ラムネ瓶

 季節が暖かくなると思い出すのは、ラムネ。

 いや、正確にはラムネの瓶。


 子供の頃、夏祭りの屋台で売られていたそれは、冷ケースの水の中で透き通る緑色を不思議に光らせながら、大きな氷と一緒に浮かんでいた。


見た目にいかつい店主に百円玉を渡すと、その緑色の瓶を一本取り出し小さな筒状の木を瓶の口に押し込む。するとプシュッと音を立て、透き通る緑の瓶を泡が伝い落ちる。その泡が瓶を更に不思議色に光らせる。

受け取った不思議色の瓶の中身を口に含むと、爽やかな風味と炭酸の刺激と共に、カランと綺麗な音がした。

いつの間にか瓶の中に現れたビー玉は、幼いアタシにとっては神秘そのものだった。


光に透かすと、ビー玉は益々綺麗な光を放った。ラムネを飲みきった後も、瓶を動かすとビー玉が瓶の中で転がり、涼やかで美しい音が耳に心地好く響く。

瓶はあのいかつい店主に返さなければならないのだけれど、アタシはそのビー玉が欲しくて欲しくて仕方なかった。どうやっても取り出せず、瓶はそっと家に持って帰った。


結局、ビー玉は瓶を割らないことには取り出せなかった。

家の近所の空き地で、積んであった建築用の古いブロックにラムネ瓶を叩きつけて割った。

不思議色だった瓶は砕け、地面の砂に塗れ光を失い、そうして取り出したビー玉は何の変哲も無い無色透明のガラス玉だった。

光に透かしても、あの不思議な輝きは無かった。心地好いあの音も、もう聴くことは出来ない。

とても勿体無いことをしたのだと、幼いアタシは悔やんだ。



初夏の風に乗って祭囃子が聞えてくる。

顔が見えないように目深に帽子を被った圭太が、日が落ちかけた駅前でこちらに手を振った。

反対の手にはビニール袋に入ったラムネを二本、ぶら下げている。

神社はもう少し先にあるのだが、駅前通りには祭りの屋台が並んでいた。

「祭りなんだな、今日」

圭太はほんの少し帽子のつばを上げた。

「真央、飲む?ラムネ」

「ありがとう、でもビー玉落とすヤツ無いよ」

「今はこうやって開けるんだよ」

 昔と違うプラスチックの瓶は、その口に最初から蓋のようなものが仕掛けてあり、それを上から押し込むとプシュッと小さな音を立て、溢れ出る泡と共にビー玉が瓶の中に現れた。

「へえ」

圭太から受け取ったラムネを口に含むと昔と同じ味がした。けれど瓶にあの不思議な輝きは無い。

「こんな所に立ってないほうがいいでしょ。ウチ来る?」

「うん」

 圭太は目深く被った帽子を更に深く押し下げて、アタシの進む方向へ歩いた。

 

 コンビニの前を通ると今日発売の雑誌が並んでいるのが見えた。

「あ、」

「うん」

何も言わないうちに圭太が返事をした。

ウインドウ越しの雑誌の上にポスターが貼ってある。圭太のグラビアだ。ポスターの中の「KEITA」の赤い文字。

「すごいね」

「うん」


 圭太とは17歳の時に所属していたモデルで知り合った。アタシはぜんぜん売れなかったけれど、圭太は注目されていた。背が高くて綺麗な顔立ちで、ダンスも得意だった。

 ある雑誌の写真の仕事で一緒になった圭太に一目惚れしたアタシは、その後も仕事も無いのに事務所に通って彼と会うチャンスを狙った。やっとのことで彼に会い、話しかけ、携帯アドレスを交換してからは、自分でもびっくるするくらいの猛烈アプローチを繰り返した。

 

圭太はいつも爽やかに笑う。

「真央、俺のこと好きなの?」

 あの時も爽やかに笑って言った。

「あ、ごめんなさい。迷惑、だよね」

「あはは。いや、迷惑じゃないよ。じゃあ俺達、付き合おうか」

 冗談かと思った。圭太のことが好きで仕方なかったけど、付き合えるなんて思ってなかった。だから本当に嬉しくて幸せで「天にも昇る気持ち」ってこういうのだろうかなんて思っていた。


 けれど圭太と交際が始まってから、少し違和感を感じた。圭太がグラビア写真と同じように笑っても、爽やかで素敵だけれども、

何かが違う。


あれから二年。

圭太はとても「普通」だ。


 それは悪いことではないし、アタシは「王子様」を求めていたわけではないし、不満があるわけではないし。

でも、何かが違う。


圭太はアタシの家に入ると、いつものようにカウチソファーに座った。

蒸し暑い空気を逃がすために窓を開けると、ここでも祭囃子が聞こえてくる。

圭太は飲みかけのラムネ瓶を、アタシが開けた窓からの夕陽に透かしている。


「昔のガラスのヤツって、もう無いのかな」

「最近、見ないね」

「真央も子供の頃、飲んだりしたろ?ガラスのラムネ瓶で」

「うん」

「子供の頃、アレのビー玉が欲しくてさあ。でもアレ、取れないんだよな、どうしても。」

「アタシ、瓶割って取り出したよ」

「へえ。それ取り出した時ってやっぱり感動?」

「うーん、でもさ、ただのガラス玉なんだよね。しかも無色透明な」

「そうなんだ。色とか無いのか」

「無かった。だからガッカリ」

「へえ」


ガッカリ、している。今。

何に?

この普通の会話に。

圭太は普通の男の子なんだ。容姿が皆より少し綺麗なだけで。


アタシは何が欲しかったのだろう。

子供の頃、欲しかったラムネ瓶のビー玉みたいに、手に取ってもキラキラしてるのだと思っていたのかな。

でもキラキラなんてしないんだ。取り出したビー玉みたいに。


「真央、俺さ」

 ラムネを飲みきった圭太が、プラスチックの瓶を揺する。あの綺麗なガラスの音はしない。するわけない、プラスチックだもの。

「事務所、辞めようと思う」

「どうして?」

「思っていたのと、違うからさ」

「何かあったの?」

「何も無いんだ。無いんだよ。だからかな」


 なにがあってほしいの? と言いかけてやめた。

 音が鳴らず、輝きもしないラムネ瓶のビー玉を圭太は見つめている。


「アタシさ、まだ取ってあるの」

部屋の本棚の隅のお菓子の空き箱を取り出した。もう何年も触れていないそれは、少し埃を被っている。

「何?」

「ビー玉。ラムネ瓶の」

 小さな箱の中の無色透明なガラス玉は、あの時と同じで何の変哲も無いガラス玉。

 ――でも捨てられなかった。

 輝かなくても、綺麗な音がしなくても、アタシに不思議色を魅せてくれたビー玉には違いなかったから。

「仕事、辞めなくてもいいと思うよ」

 

圭太はビー玉を手に取って窓の陽に透かそうとしたが、もう外は薄暗くなっていた。ビー玉はその夕闇を映すだけだ。


「本当に無色透明だな」

「うん」

「俺、このビー玉みたいに光らないぞ。きっと」

「それでも辞めなくていいと思うよ」


日が暮れると、祭囃子が一層大きく聴こえてきた。

ラムネ瓶は祭りのどこかで、氷と浮かんでいるだろうか。

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