群馬編

群馬編1話 兆候

<読者への注意>

本作『横浜駅SF』は書籍版の発売に際して内容を大きく加筆したため、若干の設定・用語の変更を行った。この「群馬編」以降は書籍版の設定に準拠し、Web版の設定と少々矛盾する事がある。これは混乱を避けるための注意書きであり、書籍版の販促という意図は全くない。

</読者への注意>




「青目先生、大変です。大変であります」

 隣室からギョロ目の青年が飛び込んできて、青目先生と呼ばれた白髪の老人は思わずコーヒーカップを床に落としそうになった。

 横浜駅で生成される部屋の多くはそもそもが店舗向けの設計になっており、人間の設計した住居に比べて開放的な傾向がある。青目先生の診療所を兼ねた自宅はドアもなく、通路に面した側に本棚を並べて、最低限のプライバシーを確保しただけの構造だ。

「急に入る時はノックをしてくれ、と前から言っているだろう、ニジョーくん」

「しかし先生、ここにはドアがありませんよ」

「これでいいんだ」

 と言って、金属製の本棚の背をコンコンと叩くと、彼は感心したように首を大きく振ってうなずいた。

「とにかく大変なのです。大変というのはつまり、大きな変化という意味ですね。大変が起きているわけです」

「うむ。落ち着いてくれ」

「ワタシはこれが平常であります。ええとですね、見てください。これのこれを」

 そう言って、ニジョーと呼ばれたギョロ目の若者は、青目先生のテーブルにラップトップ端末を置いてがばりと開く。画面には群馬周辺の地図があり、真ん中には山を表す三角形のマークが表示されている。

「一年ほど前から、この南の山の周りにあるスイカネット・ノードの通信距離を測定していたのであります。駅構造の各地に設置されているノード間の物理距離がですね、ここ数日で急に延長してるんです。こんな感じに、ブワーッと」

 ギョロ目の青年はそう言って両手を内側から外側に広げた。狭い部屋で本棚に手をがんとぶつけたが、とくに気にしていない様子だった。

「つまり、何が言いたいんだ」

「このあたりの駅構造が膨張しています。おそらく、より下層の構造が増殖して、上層部分に歪みを生じてるという事です」

 と端末に駅構内図を表示して、下層部分を指した。

「そんなはずは無いぞ、ニジョーくん」

 と青目の老人は答える。

「この下にあるのは浅間山だ。あれは自然の山のはずだ。駅構造のように膨らんだりはしない」

「山は動かないのですか」

「そうだ。ことわざにもある。『動かざること自然山の如し』とな」

「では、ことわざが間違っています。これは山が動いているのです」

 ニジョー青年は目をさらにぎょろりとさせて言った。黒目の周りを覆う白がすべて露出し、両生類の卵のように見える。青目先生は鼻でふーっと息をはいて、

「だとすると、噴火の兆候かもしれんな」

 と深刻そうに言った。


 浅間山は成層火山の一種だ。同一の火口から複数の噴火で溶岩が流れ、それが層状に重なることで形成された自然山である。

 本州に点在するこのような成層火山の上には、エスカレータとコンクリートが重なったパイ生地様の駅構造が形成される傾向がある。地中の情報を構造遺伝界が取り込んでいる、とも言われている。

 自然山としての最高峰である富士山は、季節ごとにこの層形成が瞬間的に行われることから「黒富士・白富士」として地元住民に親しまれているという。浅間山の駅構造形成はそこまで同期的ではなく、年中通して白地と黒地が混ざりあったパンダ・グラフと呼ばれる構造になっている。

 青目先生とこの奇妙なギョロ目の青年は、浅間山から少し北にある嬬恋つまごいと呼ばれる小都市に住んでいた。関東平野の北西部から、泡のように飛び出た小さな盆地だ。東に行けば前橋や高崎といった都市があり、西は山に覆われているため、エスカレータを利用した人間の行き来が盛んだ。

「噴火というのは、」ニジョーは両手を下から上に押し上げて言った。「自然山が内側からこうフンカー! となるアレですね。本で読んだことはありますが、そんな頻繁にある事なのでしょうか」

「少なくとも、山が横浜駅化してからは一度もない。駅構造の下にある山が噴火したという話自体、私は聞いたことがない」

「先生ほど長生きしていらっしゃる方が聞いたことが無いとなると、余程珍しい事なのですね。ああ、そんなものが間近で見られるとは幸運であります」

「不謹慎なことを言うな」

 と青目先生はニジョーを睨むようにして言う。斜面にエスカレータが発達した現代では、山地ほど人の行き来が盛んだ。もし今噴火が起きれば、膨大な死者が出ることは免れないのだ。

