で生まれた人」をイメージする。他ならぬ青目先生自身が人生のある段階までそう思っていた。だが実際はこの言葉は横浜駅の誕生以前からあるもので、自然の地面、あるいは人間同士のなんらかの合意によって形成される「国境」の外にいる者への呼称であったという。
青目先生を特徴づけるその青い目は、「外人」の中でもとくにコーカソイドと呼ばれる種類の特徴であったらしい。
「コーカソイド人種。果たしてそれは一体どのあたりの方々のことを指すのでありましょうか?」
ギョロ目のニジョーにそう聞かれたことがある。あれは確か、この青年が群馬に来たばかりの頃だ。
「ずっと北の方だと聞いている」
「青目というからには青森あたりでしょうか。それとも駅の外ですか。北海道ですか」
「よく知らんが、もっと北らしい」
と青目先生は答える。こういう会話はこれまで出会った人々と何十回も繰り返していたが、彼自身そこまで自分のルーツに深い興味があるわけでもないのだった。
「北海道よりももっと北があるのですか! この世界はなんと広いのでしょうか。では南に行けば、赤い目の方もいらっしゃるのでしょうか。ねえ先生」
とニジョーが言うと、青目先生は静かに首を振る。
「そもそも人間が黒い目をしているのは、人間が太陽光のもとで進化したからだ」
と青目先生は、本棚から解剖学書を取り出して、眼球の断面図をニジョーに見せた。彼の蔵書の多くは印刷物だった。そんなものを持っている人間はエキナカでも少ない。印刷書籍というものはエキナカではほとんど存在しない。これは彼が父親から譲り受けたもので、父親がどこからこの本を手に入れたのかは分からない。
「眼球はこのような構造になっていてな。ほとんどの人間はこの虹彩と呼ばれる部分が黒い。これで光を遮断するのだ」
「眼球が光を遮断するのですか! 先生、それはまったく本末転倒ではありませんか」
「それほど太陽の光というのは強かったのだ。太陽のもとで暮らす人間たちは、強すぎる光を制限するために、黒い目をしていたのだ。コーカソイド人種はずっと北に住んでいたので、陽の光が弱く、青い目になったのだ」
「となると、われわれエキナカの住民も、いずれ先生のように青い目を獲得するのでしょうか」
「そうかもしれんな」
「であれば、先生は進化的エキナカ住民という事になります。さすが先生です!」
といってニジョーは手を叩いた。
「少し静かにしてくれ。隣に響くだろう」
そう言って青目先生が通路の方を見ると、ニジョーは声を少しだけ抑えた。
「これは失礼しました。このままでは先生が音を遮断する耳を獲得してしまうかもしれませんからね」
「そういう事はない。進化というのは世代交代によって実現するのだからな。適応度の低い個体が死んで、強い者が生き残ることで、進化が進むのだ」
そう言って青目先生はコーヒーカップを持って、その青い目でどこか遠くのほうを見た。遠くの方といっても、すぐそばには本棚で囲まれた自室の壁があるのだが。
コーカソイドの血、といってもそれは何代も前のことで、遺伝子においてその痕跡はほとんど残っていない。彼がその特徴的な青い目をつむると、後はごく日本人的な顔になる。
六十を過ぎてなお髪は豊かだが、そこに一切のメラニン色素は残っておらず生成途中の駅構造体のように白い。顔にはそれまでの人生の労苦を思わせる深い皺が刻まれているが、それを除いて見れば整った顔立ちであり、若い頃はそれなりの美男子であった事が伺える。だからこそ、その青い目にはひどく全体の調和を乱す印象がある。
今でこそ医者として一定の社会的地位を得ているので「青目先生」などと敬意のこもったあだ名で呼ばれているが、少年時代の彼にとって「青目」は自分の遺伝子に不正に混入した異物のように思えたし、実際に何かしら、他の住民から差別的な扱いを受けていたような記憶がぼんやりとある。
その頃まだ横浜駅が本州を覆っておらず、北の臨界線が岩手あたりにあった。このまま海峡に達したら何が起きるのか、北海道への上陸はあるのか、JR北日本の対応は、といった事が議論される一方で、地域的隔離によって生じる遺伝子の均質化について言及する学者がいたことをぼんやりと覚えている。
駅構造のせいで人間の移動が少なくなれば、そのぶん遺伝的な交流が少なくなるので、地域のコミュニティ内の多様性はどんどん減少し、均質化していくだろう、という事だった。
そういう話をされると、自分の持つ青い目がますます、均質化されていく小さな世界の異物のように思えてならなかった。
「なるほど世代交代ですか」
とニジョーは言う。
「うむ。私にはもう縁のない話だ。十年ほど前まで妻がいたのだがね」
といって青目先生は、本棚のいちばん奥にある小さな写真立てを指す。色あせたプリント写真には、四十歳ほどの女性が写っている。
「ふむ。ワタシは故郷に八つになる娘がおりますが」
とニジョーが言うと、青目先生は飲んでいるコーヒーを思わず吹き出しそうになった。
「どうしましたか先生」とニジョーは言った。「八つというのは、八歳という意味です。八人いるわけではありませんよ。いくらワタシでも Suika の導入資金が足りません」
「そんな事は分かってる。君は八歳の娘を置いてこんなところに来ているのか」
「こんなところ、とは先生らしくもない。ここは穏やかで良いところだと普段からおっしゃっているじゃないですか」
「君は父親の義務というものをどう考えているのかね」
「先生はどう考えているのですか」
そう言われると彼には返す言葉がなかった。
「きちんと Suika 導入という親の第一の義務を果たしてきましたよ。京都にはこんなことわざがあります。ええと、親はなくともなんとやら、と」
「『親はなくても Suika があれば子は育つ』か」
「ここにもありましたか! 横浜駅はやはり均一な文化を持っているのでありますね」
とニジョーは目をギョロギョロさせて感慨深げに頷いた。青目先生はふうと溜息をついた。
こんなにも喋っていて疲れる手合は珍しい。
彼は横浜駅の中でも遥か西の方、京都という都市から来たそうだが、やはり遠いところで育った人間は、言葉は通じるものの会話に対する感覚というものが違ってくるのだろうか、と青目先生は思うのだった。
とはいえ、この男のスイカネット技術は確かなものだった。
スイカネットというものは駅構造の増殖にともなって自然発生的に生じたネットワークであるため、その細かい仕様はほとんど知られておらず、同時に生えてくる端末を使って連絡を取り合うのがせいぜいだった。青目先生も以前までは患者との連絡を取り合うために、自宅から数分のところにあるキオスク端末まで移動しなければならなかった。
しかしこのニジョーという男は、
「Suika 認証をすれば先生のご自宅の端末でスイカネット接続が出来ますよ」
といって、さっさと設定をこなしてしまった。お陰で青目先生は仕事をだいぶ効率的に行えるようになったのだった。
そんな事があったので、青目先生はこの若者を(人間性はともかく技術においては)信用するようにしていたし、今回彼がスイカネットの観測結果を出したときも、彼の「山が動いている」という話を受け入れた上で、それを噴火の兆候だと判断したわけであった。
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