 だが、いつ噴火するかも分からない以上、下手なことをしてはパニックになる恐れがあった。エキナカでは人間の動きがエスカレータの幅で制限される以上、不確かな噴火情報で人々が一斉に動き出しては、却って大事故につながりかねない。

「君のあの妙な技術で、何かしら対応をした方がいいかも知れん。できるか?」

「できるか、と言われましても、ワタシの技術はただのスイカネット干渉ですよ。ちょっとネット上の情報にイタズラをするだけです。自然山の噴火をどうこうするなんて不可能であります」

「そこまでは言っていない。ただネットを通じて住民に避難勧告を出して、なるべく周辺に人間を近づけないようにするだけだ」

 そう言うと、ニジョーはそのギョロ目をつぶって、首をひねりながらあれこれ考えて、

「うーむ。そんな広範囲のノードを確保した事はありませんし、時間もかかりそうですね。やってみない事には何とも言えませんが……まあ、先生がお望みとあれば、不肖の弟子たるワタシが骨を折りましょう」

 と言った。弟子にした覚えはない、と青目先生は思った。


 ニジョー青年の持つスイカネット干渉というのは、横浜駅のエキナカ世界に張り巡らされているネットワークに何かしらの干渉をして、情報を取り出したり、反対に何かの情報を流し込んだりする技術である。と、青目先生は理解していた。

 どういうわけかニジョーは、その技術を「青目先生のおかげで身につけた」と思っているらしかった。もちろん彼にそんな技術はない。彼はただの医者であり、仕事の必要上ネット端末を使うことは多いが、コンピュータ関連の知識は平均的なエキナカ住民と大きく違うわけではなかった。

 だがこの騒がしい若者と話している間に、その技術が何を可能にしているのか、その大枠のところは掴めてきていた。

「ほら、このところ頻繁に放送されてくるアニメ番組があるだろう」

「『しうまい君』ですね。ワタシも見ております。あれは名作ですよ。いずれエキナカでの基礎教養となるに違いありません。先生もぜひ一度見てください。スイカネットは多数決ベースの通信ですので、皆が見たがる番組がどんどん広がっていくわけですが、ここまで短期間で広がるのは大したものです」

 とニジョーは言うが、青目先生はあまり興味がなさそうな顔で、

「あれの放送枠を乗っ取って、何かしらのメッセージを流す事はできそうか」

 と言った。ニジョーは苦い顔で、

「この地域だけなら頑張れば出来ないこともないですが、それでも週に一回ほどですので、緊急避難情報として使うには少し弱いですよね。もう少し直接的な手段をとりましょう」

 と言いながらラップトップ端末に地図を表示した。

「ワタシが現時点で確保しているスイカネット・ノードが、ここからここまでです。一対一のメールであればこの範囲外でも可能ですが、リアルタイム通信をしたり、他人の通信を傍受したり、その場にいる全員にメッセージをブロードキャストできるのはこの辺だけです」

 彼の示した地図では、嬬恋の盆地のあたりがほぼ覆われている。この男は知らぬ間に自分たちの通信経路の権限を確保していたらしい。青目先生は少し記憶を辿って、このところ見られて困るような通信をしていないかと思い巡らせたが、患者との連絡以外にこれといった通信をした記憶はなかった。

「人通りが多いのは山の西側だからな、そっちを何とか確保したいところだが」

「スイカネットは構造上、地理的に遠いところは確保しづらいのですよ」

「では、実際に西側に行って確保してもらうしかないな」

「アナログ極まる手法ですが、急ぎなので仕方ないですね。将来のワタシの技術向上に期待するしかありません」

 そうと決まると二人の行動は早かった。青目先生は普段の往診に使うかばんに必要な日用品を詰め込むと、ニジョーが隣の自室でさっさとラップトップ端末とその充電器と、いくつかの機械とケーブル類をまとめている間に、


『緊急事態につき暫く休診します。浅間山の動向に注意してください。変動があればすぐに山から遠い方に避難して下さい。KS』


 という張り紙を、通路に面した本棚の背に貼った。

「先生先生、この『KS』とは何なのでありますか」

「ケヴィン・シマザキの略だ。『外人』の間では、こういう風に名前を略して記す文化があったらしい」

 そう言うと、ニジョーは感心したようにうなずいた。

「恥ずかしながら、先生のお名前を初めて聞きました」

「私もここ十年ほど、人から呼ばれた記憶がない」

 妻が死んで以来だ、と青目先生は思った。

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